風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

味わう

2010年11月14日 | スピリチュアル
瞬間瞬間をフルに味わうためには、心が完全に解放されていることが必要です。
心が完全に解放されている状態というのが、とりもなおさずいかなる思考にも占有されていない状態、
つまり考えていない状態なのだと思います。

五感がキャッチした外界の繊細な波動を感じ取り、そこで動く自身の意識のありようの変化のさまをも、思う存分味わう。
ふと目を上げてみたときに青い空が広がっていたら、その青に吸い込まれ、その青に融けていく自分を味わう。
風に乗って流れてくる枯葉の匂いを感じたら、そのふくよかで哀愁を帯びた、音楽と旋律と同様な匂いの重厚なハーモニーを味わう。
道行く人のコートの襟をたて、背中を丸めて急いで歩く姿に、仕事や家庭の中で苦闘しながらも
諦めずに立ち上がり続ける秘めた意志の炎を感じ取る。
こうして、すべてが味わう対象となった時、あれやこれや不平不満を鳴らし続ける思考の波は静まっていきます。

なにも好ましい感情だけを味わうわけではありません。
道路でこけて膝をすりむいた。
こすれた皮膚から、血がじんわりにじんできます。
ぴりぴりとした痛みが患部の周囲を包み込みます。
患部を消毒をして、包帯で巻きますと、安したかのように痛みが引いていきます。
痛みというのは、体の一部が精一杯そのメンテナンスの必要を叫ぶ姿であって、それ以上でもそれ以下でもないことを知ります。

あるいは、仕事で誰かがクレームを言ってきます。
その顔は怒りで歪んで、言葉は黒いエネルギーをたっぷり含んでいます。
そのエネルギーをまともに受け取らず、その怒りの大本にある「本当に言いたいこと」に焦点を合わせます。
何が彼の意にかなわなかったのかに焦点を合わせます。
仕事というのは、誰かと誰かの意が叶い合って成立するものですから、誰かの意にかなえなかったというのは、
基本的にはこちらの落ち度です。ああ、申し訳なかったなと素直に思えます。
素直に謝り、彼の意にかなうための、次策の提案を誠心誠意申し出ることができるでしょう。

例をあげていけばキリがありませんが、思考で目的や過程を分析し行動すれば、その目的や過程がその思考を凌駕した事態になれば、
思考は慌てふためき、事態から逃げ出したくなったり、他人のせいにしようとしたりします。

このように、きちんきちんと目前のことを味わって行動していけば、あれこれ不幸になっている暇はなくなります。
この状態が不幸かどうかを判断するよりも、目の前のことに全身全霊で対応していくようになります。

あれこれ考える前に、味わうということが何よりも効力が大きいのが対人関係でしょう。
思考は向き合った人をその肩書き、地位、力関係、容貌、などなどでその利用価値やら付き合う程度の深浅をあれこれ斟酌します。
思考は決してその人自身を把捉することができません。
それに対して、目の前の人をありのままに受け止めて、その人柄や醸し出す雰囲気を味わっていく。
もちろんその場合でも、味わうのが苦痛な場合もありましょう。
人間の相性と言うのはあります。
その場合でも、この人はどうだああだと判断は下さなくてもいいです。
その場をさっと去ればいいことです。
損得で人と付き合うよりもよほど健康的です。

味わうだけでいいのか。
それだけでいいのがこの厄介な3次元で生きるということのような気がします。