風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

民主主義

2009年10月20日 | 雑感
土曜日に禅の摂心会は無事に終了しました。
ちなみに「無事」というのは禅では非常に大事な言葉です。
人が生きても死んでも、「無事」。
このあたりの消息を言葉で説明しますと嫌味になりますので、やめときます。

話はころっと変わって、彼岸花というのは本当に彼岸のころに計ったように咲きますね。
しかも、田んぼの畦道とか、人々が長年歩いていただろう道筋にだけ咲いています。
明るい紅色の彼岸花に額装された頭の垂れかけた穂でいっぱいの田んぼというのはとてもきれいです。
ちょっと今思い出しただけの話です。

ぼくは東北人です。
東北人というククリが民俗学上あるのかどうかは知りません。
坂上田村麻呂と互角以上に戦ったアルテイという東北の戦士の話を最近知りました。
アルテイが立てこもったという伝説のある洞窟はぼくの生まれた町からたぶん北に10数キロです。
坂上田村麻呂が勧請したという清水寺というのもぼくの町にはありました。
それはそれは立派な庭園があるのですが、住職がおらず荒れ放題です。

さらに北に行けば有名な平泉です。
その都市造営の規模からすれば、豪壮というより仕方がありません。
でも、その詳細は分かりません。
蝦夷といわれた原住民との関係やら、財源やら、都との関係やら、何故にあれほどの絢爛豪華な都市を作りえたのか、
ぼくは知りません。

明治維新のとき、東北は渋々ながらにも奥州列藩同盟というものを結成して、薩長軍に対抗しました。
理屈の上では朝敵となりました。
持っている武器の質量ともの圧倒的な差ににより、東北勢は情けないほどに負けました。

その後、薩長に代表される西国の人物にほとんど主な政治は掌握されました。
九州や長州の人々から見れば、東北はどう見たところで野蛮であったのでしょう。
武士階級はいざ知らず、京も江戸も知らない民衆が、ひたすら山間の小さな共同体の中で暮らしていたからです。

で、何が言いたいのかというと、本当の文明や文化度の高さということです。
今の文化は東京に集中しているかのような迷信があります。
今のテレビを見て、そこに文化を感じる人など皆無でしょう。
文芸雑誌の出版社も東京に集中していますが、別に出版社が東京にある必要が全くありません。
戦略上、江戸をすべての中心にしようとした政策の残り香が今なお濃くこの国を覆っているのでしょう。

ヨーロッパの国々を訪れると感じる豊かさは、小さな町々、村々が豊かであることです。
人口1万足らずの町に、一流ホテルがあり、博物館があり、何件かの感じのよいレストランがあり、城跡があり、
豪奢な教会が何棟か空に聳えている。

そりゃあ、ヨーロッパであろうとどこであろうと時代の洗礼の波は受けますから、いろいろな問題はどこの自治体も抱えます。
でも、日本の場合はあまりにもその流れに抗するに無策すぎます。
こういう町に、こういう村に我々はしたいと思えば、そうできるのが本来の民主主義です。
その民主主義であることの恩恵をみすみすドブに捨ててしまっているのが、いまの日本のような気がして仕方がありません。