風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

健全さ

2008年03月27日 | スピリチュアル
今の日本の衰退の一因として、「老いては子に従え」という諺が廃れたことでしょうか。
どこもかしこも老人たちが何がしかの椅子にしがみついています。
その昔、50も過ぎれば隠居して、家業は跡継ぎに任せて悠々自適の趣味の世界に生きたものです。
農家の人々はそう泰然とはいきませんでしたが、孫やらひ孫やらに囲まれて、自然と面していました。

若い者は失敗します。
でも、そうやって失敗してこそ先人の教えを学ぶチャンスでもあります。
よってたかって過保護にして、若者を失敗させないものですから、若い者は過去に学びません。
学んでいないから、年寄りたちはますます心配して若い者には任せられないとなります。
悪循環です。

これからいよいよ老人の占める人口比率がピークを迎えます。
若い者も、老いた者も、誰のせいにするわけにもいきません。
健全な社会運営とは何かということを一人一人が考える必要に迫られるでしょう。

健全な社会というのは、その構成員である個々人が健全であることが前提であり、結果でもあります。
何が健全であるかという議論を改めてしなければいけないような社会といういうのは、言うまでもなく不健全な社会です。

「生きる」価値というのが共有されるのが最低限の健全な社会といえるのでしょう。
今の時代は、価値の共有というのが極めて難しい時代になってしまいました。
個々人が個々人の価値を追求せよというような強迫観念すらあるような時代です。
その先にある孤独感を耐え切る覚悟があるならそれもよしですが。

不思議なものです。
全体主義を否定するテーゼとして共産主義が生まれた土壌があったはずです。
でも、共産主義こそ現代に残る唯一の全体主義的なイデオロギーです。

思うに、キリスト教の全体主義が、共産主義というより人知的な全体主義的イデオロギーにすりかわっただけのような気がします。

唯物論は、下部構造と上部構造を措定します。
下部構造が上部構造を否応なしに規定していくと。
資本主義(誰かが誰かを搾取する構図)がある限り、搾取するものと搾取されるものがあり、真の人間性が疎外され続ける。
話としては分かりやすいです。
でも、ぼくはあえてそんな小理屈には与しません。
人は「統合」の場です。
すべての昇華、その筋の言葉で言えばアウフヘーベンが起こりえる場が「人間」だと思っています。

その鍵は「宗教心」だと言ったら、唐突過ぎるでしょうか。

唐突過ぎますね。

ただ言っておきたいことは、「人間」の可能性は、「その気になれば」もの凄いものではないかということです。