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京の茶漬け


「京の茶漬け」という落語がある。京都の知人宅を訪問した大阪の男。ええかげん話しこんで帰ろうとすると、相手になっていたその家の嫁さんが「まあ、ええやおへんか。ぶぶづけでも、どうどすか」という。「いえいえ、けっこうでおます」と帰る。こんなことが何度かあって、この大阪の男、いっぺん、あのぶぶづけを食ってみたれと思った。
 いつものように、時分時に話し込んで、さて帰ろうとすると、「ぶぶづけでも、どうどすか」「ほな、よばれまっさ」
 これ、京都の人はほんまにお茶漬けをごちそうしてやろうとは、思っていない。この時の嫁さんの心の中は以下の通り。
「まあ、いややわ、この人。時分時に来はって。早よ帰って欲しおすな。あ、帰らはる。ええわ。もっとおっても何も出てこやへんゆうために、ぶぶづけでも勧めてみよかしら」
 つまり、食事時に来ても何も出ん、というサインが「ぶぶづけでも、どうどすか」なのだ。
 京のおなごはんの代表みたいな人杉本節子さんの本によれば、お茶漬けは、京都の商家の賄い食で、決して客に出すものではない。商売人がちゃっちゃと手早く食事をする時に食べるもの。台所に残っていたパンのへたを客に勧めるようなものだ。
 だから「ぶぶづけでも、どうどすか」といわれたら、「あんたに食わすもんはない。はよ帰れ」といわれているのだ。それを「いただきます」といったら、イナカもんめとバカにされる。なんなら、昼の11時半ごろ京都の知人宅を訪問したら判る。

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