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TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その5

2017年09月20日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
横浜開港資料館(旧英国総領事館)の開港広場側の通用門より入ってみます。



旧英国総領事館の建物は、 平成19年(2007年)に経済産業省「近代化産業遺産」に指定されました。
テラスが付いた優雅な雰囲気で、手摺子で囲まれ、ドア左右の壁に明り取りが造られています。



建物の周りを回ってみます。
こちらは正面玄関の裏手になります。
1階の中心部分が出窓風に張り出していて、その上がバルコニーのようです。
地下室への階段が右手前にあり、左右対称なので反対側にもありました。



もともと英国総領事館として、1931年(昭和6年)年に建てられました。
英国工務省が設計し、資材すべてを英国から取り寄せて建築したそうです。
鉄筋コンクリート造の3階建てで、一部地階が付いています。
屋根は銅板葺で、石造の外観を持っている古典様式の建物です。



日本大通側から見た西の通用口です。
1階と2階の天井は高く、3階は天井が低いのは、1階と2階を主要階として、3階は屋根裏階であったようです。



中に入ってみると、壁の高い位置までスクラッチタイルがはられ、シンプルですが重厚感を持たせています。



中庭に回ると、正面入り口横に日本最初の近代水道「獅子頭共用栓」の複製と、昔の道路側溝であるブラフ溝が展示されています。





開国、開港と続き、1858年に日米修好通商条約が締結されました。
これにより函館、新潟、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎の5港が新たに開港されました。
その後オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも通商条約を結び、横浜村が一気に変貌を遂げた様子を描かれたものが展示されています。



続く.......................................................

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その4

2017年09月19日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
横浜開港資料館の前の広場は現代的なデザインで綺麗に整備されています。



明治10年代に築造されたレンガ造りマンホールと下水道です。
横浜開港後、幕府が外国人居留地の造成工事を行ないましたが、生活様式の異なる外国人から苦情が出ました。
当時の上部開放型の水路式下水は不評で、石造卵形管を地中に埋めるように計画書が提出され、近代下水と呼ばれる下水道が敷設されました。



文部省では平成10年に、これを「旧横浜居留地煉瓦造下水道マンホール」の名称で文化財登録原簿に登録し、文化財として保護することを決めました。
その後、開港広場の造成工事の際にも、煉瓦造のマンホールが発見されています。



横浜開港資料館は、横浜開港百年を記念して実施された横浜市史編集事業の資料を基礎に、昭和56年(1981年)の開港記念日に開館しました。



入り口の左側に大砲が置かれています。
明治期に製造された鋳鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東インド会社の船の備砲だったそうです。



外国人居留地90番地(現山下町90番地)に、生糸の輸出と時計の輸入に従事していたスイスの商社があり、明治維新の際の戊辰戦争中は武器の輸入もしていたそうです。
昭和34年、同社跡地で建物の基礎工事中に大砲が見つかり、掘り出され展示されていましたが、平成15年に横浜市に寄贈されたそうです。



入り口左側の横浜開港資料館の敷地内に、旧守衛室を使用した海外の片田舎にありそうな雰囲気のカフェがあります。



横浜開港資料館は旧イギリス総領事館(横浜市指定文化財)でした。



昭和6年に建てられた邸館風建築で昭和47年まで英国総領事館が業務を行なっていました。
昭和56年からは横浜開港資料館(旧館)として公開されています。



続く................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その3

2017年09月18日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
象の鼻防波堤越しに大桟橋が臨めます。



この写真だと分かりやすいと思いますが、大さん橋の付け根から、左手方向へ延びているのが象の鼻と呼ばれる防波堤です。
2009年(平成21年)に明治期の防波堤が復元され、象の鼻パークとして開園しました。



明治期の象の鼻防波堤です。
まっすぐ沖へ伸びているのが東波止場(イギリス波止場)で、象の鼻の前身の波止場が西波止場(税関波止場)でした。
2本の突堤が幕府によって建設され、横浜港が開港しました。
1867年(慶応3年) 西波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、その形状から象の鼻と呼ばれるようになります。



現在の大さん橋の前身は、1894年(明治27年)に完成した鉄桟橋です。
明治の末頃から1970年頃までは『メリケン波止場』とも呼ばれていました。
2002年(平成14年)に完成した現在の大さん橋は構造的には“桟橋”ではなく“岸壁”なので、平仮名混じりの「大さん橋」が正式な表記となりました。



大さん橋へ向かう道路と山下公園に向かう道路の角に建つ『シルクセンター』です。
横浜が開港後、多くの外国の船が来航し、横浜居留地には多くの外国人商社が居を構え、日本人商社も設立されました。
それらの商社を通じ、横浜港の貿易は大きく発展し、開港から昭和の初めまで、貿易の輸出品の多くが、生糸でした。
日本全国から横浜へ運ばれ、1909年には、日本は中国を抜いて世界一の生糸輸出国になりました。
こうして、日本の蚕糸業は、日本の経済を支え、近代化に大きく寄与したのです。



そして、シルクの街・横浜からは、日本の各地に外国文化が波及していきました。
シルクセンターの対角に建つ、横浜貿易協会です。
建物は1929年(昭和4年)築で、設計・施工は大倉土木(今の大成建設)です。
創立以来、一世紀に渡り横浜市内を中心に日本の貿易及び関連事業にかかわる活動を展開しています。
同じ建物の中に、45年近くの歴史がある、情緒あふれる横浜を感じられる老舗の北欧料理店、スカンディヤ (SCANDIA)があります。



シルクセンターの前にある横浜開港資料館へ向かいます。



資料館前の広場に建つモニュメントです。
この場所でアメリカ側全権を持つ、M・C・ペリー(東インド艦隊司令長官)と『日米和親条約(神奈川条約)』が1854年に調印されました。



ただこの時点では、横浜(神奈川)の開港ではなく、条件付きで下田と、函館の2つの港のみを開くことになります。
『日米和親条約』とその後の『日米修好通商条約』については、後でもう少し触れてみます。



続く........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その2

2017年09月17日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
象の鼻パークへ向かって歩き始めて、ちょっと高くなった芝生の上(開港の丘)に横浜開港150年の記念碑があります。
2009年に開催された『開国博Y150』のマスコットキャラクター『たねまる』を御影石で復元した記念碑(高さ1.2m、幅2.7m)です。



象の鼻地区は1854年3月31日、ペリー提督が2度目の来日で初めて横浜に上陸した場所です。
『たねまる』は開港資料館にあるタマスクの木の芽が船に乗っているイメージとのことです。
後で開港資料館にも寄りますので、タマスクの木とは何か調べてみます。



記念碑の下には市民から寄せられたメッセージなどを納めたタイムカプセルが埋められ、開港200年の2059年に開けられる予定です。
こちらは記念碑の裏側ですが、こちらの方が背景がよいと思うのですけどね。



横浜市歌です。
わが日の本は島国よ 朝日かがよう海に 連りそばだつ島々なればあらゆる国より舟こそ通え ...............この横浜市歌は小学校の教育が行き届いていたのか、横浜市民のほとんどの人が歌えます。
横浜市歌は1909年(明治42年)7月1日に行われた、横浜港の開港50周年記念祝祭にて披露されて以来、市民に歌い継がれています。
作詞は森林太郎(森鴎外)、作曲は、当時東京音楽学校(現、東京藝術大学)助教授だった南能衛(よしえ)氏です。
現在も市立の小学校では、校歌とともに歌唱指導されています。
トッポパパもこの歌の作詞が森鴎外だとは、初めて知りました。



横浜の港の始まりは象の鼻地区から。それを記念して横浜開港150周年の開港記念日に象の鼻パークがオープンしました。



小泉アトリエの建築家・小泉雅生さんが『横浜の歴史と未来をつなぐ象徴的な空間~時の港~』という理念のもと、象の鼻地区の設計を手掛けました。



1859年(安政6年) 東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が幕府によって建設され、横浜港が開港しました。
1867年(慶応3年) 西波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、その形状から象の鼻と呼ばれるようになります。
象の鼻防波堤は明治中期の姿に復元され、ガス灯を模した照明灯が設置され、関東大震災で沈んだと考えられる防波堤の一部は、そのままの形で保存・復元されています。
今は、横浜港を見渡すことがで出来る、新たなビューポイントになっています。



横浜税関敷地内に敷設された手押し車両用の「鉄軌道と転車台」の跡で、象の鼻パーク整備中に発見されました。
明治20年代の後期に整備されたもので、関東大震災の瓦礫に埋もれた状態でしたが、そのため保存状態が良かったといわれています。
ガラスの蓋を通して見る事が出来ます。
明治期の遺構ですが、横浜にはこの様な遺構が多く残っているようです。



明治時代にここを走っていた手押し車輌などの向きを変える転車台の跡だと分かります。



続く...........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その1

2017年09月16日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
横浜に生まれ育ったトッポパパですが、横浜開港の歴史は断片的にしか追いかけたことがありませんでした。
久しぶりに青空が広がった9月のある日、運動不足解消もかねて、横浜市の歴史的建造物に認定されている横浜三塔を中心に散策してみます。



赤レンガの駐車場に車を停めて、秋近しと感じさせる青空の下の景色を楽しみながら歩くことにします。



ほぼ1年中イベントがあるのではと思っていた赤レンガの広場が、今日は何もなく広々としています。
逆に人混みのない、こういう赤レンガの写真が撮れるのも珍しいことです。



運河越しに横浜三塔のひとつ、横浜税関が観えます。
詳細は最後に訪問して紹介します。



以前に紹介した水陸両用バス『スカイダック横浜』です。



『スカイダック横浜』の乗り場は、日本丸メモリアルパークと横浜赤レンガ倉庫になっているので、この運河が通路(航路?)になっているようです。



大桟橋を臨むと、豪華客船『ダイアモンド・プリンセス』が寄港中です。
横浜に寄港する豪華客船はほとんど紹介しましたが、また未紹介の豪華客船の寄港がありましたら紹介したいと思います。



品川(汐留)-横浜(桜木町)を走った最初の列車の横浜駅は赤レンガの横にあり、そこよりこの橋梁越しに貨物船(引き込み線)が走り、横浜税関(象の鼻地区)伸びていました。
新港(しんこう)橋梁は大正元年(1912年)に英国系トラスを改良した、初期の国産トラスで当時の貨物線の遺構で、橋梁には旧山下臨港線の鉄路が残されています。



この角度で見る赤レンガと豪華客船のコラボ写真は初めてです。



続く...........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その214 『横浜平沼水天宮例大祭』 その5

2017年09月14日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
今年は水天宮平沼神社、御鎮座170年記念例大祭で、また5年に一度の特別な御神輿を担ぐ祭りでもあります。
祭りの最後は神輿のお宮入りです。



最初は子供神輿が登場です。
トッポパパと同じ小学校の5年、6年生が担いでいます。



この日は10基ぐらいの神輿が出ているようで、盛り上がっています。



横浜駅も近いこともあり、マンションなどが多く、その関連の神輿もあります。



以下はネット情報の抜粋です。
そもそも神輿というものは、普段は神社にいる神さまの魂がお祭の中で、その巡幸の途中で休憩したり、または宿泊する場所などへ進むに当たって、一時的に鎮まるとされる輿のことです。
平たくいうと、神様を乗せる乗り物ですね。



神輿を担ぐ理由は祭りによって様々なのですが、一般的には、神様の魂を神輿に乗せ、街中をめぐり、神様が持っている偉大な力を振りまいてその地域を清める意味があるそうです。



「輿(こし)」とは、人を乗せ人力で持ち上げて運ぶ乗り物のことで、神様が乗るので「神輿」、さらに「御」をつけて「御神輿(おみこし)」と呼ぶこともあります。



神輿をぶつけたり、水をかけたり、激しく揺さぶるのは、偉大な力を散布し、神様の力をたくさんいただけるように・・・という意味もあるそうですよ。



お神輿を担ぐ時「わっしょい!わっしょい」「エッサ!エッサ!」「セイヤ!ソイヤ!」言うかけ声をよく耳にします。
「わっしょい」の語源として、「和を背負う」つまり「わ(を)しょい」また「和一処」「和一緒意」などの説があります。
この場合の和とは日本を和(のちの大和)と呼んだ時の名残りだと考えられており、日本(大和)の団結を象徴した掛け声といわれています。



神輿の歴史は諸説あるそうですが、 平安時代になると奈良、京都などでも神輿が作られるようになります。
いわゆる村祭りなどで神輿を担ぐようになったのは室町時代と言われています。



本来は氏子が担ぐものとされていましたが、時代とともに担ぎ手の減少で、現在では助っ人の担ぎ手も多いようです。



神輿を担ぐ掛け声や笛や太鼓の音は、日本人には特別の響きがあります。
ご年配の方はお疲れのようでしたが、ご苦労様です。



お祭りが終わると、秋の気配を感じます。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その214 『横浜平沼水天宮例大祭』 その4

2017年09月13日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
氏子の神輿が平沼神社での御霊入れが行われるまで、まだ多少時間があるので焼き鳥を食べながら里神楽を見ることにしました。



神楽の知識は、お祭りの山車のお囃子程度しかないので、ネット情報で学びました。



神楽は、現在、日本全国で伝承されており、宮中で行われる御神楽と、民間で行う里神楽の2種類に大別することができますが、里神楽は、巫女、神主、山伏といった人々によって伝承されてきました。



演目は「天之返矢(あめのかえしや)」というもので、古事記に基づいたお話だとわかりました。



「天之返矢(あめのかえしや)」のあらすじは、国譲りの使いとして派遣された天若日子(あまのわかひこ)が、命令を果たして帰ってこないので、鳴女(なきめ)と云う雉(きじ)を遣わして天若日子に催促しました。
ところが、天若日子が雉を射殺してしまいます。
この射殺した天羽羽矢(あまのははや)が高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の前に落ちてきます。
高皇産霊尊は、その矢を突き返したところ、天羽羽矢が天若日子に命中したという神話の舞です。



『神楽』の起源は、日本の民俗芸能のなかでも古い起源を持っています。
本来は、神座に神を迎えて清めや祓いなどを行って、生命力の維持を祈る神事を指しますが、その神事において行われる芸能を「神楽」と呼ぶようになりました。



起源については様々な説がありますが、特に里神楽においては、古事記や日本書紀に記されている「天岩屋戸」神話のなかの天売受女尊の舞とされています。



神楽の原点は、踊ることで神を招くことのようです。



傾ける角度等によって豊かな表情を見せる『面』も見どころなのでしょう。



色彩豊かな金糸・銀糸の刺繍を施した『衣装』も、神楽の見どころです。



ネット情報の受け売りなので、説明に間違いがある場合はご容赦ください。

続く................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その214 『横浜平沼水天宮例大祭』 その3

2017年09月12日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
明治初期に神社の社格制度が制定され、平沼の鎮守様として指定村社に列せられると共に、名称も水天宮から、平沼神社と改称されましたが、一世紀以上経った今日まで水天宮様の名称で親しまれ、氏子や崇敬者からは水天宮平沼神社と称され有名となっています。



平沼神社の神輿です。
戦後、担ぎ手の不足から一時期牛で引かれていた為、牛車の上に置かれています。
現在では、記念事業が行われた年に担がれ、例大祭(9月3日から9月5日)の間と、大晦日から初水天宮(1月5日)までの間のみ、一般公開されています。



暗くなり始めると、あちこちで宴会の準備で屋台も忙しくなります。



例年ここに露店を出しているような、名物焼き鳥屋さんです。



トッポパパも30分並んで、やっと買うことができました。



みなさん10本20本と買うので焼き手も大忙しです。



これだけ並んでいるのを見ると、一番人気のお店なのでしょう。



こちらのたこ焼き屋も、負けず劣らず長蛇の列でした。



お面とか光る魔法の棒?などが売られていますが、以前は誰が買うんだろうと思っていましたが...............
二日間で孫に両方とも買わされました。



夜のお祭はとても雰囲気があります。 



続く..........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その214 『横浜平沼水天宮例大祭』 その2

2017年09月11日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
日が沈みかけると、多くの人が集まりお祭り気分が盛り上がってきました。



露店も忙しくなってきました。



金魚すくいも相変わらず人気です。
孫が2匹ゲットして、トッポ家の水槽もだんだん賑やかになります。



露店も200m近く並び、焼きそば・お好み焼き・じゃがバター・とうもろこし・とり皮焼き・ホルモン焼き・りんご飴等など勢揃いです。



水天宮境内では神楽の舞台で、軽快な音が響き始めした。



学生さんの和太鼓の演技です。





水天宮の世話人も忙し装です。



中学生だと思いますが、テンポ良い軽快な響きに拍手喝采です。



昔の村祭りのような雰囲気で、楽しいお祭りです。



続く.........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その214 『横浜平沼水天宮例大祭』 その1

2017年09月10日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
トッポ家の近くの横浜水天宮平沼神社で例大祭が9月3-5日に開催されました。
結構にぎやかなお祭りだと聞き、久しぶりに訪問しました。
混雑するようなので開催される前に、水天宮の写真を先に撮りました。
鳥居は昭和9年に皇太子殿下(現在の天皇陛下)御降誕奉祝記念事業として建てられた石製の鳥居です。
紹介は水天宮のオフィシャルサイトの引用です。



大正2年に建てられ拝殿です。
水天宮平沼神社は、横浜市の表玄関、横浜駅東口一帯の高島町(現在は一部みなとみらい)、平沼町、西平沼町、緑町(現在は一部みなとみらい)の氏神様として、天保10年、平沼新田を開拓された平沼九兵衛翁が新田の守護神としてお祀りし創建されました。
また横浜市街地の神社で、関東大震災と横浜大空襲の2つの大難を免れた事は、極めて稀でした。



社伝に依れば当時、平沼新田は塩田で有り、塩田作業中の村人が、入江に流れついた祠を見つけ、沖に返そうとすれども祠は何度となく岸に戻ってくるので、九兵衛翁に、その事を伝えると、九兵衛翁は、守護神が無いこの地に祀れとの神様の御啓示であろうと感謝し、岸に上げて平沼新田の守護神としてお祀りしました。
祠の内には、九州久留米の水天宮様の御神札が祀られていたので、水天宮と称し、安産・水の神様として氏子を始め広く横浜村の人々に、横浜の水天宮様として崇敬されました。



さほど広くはない境内ですが、境内に平沼稲荷神社、稲荷神社、竈三柱神社、平沼天満宮があります。
比較的新しい水天さんです。



お参りをする前に、こちらで手口を清める手水舎です。



竈三柱神社です。
火、竈の神様をお祀りし、火伏せ・災除け・家を守護する神様としてお祀りされ、荒神様と呼ばれています。
右に観えるのが、天満宮で京都の北野天満宮の神様をお祀りし、学問向上・芸道上達・雷除けの神様としてお祀りされ、天神様と呼ばれています。



水天宮なので、河童の石像です。



伏見稲荷の神様をお祀りしている稲荷神社です。
五穀豊穣・商売繁盛の神様としてお祀りされ、崇敬され、お稲荷様と呼ばれています。



神楽殿です。
例大祭中は里神楽他いろいろな催し物があるようです。



続く................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その213 『横浜市電保存館』 その4

2017年09月09日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
これだけ市電が並んでいると嬉しくなります。



線路の分岐器とレール運搬用台車です。



関東大震災直後の馬車道付近です。
不安解消は市電の復興からだと、市電の復興活動が行なわれ、一ヶ月後に路面電車は再開しました。



故吉村栄氏の吉村コレクションが、展示されています。
40年かけて制作、収集された鉄道模型の一部を展示しています。



ジオラマも展示されていました。



横浜の街を背景に地下鉄、私鉄、JRの車両が縦横に走っています。



昭和30年代の横浜を背景に市電の模型車両も走っています。



運転ショーを見たり、自分で運転したりして楽しめます。



暑気のころのMM21です。



市電シュミレーターがあり、画面を見ながら実際の運転感覚で楽しめます。



平日で混雑はありませんでしたので、子供に帰って遊んでいる爺、婆でした。



横浜に生まれ育ったので、訪問してよかったと思いました。
次回は近所の秋祭り!の紹介です。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その213 『横浜市電保存館』 その3

2017年09月08日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
チンチン電車と呼ばれた市電は、横浜市が運営していた路面電車です。
正式名称は、横浜市営電車で1904年(明治37年)から1972年(昭和47年)まで、横浜市中心部をメインに運行されていました。
1000型は初のボギー車で、震災復興事業として20両購入されました。
後期は自動ドアに改造されました。



戦時中は女性運転手も多かったのですね。



1100型は新式中型ボギー車で、その後ロマンスシートとつり革も用意されました。



戦中、戦後は、かかすことのできない市民の足でした。
子供のころ、母につれらて出かけたことを覚えています。



駅名標識も残されています。



鉄道車両やトローリーバスに用いられた集電装置で、パンタグラフと呼称で呼ばれました。



1600型の最大の特徴は昇降口が4枚折り戸になっていました。
ただ、中扉が嫌われたのか車歴が若いにもかかわらず、廃止まで生き残れなかったそうです。



昔は、ビールといえばキリンだったように思います。
キリンレモンと三ツ矢サイダーが子供のころ、夏の贅沢な飲み物でした。
親父が晩酌で飲んでいました。



しかし、その後日本は自動車交通の時代へと移り変わりました。
道路は自動車で溢れ、それとともに路面電車の利用者が減少し、路線は年々廃止されることとなり、ついに1972(昭和47)年3月31日、横浜の路面電車は最後の運行を迎えました。



続く....................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その213 『横浜市電保存館』 その2

2017年09月07日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
展示されている最も古い車両は500型車両です。
車両は中に乗り込むことも許可されているので、中に入ってみます。



500型は関東大震災の復興事業の一環として昭和3年に60輛が製造された車輛です。
木製の床を踏みしめるとギシギシと音がしますが、歴史を感じさせてくれます。
運転席の床面にあるボタンを踏むと、チンチンと軽やかな金属音が鳴り響くことから、『チンチン電車』と呼ばれるようです。



ソファの端にある丸みの帯びた手すりは、工芸品のような手彫りで手触りの感触がいいです。



度重なるニス塗りが重厚感を醸し出し、電球カバーもいい感じです。



現在走っていたら、レトロ調の市電として人気がでそうです。
 


初代横浜駅です。
明治5年(1872)に開業した初代・横浜駅は現在の桜木町駅の所にありました。
造りは木骨石張りの2階建てで、中央がコンコース、左棟が出札所、上・中等待合室、2階に貴賓室、事務所などがありました。
当時は横浜港と並び日本の表玄関であり、文明開化日本の象徴でした。



二代目横浜駅です。
大正5年(1916)、現在の横浜駅と桜木町の中間にある高島町に開業しました。
しかし関東大震災で焼失してしまいました。



昭和3年(1928)の完成時には東洋一を誇った3代目横浜駅です。



トッポパパが大学生の頃、横浜駅の前の広場を歩き、市電を利用した記憶があります。



続く.............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その213 『横浜市電保存館』 その1

2017年09月06日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
『ちんちん電車』の愛称で親しまれた市電が保存展示されている『横浜市電保存館』を訪問しました。



正面入り口です。



入り口を入るとすぐ、市電運転台写真撮影コーナーがあります。
早朝で訪問客がまだ少なかったので、ちょっと記念撮影です。



横浜の歴史を示す展示がありました。
江戸時代の、まだ新田開発(埋め立て)始まる前の横浜です。



遠浅の砂州に囲まれた、小さな村だったようです。



江戸時代後期、ペリー率いる黒船の来航に因り、鎖国が解かれ、開港とともに横浜が大きく変貌していきます。



明治初期のバードビューの想像図のようです。
品川ー横浜(桜木町)間の汽車も描かれていますので、現在の横浜の基礎がわかります。



横浜の埋め立ての歴史です。
トッポ家は横浜と桜木町に挟まれた右上の最初の新田開発地域の下部分にあたるようです。
こうしてみると、現在のMM21はすべて埋立地だとわかります。
大桟橋ふ頭と山下ふ頭の間の、細長い埋め立て地は関東大震災後の復興期に、市内の瓦礫でつくられた山下公園です。



市電のジオラマです。



駅名表示灯に懐かしさを覚えます。



横浜市電は、明治37(1904)年から昭和47(1972)年まで約70年間にわたって“ちんちん電車”の愛称で親しまれ、横浜市民の足として活躍しました。



7両の市電車両、停留所標識、敷石を当時の姿で保存されています。



続く........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その212 『保土ヶ谷キャンドルナイト』 その3

2017年09月05日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
数千のキャンドルが灯り、幻想的な空間がひろがります。





池に設けられた篝火が揺れ、雰囲気を盛りあげます。





見ることはできませんでしたが、笛をはじめ日本に古くから伝わる楽器を使った若手実力派ミュージシャンによるライブも行われました。





高層ビルに囲まれたキャンドルナイトより、森の中のほうが静けさもあり雰囲気がよかったです。





装飾を施した灯りは輝く花のようです。



それでは保土谷公園よりお別れです。