孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

このブログを書くために私は生きているのかな?

2015年12月19日 | Weblog
過疎地で単身暮らしをしながら素朴謙虚にして生きる実践をしているとは言え、私にも生まれながらにしての欲を持っています。

だから初期のころはヤギや鶏を飼い自家菜園なんかもして自己満足し、またそれを自慢して人様を呼び込むこともして、それでも自己満足していました。

その自己満足になると言うことは、それが欲から始まったことだからです。
それをはっきり言えば、必然ご縁で仕組まれたことではなくて、自らが先んじて何事かを始めること自体が欲絡みなのです。

だから過疎地で住んでいるから自己縮小とは言えないのです。
然るに何らかの自己満足をしていれば、街中で暮らして自己満足しているのと大差はないのです。
また煩わしい人間関係や柵シガラミから離れて孤独の自由を味わっていることにはなりますが、それを悪く言えば単なる「逃避」にもなるのです。

とにかく自己満足していることを言い換えれば、心の奥底に不平不満が隠れていて、その代替えに何か欲しがって成したことがその自己満足になるのです。

だから自己満足が多ければそれだけ欲張っていることにもなるのです。

そして暇で退屈な時間をテレビ番組を見たりDVDの映画やブログ巡りをしたりネットの囲碁や将棋や麻雀などのゲームで時間つぶしをしていれば、それも街中の部屋に引きこもっている人と大差はないのです。

然るに私も皆さんも(住む環境が異なっていても)暇で退屈な時間つぶしに何をやっているかの違いがあるだけです。
そしてその自己満足の質と量の違いがあるだけです。

ちなみにこのブログを書いていることも一種の自己満足です。
それでもブログを書きながらにして新たな気付きが起こり、その気付きのおかげで納得し確信・自信にもなり、それが自らの精神安定につながったのは事実です。

だから次々と気付くことで初期のころの余計な自己満足から卒業できたのです。
そしてゆっくりながらも自力自信の精神力が磨かれ高まっていることは確かなことになります。

とにかく苦楽が伴う趣味嗜好娯楽に関わったり、煩わしい人間関係で精神を乱したりすることは、結果的には余計なことに時間つぶしをしていることになります。

となれば暇で退屈していても心静かにしていられる過疎地は好都合なのです。
また家族や世間的な柵シガラミから離れていることも好都合なのです。

然るに不平不満になる原因から解き放たれた格好にもなるのです。
だから自己満足を欲しがることもどんどん減っていけるのです。
そして尚更に暇で退屈する時間が増えたのです。

ところがその暇で退屈している時間が穏やかな精神の安定にもなっているのです。
然るに皆さんも同じだと思います。

だから囲炉裏端で暖を取りながら、その焚き火の番をしているような時間が多くなりました。

そして静かにして時を過ごしていることがブログの新たなネタとなる気付きを生み出してくれます。

然るにそれが私の生き様の自信にもなっています。

と言うことはこのブログを書くために私が生きているような形になります。

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