青森に住んでいたのは、01年9月から03年8月までの2年間。
プライベートでは、3号の幼稚園入園&03年2月の4号誕生が大きな出来事だった。
ジム一家の完成を見たのが青森の地だったと言える。
振り返ると、青森も格闘技が盛んな土地柄だった。
相撲は若乃花・貴ノ花の兄弟をはじめ、数多くの人気力士を生んだ。
柔道にはロス&ソウル五輪連覇の斉藤仁、レスリングには伊調姉妹、
ボクシングにはWBA二階級王者の畑山隆則、キックには小比類巻貴之がいた。
プロレスをみても、船木誠勝&柳澤龍志のパンクラス創設時のメンバー2人に、
問題児ケンドー・カ・シンといった個性派が並ぶ。
「グレイシー柔術の祖」「コンデ・コマ」前田光世の生誕地ということも忘れてはならない。
とはいえ、この時期の生観戦はみちのくプロレスがほとんど。
特に、02年10月20日のみちのく青森大会が思い出に残っている。
ライガー見たさに遠征してから約6年。青森県民体育館の最後のプロレス大会だった
<青い森アリーナ(注1)が完成し、この年限りで閉館したため
この大会のメーンは、秋恒例のタッグリーグ戦「みちのくふたり旅」の優勝決定戦。
サスケ・TAKA組、人生・湯浅組、カレーマン・ハヤシライスマン組による
壮絶な巴戦が今も思い出に残っている。その展開は以下の通り(左が勝ち残り)。
- カレー・ハヤシ(スパイシー・ドロップ)人生・湯浅
- サスケ・TAKA(ジャスト・フェイスロック)カレー・ハヤシ
- 人生・湯浅(念仏パワーボム)サスケ・TAKA
- カレー・ハヤシ(パワースラム)人生・湯浅
- カレー・ハヤシ(スパイシー・ドロップ)サスケ・TAKA~カレー・ハヤシ組が優勝
巴戦はプロレスでもしばしばあることだが、ここまでもつれることはそうはない。
今年8月の「サスケを囲む会」でも、10年前のこの巴戦をサカナに話が弾んだ
4代目タイガーマスク(注2)をエサに、「しまじろうを見に行こう」と連れて来られた3号も
大会終了時にはカレーマンにすっかり魅せられていた。
もうひとつ、3号が魅せられたのが「はやて・こまち」の新幹線タッグ。
この年の12月のホンモノのはやての八戸延伸に先駆けた青森上陸だった。
このように本場・東北で経験したみちのく生観戦を経て、
幼少期の3号はプオタの両親から受け継いだDNAを徐々に覚醒させて、
プロレスへの「耐性」を身につけていった(注3)。
もう一つ、プオタとして青森に住んでよかったと思ったのは、
闘龍門JAPANの大会を定期的にテレビで見ることができたことだ。
青森はフジの系列局がなかったため(注4)、
我が家はUHB(北海道文化放送)を放送するケーブルテレビと契約していた。
このUHBが当時、福岡のTNC(テレビ西日本)の「ウノ・ドス・トレス闘龍門」(注5)を
買い取って、毎月流していたのである。
もし青森にフジの系列局があったら、かえって見られなかったかも。
メキシコ帰りの直後にみちのくに上がっていたマグナムTOKYOや
クレイジーMAXに魅せられた我が家にとって、新たなお気に入りの団体の誕生だった。
そして、この団体が後に4号のDNAを覚醒させることになる。
(18話に続く)
*注1・03年2月の青森冬季アジア大会に合わせてオープン。現在のマエダアリーナ。
*注2・この02年を最後に、みちのくと契約満了。新日本に移籍した。
*注3・現在では新日本のライオンマークのTシャツを林間学校に着て行って、
男子に「お~い、ワールド・プロレスリング~」とからかわれる有り様に。
*注4・八戸出身の田中義剛が「笑っていいともが夕方に流れる」とよくネタにしていた。
*注5・現在も「龍の扉」と改題して月イチ放送中。番組MCはずっと博多大吉。
このため、我が家ではモノマネで全国区になった華丸より大吉の方が身近な存在だった。
ただし、2号は芸人としばらく認識せず、「九州ローカルのフリーアナと思っていた」らしい。