孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

過去の釈迦時代にその釈迦が謙虚に生きることを説いていたならこの世はどうなったでしょうか、

2015年10月24日 | Weblog
過去の釈迦時代にその釈迦が謙虚に生きることを説いていたならこの世はどうなったでしょうか、
争い闘う戦争も無かったでしょうか、
いいえ絶対にそうはなりません。

何故ならばその釈迦に変わる別な釈迦が現れ出てから貧困差別を無くする為にはこうするしかないとばかりに語り、ちなみに神様仏様を信じてその神様仏様の言う通りに祈り願い従いましょうと説いて、結果的には今の時代と似通った時代になります。

と言うことは釈迦が神仏霊魂を説いている時代にも世間の片隅で謙虚に生きることを語っていた人もいたかもしれません。

とにかく「飴とムチ」「ご褒美と罰」「天国と地獄」の矛盾する=特別=が無ければ相手にしてくれる人がごく少なくて、然るに今の私と同じく孤独にして独自独歩で我が道を行くしかなったと思われます。

もうお判りですね!
誰もが特別を欲しがるのです。
然るにそれが自分さえ良ければの個人意識なのです。

だから皆さんも素朴謙虚が=精神の安定=になると判っていても特別がある形のほうに引き寄せられるでしょう、
何たって精神の安定を事実にして長く味わっていないから、どうしても見た目でわかる変化刺激のある特別な形、見た目に魅力がある形、見た目に結果が出そうな形を求めるのです。

然るに神の声が聞こえるだの仏様がどうとかこうとか、釈迦やイエスの魂と交信できるとか、こうして祈り願えば叶うとか、宇宙的占い予言で当たるとか、人の悩みや思っていることが聞こえてくるとか、見えない魂が見えるとか話したいことが読み取れるとか、アセッション・チャクラ・ヒーリングがどうの、超能力でもって何とか出来るが如くに見せたりする所に出向きたいでしょう。

然るに哲学思想・スピリチュアル関係のブログで人を集めて賑わっている方へ行きたいでしょう、
然るに石橋を叩いて渡るような人でも皆と一緒ならと平気で赤信号を渡れるでしょう、

そんな世間や人間関係から離れて自分だけでも素朴謙虚に生きていたとして実践することになれば、平家の落ち武者が如くに山奥へ移り住み自給自足が如くの生活になるかもしれません。

ところが子供が生まれ孫が生まれして時代が流れると、その子供や孫を学校に行かせたいとか街中で頑張って欲しいとか望むようになり、次第に過疎化していくことでしょう。

然るに元からして「どうしようもない」のが人間なのです。

しかしそれでも素朴謙虚に生きることで何とか精神を安定させて生きていくことが出来ます。
然るに苦楽・喜怒哀楽を味わずにして、しかも省エネ楽ちんにして暮らすことは可能です。

そこで人様のことは成り行きに任せてほっといて、個人意識丸出しでもって孤独の自由を得てからして、その独自独歩の素朴謙虚にして生きることが可能にはなります。

しかし此れまでの特別に慣れ親しんでいるだけに、その苦楽を味わいながら少しずつ素朴謙虚になっていくしかありません。

然るに家族揃ってなんてのは絶対的に無理があります。
だから赤の他人同士が必然ご縁でつながりあって互いを認め合うことが出来て尚且つ互いが否定反発束縛制限しない自由であれば何とかうまい具合にことが進んでいくかもしれません。

ところがグループやコロニーやハーレムが如くの形にすれば、その人間関係の雑多で結果的には本物を味わうことにはなりません。
しかも(史実にあるように)既に洗脳された部分や自己陶酔したところもありますから、そこから離れたくても離れられない有様になっているかもしれません。

また早く結果を欲しがる人には不向きですから途中で挫折するかもしれませんが、しかし世間や家族の柵シガラミから離れて暮らすその醍醐味に気付き納得できれば長続きするかもしれません。

とにかくやらずにして未練後悔を残すよりも、やってみた結果が経験にもなりますから、その経験や気付きを活かして仕切り直しをするほうが一歩でも進歩につながります。

その結果・成りの果てがフリーターやニートやホームレスになっても納得できるはずです。
何たって私がその有様に似通った生き方になっているからです。

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