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10月3日(水) チャチャヤングの思い出

 小生は学生時代は深夜放送の熱心なリスナーだった。朝日放送の「ヤングリクエスト」毎日放送の「ヤングタウン」ラジオ大阪「バチョンと行こう」なんかを愛聴していた。
また、上記3番組とは少々毛色が違うがラジオ大阪の確か、水曜の午後11時からの番組で「題名のない番組」という番組を楽しんで聞いていた。出演は桂米朝師匠、小松左京氏、そしてアナウンサーの菊池ミチ子女史。番組の構成はリスナーからの手紙をこの3人が紹介するのだが、米朝さん小松さんという「知」の巨人のお二人が相手、普通のハガキではない。だいたいパロディが多いが、最初は「土佐日記」「平家物語」など、人口に膾炙している元ネタのパロディが多かったが、そのうちだんだんマニアックになって来て元ネタが何かわからない。それでもさすがにこのお二人、元ネタをいいあてる。となるとリスナーもうんとマイナーな物のパロディを作る。リスナーと米朝さん小松さんとの知恵比べとなってきた。小生も一度「宇治拾遺物語」のパロディを投稿したが、鎧袖一触、小松さんにいい当てられてしまった。お二人はまだ健在。来年のSF大会DAICON7でライブ版「題名のない番組」をやってもらえないだろうか。
そして小生はあの番組と運命的な出会いをする。「ヤングタウン」も終わり、そのままラジオをつけていたら、新しい深夜放送が始まっているのに気がついた。「チャチャヤング」という番組が。最初に聞いたのは馬場章夫さんの担当だった。ここで馬場さんが「ボラボラ」という言葉を使って、日本画家だった馬場さんが南の島を放浪した話をしてくれた。馬場さんは月曜日の担当。記憶違いかも知れないが火曜日は確か谷村新司さんだったと記憶する。
「ピンクピクルス」が初めて紹介されたのがこの番組だったのでは。違うかも知れない。少し前の「探偵ナイトスクープ」に茶木みやこさんが出ていた。ものすごく懐かしかった。
そして水曜日の担当が眉村卓さん。すでにSFファンとなっていた小生は、眉村さんはSFマガジンなどでお名前は存じ上げていた。人柄そのままの誠実なおしゃべりで好感の持てる放送だった。また、プログレッシブロックのピンクフロイドを積極的に紹介するなど、SF作家が担当しているだけにSFファンの心の琴線に触れる内容は非常に興味深かった。
 そしてショートショートコーナーが始まった。リスナーがショートショートを投稿して眉村さんが選考して評価をつけて朗読するコーナーだ。小生も投稿した。「雫石鉄也」というペンネームはこの時から使い始めた。30年以上「雫石鉄也」を名乗り続けていることになる。本名だけの時より、二つの名前を使い分けている時間の方が長くなった。
 ショートショートコーナーの投稿者は増え続け、このコーナーは番組のメインとなった。そのうち常連投稿者も出てきた。また、評価がAとかBの上位の投稿者も固定してきた。幸いなことに小生もその内の一人となった。このころは週に1本はショートショートを書いていた。よくあんなにアイデアが出たもんだ。今はこのブログの「雫石鉄也ショートショート劇場」の更新ぐあいでお分かりのように月に2本が精一杯。
上位常連投稿者が何人かに固定されてきた。しばらく投稿が途絶えたりすると、あの人どうしたのだろうと心配したりして。
「チャチャヤング」も終わる時が来た。そして、せっかく名前だけだが知り合った常連投稿者。このままでは惜しいということで、お会いしようという呼びかけがあった。
 梅田の阪急三番街の喫茶店だった。名前だけは知っていた人たちが集まった。眉村さんも出席された。もちろん、眉村さんを始め、みんな初対面。ところが不思議なもので名前と作品しか知らない人たちだが旧知のような感じがした。
 そのグループは「創作研究会」という会を結成し「北西航路」という同人誌を発行した。この会は今でも存続しているし、メンバーとは今でも交流がある。
 チャチャヤングの常連からプロになった人がいる。谷甲州である。甲州は創作研究会には参加しなかったが、ご承知の通り彼は海外青年協力隊員で時々日本に帰って来た時には連絡を取り合って梅田でよく飲んだ。ネパールから帰って、次の任地マニラに立つ前の日に小生のアパートに泊まった。その夜、「風の谷のナウシカ」を初めてビデオで見て、えらい感激してマニラに旅立った。その後彼はマニラにて民衆が独裁者マルコスを追放し、コラソン・アキノが大統領になった、あの騒動に巻き込まれたのである。  
 ともかく小生はチャチャヤングショートショートコーナーに投稿することによって書くことの喜びを覚え、今もこうして文章を書いている。思えば長い旅路であった。この旅はまだまだ続く。
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