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TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その219 『横浜、馬車道散歩』 その6

2017年11月13日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
横浜の人は馬車道周辺も含め『関内』と呼びます。
もちろん、関内駅もあるからなのでしょうが、関内という呼び方の由来が紹介されていました。
横浜は言わずと知れた開港の街で、馬車道を含め、その開港場があった区域が『関内』です。



『関』は関門を意味しています。
開港場にあたる関門の内側(港側)が『関内』で、外側が『関外』と呼ばれました。
この『関内』と『関外』を分ける境目が、馬車道と伊勢佐木町の間にある吉田橋です。
吉田橋にある史蹟です。



吉田橋は、日本初めての鉄の橋とされています。
設計は、横浜公園にある胸像で紹介したリチャード・ブラントンです。



馬車道祭りでは馬とのふれあいコーナーもありました。



ポニーとの触れ合いは、子供たちに人気がありました。



歩道上に期間限定のワゴンセール「馬車道マルシェ」が開催されています。
マルシェとはフランス語で「市場」のことです。



馬車道に並行する道路上にある『馬車道十番館』です。
明治時代の西洋館を再現した赤レンガの洋館、馬車道十番館は、横浜を代表する老舗喫茶店です。
5階建ての馬車道十番館は、1階が喫茶室、2階が酒場、3階がグリル、4階と5階が宴会場になっています。



『馬車道十番館』の入口の横に、『牛馬飲水』と書かれた、昔の学校の水飲み場のようなものがあります。
大正時代は、陸上交通の主力は牛馬で、道路脇には給水のための牛馬飲水槽が設けられいて、ここの牛馬飲水槽は磯子区八幡橋際にあったものを移設したものです。



ここにもトッポが登場です。
馬車道通り沿いの横浜歴史博物館の前にも、『牛馬飲水』がありますが、あちらはレプリカのようです。



10年前のトッポの写真ですが、トッポパパがいつも写真を撮るので、カメラ目線は慣れたものでした。



『馬車道十番館』は、明治の先覚者でガス事業の創始者でもある高島嘉右衛門家の旧跡に当たります。
横浜開港の頃、海岸沿いに建てられた外国の商館は「一番館」「二番館」・・と呼ばれていました。
山手十番館は母体である、次回に紹介する『勝烈庵』の十番目の店として明治100年を記念して建てられたものです。
その後、「横浜十番館」として独立、馬車道十番館、別館馬車道十番館などを開館し、現在に至っています。



続く.....................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その219 『横浜、馬車道散歩』 その5

2017年11月12日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
馬車道周辺は旧居留地でしたので、多くの歴史的建造物が残っています。
馬車道通りの中ほどに、『横浜正金銀行 本店本館』が威風堂々と建っています。



横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう)は、かつて存在した日本の特殊銀行です。
貿易の増進や金融の円滑化を目的として建設された金融機関で、1880年(明治13年)に開設された国立銀行条例準拠の銀行で、外国為替システムが未確立だった当時、日本の不利益を軽減するよう現金(正金)で貿易決済を行なうことを主な業務としていました。



当時の輸出品は生糸や茶が代表的なもので、一方、輸入品は綿織物や毛織物が主体でした。
取引は外国・日本の商人の間で行われていたが、これが中々円滑に進まず、福沢諭吉や大隈重信らの援助を得て国立銀行条例に従い、代表者を中村道太が務め、この横浜の地で開業となったそうです。
トッポも石碑の前で写真を撮っていました。



横浜正金銀行の建物は明治33年着工し、明治37年に完成した石造三階建でした。
関東大震災で被災したドームを復原し、一部を増築、改修して、現在県立博物館として使用しています。



明治時代の馬車道の写真にも、ドームが写りこんでいます。



横浜正金銀行は日露戦争では戦費調達のため外債の発行に尽力、その後、中国大陸への資本輸出に積極的に関与して支店を拡大し、太平洋戦争が始まると国家的金融機関として日本の勢力圏内での金融の中心となり、東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身とされています。



明治30年代における代表的洋風建築で、重厚な外観は現在も健在です。
建物の外壁を花崗岩で化粧し、コリント式の柱をめぐらせ、高さは16.5m、ドームの尖頭までは約36mあります。
1969年に重要文化財、1995年に国史跡に指定されています。



ZAQ(ザック)と書かれた、ケーブルテレビ局のマスコットです。
マシュマロのような顔にZAQのロゴがあり、ZとQが目、Aが口を表わしています。
生態は、お客様がインターネットを楽しむためなら、なんでもやる! 人なつっこいキャラクターです。



JRAのマスコットキャラクターのターフィーです。
マリンルックのターフィーはここでしか見られず、子供たちの人気者でした。



トッポパパもついでに記念撮影です。



続く.................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その219 『横浜、馬車道散歩』 その4

2017年11月11日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
人力車にハットをかぶり、正装の紳士が人力車に乗ります。



洋装の貴婦人や袴姿の人たちも多くいます。



鹿鳴館時代の衣装なのでしょうか、案内係の女性もハイカラさんです。



1869年(明治2年)、町田房造が開業した氷水店で売り出した『あいすくりん』の記念碑です。
『太陽の母子像』は本郷新の作です。
制作を依頼された本郷は、「太陽の母子」をアイスクリームの原料ミルクから連想して、母乳で子どもを育む「母」のイメージで制作したそうです。



台座に建碑の由来が記されています。
アイスクリームは、『あいすくりん』という名で売られたのが始まりといわれています。
日本アイスクリーム協会は、1964(昭和39)年この先駆者、町田房造(まちだふさぞう)を称えて毎年5月9日を「アイスクリームデー」と制定しました。



トッポのこんな写真もありました。
当時、アイスクリームは日本人にはなじみがなく、外国人が食べてるのを遠くで見ているだけだったそうです。
初めて日本にアイスクリームの文明開化の波が来たのは遺米使節一行が横浜を船出したときだとのネット情報です。
その時の柳川当清による日記に「珍しきものあり。氷を色々に染め、物の形を作り、是を出す。味は至って甘く、口中に入るるに忽ち溶けて、誠に美味なり。之をアイスクリンといふ」と記してあります。



時代屋は浅草などで人力車などを走らせているのは知っていましたが、浅草の開業以前に横浜で10年ほど注文があったときに人力車を走らせていたそうです。



時代屋の人力車商売はご主人の学生時代からの強い思いで、はじめは横浜で10年ほど、1996年に浅草に移って本格的に観光人力車をはじめ、浅草では草分けの存在です。



馬車道にちなんで、絵師による馬の絵を目の前で描く即売も人気がありました。



続く............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その219 『横浜、馬車道散歩』 その3

2017年11月10日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
児玉慎憲の作品で高さ6mステンレスのモニュメント、『浜の時守』です。



一番上に時計が付いています。



横浜観光親善大使も鹿鳴館時代の衣装をまとい、人力車で応援です。



馬車や人力車は、文明開化の雰囲気が再現されています。
当時の人々は初めて見るその光景に驚き、「異人馬車」という呼び方をしてその姿を珍しがったそうです。



路上にも馬車をイメージしたデザインが敷かれています。



無料ということもあり、大勢の人が体験乗車するので、人力車の車夫も大忙しです。



『下岡蓮杖翁顕彰碑』です。
下岡蓮杖は長崎の上野彦馬とともに日本の商業写真師の草分けとして知られています。
下岡蓮杖は伊豆の下田に生まれており、開港後に下田に着任したハリスの給仕となり、オランダ人通訳ヒュースケンから写真を学んだそうです。



下岡が横浜に写真館を開いたのは、1862年(文久2年)頃です。
下岡は当時の東京や横浜の風景を撮影した写真を残しており、それらは重要な歴史資料となっています。



県立歴史博物館のキャラクター『パンチの守(かみ)』です。
顔が大きな『パンチの守』は、150年前に生まれた諷刺誌『ジャパン・パンチ』のキャラクターです。



『ジャパン・パンチ』の作者はイギリス生まれの画家、チャールズワーグマンです。
1861年に来日し、1891年に亡くなるまで、ずっと横浜に暮らしていました。
ワーグマンの仕事は、日本の絵を描き文章を書くことで、ヨーロッパの人たちに日本のことを知らせるために来日したそうです。



続く..........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その219 『横浜、馬車道散歩』 その2

2017年11月09日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
『馬車道』散策していると、あちこちに「馬」を発見することができます。
街灯のポールは馬車の車輪が組み合わさったデザインです。



車道と歩道の境目に置かれたポールは馬の彫像です。



トッポも記念撮影をしていました。



いい顔をしているお馬さんです。



馬車に乗るのは貴重な経験で、無料ということもあり、乗り場は長蛇の列でした。



路面には馬車のタイル画が埋め込まれています。



当時の正装のようですが、貸衣装もあり、お洒落して馬車に乗る人もいます。



人力車も今日は主役です。



1867年(慶応3年)頃、開港場・横浜の馬車道では、美しい景観づくりのため、各商店により柳と松の街路樹が植えられ、近代的街路樹発祥の地とされています。



150周年記念のお祭りなので、多くの出店が並んでいます。



続く.....................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その219 『横浜、馬車道散歩』 その1

2017年11月08日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
ここ数ヶ月横浜の歴史を訪ねてみようと、いろいろな場所を散策しています。
今回は通称『馬車道』を訪ねてみました。
ちょうど『馬車道』の150周年記念の「馬車道祭り」が開催されていました。



1859年(安政6年)に開港場となって以来、横浜は西洋文化の玄関口となり、馬車道を起点にして全国に拡がったものが数多くあります。



このブログの主人公である愛犬トッポも、虹の橋を渡って3年近くなります。
10年ほど前に、一緒に馬車道を散歩したこともあり、昔を偲んで当時の写真を合わせて紹介します。
 


「馬車道まつり」のおかげで、本物の馬車や人力車が走るところを見ることができました。
馬車道は、関門のある吉田橋と、横浜港に面した居留地を結ぶ道として開かれました。



馬車道の由来は、万国橋付近に船が停泊し荷物や人々を馬車などが、吉田橋付近まで運んでいたことから馬車道通りとなりました。
1869年(明治初年)には下岡蓮杖ら日本人商人の共同出資によって東京横浜間の日本初の乗合馬車の営業が始まりました。



江戸時代が終わり、新しい文明開化を迎えた日本、特に横浜はとてつもないスピードで西洋文化を受け入れて発展していきました。
その影響を強く受けたのも馬車道周辺です。



近代日本の夜道をいち早く明るく照らしたのが馬車道の『ガス灯』です。
明治の終わりごろには一旦姿を消してしまいますが、ガス灯がはじめて点った歴史を大切にし、往時のような街並みを保存し、馬車道通の81基ある街灯は、電気ではなくすべて本物のガス灯です。



1872年(明治5年)、十数基のガス灯が大江橋から、馬車道、元町通りにかけて灯されました。
世界で最初のガス灯がロンドンで点いてから60年後のことで、これが日本のガス事業のはじまりでもありました。



トッポパパが10年ほど前に、ロンドンのピカデリーサーカスを訪問した時の写真ですが、同じような『ガス灯』を見ることができます。
当時はガス灯点火夫という専門の係が1本ずつ火をつけて回ったそうです。



現在は自動で点灯し、夕暮れ時になると60基ものガス灯が一斉に馬車道を明るく照らします。
こちらはロンドンにある国会議事堂の『ガス灯』のレプリカのようです。



続く..........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その218 『元町、山下公園周辺散歩』 その9

2017年11月06日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
山下公園通りは開港広場前から山下橋まで、その名の通り山下公園に沿っています。
山下公園通りは見事なイチョウ並木でも知られています、見頃は中旬以降かな?



海沿いの公園なので、夏は涼を求めに訪問したりしますが、晩秋の並木もまた魅力的です。



横浜の中心地として発展し、港町の歴史と文化を今に伝える山下公園通り周辺には歴史を伝えるいろいろなものがあります。



ここは、かつて外国人居留地の一番地で、イギリス人の設立した「ジャーディン・マセソン商会」のあった場所です。
『英一番館』の通称で知られています。
ここシルクセンター前の絹を纏っている銅像は、『絹と女』という題材で、養蚕に欠かせない桑の葉に囲まれています。
作者は、彫刻家の安田周三郎さんという方で、オノ・ヨーコの伯父さんにあたるそうです。



碑文
『安政6年6月2日(1859.7.1)横浜が開港した。イギリス人ウイリァム・ケスウィックは、開港と同時に帆船で横浜に来航し、居留地一番館において貿易を始めた。この建物は、ジャーディン・マセソン商会と称したが、当時の人々が『英一番館』と呼んでいたのは、この地点である。』
一番館があった場所だけに、この地の住所が山下町一番地です。



ここ『日本大通り』もイチョウ並木で有名です。



1870年(明治3年)に横浜公園と象の鼻波止場を結ぶ街路が完成し、1875年に『日本大通り』と名付けられました。
イギリス人建築家リチャード・ブラントンの設計により、1870年(明治3年)に日本初の西洋式街路としてほぼ完成しました。
当時は歩道3m、植樹帯9mを含む36mの幅員を持ち、横浜のメインストリートの役割を果たしました。



横浜公園の入り口近くに、リチャード・ブラントンの胸像が建っています。
リチャード・ブラントンは横浜公園、日本大通りの他、日本沿岸各地に灯台を建設しました。



横浜の近代的な町づくりに大きな足跡を残した建築家でした。



最後に、横浜スタジアムです。
今年は最後まで頑張り、もしかしら日本一か!と思わせてくれた、大活躍のDeNAベイズターズでした。



次回は馬車道を散策予定です。


トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その218 『元町、山下公園周辺散歩』 その8

2017年11月05日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
山下公園からMM21を臨みます。
台風の影響で、以前はトライアスロンの水泳競技が行われたきれいな湾内が汚れているのが気になりました。



シーバス乗り場もハロウィン飾りです。
最近は、ここからシーバスで横浜駅に向かう人が多くなったそうです。



氷川丸も白灯台も青空に映えています。



山下公園のバラ園越しの氷川丸です。



春ほどではないですが、秋にも結構きれいにバラが咲いていました。





いつものマリンタワーです。



山下通りのイチョウも場所によっては、きれいに色づいています。



11月中旬になれば、黄金色のイチョウ並木になるでしょう。



続く.........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その218 『元町、山下公園周辺散歩』 その7

2017年11月04日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
以前にも紹介した、『世界の広場』です。



羅針盤をイメージしてつくられたという世界の広場は、中央の噴水を中心に6つの大陸へのびる道がデザインされています。



『世界の広場』は山下公園につくられた大規模駐車場の上を公園として再整備した広場です。
羅針盤をイメージし、そこにある5つの道から周囲の緑の大海へ航海するイメージの都市型のファンタジーな公園です。



バルセロナにあるガウディのグエル公園を想わせる水の階段を下りていくと、ここにも色々な海洋生物のモザイクタイル画があります。



こちらはエビのモザイクタイル画です。



カニが睨みを効かせています。



普段は水が流れているので、わかりにくかったのですが、魚もデザインされています。



水は「世界の広場」から「石のステージ」まで芸術的な装飾による階段を流れていきます。



日本初の臨海公園として、昭和5年にオープンした山下公園は、横浜が開港された時の歴史を物語る記念蔵や記念碑も多く建てられています。



続く............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その218 『元町、山下公園周辺散歩』 その6

2017年11月03日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
元町商店街を出て、すぐ左側の植え込みの中に、J.Cヘボンの石碑が建っています。
ヘボンは開港直後に来日した米国の宣教師で、日本初の和英辞典「和英語林集成」を出版し、この辞典に使われているローマ字表記が「ヘボン式」の元になったといわれています。
来日当時、日本ではキリスト教は禁止されていたので、布教より先に、本業である診療を始めました。
成仏寺の近くに宗興寺という場所を見つけ、診療所を開設し、本格的に病気の患者を診はじめました。



碑文概略
へボン博士は1859年アメリカ合衆国より来日し、横浜居留地最初の居住者の一人です。
この地に施療伝道所を設け欧米医術を導入する傍ら、へボン式ローマ字による和英語林集成の聖書の翻訳など日本文化の開拓に携わりました。
また1887年(明治20年)、明治学院の創始者で、明治学院初代総理に就任しました。



元町から山下公園へ向かいます。
途中階段を上り、ポーリン橋と呼ばれる陸橋を歩いていくと右側に『横浜人形の家』があります。



横浜人形の家の入り口の前で、出迎えてくれる人形たちです。
国内唯一の人形の博物館は、約1万点以上の人形を収蔵し、日本人形はもちろん、世界141の国と地域の人形が約3500体近く展示されています。



横浜人形の家を過ぎると、すぐ左に、青い目の人形、「ポーリン」の銅像があります。
年配の人は知っていると思いますが、青い目の人形の歌です。
青い目をした お人形は アメリカ生まれの セルロイド
    日本の港へ ついたとき いっぱい涙を うかべてた
    わたしは言葉が わからない 迷い子になったら なんとしょう
    やさしい日本の 嬢ちゃんよ 仲よく遊んで やっとくれ



昭和2年、ひな祭りにあわせて、日米の親善と平和を願う米国市民の思いを込めた13000体の青い目の人形が、はるばる太平洋を越えて横浜の港に着きました。
可愛い親善大使たちは、日本の津々浦々の小学校や幼稚園に贈られ、友好促進に尽くしました。
残念ながら戦争中は、敵国の人形ということで、ほとんどの人形は、破棄されたり処分されたと聞いています。
この人形彫刻のモデル「ポーリン」ちゃんはその中の一体で、現在も横浜市西区の西前小学校に大切に保存されています。



ポーリン橋から山下通りを臨みます。 
銀杏並木も少しずつ色づき始めてきました。



山下公園の入り口に、薔薇のアーチがかかっています。
今度は5月に見にきたいと思います。



あまり散歩したことのない広場もきれいに整備されています。
山下公園全域の清掃だけでも、大変な費用がかかっているのでしょう。



こちらから山下公園に行くと、最初が『世界の広場』になります。



続く........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その218 『元町、山下公園周辺散歩』 その5

2017年11月02日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
元町の本通りから1本入り『ウチキパン』の先に、『Peace Flower Market & Cafe』があります。
花と焼き菓子が融合したコンセプトカフェで、素朴な焼き菓子が人気です。



こちらにも大きなペットショプ『 P's- First』です。
可愛いパネル写真を撮ってみました。



タオルサロン『カラカラ』です。



色鮮やかな世界のタオルを集めたタオル専門店です



元町ショッピングストリートの歴史は、安政6年(1859年)の横浜開港当時までさかのぼります。
横浜村は日本大通りを境に、日本人商業地区と外国人居留地区への事業計画が決定されました。
その辻野『本村』を『横浜元町』に地名変更したのが元町の始まりです。
元町の居住民の大部分は当初農漁業に従事していましたが、明治7年頃になると、山手居留地に外国人が相当住むようになり、元町通りが山手の住居地と関内の業務地を結ぶ外国人の日常的な通り道になったのに伴って、外国人を対象に商売を始める者が自然発生的に増えていきました。
谷崎潤一郎の小説に『彼ら(西洋人)を相手に商いをする花屋・洋服屋・婦人帽子屋・西洋家具屋・パン屋・カフェ・キュリオシティショップなどが一杯に並んでいる』と書かれたように、エキゾチックな街を形成するに至ったのです。
まさに元町ショッピングストリートは文明開花とともに誕生したと言えます。



昭和60年(1985年)、第二期街づくりにおける元町のシンボルとして建てられたアーチです。



元町のイメージを『伝統を受け継ぎながら、常に新しく生きるフェニックス』ととらえ、『翔べ光の中へ』の意味が込められています。
アーチの高さは10.5m、その上に幅4.8m高さ2.3mのステンレス・パイプの不死鳥が羽ばたいています。



横浜を効率よく観光できる、観光周遊バス『あかいくつ』です。



続く...................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その218 『元町、山下公園周辺散歩』 その4

2017年11月01日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
元町でも、平日はのんびりショッピングができます。



女性に人気のお店『Rope』です。
トッポママはどの店も、ちょっと中に入るので、そのたびにトッポパパは外で待ちぼうけになります。



そういうときは、ペットショップを覗いています。
元町はペットも高級のようで、値段にビックリです。



子供服のお店『ファミリア』の店内にある、くまのぬいぐるみが可愛いかったです。



真ん中のお店は、お洒落なエンゲージリングで有名なジュエリーショップ『Trecenti』です。



喫茶ルノアールの入り口も、ちょっとお洒落です。



こちらは女性服のお店『Jayro』です。



元町『ウチキパン』です。
横浜のパン屋さんの中では老舗中の老舗、そして「食パン発祥」のお店です。
ネット情報では日本で最初にパンを焼いたのは、江戸時代中期に長崎の出島に来ていたポルトガル人とのことですが、彼らは自分たちだけで食べており、一般の販売などはしていなかったようです。



横浜開港当時の1862年、イギリス人のロバート・クラークが「ヨコハマ・ベーカリー」を山下町に開業します。
ウチキパンの創業者でもある打木彦太郎氏は、ロバート氏の元で修業していました。
その後、ロバート氏の引退により、彦太郎氏は1888年(明治21年)に若干24歳で「ヨコハマ・ベーカリー」の暖簾を引継ぎ、同年3月に現在の住所に開業しました。
当時は食パンは高級品のようです。
ちなみにイギリスパンは食パンの一種で、一辺が山のようになっているものです。



続く..............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その218 『元町、山下公園周辺散歩』 その3

2017年10月31日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
エレガントな『カリヨン時計』がひときわ目立つ、1964年、横浜で生まれた『CHARMY』です。
代々受け継がれ、愛される一生もののジュエリーを提供するお店として、50年を超える歴史があります。



カリヨン12鐘と、3面の塔時計です。
『カリヨン時計』は1時間毎に演奏されるそうで、♪メヌエット。♪赤い靴などの音色が流れます。



『PUPPY』は老舗の紳士服のショップで、ネクタイ、オックスフォードのシャツが有名です。



横浜元町メインストリート沿いにあり、赤いクラシックカーが店頭にはみ出しているのでわかりやすい、革専門のお店『ヒロキ』です。



革、毛皮の専門店として、レザーウェア、毛皮、バッグ、サイフ、ベルトなど、店内にいるだけでも楽しくなる幅広い商品を取り揃えています。



右端にある、年代物の瓶コーラ自販機はいまでも稼働しています。



創業が明治15年(西暦1882年)の皮製品の老舗店、元町の有名店『キタムラ』です。
優しさ、かわいらしさ、上品さをキーワードにデザイン・カラー・素材・機能性・価格などのすべてにこだわった、オリジナリティー溢れる商品を作りつづける横浜元町ブランドです。



横浜の名門女子大をイメージし、元町の老舗ブランドでコーディネートする『ハマトラ』(横浜トラディショナル)が流行りました。
キタムラのバック、アパレルのFUKUZO、靴のミハマは、ハマトラの御三家と呼ばれています。



続く...................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その218 『元町、山下公園周辺散歩』 その2

2017年10月30日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
Kent Ave. (横浜元町店) は、かつて60年代から70年代にかけて流行したアイビーファッションのお店です。
トッポパパの年代の人には、Kentと聞くと、『VAN』を連想します。
頑固にトラディッショナルなスタイルを守り続けている店のようです。



元町の雰囲気も、新しいビルが建ってくると変わってきている感じです。



あくまで個人的な意見ですが、こんな雰囲気の建物が元町には似合うと思います。



横道に変わったお店があります。
横濱馬油商店は、馬肉専門メーカーの馬油と馬さしのお店です。
元々中華街にあったお店が元町に移転したそうです。



ダイエットに嬉しい高タンパクで低脂肪の馬肉は、人気があるようです。
馬油は肌馴染みがよく無臭で、毛髪や爪の成長を促進し、皮膚を正常にする働きがあるといわれます。



ヨーロッパの一部の地域に観られる、建物みたいです。



家具のお店で、リフォームなども手掛けているお店です。



子供たちにも、あのお店の前の大きな椅子はまだありますか?とよく聞かれます。
高さはトッポパパと同じぐらいですので、170cmぐらいの高さの大きな椅子です。



1946年(昭和21年)創業以来、元町の顔の『フクゾー』です。
先代森本福蔵が、横浜元町に小さな洋品店を出し、屋号をフクゾーとしました。
以来、糸・生地・染色・裁断・縫製まで一貫したオリジナル商品を作り続けています。



続く......................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その218 『元町、山下公園周辺散歩』 その1

2017年10月29日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
台風の影響もあり、久しぶりの秋晴れです。
運動不足解消でいつものように、横浜散策です。
今回は元町、山下公園周辺を、のんびり歩いてみます。



横浜の一つの顔である元町です。
横浜ベイスターズが頑張っていますので、優勝したら盛大なパレードが催されるでしょう。



高級品のお店が多い元町ですので、ジュエリー店が数多く見られます。



平日なので、人もまばらです。



ちょっと横道に入ると、元町嚴嶋神社がありました。



元町嚴嶋神社は、商売繁盛、合格祈願、縁結びの神様でもあり、元村以来の元町の発展興隆の守護神であります。
境内には末社として金毘羅神社と当地の名主であった石川家から寄進された皇太神宮も併祀してあります。(境内の掲示より)



元町には、たくさんの珈琲店があります。
お洒落な装飾をしたお店が多く見られます。



横道へ抜ける道も、凝った作りで、夜はイルミネーションがきれいでしょう。



ハロウィンが近いので、関連した飾りがいたるところにあります。



続く..........................................................。