孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全な神や愛の精神世界の私の実践意識がこのブログです。

2013年03月10日 | Weblog
完全真理が説くところの良い悪いで判断しないその実践が無理なことがハッキリしてきました。

そこで不完全意識ながらも自己縮小の実践が言われるようになりました。

そこで私は不完全意識ながらも「自由」に生きるその実践を書いています。
その自由に生きるためにも「他力に依存」しない自力とその自信が必要だと書いてきました。

また不完全意識だけにその思い思惑期待を持たないままに「成り行き任せ」に生きることを書いてきました。

そして「食って寝て糞をする」だけのような生き方であっても、そこに自由さえあればそれで十分な思い、満ち足りた思いに到ることが出来ると書いています。

これ等は不完全意識ながらも私の実生活の中から導き出した自伝ものですから、同じ不完全意識の人たちにも通用するものと思っています。
しかし実生活で実際に実践していないことやまた私の思いだけで(私に実践できそうもないことを)書いていれば嘘偽りの誤魔化しを書いていることになります。

そして私とて未熟ですから書いている内容のすべてが完全に実践できているはずもありません。
だから自由の重要性を書きながらも私が他の人を束縛制限している時があるかもしれません。
また人の事を気にしないで(薄情そうに)ほっとくことを書いているのに何だからほっとけないで口出し手出ししているときもあります。

しかし実際に生活実践&思い意識しているから気付き書けているのも事実です。

また実践が先々のことであっても、その実践に相当な自信とその自力があることからして書いています。

例えば私が両親に親孝行の一つも出来ずに(私に親孝行の意識もなく)他界しましたから、その私が子供に親孝行を望むはずもありませんし、その子供に親孝行させるほどの愛情でもって育てていませんからその恩返しも全く望んでいません。
だから私の中には矛盾や妥協がありません。

だから私自身が身内にほっとかれて孤独死・無縁死の白骨で発見されることになっても私自身が哀れ悲しみ後悔するどころか、自分の死に際がどうなのかと面白がっている(死に対する深刻さがない)ところがあります。

その根底にあるのが身内を私の厄介ごとに巻き込みたくない強い思いとそれに人間の死が当前に思えて尊厳(重要視)していないからです。
だから献体登録しているし葬儀法要&仏壇お墓に奉ることは不要と伝えています。

また入院介護や老後介護を受ける身になっても(例え身内にほっとかれても好都合ですから)それが哀れでも気の毒でもありません。
すべてが己の意識次第でどうにでも変わるのは事実だからです。

だから私はそうなることがあっても悲観落胆したりしません、それを楽しみそれが喜びになるその意識の有り様を学び知り既に悟っているところがあります。

だからあとはその時が来たらその実践意識になるだけですが、それが「生きてさえいれば」何とかなるという(成り行き任せに生きてきた)(何でも知りたがるやりたがる)その性格個性&自力自信があるからです。

そして「死ぬときが来たら死ぬだけ」ですから、そこで生き延びる事に執着することはまず無いと自信があります。
それでも出来れば苦しまずに死ねることを願うばかりです。

そして死後のあの世で私がどうなるかも知りたい気があります。
しかし先行きは不透明ですから、それもどうなることやら、しかし今のところ不安心配はありません、それも成り行きに任せるだけです。

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