<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



先日、放送作家のはかま満緒が亡くなった。

はかま満緒というとNHK-FMの「日曜喫茶室」。
1977年から続く老舗番組だが、私が聴くようになったのは20年ほど前から。
しかも日曜日のお昼に放送する番組だから毎回聴くことはなかった。
仕事やプライベートで忙しくて放送そのものを忘れてしまっていたり、聴けなかったことが少なくなかったからだ。

FM放送というと音楽中心だが、この番組は毎回色々なゲストが登場して知ることのなかなかできない話題を提供してくれる。
実に興味溢れる内容の番組なのだった。
設定が日曜日の喫茶店。
そこを訪れるお客さんとマスターのはかま満緒をアシスタントであるウェートレスで会話が進行するという内容だ。
このスタイルは後に1990年代始めに放送が始まったFM大阪(東京)の「Saturday watting bar AVANTI」でも採用された。
こちらは喫茶店に対してイタリアンレストランのウェイティングバーであった。

私はAVANTIを先に見つけて、それから日曜喫茶室を見つけたので順序が逆になった。
AVANTIの洒落た雰囲気に対して日曜喫茶室のちょっこと知的な感じがこれまたお気に入りになった。
当時は画家の安野光雅が出演していて、大学生の頃から読んでいた週刊新潮とあいまって興味が惹かれたのだった。

その日曜喫茶室。
今日がマスターことはかま満緒が死去する直前に収録した、いわばマスター最後の番組。
NHKのWEBページを確認すると、とりたてて特別なことは書いていないが、この番組の今後はどうなるのか。
月一回放送が無くなり、毎週「松尾堂」になるのか。

大いに気にかかるところだ。

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題名を失念してしまったのだが少し前に大手広告代理店に務める人が書いた本を読んだ時、なるほどと思ったことがあった。
その本ではキャラクタービジネスに関することが主題で書かれていた。
とりわけサンリオのビジネスモデルが詳しく分析されていて興味を引かれた。
何がキーワードかというと「ブランディング」。
ブランディング構築がサンリオビジネスの主体であり、そのブランド力で彼らは多額の利益を生み出しているのだと。

なるほど、そう言われてみればキティちゃんはブランドの塊みたいなもので、絵だけではなく、その背景の物語や使われ方など十二分に計算されつくされた存在なんだな、と気がついた。
キティちゃんが単なるイラストではなく、それが製品にプラスされることで生み出される付加価値として精神的な信頼を得ることになる。

メーカーのブランド力についても同じで、名のあるメーカーとそうでないメーカーには消費者から見る信頼度に雲泥の違いある。
とりわけ新興国と先進国のメーカーとに向けられる違いだ。

先進国のメーカーは地道な努力を積み重ねてブランディング力を構築して製品の信頼性を獲得している。
自動車。
家電。
事務機。
小売業。
住宅。
などなど。
◯◯社だから大丈夫。
◯◯社は大好きなメーカーだから買っちゃおう。
となる。

一方、アジアの新興メーカーはブランド力が皆無で買い手の興味を喚起するには価格で勝負するしかない。
作ることは得意になったけど、いつまでたっても名無しなので一流品とみなしてくれないのだ。
だから自社ブランドで置いてくれるのはスーパーや量販店。
間違っても専門店やデパートでは扱ってもらえない。
しかも高価な製品は消費者もより神経質になって購入を控えるので、まず売れない。

ヒュンダイ自動車が日本から撤退してしまったのは日本人の半島嫌いが原因だけではない。
自動車という数百万もする製品に対するメーカーとしての信頼感がまったくなかったことも原因なのだ。
「トヨタとヒュンダイ。同じ値段ならどちらを買います?」
と訊かずともわかるもの。

家電だって同じこと。
サムソン、LGの製品がだんだよくなってもソニーやパナソニックのような信頼感はまったくない。
同じ値段なら、買うのはやっぱり後者のほうになる。

シャープがホンファイの融資を受け入れ傘下に入ることを決定した。
その支援額7000億。
支援額といえば聞こえは良いが、要はブランド代。

シャープの名前だけが、ホンファイの目のつけどころと言うわけだ。

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マラソンシーズンだ。
今日、私の地元大阪南部では泉州マラソンが開催されている。
これは堺市の浜寺公園から関西空港の対岸りんくうタウンまで旧国道26号線を走るイベントで私の知っている人もたぶん走っている。
そして来週は東京マラソン。
こちらも知人が何人か走ることになっている。

人はどうしてこんなにも走りたがるのであろうか。
大いなる謎である。

「マラソンはゴルフみたいにお金がかからなくていいですよ」
という人の中には走るために日本各地はもちろんハワイやボストンへ出かける人もいるわけで、論理が非常に矛盾している。
走ることを口実に旅を楽しんでいるとしか言えないのだ。

私は学生の頃から長距離を走るのが苦手で持久走と称する1500メートル走は年中行事の中でも最も苦手で、できれば逃げ出したいくらいのイベントであった。
実際にヤンキーな奴らは校外コースを走っている時にこつ然といなくなり、後でみっちり生活指導の先生に絞られていたものだ。
先生に短い竹刀で小突かれ、ドつかれされたほうがよっぽど楽なのが持久走の正体であり、長距離が苦手な学生にはよく理解できることなのであった。
ちなみに私は短距離にはすこぶる強い。
高校生の時は体育大会で800メートルリレーに出場して3人をごぼう抜きした実績がある。
うち一人は陸上部で「お帰り部」の私より遅いというのはいささか問題であると物議をかもしたかどうかは記憶に無い。

その昔。
学生の時。
マラソンをテーマにしたラジオドラマを聴かせてもらったことがあった。
延々に走り続ける主人公が走っている時に「考えていること」をひとりごとをベースに構成しているもので、かなり面白かったように記憶している。
詳細はおろか、筋立てまで忘れてしまっているのだが、面白かったことだけ覚えているので良いドラマだったのだろう。
このラジオドラマを聞いてから、走っている人が一体何を考えながら走っているのか気になるようになった。
これは自分が一人で歩いている時に考え事をしている時に非常に似ていて興味が湧くのだ。
私は考えることが仕事の一部なのだが、考え事のし易い空間は1位電車の中、2位トイレ、3位歩いている時、4位スタバでMacのキーボードを打っている時。
このようにスタバでくつろいでいる時よりも歩いている時のほうが考えがよく働くのだ。

ちなみ私は1500mを走っていた時は、
「はやくゴールになれ、早く座りたい、早く寝っ転がりた」
などと頻繁に考えており、考える回数は多いものの同じことを何度も唱えているだけという、高熱で暴走してしまったパソコンみたいな状態なので、仮にマラソンを走ったとして「考える」時間にはならないだろう。

マラソンマン。
あの人達は今日も何を考えながら走っているのだろうか。

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産経新聞のネット版で新聞記事を読んでいたらジェイ・エアの女性副機長の記事が載っていて興味深く読ませていただいた。
まだまだ航空機の分野では客室乗務員以外の女性スタッフは少ない。
ことコックピットクルーとなるとお目にかかることはめったにないからだ。

そんな記事を読んでいて、先日ANAに乗っていると女性機長なのか、副機長なのかわからないが操縦席からのアナウンスがあった。
私が生で耳にする初めての女性パイロットのアナウンスだった。
アナウンスの内容は他の男性パイロットと大きく変わることはなく、
「本日もANA◯◯行き◯◯便をご利用いただきましてありがとうございます。操縦席からご案内させてただきます。」
で始まった。
この日。
天候が少しく良くなく微妙に揺れ続ける飛行だったので、
「大きく揺れましても飛行の安全には支障がありません」
と言われてもなんとく不安感があった。
しかも正直なところ女性パイロットのアナウンスは女性客室常務員とはまた違った味わいというか緊張感がある。
やはり飛行機という乗り物を意識すると電車やバスのアナウンスとは違うテイストがあるのだ。

私の周りの女性はパニックに陥りやすい人が多い。
突然のトラブルや訳の分からない電話がかかってきたりすると不安になってオロオロしてしまい、冷静さを著しく欠く。
こういう人は当然パイロットに向かないわけで、飛行機の操縦では何かの拍子で突然危機に陥ることも考えられるわけで、その時にパイロットはどこまで冷静でいられるのか。
ついつい考えてしまう。
尤も、最近は女性の方がどんと構えている人がすくなくなく、パイロットももしかすると冷静沈着なのは女性のほうなのかも知れない。


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百科事典ビジネスというのがあって、
「全集揃えて知的に行こう」
というのかどうかは知らないが、我が家にも平凡社大百科事典があってすっかり骨董品の領域である。
私が子供の頃に両親が無理をして月賦で購入したと思われる全36巻プラス索引と地図という構成で、しかも1976年ごろまでだろうか年鑑も毎年1冊の割合で発行していた。
かなりの体積をとる書籍で、印象は重厚である。
正直今では1年に一度使うかどうかわからない辞典になっているし、今時何かを調べるというとインターネットを使うので場所だけをとるかなりの厄介者でもある。
しかし親が若い時に将来を託す気持ちで息子のためをと思って購入してくれた百科事典はそう簡単に捨てるわけにもいかず保管されている。
幸いなことに書棚が丈夫だったので21年前の阪神大震災でも多くの書籍が雪崩をうって外へ飛び出したのに対し、百科事典はどんと構えていて私の家に君臨しているのだ。

百科事典は場所を食う。
高い。
でも、書店にとっては大きなビジネスになったようで他にもタイムライフの図鑑関係が我が家にはまだある。
尤も、このうちタイムライフのライフ写真年間は子供の頃はそう凄いものという感覚がまったくなかったのだが、長じて歳を重ねるごとにライフ誌の写真に度肝を抜かれ「時代を切り抜くことの大切さ」をひしひしと感じているのだ。
フォトジャーナリズムに興味を持ってから眺めるライフ写真年間は重要なコレクションになっている。

この辞典ビジネスを今も続けるのがディアゴスティーニ。
毎月1回か2回、シリーズの冊子や付録を出版する会社で毎回興味深い企画を打ち出してくる。
あるときは恐竜。
またあるときはスタートレック。
そしてまたあるときは自動車の模型。
と言った具合にそれこそ沢山の企画を打ち出しては最初だけ話題をさらっているのだ。

このディアゴスティー二の企画はだいたい最初の「創刊号」なるものは980円で売られている。
皆に興味をもってもらうために特別価格で販売している。
そしてこの特別価格の意味はもう一つあり、このシリーズが通しで毎回1000円程度で購入できるものと思い込ませることだ。
シリーズはだいたい50回ぐらいは続くわけで、
「あ、だいたい全部揃えると5万円ってとこか」
と油断をすると、2巻目からは1冊1980円とか2980円になってしまうので、完成させるには10万円以上の貧乏学生、貧乏サラリーマンには膨大な金額になる。
気がついた時は途方も無いビジネスに乗せられている自分に気がついて愕然とすることになるのだ。

そもそも私はこのディアゴスティーニのシリーズを全巻揃えたり、模型を完成させた人に会ったことは1度しか無い。
それは私の実の伯父で、何かの挨拶の時に伯父宅を訪れると、
「ええもん見せてやるけん、待ちおれおよ」
とニヤニヤもったいぶって話す。
ちなみに伯父は岡山県出身で大阪生活が長いにも関わらず身内が揃うと大阪生まれ大阪育ちの私にまで岡山弁で話をするのだ。
で、待つこと30秒。
伯父が敬々しく持ってきたのは真っ赤なランボルギーニの模型なのであった。
「も~、10万円以上かかったんよ。あほや~いうとるのに」
というのは伯母のコメントなのであった。
伯母は大分育ちで大阪生活が長いのだが、伯父と夫婦になってしまったために関西弁と岡山弁と大分弁が綯交ぜになる独特のイントネーションで話してくれるのであった。
そのランボルギーニ。
よくよく見ると細かいところまで再現されており、ドアは開くわ、ライトは点くわで凄い模型なのであった。
でも、これって十数万円すると思ったらタミヤかどこかの模型を買って自分で電飾や改造を施したほうがいいものができそうな気もして複雑な気持ちになってしまったのであった。
定年退職してフリーの身の上だからこそできる技なのであった。

最近サンダーバード2号のシリーズがディアゴスティーニからリリースされてそのランボルギーニを思い出した。
このサンダーバード2号を完成させるにはそれこそ20万円近くのお金がかかりそうで、いくら今井のサンダーバード2号が大好きな私でも、これには手をだすことはなかなか難しい。
そんなこんなで大きな疑問が復活した。

ディアゴスティーニの完成率は何%なのだろうかと。

そういう統計があったら見てみたいものだ。

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その昔。
「UFOの飛行の原理はナンだと思いますか?」
というお題に対して、
「恒星間重力を利用して時間の壁を超えて飛行している。例えば遠くの星の重力を検知し、その波動に乗って加速すれば現在の物理理論では説明できない宇宙航行が可能になる」
という意味合いのことを私が書いたのは中学生の時なのであった。
見事投稿が採用されたのは月刊「UFOと宇宙」という雑誌だった。
考えてみれば、なんという凄い、少々アブナイ雑誌を購読していたことであろう。
自分の娘が、
「UFO、信じる?」
と聴いてくる理由がなんとなくわかるのであった。

重力というのは目に見えないが宇宙を構成する重要な素粒子の1つ。
私たちにとって身近な存在だが眼に見えないので親しみがない。
目に見える素粒子は光だけなので仕方がない。
しかし重力を身近に感じるのは東京スカイツリーやあべのハルカスに登った時に感じる高所恐怖症。
あの精神的圧迫感を感じる原因が重力なのである。

その重力は普通「波」なのだそうだ。
そんなことを言われても目に見えないので「波」という実感はない。
例えば重力が波で変動しているのであれば、ヘルスメーターに乗った自分の体重も波打つというような想像をしてしまいそうだが、そういうものではないらしい。
その重力の「波」を初めてアメリカの研究者チームが観測したのだという。
これは小柴先生がノーベル賞を受賞した同じく素粒子のニュートリノの観測と並ぶ重要な観測で、ノーベル賞が授与されるのは確実だという。

こういう重力の波だとか、ニュートリノだとか、素粒子の分野を研究することでどのようなことに役立つのかよくわからない。
でもきっと私が中学生の時に想像したような重力波に乗って飛行する宇宙船なんかが実現できる日が来るかも知れず、科学への探究心は止むことがないのである。
たぶん。

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今日、産経新聞のネット版の号外を見て驚いた。
昨日発射された北朝鮮の弾道弾の「破片」が地球の周回軌道に乗ってグルグルと回っているのだという。
あの将軍様もさぞ満足であろう。
ゴミが2つ、軌道に乗って人工衛星になったのだから。

それにしても将軍様の国はシーラカンスのような国と言えるかもしれない。
というのも、19世紀ごろはこういう国も珍しくはなかった。
絶対君主というものが存在して、その人が他の人民をどう扱うのかという決定権を持っていて、逆らうものは誰もいない。
かつての帝政ロシアやナチスドイツなんてのもそんなところだろう。
「社会主義」あるいは「共産主義」のナマエを借りているところはだいたいが独裁国家である。

将軍様のお国しかり。
4000年の歴史を持っているお隣の国もそうだ。
優れた美貌の美女に誘惑されて、ついていったら個室でイカにもな男が出てきて現金を搾り取られました、というような国家なのだ。
そんな美人局にも劣るのが美貌のかけらもないところだが、周囲から圧力をかけてもそういうビジネスに終止符を打たないところも、実によく似ている。

弾道ミサイルが発射されて都道府県に通達を出した我が政府。
もし飛んできたミサイルが本体やかけらを我が領土に落下させ、それが「コツン!」と頭にあたって誰か死んだらどうすのか。
その疑問に対する答えはない。
想定問答も用意せず、出すのは情報だけ。

先月、領空侵犯をしたロシアの戦闘機をトルコ軍が撃ち落として大きな外交問題に発展した。
でも他国の領土に勝手に入って行った未確認飛行物体を撃ち落としてもいいことは国際的常識だ。
沖縄県上空を無断で通過する北朝鮮の弾道弾を自衛隊で撃墜してみてはいかがか。
政治的にも外交的にも良い練習台になることに疑いはない。

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「生きるべきか死ぬべきか」
ハムレットではないけれども、そこまでやって生きる道を選ぶのか、死を選ぶのか。
どういうことかというと、極限の状況に置かれた人間が自分の生命に対してどのような価値観で、どのように臨むのか。
その恐ろしく重いテーマを主題とした映画がロン・ハワード監督作品の「白鯨との闘い」だ。

週末の日曜日。
カミさんがもらってきた無料券があるということで普段は足を運ばないイオンシネマへ出かけてきた。
無料券の有効期間が1月末日までだったので無理やりでかけたため何を見るのか。
それがかなり限定されることになってしまった。
「スターウォーズ」はすでにIMAXシアターで鑑賞済みで小さな画面が主体のイオンシネマで2回めの鑑賞をする気にならなかった。
マット・デイモンの「オデッセイ」は来週から、
ロバート・ゼメキス監督の「ウォーク」はカミさんが見る気がしないといったので候補から外れた。
唐沢寿明が主演している「杉原千畝」は上映時間が合わなかった。
スタローンの「クリード チャンプを継ぐ男」は上映終了してしまっていたので、結果的に見逃してしまっていたのであった。
で、消去法で残ったのが「白鯨との闘い」なのであった。

正直言って「白鯨との闘い」は最初あまり見たいと思わなかった。
ロン・ハワードの映画だからきっと面白いのに違いないとは思っていたものの、やはり「白鯨」のクジラというところから単純にスピルバーグの「ジョーズ」を連想してしまっていたのだ。
これは動物パニックものではないかと。
子供の頃から動物パニック物が苦手だった。
大ヒット作「ジョーズ」が公開された時はまだ小学生だったので見る対象の映画にならなかったが、それに刺激を受けた後年の作品、例えば「オルカ」や「ザ・ディープ」などが公開された時は中学生になっていたので鑑賞する対象作品になっていたが、やはり苦手だったので両作品ともテレビで放送されたのを見たのが初めてであった。
でもこの映画。
よくよく調べてみると、
「ジョーズを期待して見ると失敗します」
なんて口コミに書かれていたので、
「まあいいや」
と見ることに決めた。
それでも結果として見てよかったのだが、大いに考えさせられることにもなってしまった。

さすがロン・ハワード。
簡単に娯楽映画では終わらせないテクニックの持ち主である。

物語は動物パニック物ではなく、漂流ものであった。
小説でも映画でもそうだが、漂流物につまらない作品はほとんどないことは以前このブログにも書いたことがあるように思う。
本題と関係ないけれども私の大好きな吉村昭の小説、
「漂流」
「大黒屋光太夫」
「アメリカ彦蔵」
などがそうだし、海外に目を向ければサー・アーネスト・シャクルトンの、
「エディアランス号漂流」
のようなワクワクどきどきする作品が多い。

この「白鯨との闘い」も漂流物として非常に面白かったのだが、漂流の苛酷さが他の作品に比べると格段に大きなものであった。
というのも、漂流数十日。
ついに食料も飲料水も枯れ果てた時、かれらは一体そこで何をしたのか。
いや、してしまったのか、というのが本作品の本題なのだ。
カニバリズム。
それこそこの作品を見る者への問いかけであり、究極の中の究極の選択を我々はどう見、そしてどう感じるのか。
極めて判断が困難な映画なのであった。

で、見終わったと気持ちが悪かったのではないかとカミさんを気遣って横を見てみると、
「あ~~~ええ映画やった~~~」
と伸びをする漂流とも飢餓とも関係のないカミさんがいたのであった。

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いしいひさいちの漫画「バイト君」の舞台。
東淀川大学周辺では下宿先の中野荘をはじめとするユニークな施設が点在する。
中でも貧乏学生の強い味方が、
「賞味期限切れ食品専門店」
全てがわけあり食品で構成されており、いつも大バーゲン。
賞味期限なんてまったく気にしない学生に大人気のお店だ。

もちろん、それは架空のお店。
バイト君ブックスでその4コマまんがを読んだ時はその発想にびっくりするよりも関心してしまったのだ。

そもそも賞味期限だとか消費期限だとかを設けること自体。
なんだか非生産的かつ余計なお世話という感じがしてならないのだ。
その食品が腐っていようがいまいが、食べるものの責任と勝手ではないかとつくづく思う。

コンビニ経営をしていて乗りこるためのひとつの壁が、
「食品を簡単に捨てることができる根性を持っていること」
だそうで、コンビニの厳格な賞味期限管理を順守して、まだ誰も手を付けていない綺麗な弁当を賞味期限のラベルのために生ごみとして処分できる、そんな「無神経さ」が必要なんだそうだ。

この訳あり食品を本当に販売していた愛知県の業者が捕まった。
カレーチェーンCoCo壱番屋で不良となった異物混入カツを廃棄物として引き取り安価で販売。
「誰も腹壊したやつぁおらんだぎゃ」
と言ったかどうかは知らないけれども、ともかく罪の意識はまったくないらしく、3年ほど前から常習的にやっていたようだ。
処分を頼んだカレーチェーンも気の毒な限り。
変な勘ぐりをされてもこまるところで、こうなると誰を信じていいものか。
実際にゴミ処理場で捨てるところを確認するまで安心していることもできやしないのだ。
しかも調べれば引き取り食材はココイチだけではなく、コンビニやその他外食のものもあったのだという。

漫画の世界がリアルになる。
21世紀の日本は鉄腕アトムは実現しなかったが、期限きれ食品店は実現したというわけだ。
犯罪だけど。

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