滝行にしろ、坐禅にしろ、しなければいけないということでは無論ありません。
ただ、それに参じた人しか見れない景色がある、ということだけなのかもしれません。
ぼくの場合は、そういう意味での好奇心は旺盛なほうなので、見れるものなら何でも見てみたいという感じです。
自分の目の前に転ずる景色が自分の心に適しているのなら、はなから問題はありません。
自分の目の前で転ずる景色に我慢ができない時に、脱皮を求めます。
何から脱皮し、何になるのかもわからずに、我慢ができないという一点の衝動のために、人生の進路を変えるわけです。
そうして何らかの修行を始めるわけですが、修行自体はどこにも繋がらない「方法」に過ぎません。
「方法」は「方法」で深遠なるものを秘めているわけですが、その方法を通じてどこへ行くのかが人の関心事です。
この世に生まれて、この世の現実の中で、見たい景色を見れるのか。
そもそも、何をこの世に「見たい」のか。
自分で見たいものは、自分で探し出すしかありません。
人が映し出す偽りの幻想を、自分の幻想に無自覚に重ねて酔っ払ってしまう愚は避けなければなりません。
キリスト教信者なら、キリスト様がキリスト様なら、俺もキリスト様になるという気概を持たなければならないと思います。
仏教徒なら、「衆生本来仏なり」という宗旨を決定すべく粉骨砕身するほかは道はないでしょう。
道はいつだって目の前にあります。
その道に一歩を進める勇気と覚悟の欠如が現代を覆っているような気がしてなりません。
ただ、それに参じた人しか見れない景色がある、ということだけなのかもしれません。
ぼくの場合は、そういう意味での好奇心は旺盛なほうなので、見れるものなら何でも見てみたいという感じです。
自分の目の前に転ずる景色が自分の心に適しているのなら、はなから問題はありません。
自分の目の前で転ずる景色に我慢ができない時に、脱皮を求めます。
何から脱皮し、何になるのかもわからずに、我慢ができないという一点の衝動のために、人生の進路を変えるわけです。
そうして何らかの修行を始めるわけですが、修行自体はどこにも繋がらない「方法」に過ぎません。
「方法」は「方法」で深遠なるものを秘めているわけですが、その方法を通じてどこへ行くのかが人の関心事です。
この世に生まれて、この世の現実の中で、見たい景色を見れるのか。
そもそも、何をこの世に「見たい」のか。
自分で見たいものは、自分で探し出すしかありません。
人が映し出す偽りの幻想を、自分の幻想に無自覚に重ねて酔っ払ってしまう愚は避けなければなりません。
キリスト教信者なら、キリスト様がキリスト様なら、俺もキリスト様になるという気概を持たなければならないと思います。
仏教徒なら、「衆生本来仏なり」という宗旨を決定すべく粉骨砕身するほかは道はないでしょう。
道はいつだって目の前にあります。
その道に一歩を進める勇気と覚悟の欠如が現代を覆っているような気がしてなりません。