厳島神社の回廊を抜けて、裏側に周ってみることにします。
橋を渡ると、また歴史のある神社に出会いましたが、メモを取らなかったので説明なしです。
境内の中央に立派な松がありましたので、いったん後ろに下がり、なんとか全体を写真にできました。
後白河法皇が1174年に厳島神社を参拝した際に、植えられたとされるる老木が本社の裏側に横たわっています。
後白河法皇は鳥羽天皇の第四皇子として生まれながら、継承争いに勝利し即位しました。
上皇になっても、院政をしき30年以上も朝廷政治を治め、平家と源氏の争いの時代の朝廷を維持した権力者のようです。
後白河法皇は平家の隆盛が極まると、平の清盛をも疎んじるようになり、後白河法皇の第二子の以仁王を利用し、源氏による平氏の追討の令旨をだし、その結果平氏の滅亡につながったようです。
写真の御行幸松は1174年のものと書いてありました。
海の見えるところ、必ず大鳥居が見えるように建物が配置されているのが嬉しいです。
五重塔は重要文化財で、1407年建立で、高さ29.3mです。
建物の形式は禅宗様(ぜんしゅうよう)と和様(わよう)を加えた様式で、禅宗様の屋根軒先の反りと、入口の板扉(和様)の折中になっています。
説明板によると、1868年の神仏分離令により、塔内の仏像は大願寺に移し、建物は厳島神社が維持管理するようになったと云われています。
こちらの建物は、『千畳閣』とよばれている豊臣秀吉が建立した入母屋造の大経堂です。
秀吉がその完成を見ることなく死去したため、天井の板張りや壁、正面入口が未完成のまま現在に至っているそうです。
857の畳を敷けることから、通称『千畳閣』よばれています。
途中で、とてもいい匂いがしてきました。
名物焼き牡蠣を、売っている売店がたくさん軒を連ねています。
帰路に着きかねたとき、平舞台で能舞が始まりました。
戻るわけにも行かないので、望遠でちょっと撮ってみましたので雰囲気だけ味わってください。
伝統の能舞なので、歴史の重みを感じさせてくれますね。
だいぶ、見て周り足も疲れてきたので、そろそろ帰ることにします。
次回が最終回になります。
続く......................................。
橋を渡ると、また歴史のある神社に出会いましたが、メモを取らなかったので説明なしです。
境内の中央に立派な松がありましたので、いったん後ろに下がり、なんとか全体を写真にできました。
後白河法皇が1174年に厳島神社を参拝した際に、植えられたとされるる老木が本社の裏側に横たわっています。
後白河法皇は鳥羽天皇の第四皇子として生まれながら、継承争いに勝利し即位しました。
上皇になっても、院政をしき30年以上も朝廷政治を治め、平家と源氏の争いの時代の朝廷を維持した権力者のようです。
後白河法皇は平家の隆盛が極まると、平の清盛をも疎んじるようになり、後白河法皇の第二子の以仁王を利用し、源氏による平氏の追討の令旨をだし、その結果平氏の滅亡につながったようです。
写真の御行幸松は1174年のものと書いてありました。
海の見えるところ、必ず大鳥居が見えるように建物が配置されているのが嬉しいです。
五重塔は重要文化財で、1407年建立で、高さ29.3mです。
建物の形式は禅宗様(ぜんしゅうよう)と和様(わよう)を加えた様式で、禅宗様の屋根軒先の反りと、入口の板扉(和様)の折中になっています。
説明板によると、1868年の神仏分離令により、塔内の仏像は大願寺に移し、建物は厳島神社が維持管理するようになったと云われています。
こちらの建物は、『千畳閣』とよばれている豊臣秀吉が建立した入母屋造の大経堂です。
秀吉がその完成を見ることなく死去したため、天井の板張りや壁、正面入口が未完成のまま現在に至っているそうです。
857の畳を敷けることから、通称『千畳閣』よばれています。
途中で、とてもいい匂いがしてきました。
名物焼き牡蠣を、売っている売店がたくさん軒を連ねています。
帰路に着きかねたとき、平舞台で能舞が始まりました。
戻るわけにも行かないので、望遠でちょっと撮ってみましたので雰囲気だけ味わってください。
伝統の能舞なので、歴史の重みを感じさせてくれますね。
だいぶ、見て周り足も疲れてきたので、そろそろ帰ることにします。
次回が最終回になります。
続く......................................。