風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

雑念

2005年06月03日 | 雑感
早起きすると、今まで知らなかったことを見聞きします。
住んでいるところのベランダから眼下に公園が見えます。
そこで、毎朝8時から中高年の人が集まり、ラジオ体操をしています。
それから、砂場の周辺に飼い犬を連れた人たちが10人程度集まって、
お互いの犬の品評会でもしている雰囲気です。
こういう光景が毎朝繰り返されていたわけです。
その一方で、毎日昼近くまで、ぼくは泥のように寝腐っていたわけです。
これで夢や情熱がもてるわけはありませんね。
あはははは←乾いた笑い

さて、厄介なのは雑念です。
怠惰な時間をすごしていると、頭の中はセイタカアワダチソウのごとくに雑念だらけになります。
雑念だらけで、まともな意志やら想念やらが育つ隙間がなくなります。
焼き鳥を食いたいだの、今日は何時から酒を飲もうだの、今通り過ぎた女性の後姿だのばかりが、
脈絡なく頭の中を次から次へと繰り出してきます。
そうして気がつかないうちに一日が終わります。

雑念は夢の中にも入り込んできます。
ユングがその分析の対象にしたような、まとまったイメージを構成するような夢は見ません。
途切れ途切れのろくでもないイメージが、消えては浮かび、浮かんでは消えます。

頭の中もきちんと芝刈りをしないといけません。
そうしないとまともな樹木が育ちません。
禅の初心者に対する注意としては、雑念を起こさないということも執着の元になるから、
雑念が起きてもそれに捕らわれない、雑念を起こるがままにとことん流し去ってしまう、と言います。
すると、ぼくとしては日常の頭の中は雑念しかないので、雑念を流し去ってしまいますと、
頭の中が空っぽということになります。
頭の中が空っぽでもいいのだと言われても、さすがに不安です。
じゃあ、雑念に身を任せれば安心なのかと聞かれれば、それは違うんですが・・・としか言いようがないのですが。

雑念の雑念たるゆえんは、雑念は幾らそれを追いかけても、どこにも連れて行かないということです。
心地よさそうな幻想の中に放り出されて、おしまいです。
何も実らせないくせに、生命力だけは旺盛な雑草です。
虫除けにもなりませんし、保水力もありませんし、ましてや食べられません。

雑念で頭をパンパンにさせて、何か考えているつもりになることもあります。
厄介ですね。

早起きついでに、座禅もちょっと本気をだしてしてみようかな、とちょっと思います。