<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



公開前、テレビで何度もCMが流れていたので、
「見に行こうよ」
とカミさんが言うものだから、仕方がなく見に行った映画「ハウス・オブ・グッチ」。
なかなか面白い映画なのであった。

あのブランド。
「GUCCHI」一族の物語だ。

注目点はいくつもあるが要約するとブランドが持つ富と名声。
それに群がる人々。
一族の栄枯盛衰にみる人間の醜さ。
であろう。

この映画の最大の特徴はGOCCHI一族の恥ずかしい部分を臆面もなくさらけ出しているところだ。

一族のバカさ加減。
お金と性への執着。
ブランドの守り方を知らない三代目のボンボン気質。

「よーこんな映画作れたな」
と思っていたら現在のGUCCHIにはグッチ一族は一人もいないという。
そのこと一つとっても事業の一族経営の難しさと、一族で富を操作することの嫌らしさを感じずにはおけないのであった。

「ハウスオブグッチ」

レディガガの演技も見応えがあるが、アル・パチーノをアル・パチーノと気づかなかったその姿にも見応えがあった。
役者の演技に目を瞠る映画でもあったのだ。


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「EVカーって、CO2も出さないし、エコなんだ!」
と思っているあなた。
あなたはたぶん、良い人です。

電気だけで走るEV。
ガソリンも軽油も要らないので排ガスも出さないクリーンエア。
エコカーの代表。
だから脱炭素に貢献している。
というのが表向きの顔。

でもこのEVが利用する電力はどうやって作っているのか。
そこを考えておく必要があるけれども、不都合があるのかあまり伝えられることがない真実なのだ。

EVで使用する電力の殆どが石油、石炭を燃やして火力発電で生まれている。
だからEVは石油を燃やして電気に変え、それを送電したり充電したりして利用している「ロスの多い」乗り物。
決して現状は「エコな」移動手段ではない。
エコを考える場合は圧倒的に電車に軍配があがる。

しかも高性能の電池を製造するときにも大量のエネルギーを必要とするので、どこまでエコなのか理解が難しい。
燃料電池車も水素ガス自動車も水素を生成するためには大量の化石燃料が必要だ。
水素というエコクリーンな燃料を使っているからといって、それは見かけだけ。
その背景には多くの課題が堆積している。

その課題を解決できる安直な方法が原子力であることも、今は言いにくい。

再生可能エネルギーで先行していたドイツが原子力利用に大きく舵を切ったことが最近伝えられるが、理由はこのあたりにあるのかも。
原子力は二酸化炭素をほとんど出さない。
原子力はE=mc2で少ない燃料で膨大なエネルギーを生み出せる。

しかし福島原発事故で原子力には大きなリスクがあることを我々は学んだ。

でも、ことCO2削減を声高に叫んでEVを中心とするエコカー推奨を叫ぶなら、そこに原子力は欠かせない。

EVと原子力。

この組み合わせは表裏一体の不都合な真実なのだ。


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「2035年までにはすべての自動車をEV化」
とは勇気ある発言で、政府もメーカーも販売店も何を考えているのかよくわからない、ということを証明するような動画が最近Youtubeに上がっている。
ちょっと見始めたら面白いので最後まで見てしまうというものが多いのが特徴だ。

例えばEVカーで帰省をしてみた人のレポートは秀逸だった。
関東の自宅を出発して愛知県の実家までの300km少し。
この距離、かかった時間が9時間。
多くは年末年始の渋滞が影響すると思いきや、そのうちのかなりのパーセントが「充電に要した時間」だったのでたまげた。

EVカーは容量の半分を充電するのに30分程度必要という。
その半分で走行できる距離は100km少し。
テレビのCMやカタログでは走行距離が200kmを越えるようなことが書かれているが、それは自宅で数時間かけてフル充電して、渋滞も信号も無い道路を走った場合。
しかし実際の道路は渋滞もあるし信号もある。坂道もあるし、一定の速度で走ることなんかありえない。夏は冷房、冬は暖房で走る以外のエネルギーも必要なので畢竟実際に走れる距離は短くなる。
これはガソリン車でも同じだ。

問題はEVカーはエネルギーをチャージする場所が少ない上に時間がかかること。
ガソリン車は燃料が少なくなってくるとスタンドで燃料を入れるだけ。
その時間長くても5分。
ところがEVカーは半分充電するのに30分。
しかも充電スタンドが少なく、あっても先客がいると何十分、何時間も待つ必要がある。
長距離を走ると余裕が欲しいので早めに充電することになるが、それだけ停車回数も増える。

充電問題はスマホやデジカメよりも深刻だ。

スマホなら必要に応じて予備バッテリーから充電することもできる。
デジカメなら予備のバッテリーと交換することができる。

海外を旅行すると電力事情もままならないところが多い。
そのためデジカメのバッテリーを複数持ち歩き、しかも夜充電のできるホテルなどでは忘れずチャージして旅行期間中に電池切れをすることの無いように注意する。

スマホもバッテリー切れを起こさないように使用方法を考え、充電のできる新幹線や飛行機のUSB端子やコンセントがあると充電することを忘れない。

しかし、EVカーはこのようなことができない。
EVカーで予備バッテリーを引きずって走るわけにもいかなし、予備のバッテリーの積み込んで走ることもできない。
充電スタンドは数が限られ、家庭用コンセントがあっても無意味だ。

畢竟長距離を走るとなるとEVカーには様々な障壁があり、これらは容易に解決できるとは思えない。

そもそもEVカーは明治時代には登場しているが、普及しなかった理由はバッテリーの問題があったから。
いくら高性能のバッテリーが登場し始めたとはいえ充電時間が30分、自宅で8時間、などということになると簡単に使うことなどできるわけがない。

ある動画では日産リーフの実際がレポートされていたが、運転席に表示される残り電気容量と実際の容量には差があるようで信頼性はない。
短距離を走るのはままアリとして、それでも雪の中、酷暑の中は超不得意で、もし豪雪に出会ったりすると低温下でバッテリーの能力もぐんと落ちるので、場合によっては運転者の命に関わることになるのだろう。

2035年まであと13年。

バッテリーの問題は解決できるのか。

もっとも2035年には私は免許を返却している可能性が高い年齢ですけどね。


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パソコンが1人1台になり始めた頃、
「もう、紙に印刷することはなくなり複写機も減るだろう」
と言われていたが、そうならなかった。
それどころかパソコンからの印刷が増えて紙の消費量が増加した。

さらにもっと以前。

私が小中学生だった1970年代後半の頃、
「21世紀には石油が枯渇する。だからエネリギー危機がやってくる」
と言われていたが、そうならなかった。
トイレットペーパーの買い占め騒動なんかがあったものの、根拠の無いただの騒動だった。
それどころか最近は石油が余るという危機意識が産油国に出始めて生産量の制限を始めて価格維持に躍起になり始めた。

世に言っていることと、実際に起っていることが全く違う。
これではノストラダムスの大予言やハルマゲドンと同じではないか。

「二酸化炭素が増えて地球が温暖化して気候変動その他で大変なことになる」

と今騒がれている。
これも「石油がなくなる」「印刷しなくて済む」と同様。
根拠に乏しい「誰かが儲けようとしているだけの」特異なデータだけが抽出されて騒動を煽っているというのが真の姿のようだ。

二酸化炭素ビジネスを広めるためか、新型コロナ同様に中国の陰謀渦巻く作戦なのか。
数々のエビデンスが二酸化炭素による地球の温暖化はそんなに危機を持つほどのものではないことを示しているのだという。
この真実を言うことは新型コロナをインフルエンザと同じ第5類感染症にランクダウン指定することを躊躇している政府と同じようにいたって政治的で科学的ではないのだろう。

「脱炭素は嘘だらけ」を読んで、なるほどと思うところがいくつもあった。
とりわけ中国が西側諸国の世論を操作することにこの温暖化を使っているという。
そのことを考えるとグレた少女の一方的な叫びも、中途半端な完成度のEVカーの普及促進も、日本を含む旧西側民主国家の凋落も、よく理解できるのであった。

そもそも、
「石油や石炭を燃やして二酸化炭素を発生させないために、アンモニアを燃やす技術に注目が集まっている」
なんて報道を聞くと、
「二酸化炭素はだめだけど、人体にモロ有害な窒素酸化物はいいのか?」
ということになる。

脱炭素。
あなたはどう思います?


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地震報道には一定の法則がある。

「それは被害の大きさに関係なく首都圏からの距離に反比例して扱いが変化すること」

東京からの距離が大きいほど、扱いが小さくなります。

阪神大震災は地下鉄サリン事件までの3ヶ月の報道。
熊本地震は在日米軍兵士による強姦殺人までの2週間。
で、今日発生した大分地震は発生から3時間ほど。

東日本大震災はキー局のある東京も被害を受けたので10年経った今も報道中。

メディアの存在ってなんなのか?
地方の扱いを見ていると、その本質がよく分かる。


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トンガの「なんじゃらかんじゃら」という海底火山が爆発してその上に乗っかっていた島が消滅。
世界に衝撃とまではいかないまでも「ビックリ」が拡散している。
一夜で島が無くなってしまうのはB級SF映画でもないとなかなかお目にかかれない現象だ。

そこで俄に注目を浴びているのは富士山大爆発。

今朝もテレビを見ていたら「もし富士山が噴火したら」という昭和なネタが掘り返されており、
「そんなこと心配するんやったら首都を京都に戻さんかい」
などと思いながらホットコーヒーでバナナを食べていたのだった。

今回のトンガの火山噴火が他人事ではないことは日本人ならよくわかること。
日本は富士山だけではなくちらこちらに火山があって噴火するもの静かなものと千差万別である。

私の住んでいる大阪にも火山がある。
二上山という名前で大阪と奈良の県境にあり、その裾野には河内飛鳥や大和葛城など日本の歴史がスタートした地点が点在する。
山の頂上には天智天皇のお孫さんにあたる大津皇子の墓陵もあり山として安定しているため大阪府民の多くはここが溶岩の山であることを知らないし、1000年以上何もないので知る必要もないのかもしれない。

そんなほぼ死んでいる火山などどうでもよく、実は日本人にとって最も恐ろしいのは阿蘇山が大噴火することなのだ。

学生の時に読んだ科学本(芸大生だったのになぜか科学本が好きだった)なので情報が古いかも知れないが、日本列島における最も恐ろし火山は阿蘇のカルデラ。
あそこ(洒落ではない)の地形がなぜカルデラになっているかというと、数万年前まで何度か大噴火を生じ、九州の大部分が阿蘇の火山になるということになったのだという。
噴煙、火山灰は地元九州はもちろんのこと中国・四国を埋め尽くし、関西・東海
も焼き払い、関東まで堆積することになったのだという。
今も関東の地層を掘ると場所によっては阿蘇の噴火の残滓があるとのこと。

この記事を読んだとき、ホンマかいなと少々疑ってみたけれども、実際に阿蘇にいったり海外の事例を見るにつけ、
「これはありうる。こわ〜」
となるに至ったのだ。


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昨年読んだ書籍で最も印象に残ったノンフィクション作品が「クラカトアの大噴火」だった。
1883年にインドネシアのジャワ島とスマトラ島の間にあるクラカトア火山が大噴火した。
その爆音は香港はもちろんインド洋を横断してスマトラ島でも耳にすることができ、しかも衝撃は地球を6周回ってロンドンでも気圧の変化が観測されたという。

この規模に匹敵するのだろうか。
昨日発生した南太平洋にあるトンガの火山島の大噴火で日本と米国は津波警報を発令。
日本では実際に津波が発生して太平洋沿岸のほとんどに津波が押し寄せた。
幸いなことに東日本大震災の時のような10mを超えるようなものはなく高くても2m以下なので被害もほとんどない。

問題はメカニズムがわからないことにあるという。

日本の周辺国家では潮位の変化は観測されず、なぜ日本だけで津波が発生しているのか今のところ不明なのだという。
クラカトア大噴火のときのように気圧の変化が観測されているが、それが影響しているのか。
単に大噴火だけでは説明がつかないのだという。

今回の爆音は太平洋を半分横断してニュージランドでも聞こえた。
クラカトアの時代と違って衛星写真もあるので科学的分析は大きく異るものになるに違いない。
しばらくこの分野の科学から目が離せないのだ。


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時々「これってなんやろ?」というアートに出会うことがある。
観ていてちっともその価値がわからない。
その作家が世界的に有名な人であればあるほど、何がなんだかわからなくなるのだ。

大阪中之島にある国立国際美術館で開催されていた「ボイス+パレルモ」展はまさにそういうアートの一つだった。
観ていて「凄い」と感じないこともないのだが、その何が凄いのか、自分自身でもちっともわからないというのが正直なところだ。

「おお、何の展覧会かわからないままあなたについてきたけど『ボイス』とは!パレルモって知らんけど」

とカミさん。
カミさんはフランスで学生だった頃、このボイスが頻繁に出てきて今の私と同じように、なぜフランスの教官がボイスをとりあげ学生に教鞭するのかよくわからなかったという。
フランスだけではなくヨーロッパではボイスは注目される存在だった。
本国ドイツも含めて彼は著名であり斬新であり刺激的でもあった。
今回の作品の中には彼が公衆の面前で演じるパフォーマンスのフィルムも上映されていた。
柱状のものと脂肪を使った組み立て風景のようなもの。
檻の中でコヨーテと同居(?)している様子など。
でもカミさんはコヨーテとのパフォーマンスを観て「なんで?」と感じたのだという。

作品の多くはインスタレーション、あるいは金属や木箱などを使った抽象的な作品で解説書が無いと何を言いたいのかがわからないものがほとんどなのであった。
もしかすると作品の中に書き込まれているドイツ語を読むことができる、あるいはドイツやその周辺地域の文化習慣に通じている、というのであれば理解ができやすかったのかも知れない。

「ん〜〜、学生の時に悩んだ作品群に対する総まとめ、みたいな展覧会やったかな〜。良かった。すごく。」

とカミさんは喜んでくれたのだが最も印象に残った展覧会なのであった。


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テレビを見ていたら小さな子どもが立っていて、何やらモジモジしている。
素人の子供であることは明らかで、なんとなくホンワカしたムードが伝わってくる。

「ピカピカの一年生のコマーシャルみたいやね」

と、一緒に見ていたカミさんが言った。

「ホンマやな」

と私。
その瞬間画面には、
「ピカピカの、一年生♫」
の歌が流れた。

小学館の小学一年生のCMなのであった。

なんと初々しいことか。
そしてなんと爽やかCMだろうか。
小学校入学前の子どもたちのワクワク感、ドキドキ感が伝わってきて思わずニコッとしてしまう。

ここんところ、ひどいCMが目立っていて不愉快になることが少なくない。
名作アニメ「アルプスの少女 ハイジ」を冒涜する家庭教師のトライのCM。
社員総出で制作スタッフが幹部の顔色を伺いながら作ったとしか思えない長谷工のCM。
子供が絶対言わない会社のPRをさも常識でしょみたいに子役に話させる東急リバブルのCM。
例を上げればきりが無い。

それと比べると明らかに小学館のCMのなんと爽やかなことか。
昭和のCMのリメイク。
でもそのホノボノ感がなんとも言えない内容だ。

今年も復活CM ピカピカの一年生。
昭和時代の凄さが今年も令和に輝いていると思った。


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朝のNHKニュースを見ていたら、また腹立たしいトピックが流れた。

「高校のタブレット端末一人1台、保護者の負担が都道府県で大きな差」

という。
なんでも無料で配布する自治体もあれば5万も10万円も負担させる自治体もあるという。
これって不公平だというのだ。

確かに不公平だろう。
だからと税金で無料配布せよ、という。

アホなこと言うな!
責任者出てこい!
と、私は瞬間人生幸朗になっていたのであった。

まず、高校は義務教育ではない。
それでも自治体によっては授業料は公立私学の別なく免除(例:大阪府)している。
ありがたいことではないか。
このうえさらにタブレットを無料で提供せよとはよく言えたものだ。
わがままにもほどがある。

しかも最近の高校生はほぼ全員がスマホを持っている。
スマホは自分で買ったものか、親が買い与えたものだ。

「スマホは買えるのに授業に必要なタブレットは買えないなんてありえない!」

というのが普通の感覚だ。
しかもスマホは通信費など維持費もかかり馬鹿にならない。
そのスマホ代のためにタブレットを買えないからタダでくれろとは。
自治体が無料提供するということは税金で買えと言ってるのに等しい。
私はそんな学生のためにあくせく働いているのではない。
しがない売上から税務署にむしり取られた税金を使ってそんな遊びに必要なスマホは買えて勉強に必要なタブレットは買えないという奴らのために使ってほしくなどないのだ。

それに他人にタダでもらったもので真面目に勉強をするとも思えない。
遊び道具になって、つまらないゲームのツールになるのが落ちである。
汗水たらして稼いだお金で買ってこそ価値がある。

こんな無駄金使わせることを考えてテレビを使っているのは、どこぞの宗教与党の議員と同じではないか。

ニュースを見ていると鳴門教育大学の某という教授が「等しく受けられる体制が必要だ」とか主張していた。
鳴門教育大学も国立だそうだが大阪に住んでいる私が聞いたことがない教育大。
教育大はたとえ国立大学であっても予算がまわってきにくいから、「ちょっとかき回したろか」という感覚で意地悪をしているのかもしれない。
それともこの人の頭の中では鳴門の渦潮が回っているにちがいない。

ということで、スマホ時代の高校生諸君。
タブレットは自分で買いなさい!
夏休みに10日ほどバイトしたら簡単に買える価格だ。
中古なら2日働いたら買うこともできる!


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