風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

エゴ

2007年07月11日 | スピリチュアル
雨は降り続けています。

今月号の「致知」に載っていたエピソードです。
一休禅師が臨終の際の遺言です。
「仏教が滅びるか、大徳寺が滅びるかというような一大事が生じたら、この箱を開けなさい」
と言って、一つの箱を弟子に手渡したそうです。
月日が経ち、大徳寺の存亡に関わる重大な問題がおきました。
寺僧全員が集まって、箱を開けることになりました。
そこに書かれてあったのは、
「なるようになる。心配するな」でした。

いいですね。
人間の一大事など、一大事ではない。
心配する心さえも捨ててしまえば、この世は極楽。
すべてが流転する中で、何に執着するものがあるものか、ということなのでしょう。
仏教でも、寺でも滅びる因縁があるのなら滅びてしまえばいいのでしょう。

もう一つ、禅僧のエピソード。
若き澤木興道老師の修行時代、円覚寺の高僧を訪ねました。
「私の人生はこれでいいでしょうか?」と聞きました。
「お前の人生だと?お前の人生などどうでもいいわ。グフフフフ」
その笑い声を聞いたとき、澤木老師の背筋が凍りつくように縮み上がったそうです。

「私の」人生などなどどこにある。
そんなもの犬にでも食われてしまえ。
そんな感じなのでしょう(笑)

「私の」人生、「私の」仕事「私の」思想、「私の」家族、「私の」趣味・・・
日々、人の心の中は「私」だらけです。
そんなものを放り投げた時にしか、菩提の道は見えてこないのでしょう。

インド思想にかぶれていた時期のジョージ・ハリスンが作った歌にもありました。

♪ Oh, through the days, I, me, mine, I, me, mine, I, me, mine.
(ああ、毎日毎日朝から晩まで、「私が」「私を」「私の」だらけだ)

人の心はかくもエゴで汚染されています。
エゴは自己保存という本能に従っているだけで、何の悪意もありません。
悪意はないのですが、その性質上「自分がよければいい」のです。
人間の思いは強力ですから、「自分がよければいい」を延長していきますと、他者の福利を平気で侵害します。
そこで人同士のいがみ合いに発展します。
エゴ自体には「妥協」とか「利他」とかいう精神的境地は無縁です。
エゴの延長には菩提の道は決して開けてきません。

そこで、何らかの方法でエゴを削る、あるいは統制する必要がでてきます。
エゴより強力な精神的なものをエゴの上位におく必要があります。
その精神的なものを様々な宗教は提示しようとしてきたわけです。

宗教が繰り返し説いても説いても、今の有様を見れば分かるように、「自分がよければいい」のエゴは強力に息を吹き返します。
「自分がよければいい」が必ず行き詰るのは、「自分がよければいい」者同士が集まれば、必ず争いに発展するからです。
当然ですね。

「お前の人生などどうでもいい」と言い放つ人が生息していた時代の方が健康的だったのでしょう。
今そんなことを言ったら、人権意識が足りないだのなんだの、タワゴトの束が返ってきそうですしね。