孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

余計で無理で無駄な結果になる人間関係を気にしないで、余裕のある「沈黙は金なり」の如く静かに生きる。

2012年06月15日 | Weblog
私は(過去において)自己拡大で華やかな生活を経験し、今は過疎地で質素・素朴な生活をしていますが、その過去と現在も不平不満とその自己満足で生きていることには何ら変わりありません。
しかし自己拡大での不平不満のほうが深刻な問題にもなりやすいが、自己縮小中の不平不満のほうは大したことではないので問題化し執着することにはなりません。

だから自己縮小が言われているのも、生活の形・格好よりもその原因意識(思い)にあります。
だから自分に無いものを欲しがる意識が自己拡大に進んでいることになりますが、その欲しがることもなくまた失うことがあっても気にしないでいられる安心安全の精神に戻ることが自己縮小に進んでいることになります。

だから不平不満とその自己満足が多いほど自己拡大に当たりますが、その反対に不平不満や自己満足が少なくなっていることが自己縮小に進んでいることになります。

そして自己縮小で気にすることが少なくなるほどに余計な事に口出し手出しお節介することも少なくなりその無駄も無理もなくなります。
また気にしないだけに「私は正しい」の思いも出てきませんから自己主張したり顕示誇示することにもなりません。
となると先人が残した言葉の「沈黙は金なり」となります。
そして欲張り急ぎ慌てることが減って「静かな」心持で「余裕」のある生き方になります。

だから田舎暮らし・過疎地暮らしが自己縮小とは思っていませんが、その生活に十分馴染み味わえているその原因意識から言えば、その自己縮小に進んでいる形・結果とも言えます。
そして過去の自己拡大の苦楽と現在の苦楽の両方を味わっただけにその実感でもってブログを書いています。

ゆえに、財産家であっても貧乏人であっても、不平不満に思うその思い・感情・精神状態の本質は同等です。
だから空腹や満腹の本質や美味しいや不味いとも感じるその本質も同等ですから特別はありません。

だから財産家が高級外車を欲しがるのと私が格安な中古車を欲しがるのも、車という移動手段を欲しがっているその思い本質は同じであっても、高級外車を欲しがる場合は見栄・プライドが大きく影響しているけれども、私の場合は必要性から欲しがっているだけですから、その不平不満もその自己満足の思いの質も量も大きく違っていても当然です。

その本質でみると真実・事実でみることになりますから、食って寝て糞をしながら生きていることが同じであっても、それに価値観・感覚で判断することになると本質・真実・事実でみているのでは無くなり、自分だけの思いで見ていることになります。

だから人様と比べて自分にはない能力や見かけの艶やかさ華やかさに憧れていると自分が劣るように思えます。
そして自らの個性・役割を出し切れないままに人真似したがったり、また憧れ敬い尊ぶことにもなりますが、それが自分に無いものを欲しがる(成りたがる)特別意識・自己拡大にもなっていますから、宇宙・神・愛の必然ご縁の成り行き任せに生きることに無理があります。

また欲を出していると、その欲目の見掛けで判断することからして、結果的に裏切られ騙されたり詐欺・搾取されることにもなります。
しかし自分の自力(個性)に自信があれば自分の本質も見極められますからそれ以上の無理も欲も出しません。

ところが欲目で無理をしだすと他力も必要になりますから、その他力で思うようにならないとその不満が出てきます。
その他力に対する不満の原因がその他力が原因に思うほどにそれが執着になりますが、その他力を当てにしていた自分の責任に思い直せばその執着から開放されて気分が楽になるし、その他力を使ってまで無理することも(欲目が消えて)次第に減っていくのは事実です。

しかし自分の欲が原因なのに、それを他力の原因にすり替えてまで思い続けてその不満に執着することになれば、それが苛立ち腹立ち怒り破壊に変化・進化していきます。
しかしそんな苦い辛い思いをすることになった原因が他力依存の自分が原因であることに気付き反省することにでもなれば、その他力をあてにしないで生きていく方向性になります。

ところが困ったことに他力を使わないでいると(この世では)仕事も生活も次第に縮小されるのです。
そうなると普段と違った生活様式が必要になります。
それが私の場合は見栄や世間体を気にしないでいられる田舎暮らしに必然ご縁で仕組まれたのです。
またそれが不完全意識の人間関係・しがらみから離れられた自由と孤独を味わうことにもなったわけです。

しかもそれが欲張り急ぎ慌てない生き方の「静かな」心持で「余裕」のある生き方になり、余計なことになる口出し手出し足だしお節介しないままの、安心安全の必然ご縁の成り行き任せにして、私は正しいの主張顕示誇示もその守り意識もないままの、余計で無理で無駄な結果になるその不完全な人間関係を「気に」しない、「沈黙は金なり」の如くにして、自然界の静寂・素朴の中で独自独歩の自由に生きることを味わっているのです。