孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

不平不満と自己満足の出ない生き方を実践して味わうことが無ければ完全真理も「絵に書いた餅」になります。

2012年06月23日 | Weblog
不平不満と自己満足の裏と表の両面を味わっている限りに於いては、その苦楽・喜怒哀楽から離れることは絶対に無理になります。
しかし不平不満や自己満足することが減るとその苦楽も当然減りますから波風が立つことも少なくなります。
そしてその不満と満足の両面・苦楽を味わう事を少なくするには、生きるために絶対的に必要な必然とそのご縁だけにしておいて、それ以外の特別なこと余計なこと無理なこと無駄なことをしなくて済む素朴で執着のない成り行き任せの自然体で生きていくことになります。

それを裏返せば、その必然ご縁以外の事を前もって思い考えたその思惑期待が原因からして、その思い通りになったことで自己満足になるが反対に思い通りにならなければ不平不満になっているのです。
だから生きていくための必然ご縁に限れば余計なことをしないだけに自ずと自己満足も不平不満もなくなっていくわけです。
そしてその不平不満と自己満足のない生活・苦楽のない生き方を実際に味わいそれを実感でもって悟ることになるのです。

ところでこのブログを読まれている人の多くが項目タイトルを見ただけで内容が読み取れる人も多いとは思いますが、それが自分のもの・本物としてその実感で味わっている人となるとごく少なくて、単なる知識(絵に書いた餅)で終わっているはずです。
それだけに(尚のこと)私の実感でもって何度も事細かく書いているわけですが、それも過去の自己拡大を精一杯味わっていたのと、その逆の自己縮小の生活を実感で味わっている「今」があるからです。

だから過去に於いては家族やの身近な人達に限らずとも地域や学校や子供たちに役立つような事を(自分たちが良いと思うことを)その仲間達と一緒になってやったこともありますが、その結果も途中結果の自己満足で終わりますから、その私達の後を引き継いだ人達が(私達と同じように)思い思いに修正・変化改革することにもなりますので、まるで国会政治や経済界と同然の仕組み結果になります。

すなわち不動・不変の完全ではなかっただけにその結果も変化し続けますから、結果的にはその時の(良かったと思っていた)自己満足だけで終わった(余計・無理・無駄な)ことになるのです。

それが家族関係となれば特に妻の我がままエゴ・不平不満を聞くことが多くなります。
そこで人情・愛情・恩や義理からして妻の思い意向になんとか添うことになりますが、その不満を一つ解消しても一時の満足で終わりますから、これまた次々と新たな不満が出てきますので、それが事が大きい時には妻の意向に沿いに難いときもあります。
そうなると過去の満足を全く忘れたかのように執着心を出してきて私を困らせることにもなります。

すなわち自己満足は完全ではないからです。
だから無理をしても結果的には無駄になる余計なことをしたことになるのです。
そして良心でもってやる善行や困っている人を気の毒・哀れ・かわいそうに思いそれをほっとけないで施す慈善も、また無いよりも有るほうが良いと思う善意の寄付贈与であっても、元は不完全意識が原因の結果だけに、私は正しい良い事をしたと思って自己満足したり自惚れることになったりして、その良心・善行・善意・慈善を人様に自慢したりそれを見せびらかしたりたがることにもなります。

またその良心善行善意慈善から救済される人がいても、まだ困っている人が身近なところでも居るだろうし、もっと困っている人が全国各地・世界中に大勢いることから言えば、それは断片的で偏ぱで半端で片手落ちの不具合な差別格差になりますし、またその結果が良かれ悪しかれ途中結果ですから変化し続けますから、誰一人として完全解決したわけではありません。
しかも自力ではなくして他力によるところが多いだけに尚更に他力依存・依存心が増すかもしれません。

すなわち困っている人を全部救済することは不可能ですから仕方なくほっとくしかないのです。
しかも自分自身が困っていることがあるのに、しかもそれを自力で解決出来ないままの中途半端なままに棚上げしているのに、そんな不完全意識の自力実力でもって何で人様を根本的に助けることが出来るのでしょうか?

となれば不完全意識の者同士での断片的で中途半端な助け合いによって共に自己満足するだけで終わりますから、困ったと思うその不平不満の心・意識を根本的に無くすることは出来ませんから、また同じ事を繰り返すばかりですから、その経緯結果の全てが余計なこと無理なこと無駄なことになるのです。

そんな矛盾する裏と表の苦楽を味わいつつも、私としては妻や子供・家族が少しでも多く楽しく生活できるようにと思いつつ、仕事全般や諸般全般の多くの矛盾を味わい続けながら生きてきたその結果が現在ですが、それも未だ途中結果ですから此れからも多少の変化が続くことでしょうが、その不完全意識を持っていることには未だに何ら変わりはありません。

しかし人様の意識を変えることは無理でも、自分の意識は自分で変えることが出来ると書いているのです。
だから人様のことはほっといても(どうすることもできない自分さえ良ければの)(その個人意識を持ったままに)自分の意識改革の実践を続けて行くしか他に道は無いとも書いているのです。
そして何はさて置いても不平不満の出ない生き方を実践して味わうことが無ければ完全真理も「絵に書いた餅」同然になると書いているのです。

そしてどんなに無理しても成らないことは成りませんが、その無理をしなくても成ることは成ることからして言えば、その成る様になる仕組みのその「成り行き任せ」に生きていくほうが、苦楽のない穏やかな生活になり、余計なことに無理することもなくそれが無駄になることもないから、それだけに楽ちん人生になると書いているのです。