<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





トレバー・コックス著『コンピュータは人のように話せるか?』は人が言葉を話すようになり、それを文字に記録し、近代になって録音することが可能になり、さらにここ10年ほどでAI技術を使って人間ではないものに言葉を操らせようと試みるようになった、そんな一連の歴史を様々なテーマとともに語っている面白いサイエンス本だった。

タイトルからするとAIによる会話技術に関する専門書のようなイメージだが、それは違う。
AIに関する部分は終盤の一部だけ。
ほとんどが言葉に関する進化の歴史だ。

そもそも人類がいつ頃から言葉を操るようになったのかはよくわかっていないようだ。
このテーマ。
今まで考えたことがなかったので冒頭から展開される「言葉のはじまり」にグイッと引き込まれた。
ダーウィンは認知能力の向上が大きく関わっていると唱えた。
100年以上前のこの考えは今も変わっておらず、言葉を話すだけならオウムにでもできるということ、そこへ意味があって初めて言語ということができるのだから確かに言葉を話すことは認知の力、文法を構成するだけの知能があることの証明でもあるのは間違いない。

文字が発明されて言葉が記録されるようになって久しいが、劇的な変化はエジソンが中途半端ながら録音する装置「蓄音機」を発明したことだった。
言葉は文字だけでは伝えられない抑揚やリズム、速さなどがあり、これが感情を含む情報伝達に重要な意味を持つ。

「おはよう」

実際にこの一言でも言い方一つで元気なのか病気なのか、それとも優しいのか厳しいのかが文字だけでは表現できない。
ところがこれを録音して再生して確認することで、言葉が持つ本当の意味を表現することができる。
考えてみれば言葉を操るのは人間だけではなくイルカやある種の鳥類などは同種間で会話能力が証明されている。
その多くは抑揚や声の大きさ、リズムなどで表現されていて、例えば人間が使う文字で表現するとなるとかなり難しいのではないか。

AIが語る言葉には、この文字のみで表現する言葉と共通するものがあるように私は感じていることが少なくなかった。
AIはある程度人に通用する言葉を構成することはできるが、AI自身は言葉の概念そのものを知っているわけではなく学習した機能を「機械的に」構成しているに過ぎず、感情や空気感、物事が持つ本質的意味合いを理解しているわけではないからだ。

読みながら色々と考えを巡らすことができ、かつ今まで気がついていなかった言葉の謎について知ることができる。
そんな興味溢れる内容なのであった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先月のこと。
アメリカの2つの研究機関が
「新型コロナウィルスの最初の発生は中国武漢の市場である」
と特定したニュースが流れた。

そもそも今回の新型コロナウィルスは武漢にある中国のバイオ研究施設から漏れ出したウィルスが市場で繁殖。
新型ウィルスは研究所で行った遺伝子組み換えに伴い人工的に生み出されたもので、それが人に感染って大変な事態に陥ったというのが一般的な認識だ。

「恥は葬り去る」という伝統のある中国共産党。

このつまらない伝統というか性癖というか、彼の国には情報公開がないので確実な証拠がみつからない上、習近平のメンツにこだわる中国の伝統的な態度がパンデミックを大きくしてしまったのも世界の悲劇でもある。
中国は人口は大きいが世界に出ては行けないのではないか、という疑問を抱かせる歴史的事件だった。

そもそも中国のように衛生観念や道徳観念の未熟な国家でバイオテクノロジーを研究するとろくなことはない。
落っこちてくる自国の人工衛星の情報を他国に警告しないお国柄。
経済が発展して宇宙計画も独自で新幹線網もあっという間に日本やEUを抜いたっても所詮基本モラルは以前のまま。
研究所で作り出されたウィルスをどのように管理しているのか。
人の質が大きく影響する分野にもかかわらず、研究管理はまったくのブラックボックスだし、それを扱っているスタッフの質もまったくわからない。

日本では一般に研究者は実験作業、装置や容器を洗浄・メンテナンス、記録、事務とだいたい同じ人が全部行う。
これがペーペーの研究員なら未だマシだが、教授に准教授となると会議が加わり自分のやりたい研究ができなくなる。
非常に気の毒な限りだ。
研究所や大学の管理部門は「実験は料理と同じ。食べた食器は自分で片付ける」という発想なので進歩しにくい。

これと対比して海外の研究機関は研究指導する人、実験作業する人、機器や容器を準備する人、事務をする人はすべて専業であることが多い。
とりわけ容器を回収して廃棄、消毒、洗浄などをする人はブルーカラーの人が多い。
これは研究者とブルーカラーでは賃金が大きく異なるための合理的な仕組みでもある。
日本では高額な賃金を受け取っているドクターの研究者がビーカーやフラスコなどガラス器具を洗浄するというような「食器洗いは自分でしましょう」的な作業に従事したりしている。
いたってコスト意識がいい加減で非合理的な世界なのだ。
イノベーションが起こりにくい原因の一つでもある。

で、本題へ戻すと中国は同じアジアの日本ではなく欧米先進国の仕組みを真似て研究施設を運営しているので地味な仕事はブルーカラー。
研究者はビーカー洗はしない。
そしてここが大切。
中国人のブルーカラーの質は推して知るべし。

今回のような「市場で発生」というような事態に至っても不思議ではない。

「このビーカー、ご飯炊くのに使えそう」
となると平気で持って帰るのではないかと思えてならないし、そんなこと他の産業の事例を見ると日常ではないかと思う。

で、ここに、中国のような国でも遺伝子操作ができるように技術がある。
それをクリスパー・キャス9という最先端の技術なのだ。
この技術はDNAの配列を正確に編集することができる
病気の治療から新種の創造、その他諸々。
夢の技術なのだが、使い用によっては大変な時代を招いてしまう。
そう、例えば新型コロナウィルスのようなケースだ。

このクリスパー・キャス9の開発者は2人の女性科学者。
エマニュエル・シャルパンティエとジェニファー・ダウドナ。
彼女たちはこの功績でノーベル賞を受賞している。

今回のめり込むように読んでしまった「CRISPA〜究極の遺伝子編集技術の発見」の著者なのである。

そもそも植物の品種改良でも多くは偶然が作用して生まれてきた。
開発といってもその偶然を起こりやすくするように、環境を促すようなことが従来の科学だった。
ところが高校生にでもできる技術として開発されたこの技術は様々な問題を解決すると共に、新しい問題を生み出している。

読んでいて最初に連想したのはこの技術が広く研究世界に知らしめられて暫くして出てきたのが新型コロナウィルスだったことだ。
これって偶然なのか、故意なのか。

いろんなことを総合すると最初に書いたような想像がやけにリアルに思えてきて空恐ろしくなってくるのであった。

面白い、しかし恐ろしい。
扱い方に注意を要する夢の技術実現の物語なのであった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





パソコンが1人1台になり始めた頃、
「もう、紙に印刷することはなくなり複写機も減るだろう」
と言われていたが、そうならなかった。
それどころかパソコンからの印刷が増えて紙の消費量が増加した。

さらにもっと以前。

私が小中学生だった1970年代後半の頃、
「21世紀には石油が枯渇する。だからエネリギー危機がやってくる」
と言われていたが、そうならなかった。
トイレットペーパーの買い占め騒動なんかがあったものの、根拠の無いただの騒動だった。
それどころか最近は石油が余るという危機意識が産油国に出始めて生産量の制限を始めて価格維持に躍起になり始めた。

世に言っていることと、実際に起っていることが全く違う。
これではノストラダムスの大予言やハルマゲドンと同じではないか。

「二酸化炭素が増えて地球が温暖化して気候変動その他で大変なことになる」

と今騒がれている。
これも「石油がなくなる」「印刷しなくて済む」と同様。
根拠に乏しい「誰かが儲けようとしているだけの」特異なデータだけが抽出されて騒動を煽っているというのが真の姿のようだ。

二酸化炭素ビジネスを広めるためか、新型コロナ同様に中国の陰謀渦巻く作戦なのか。
数々のエビデンスが二酸化炭素による地球の温暖化はそんなに危機を持つほどのものではないことを示しているのだという。
この真実を言うことは新型コロナをインフルエンザと同じ第5類感染症にランクダウン指定することを躊躇している政府と同じようにいたって政治的で科学的ではないのだろう。

「脱炭素は嘘だらけ」を読んで、なるほどと思うところがいくつもあった。
とりわけ中国が西側諸国の世論を操作することにこの温暖化を使っているという。
そのことを考えるとグレた少女の一方的な叫びも、中途半端な完成度のEVカーの普及促進も、日本を含む旧西側民主国家の凋落も、よく理解できるのであった。

そもそも、
「石油や石炭を燃やして二酸化炭素を発生させないために、アンモニアを燃やす技術に注目が集まっている」
なんて報道を聞くと、
「二酸化炭素はだめだけど、人体にモロ有害な窒素酸化物はいいのか?」
ということになる。

脱炭素。
あなたはどう思います?


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




漫画家の古谷三敏が亡くなった。
享年85歳。

古谷三敏というと漫画「ダメおやじ」がすぐに連想されるが私はこの漫画があまりお気に入りではない。
読んで面白くないと思ったので読まず嫌いではない。
ではなぜお気に入りではないかというと、なんだか人を馬鹿にしたようなストーリー設定が気に入らなかった。
「こんな漫画読んではいけません」
という親の圧力もあったのかもしれない。
でもこの漫画、父よりも母の方が嫌っていて息子に読ませまい、見させまいとしていたことが今になると思い出される。
ちょうど「8時だよ!全員集合」を見てはいけません、というあの時代なのでむべなるかなでもある。
ちなみに我が家は「8時だよ!」は見てはいけません番組ではなかった。

古谷三敏といえば私にとっては「BAR レモンハート」の作者としてのほうが重要だ。

今から30年近く前。
仕事もバタバタ。
家へは寝るためだけに帰っていたような頃。
この漫画を休憩で入った喫茶店で発見した。
赤塚不二夫調の絵は親しみやすく、毎回のお酒のうんちくと登場人物の魅力とストーリーの洒落っぽさですぐにお気に入りの漫画になった。
喫茶店で読むより家で読みたいとも思って書店で買い求めるようになった。

ちょうど同じ頃にFM大阪で放送されていた「Saturday waiting bar AVANTI」のバーの雰囲気が大いに気に入っていたことと、深夜放送されていた大阪ローカル「たかじんnoばぁ〜」が相まってBARが舞台の漫画の世界にグイグイと引き込まれたのだ。
私も仕事が無いときは英会話に通い始めていて、授業が終わった後に講師の外国人や生徒仲間と一緒に梅田界隈のバーへ通うようになってリアルな雰囲気も堪能できる年齢になっていた。

つい最近、「BAR レモンハート」がドラマになってネットに上がっているのでちょっと見たことがある。
マスターを小林稔侍が演じていて、あまり雰囲気がマッチしていなかったので「なんでアニメにせんのよ」とパソコンの画面を見ながらつぶやいていたことを思い出した。

「BARレモンハート」。
ダメおやじの作者は素敵な漫画作家なのだった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





「地球温暖化の深刻さに大人は何も考えていない。こんなこと許してはならないのじゃ!」
と眉間にシワを寄せ、醜い顔を歪めながら魔法使いの呪文にかかったか、新興宗教に毒されたかというような雰囲気を漂わせながに叫ぶ少女。
しかも最も問題の大きい中国は非難せずに必死に取り組みをしている旧西側諸国に難癖をつけ続ける。
そんな性格のグレた少女がいる。

尤も最近は彼女も少女というには少々歳を食ってきた。
それでもまだ「ダメものはダメなのよ!」と往年のおたかさんにも負けない表情を、斜めに変形させながら呪文を繰り返しているところや、世の中はコロナで深刻な状況なのにたまにはマスメディアに取り上げられているところを見ると支持者はまだいるのであろう。

不思議な世界がそこにある。

こういう「一見正義だけど、実は...」というような世界の迷惑は至るところに存在する。
しかも迷惑を通り越し悲劇になっているものも少なくなく、それらが話題として取り上げられることはなかなかない。

ポール・A・オフィット著「禍の科学 正義が愚行に変わる時」はまさにそういう「これいいやん」が実は「え〜!なんで〜」という世界的規模で影響を及ぼした事例から7つを紹介した実に興味深く面白い一冊であった。

特に印象に残ったものから挙げていくと例えば、
「マーガリンはバターに比べて健康にいい」と思っていたら実はマーガリンに含まれる脂肪酸が重い心臓病を引き起こす原因物質であることが明らかになったという何年か前に話題になった事例がある。
バターは動物性だけどマーガリンは植物性だから健康にいいんだ、という一方的な思い込みの結果、各種お菓子の加工や朝のトーストまでマーガリンが安価であることから多用されるようになった。
ところが体に悪いと思っていたバターに含まれるコレストロールや脂肪分は人間の体の中でちゃんと分解できるて無害なのだが、マーガリンに含まれる脂肪酸は分解でずに蓄積され心臓疾患の原因になってしまうという。
実際にアメリカの研究機関が調査したらマーガリンに含まれる脂肪酸はどれくらいの量なら危険なのか特定することができず、少量であっても「危ない物質」にされてしまっているという。

我が家ではバターは価格が高いのでどうしてもマーガリンを買っている。
それもできるだけ安いものを求めるために雪印にするのかラーマにするのか、いつも喧々諤々なのである。
そんなマーガリンを焼いたバケットにたっぷりと塗ってハムとレタスを乗っけて食べるのが好きなのだが、これが体に悪いという。
尤も、日本人の場合「マーガリンは危ない」と言いながら毎日食べている欧米人に比べると10分の1も食べていないといい、しかもマーガリンメーカーのWEBサイトでチェックをすると日本のメーカーは悪質脂肪酸をできるだけ少なくする技術に邁進しているようで問題にするレベルではないのだという。
ということで脂肪酸問題は気にせずにマーガリンをいただいているのだが、できればバターにしたほうがいいというのが科学の真実なのだ。

で、さらに驚いたのはDDT。
戦後、米軍のDDT洗浄を受けた父や母の話を聞くと、
「シラミがおるからとDDTを掛けられたら、真っ白になったんよ。今はDDTは危険な薬やから使ったらアカンことになって見んようになったんや」
と話していたが、実は、「DDTは人畜無害の効果抜群で低価格の優秀な殺虫剤であった」ということがわかっており「DDTを禁止させたために死なずに済んだ数百万人をマラリアに罹患させて殺してしまった」という衝撃的なことが書かれているのだ。

DDTを悪者扱いしたのは「沈黙の春」という一冊の著書。
科学を十分に理解していないが文才のあった作家によって書かれた環境に関するベストセラーが世間に「DDTは超有害」というイメージをばらまいたのだという。
DDTが制限されることになったとき、専門筋はそれに大反対。
発展途上国でも効果的に殺虫対策ができる。しかも害を及ぼしているという事例がない薬品でもある。もし禁止したら大変なことになる。
と警告したが世の中の「空気」がそれを許さなかった。
結果的に「DDTは危ない」となんの根拠もないことが定説になってマラリア撲滅に高価な殺虫剤を購入しなければならなくなり、結果対策が中断して多くが罹患して死ぬことになったという。

詳細を知りたい方は是非読んでいただきたいが、こういうさまざまな禍はエビデンス無しに突っ走ってしまうところに恐ろしさがあると気付かされた。

考えて見れば今現在進行中の新型コロナウィルスに対するワクチンや女性の子宮頸がんワクチンに関してもデマや噂がまかり通って必要なのに接種しない、接種できない状態を生み出している。
今、読むべき一冊でもある。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





日本が欧米列強の植民地にならなかったのは欧州から距離が離れていたことが幸いしているという人も多いが、それ以上に為政者である侍階級の教養とモラルの高さと愛国心、市井の高い民度だったと言えるのかもしれない。
で、さらに一つ重要な要素がある。
それは「当時としての先進的な経済体制」だったんじゃないかと私は勝手に考えている。

江戸時代の日本は世界でも突出した資本主義の国であった。
こんなことを言うと、
「江戸時代は封建主義でしょ」
と突っ込まれるかもしれない。
確かに身分制度や家制度。
現在と比べると自由は少ないが、経済は紛れもない資本主義。
この経済の資本主義に引きづられ、封建制度はかなりのフレキシビリティをもって運営されており、幕府とて経済抜きに政を取り仕切ることなどできない社会なのであった。
幕府に限らず先進的な諸藩では有用な人材を身分関係なく取り込んでいたことは学校ではあまり教えない事実でもある。
それが証拠に新政府になっても経済の要の大蔵省は旧幕府の勘定方がそのまま移行して業務を継続。
現在の財務省に至っている。

この経済がどのように資本主義であったかを知るにピッタリなのが大阪の米市場を見つめること。

大阪は昭和の初めまで日本経済の中心地だった。
そのもとになったのが江戸時代前半に始まった堂島米市場。
現在の地下鉄淀屋橋駅近く。
日銀大阪支店の直ぐ側にあった米取引場での取引システムが日本全体を資本主義というか自由主義に否が応でも導いた。

当時は米が重要な役回りをしていた。
武士の給与は米。
公共工事も米換算。
諸藩の予算は当然米。
だから米の相場というのもは非常に重要で大中小に関わらず諸藩はその値動きに敏感になっていたというわけだ。

大阪の中之島周辺は現在は諸官庁や文化施設、大手企業の本社が建ち並ぶエリアだが、このあたりを中心に江戸時代は諸藩の米蔵が並んでいた。
各藩は収穫して納税された米をここへ持ち込み商社を通じ全国に売りさばいていたのだ。
でも実際のところ米の現物を取引するのは容易ではない。
重い。
扱いにくい。
場所を取る。
季節性がある。
などなどなど。
そこで登場したのが米切手。
現在の証券にあたるもので各藩はこれをもって取引を実施していた。

で証券になると扱いやすいことに加えて、実は現物がないけど証券を発行、金を調達なんてのも出てきたりした。
さらに見込みで取引することも可能になるので予め相場を立てて取引するというような先物も現れ活況を呈してくる。
これらが行き過ぎると経済が混乱するので幕府としても黙って見ているわけにいかないので経済介入する。
ところが大阪の商人たちは巨額の利益を上げながら市場を牛耳っているので権力で圧してくると経済でやり返すということが繰り返されたのだという。

まったくもって面白い。
この先物取引は現在では世界最初の先物取引として国際的に認識されているくらいなので、いかに当時の経済システムが進んでいたかが見て取れるというものだ。

こういうことを具体的に知りたいな、と長年思っていたところに見つけたのが高槻泰郎著「大坂堂島市場」。
とってもわかりやすい文書で書かれたこの分野を知ることのできる良書なのであった。
それにしても大同生命が米相場を采配していた大店がもともとだったなんて知らなかった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




私の苦手な読書ジャンルにファンタジーがある。
例えばトールキンの「指輪物語」なんかは大いに苦手で、高校生の頃に映画の公開に合わせて「読んでみよう」と勇んで買ったものの、「んんん〜〜〜〜、よくわからん!」と途中で投げ出してしまった数少ない私の「投げ出し本」の一つになっている。
この作品の場合、単に現実ではない世界が描かれていることにとどまらず登場人物が多すぎるし、それらの名前が訳のわからないものが多かった。
このためファンタジーなのにイメージが膨らまず何がなんだかわからないまま強烈な疲労感が生じたため、あっけなく挫折したのであった。

でもファンタジー全般がダメかというとそういうことはなく、例えばオーウェルの「1984年」だとか、上橋菜穂子の「鹿の王」などは読めなくはないのだ。

とはいえ、どちらかというとファンタジー物は敬遠しているというのが正直なところ。
「指輪物語」がトラウマになっているということもできなくはないが、やはりリアルな物語に興味が誘われるのは性分なのかもしれない。

そんななか、久しぶりに買った小説は一種のファンタジーだった。

重松清著「ルヴィ」。

自殺を遂げた中堅作家が3年ほど前に自殺した女子高校生の「ルヴィ」に出会い、死ぬかもしれない人たちを死から救うという物語。
7人の命を救うとルヴィは天国へ行って成仏することができる。
それに同行するのが自殺したばかりの中堅作家なのだが、果たしてどのような死ぬかもしれない人たちに出会い、どのようにして救うのか。
なかなか面白い生と死の境目を扱ったファンタジーなのであった。

重松清というと「ファミレス」や「希望が丘の人々」など数作を読んできたが、いずれも現代の普通の生活を通じて家族や社会のちょっとした問題点をユニークに描いているのが魅力的だと思っていた。
今回の「ルヴィ」は少し表現は違うものの、死んだものの目を通じて、今まさに死を選ぼうとしている人たちに生きるきっかけを与える。
そのことが小さな希望を読者に感じさせ、自分にも少し当てはめたりして感動をもらう。

こういう物語がファンタジーだが真実性をもってリアルに迫ってくるのは、やはり自死に関するニュースが多すぎるからだろうか。
それでも圧倒的多数の人は苦しくても生きようとする。
それが惰性であるのか、はたまた意志の強さによるものか。
それは人それぞれかもしれないが、そういう現代人の姿をファンタジーで描いた読み応えのある小説なのであった。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






第二次世界大戦前に開通していたフル規格の地下鉄は今で言うところの東京メトロ銀座線の浅草〜渋谷と大阪メトロ御堂筋線の梅田〜天王寺だけだった。
東京メトロは開業時から私鉄で大阪メトロは当時というか、つい最近まで公営鉄道だった。
双方第三軌条方式といってパンタグラフがなく線路の横に敷かれた3本目のレールから給電をうけるという方式の電車なのだが、これはこのブログの本題には関係はない。

何を言いたいのかと言うと私は長い間、この両地下鉄は戦時中はどうなっていたのか、ということが気になっていたのだった。

例えば原爆が落ちた広島の鉄道は壊滅的な被害を受けていたと思っていた。
ところが柳田国男のノンフィクション「空白の天気図」を読んだところ原爆投下の当日の午後2時に広島駅発西条駅行きの列車が出発していたことを知ることになった。
当時は自動列車制御装置もないし、蒸気機関車がまだまだ主流の位置を占めていたので電気が通じていなくても列車を動かすことができたのだろう。
それにしても原子爆弾を生き残った国鉄マンの意地を感じ大いに感動と驚きを感じたのであった。
また広島電鉄も爆心地は流石に設備が大破してしまい使えなくなってしまったが被害の比較的少なかった地域の一部はすぐに運転を再開したという。
原爆が落ちても電気が通じているところがあったのだ。
東京も同じ。
東京大空襲で甚大な被害を受けた省線は「敵に侮られてはいけない、そのためには平常を尽くすことと」と被害の少なかったところは山手線など意地でも電車を動かしたという。

このようなことを聞いていたので「なら、地下鉄はどうだったのよ」と長年疑問に思っていたのであった。
地下鉄は字のごとく地下を走っているし空襲の被害を受けにくい。
でも、戦前走っていた地下鉄東西2路線だけ。
どちらも戦時中どうしていたかはあまり耳にしたことがない。
もしかすると軍用施設に転用されていたのかも知れないなどと思ったりもしていた。
というのも例えば現在の都営浅草線の新橋から日本橋にかけては「戦時中に官公庁を結ぶための連絡路として秘密裏に建設された地下通路を拡張して利用している」などということを聞いたことがあったからだ。
地下鉄は地下通路という大坂城秘密の抜け穴みたいな機能が備わっているので多分そんなんじゃないかしら、と思っていたのだ。

ところが事実は大きく違っていた。
その答えを最近知って大いに驚いたのであった。
その答えの一つが取り上げられていたのが坂夏樹著「命の救援電車 大阪大空襲の奇跡」(さくら舎刊)なのであった。

本書によると東京の地下鉄銀座線は戦中空襲があるときは運転禁止令がでていたという。
事実東京大空襲で爆弾が銀座駅に命中して大破した。
だからきっと米軍の攻撃中は止まっていたのだろう。
これに対して、大阪の地下鉄はそんな命令は出ていなかったというのだ。
出していなかった上に、初の空襲のあった昭和20年3月14日の深夜はいつもはやっている終電後の通電オフもせず、電気が通じていて電車が走る状態だったという。
しかも置かれていた心斎橋駅近くの変電設備は鉄筋コンクリートの頑丈な造りの上、当時世界でも最先端の設備を導入。
米軍の攻撃ぐらいで潰れるような代物ではなかったらしい。
さらに御堂筋線は銀座線と異なり大川(旧淀川)の下をくぐっている。
当時大川は水運としての機能が未だ残っていたので堰き止めてトンネルを作るということができなかったので技術を駆使して川の下を深く掘削してトンネルを建設。
このため御堂筋線は地下深く走ることになり300トン爆弾にも耐えられる構造なのだという。
この御堂筋線の建設をしたのは関一(せき はじめ)という市長で、その構想力は橋下徹元市長をも凌駕するすぐれたものであった。
幅数メールだった御堂筋を数十メートルに拡張。
その下に地下鉄を建設。
その地下鉄も将来を見越して10両編成の電車が停車できるような大きな駅として建設。
開業当時はホームが長いのに電車は1両で営業。
乗客はホームのどこに電車が停まるのかわからず走り回ったという吉本新喜劇みたいな逸話が残っている。
さすが大阪の地下鉄である。
この「無駄遣い」と思われた長いホームは現在10両編成の電車が運用されており、建設時ほぼそのままで使われている。
このことを考えると関市長の判断はいかに先見の明があったかと現在の多くの政治家諸兄に見習って欲しいものがある。

で、このことが空襲下の大阪市民を救うことになった。

空襲は午後11時50分頃から午前3時半頃まで繰り返され地上は火の海と化していたが地下では煌々と明かりが灯り広いホームには大勢の避難民が。
心斎橋駅ではホームだけではなく改札口とつながっている大丸心斎橋本店の地下にも1000人を越える市民が避難していた。
そこへ電車がやってきて多くの被災者の命を救ったというのだ。

この都市伝説のような話はNHKの朝ドラ「ごちそうさん(ご指摘により「まんぷく」から修正)」で取り上げられたことがあったようだが、信じられる話かどうか疑わしかった。
ドラマの作り話だと思われたのだ。
ところが毎日新聞がそれを調査すると、出てくる出てくる。
多くの証言が集められ、実際に御堂筋線の電車が動き、心斎橋駅や本町駅で被災者を拾って梅田や天王寺方面に逃したというではないか。

本書はその証言集になっていて読み始めると、あまりの意外さと驚きで読むことを止められなくなってしまったのだった。

この歴史秘話はどうして実現したのか。
本書を読んでのお楽しみだが、読むと大阪メトロの印象がかなり変わることは間違いない。
御堂筋線は凄い歴史を秘めていたのだ。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





東京オリンピックが場外乱闘で盛り上がっている。
オリンピックの競技にプロレスが入っていたら組織委員会はダントツの金メダル獲得だ。
組織委員長のちょっとした冗談が冗談でなくなって大騒ぎ。
柔道家のパワハラ。
聖火ランナー辞退騒動。
などなどなど。
どちらかというとマスメディアによるマッチポンプというような感じもするが誰も指摘しないので情けない状況になりつつある。

そもそもオリンピック。
そんなに神聖なものなのかどうか。
オリンピックには高校野球にも似たどことなく胡散臭い神聖さの香りが取り憑いているように思われてならない。

例えばその費用。
東京オリンピックはすでに2兆円以上のお金を消費しているという。
一体そんなお金がどこにあるのか、使っていいのか、誰が許可したんだか冷静に考えてみるとなんだかおかしい。
そもそもなんで2兆円もかかるのよ、と言いたい。
誘致だけで7500億円もかかっているのだから、どこかに問題があるのは間違いない。

女性の人権を傷つけたからと組織委員長を交代させたが、少数民族の人権を弾圧しながら虐殺まで繰り返している国が平気な顔して出場するのは一体なんだろう。
同性愛や思想信条の自由などありえないという国もある。
しかもそのような国のひとつが次回の冬季オリンピックの開催国なのだから大いに嘲笑えるところでもある。

スポーツ選手はストイックで記録への飽くなき挑戦をしているからといって、例えばドーピングや人体改造、国籍変更までして出てくるのもストイックなのか。
そういうことをさせてしまう背景があるようなイベントになにか特別な良いことがあるのか。
ここは冷静に考える時期でもあるような気がする。

このような心情になってしまったのはジュールズ・ボイコフ著「オリンピック秘史 120年の覇権と利権」(ハヤカワ書房)を読んだから。

オリンピックに関するノンフィクションは沢木耕太郎の「オリンピア」以外はあまり読んだことがなかった。
あまり関心がなかったのといい本に巡り合わなかったからだが、今回この本を見つけてクーベルタン男爵以来の近代オリンピックの表と裏が描かれているので買い求めたのであった。

それにしても驚き満載なのであった。
オリンピックには知らないことが多すぎて、これらを知ったらとてもじゃないが開催したいなんてもとより誘致なんかお断りだ、となってしまうに違いない。
その点、日本はノーテンキなのだろう。
来年の冬季オリンピックが中国という現在の世界で最も問題のある国家で開催されるのは究極の選択であったことも初めて知った。
なんと北京が選ばれたときは他にカザフスタンのアルマトイしかなかったという。
どちらも人権や思想信条の自由に大きな問題を抱え、オリンピック開催には適していない。
にもかかわらず北京が選ばれたのは、そのままであれば開催地が決まらないことと北京は夏の大会の経験があったことだという。
では、他の都市はどうだったのかというとオスロやストックホルムが上がったがほとんど全部が地元の反対にあって頓挫したからだという。

オリンピックはお金がかかりすぎ地域にとって何らメリットがないといのが現在のオリンピックに対する考え方の主流なのだ。
現に黒字の大会など一度もなく大金が動く割に儲かるのはIOCのみで、開催都市は持ち出しばかり。
今回の東京大会も同様である。

女性蔑視発言が問題になったが近代オリンピックの父として讃えられるクーベルタン男爵は実は女性差別者で女性のオリンピック参加を死ぬまで否定し続けたことも驚きであったし、様々な芸術的パフォーマンスも展開するオリンピックのスタイルを作り上げたのはナチスドイツであったことも改めて認識することになった。
デンバーの冬季オリンピックは住民投票まで実施され大差でボツにされた最初のオリンピックとなったことも、オリンピックのスポンサー企業は税制優遇があるらしいが、その優遇されたものは社会には還元されないこと、開催費用があまりに高騰しているのでテレビ放送権も高騰して、その権利を売らないと開催できないので高額な放送料を払えない途上国ではオリンピックは放送されないという異様な事態にもなっている。

オリンピックってどうなのよ、と考えてしまう一冊なのであった。







コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






19世紀。
そもそもどうして日本とタイだけが西欧列強の侵略から逃れることができたのか。
歴史の大きなテーマで色々な意見が出されている。
「西欧から日本は遠く遠征するための平坦距離が長過ぎるため」
だとか
「西欧が政治的に諸事困難を迎えていて極東の島国まで本気でちょっかい出すのが大変だったから」
などなどなど。
結局その理由は学校でも教えてくれないし、誰もきちんとしたことは説明できないので自分で考えるしか無いとも思っていた。

で、私の場合は「多分経済システムが西欧と同等か、それ以上だったから」というのが欧米列強の思い通りにならなかった理由だったと考えていた。
封建社会といいなが経済的には現在とほとんどかわらず資本主義。
株も先物も両替もなんでもあって、ある意味日本より経済システムの進んでいた欧州の国は無かったかもしれない。
江戸時代の経済体制など中学高校で習うこともないのでスルーすることになってしまっていたのだ。
私は今回それに「危機対策が十分にできていたから」という要素を加えたいと思っている。

鈴木浩三著「パンデミックvs江戸幕府」(日経プレミアム新書)は江戸時代の江戸における災害、とりわけ伝染病のパンデミックに対応した危機対策システムとその事例が紹介されていて、ものすごく惹き込まれたのであった。
日本は江戸は、なんて凄いシステムを構築していたんだろう。
もしすると現政府より上なんじゃないか、という驚きなのであった。

当時、伝染病は流行病と言われていたが原因はもちろん誰もわかない。
知らない間に人々の間に広まっていくので、隔離するとか事業を制限するとか今と同じことをやっていた。
このような同じことは事業を制限するだけではなく、その日暮らしをしている多くの市民に対して生活費を補填するシステムまで存在した。
一揆や暴動が起こらないようにすることが目的とはいえ、現在とちっとも変わらない。しかもコンピュータもないのにたった数日で支給して正確に把握するなんぞどうやっていたんだ、と驚愕することしきりなのだ。

風邪と思われていたインフルエンザも麻疹、疱瘡もコレラも命取りになる。
だから迅速な対応が求められたわけで、そのための資金もちゃんと民間と幕府で積み立てる仕組みまであったのだというから、江戸時代は現代より優れていたといってもいいくらいだ。
さらにパンデミックだけではなく大火災や大地震も同様の仕組みで市民を守り、ついでに黒船が来たときもこのシステムが働いたという。

江戸時代は封建時代だから遅れていた。
そんな教育をされたのは大きな罪で、じつは優れた危機対策体制をもっていた近代的な社会だったのだ。

あ〜、知らなかったなんて、なんてこった!


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ