孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

どうせ何をやっても不完全な世の中人間関係ですから、結果を求めて事を急ぐことでは無いのです。

2010年11月14日 | Weblog
映画やドラマが観客を魅了するのは、長い時間の人生の中の出来事を「良いとこ取り」ばかりして、その時間を先取り短縮して濃厚な箇所だけを演出して、それを短時間に連続で見せることが出来るから面白くなるのです。
だから問題続出でその解決の有様が多いほど刺激的でストーリーが面白くなるのです。

そこで例えば私が田舎暮らしを始める前の過去60年間の良いとこ取りをして見栄え良く演出してドラマ化すれば、(例えばの話ですが)大河ドラマに及ばなくても長編ドラマや連続シリーズものが制作できる程度のネタはありますが、ところが田舎暮らしを始めてからの9年間を良いとこ取りしても数分の紹介的な映像で終わります。
このことは誰にでも言えることですが、その特別な差のある濃厚な刺激性に富んだ人生が良いのか、または何の変哲も無いただ時間がゆっくり流れるだけの人生が良いのか、その選択は人それぞれが自ら行う事であり、他人任せにすることではありません。

そして私の場合は何事も無くごく一般の生活をしていたのですが、今の変化に乏しい田舎暮らしを遊び半分に始めたことがきっかけとなり、それ以前の過去の生活の中にも山あり谷ありの波風の立つ生き方をしていたことに少しずつ気付いていったのと同時に、今の田舎暮らしが次第に本物に変化していっただけのことです。

また宇宙エネルギーや想念霊魂の世界や完全真理のことであっても、いきなり気付き目覚めたわけでもなく、また自らが望んでいたわけでもなく、ただ偶然とは思えない不思議な巡り合わせご縁の必然お仕組みといわれている「きっかけ・チャンス」が何度か続いたことから、またそれらを見逃さずに気付くことが出来たからこその「今がある」のですが、その際にも当然進むべき道の選択に迫られることが何度かあったわけですが、そこでハッキリといえるのが、選択の際に欲がらみの物質金銭の形ではなくて、(不思議な経緯があっただけに)不確かで信じるか否かの選択が必要な見えない世界・精神世界・心や意識といった今まで知らなかったことを知ることが出来る方を選んだわけです。

だから皆さんにも色んな「きっかけ・チャンス」が何度もあったはずです。また気付かずに見逃したのも多いはずです。
またこのブログに来られたことも必然ご縁お仕組みであり、意識を変革する「きっかけ・チャンス」でもあります。
そして見逃しそうなごくわずかな「きっかけ・チャンス」に長文は必要ありません、宇宙エネルギーとは何ぞや、ファバラとは何ぞや、良い悪いで判断しなければどうなるのか、それらの短い単語や言葉に関心を持つことから始まるのです。
そして「知ったかぶり」で止まらないことです、その知ったことすべてが「ひとつ」につながったら、その全てが本物・事実だと言えるようになり、知識ではなくなり自覚悟り英知にもなっていくのです。

また選択の時が来たら、過去の続きを継続・選択するのか、それとも新たに知ったことに乗り出すのか、または荒波の立つ岸壁で居たがるのか、静かな湖面で居たがるのか、また険しい激流に身を置いて近辺を削り取りながら流れるのか、または静かな小川のせせらぎに身を任すのか、また大勢が乗る大船で大海に乗り出すのか、または己一人が小さなボートに乗って身を任せていくのか、またそれら両方を交互に味わいながら過ごすのか、それぞれが選択する事になります。

だから好き勝手に生きてもいいし、それが他人に迷惑の害を及ぼすことになってもお互い様ですから気にしなくてもいいし、事を成したがったり、何かの善を成そうと頑張らなくてもいいし、人のことを気にしないでただ平然と生きているだけでもいいし、それが嫌で人のお節介に乗り出すこともいいし、とにかく何でもありの人間界ですから遠慮は要りません。

ただハッキリと言えるのは、矛盾のあるこの世で何かを成してその結果を人に見せるのが本命の人間の役割使命ではありませんから、未だに人間には見えないが「実在」する<神・愛>や<命・意識>といった見えない高次元界の実在・真実・事実を学び知り自覚悟ることから、人類初の新たなスタートーが始まります。

そこで我先にと「求め欲する」ことよりも、また望むことがあっても、まずはご縁・必然・きっかけ・チャンスを与えられるまで気長に待つことが基本ですから、(長い人生ですから)先を急がず、慌てず騒がずにゆっくりと時間を掛けて、成り行き任せに任せればいいのです。
そして余った余裕の時間を完全真理の理解やその実践に使えば自ずと自己改革・意識改革につながっていくのです。

また与えられるまで待って得たものは必然で与えられたものですから今後の過程に必ず役立ちますが、先走り先取りし欲張り追いかけ得たものは、その無理をして得たあとの満足感・自己満足で止まりますから、次の新たなチャンス・ステップアップに巡り合う事は殆どありません。
しかも不完全意識だけに得たものも同じ不完全ですから、先々に活かして役立つ必然・必要なものとはなりませんから、こだわり執着し苦労してまで結果を求めることではなかったことになります。

長い人生の中で・・・終わり良ければすべて善しのことわざがあるように・・・この世の始まりからあった裏表の矛盾を知り尽くし、それを踏まえて新たに比較競争の無い生き方を選べる自己意識になれば、それまでの過去は無かったことになり心機一転やり直しが出来るかもしれません。
だから元から持っている永遠の命・意識を持つものの終りは次の始まりですから、終わることを惜しんだり悔やんだりして引き伸ばすのではなくて、心穏やかにして「その時」を待つだけです。

しかし「その時」が現世で成るのか、来世になるのか、それは人それぞれの意識に関係するようですが、もしかしたら意識エネルギーのファバラが関与するかもしれませんが、いずれにしても成り行き任せに「その時」を待つのみです。

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