<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



書店で桂望実の名前を見つけた時、即買いを決めたのが「run!run!run!」。

桂望実といえば「Lady,GO!」「県庁の星」などといった痛快な物語が特徴だと思っていたが、「run!run!run!」はかなり違ったドラマだった。
正直、この作家の初めて読んだ作品がこの小説だったら、たぶん他の作品に目を通すことはなかったかも知れない。
そんな気分にさせる異色の小説だった。

まず、主人公の極端な利己主義に不快感を感じてしまう。
果たしてこのような人物がいるのだろうか、とさえ感じてしまうのだ。
その主人公の極端な個性が、ある意味、この年齢の少年あるいは青年であれば持ち得る自信に基づくものなのかも知れない。
しかし、協調性のまったくないその姿は「付き合いたくないヤツ」そのままで、そんな人物が主人公のドラマに興味が湧く筈が無い。

諦めずに私に最後まで読ませたのは、やはり桂望実だからで、その期待は裏切るところまでいかなかった。
結果的には、主人公のその後が主人公自身によって語られることでこの物語は終了するわけだが、それまでの長丁場はいささか厳しいものがあったことは確かだ。

この小説の欠点は、他の桂望実の作品ほどには人物が生き生きと描かれておらず、物足りなさが残ってしまうところにあるのだと思う。
グイグイ読み進んでいけるところは他の作品と共通しているが、いつもならその読ませる力は冒頭からググッと来るのだが、中盤を過ぎないとそのパワーが現れてこないのも辛いところだ。

「run!run!run!」
ちょっと違った物語なのであった。

~「run!run!run!」桂望実著 文春文庫~

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今月、ケーブルテレビたびたびピーター・ハイアムズ監督の「カプリコン1」が放送されていて、ちょっと見てしまうと思わずのめり込んでしまう面白さに魅了されている。
この映画は20世紀末か21世紀初頭を時代設定に、有人火星探査を題材にした映画だ。
でも、ただ単に有人探査を描いているのではなく、
「実は火星探査はウソ偽りで、政府の企んだフィクションであった」
という巧妙なサスペンスストーリーなのであった。

この映画公開された1978年。
私は高校受験が完了し、受験勉強から解放されたお気楽な気分で見に行ったのだったが、見に行ったためにとんでもない副作用を持ち帰ることになってしまった。
その副作用とは、

「アポロの月着陸はフィクションだったのではないのか」

というものだ。

火星探査はウソ偽りだった、という映画の映画描き方があまりにリアルであったため、月着陸という現実を信頼することができなくなってしまったのであった。

その後、数多くのトンでも説が誠しやかに語られ、いくつかのテレビ番組では、
「月には生命体が存在した。アポロのとらえた衝撃的映像」
なんてB級SF映画以下の「私はUFOを見た」みたいなものも出回り始めた。

先週、NASAから公開された40年後の月面写真はそういう疑問を払拭してくれるロマン溢れるものであった。

NASAの公開した最新の月面写真。アポロのイーグル号発射台が写っている。

尤も、こういう写真も、
「お、Photoshopで作ったな」
と言われればそれまでなので、NASAの人々にはそういうインチキを喜ぶアホ科学ファンのためにもう一枚写真を加えていただきたいと思うのであった。
で、その写真とは、これ!

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梅雨の末期。
どういうわけか、毎日朝夕雨が降る。
それも豪雨と言ってもいいほどの強い雨が降るのだ。

思い起こせば、梅雨の時期の集中豪雨は1982年の長崎水害あたりから酷くなってきているような気がしないでもない。
地球温暖化に伴う日本の熱帯化。
なんとなく空気の肌触りが朝夕は東南アジアのバンコクやヤンゴンにいるような錯覚を覚えることも少なくない。

ところで、日本に雨を降らせている梅雨前線はどこで生まれ、どういうふうに流れてくるのか。
私はミャンマーへ旅するまで、そんなことはちっとも考えたことがなかったのだ。

「ベンガル湾で発生した梅雨前線は、このように本州の南側にかかってきています」

初めてのミャンマーへの旅に出かける直前に注意していたNHKの天気予報で、梅雨前線がインド洋で誕生してミャンマーからラオス、中国南部を通り、台湾から始まる日本列島にかかることを初めて知ったのであった。
梅雨の雨に東南アジアの香りがするのは、このためかも分からないと今も時々思っている。

ところで、梅雨の時期。
日本では7月に終了するが、ミャンマーやタイでは9月まで長雨が続く。
この時期を「雨安居」といって、仏教のお坊さんが外出せずに勉強に励む時期になっている。

雨期の初めと終わりにしかこの地域を旅したことはないが、その雨量はすさまじいに違いない。
毎年、タイ北部では多くの家が水に浸かる大洪水が発生。
私も一昨年、ミャンマーのバゴーで大雨に遭遇し、国道のほとんどが水没して危うくヤンゴンに帰れないのでは、という事態を経験した。
その帰りにバンコクに立ち寄ると、チャオプラヤ川の水が溢れそうになっており、地面の同じレベルの水面を大型の艀やチャオプラヤーエキスプレスが行き来するのを「なんやなんや」と興味深げに眺めさせていただいた。

外出など、できる季節ではないのだ。

雨安居の季節。
雨の音を聞きながらじっくり読書でもしたいところではある。


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「東大の卒業生を数人雇っているですけど、もうどうしようもないですね。毎日、植木に水をやるようにと指導していると、ある日、雨が降ったんです。雨上がりにその元東大生がバケツに水を入れて出て行くので『どこへ行くんや?』と聞いたら、『え?花に水やりに行くんですけど』って。私冗談やと思ったんですが。本気やったんです。これが今の東大生なんですね。」

と、話をオモシロおかしく聞かせてくれたのは建築家の安藤忠雄。
サントリーミュージアム天保山でのギャラリートークの一コマだった。

山本夏彦の対談選集「この世のことは笑うほかなし」を読んでいると、現在の日本人の感性がかなり狂ってしまっていることに気付かざるを得ない。
東大生のエピソードではないが、機転が利かないのか、応用力がないのか、それとも単なるバカなのか。
全身の力が抜けそうになる出来事が生活の周りに溢れすぎている。

なんだか見知らぬ外国の、それも知的水準はそんなに低くないけれども文化水準の恐ろしく低い妙なところにいるような錯覚を起こすことさえある。

本書の対談の相手は現在では相当なポジションについてその業界を支えている人や、すでに故人となっているが現在の日本の繁栄の下地を作った人々が取り上げられている。
まだ若かった時代の安藤忠雄もそうであるし、数々の名脚本を執筆しながら航空機事故で亡くなった向田邦子もそうであるし、ソニーを創業し一時期は「このひとを外相に」と言われた盛田昭夫もそうであるが、これらの人たちの対談の中で語られる言葉は、ともすれば現代であれば、

「それって言い過ぎでしょう」

などという安易な言葉で非難されるような筋の通ったことが少ないことに気付く。

山本夏彦自身が文春や諸君の誌上に連載していたコラムそのものが元々辛辣で奥深いものであっただけに、対談もそれ相応のスパイスが利いたなかなかパンチのあるものが厳選されていた。
「ものづくり」という観点からは盛田昭夫との対談が面白いが、安野光雅の恐れを知らない純真さだけの画家としてのスタート話(単に東京に出たら絵でメシが食えると思っていたこと)や阿部譲二の「牢屋に入れられたことを後悔なんてしていない」というアウトローな生き方は山本夏彦の受け答えと合わせて読むものに自信を与えるところさえあるのだ。

死してもなお健在感が漂う頑固オヤジさんの痛快対談集なのであった。

~「この世のことは笑うほかなし」山本夏彦著 講談社~

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正直言って、成功するとはとても思えないのだが、なんでも大阪万博公園のエキスポランド跡地に映画テーマパーク「パラマウントリゾート大阪」。
ユニバーサルスタジオジャパンのように「ジャパン」ではなく「大阪」というところがミソなのかも分からない。
なんといっても万博公園のシンボルは岡本太郎デザインの太陽の塔。
いかなハリウッドの有名映画会社が進出しても太陽の塔の個性には打ち勝つことはできまい。

従って通天閣と並ぶ大阪のシンボル太陽の塔の下に出来るテーマパークは「ジャパン」ではなく「大阪」なのかもわからない。

それにしても、万博公園は辺鄙な場所にある。
昔、万国博覧会の会期中は地下鉄御堂筋線が太陽の塔の前まで乗り入れていたので便利だったように思うのだが、どこのアホかは知らないが会期終了後に線路を取っ払い、地下鉄は西に4kmほどいった千里中央を終点にしてしまったのだ。
もし、地下鉄が乗り入れていればエキスポランドそのものの反映も変わっていたかも知れないのだ。

今、この場所を訪れるのには千里中央や大阪空港で大阪モノレールに乗り換える必要がある。

この大阪モノレールは東京モノレールと比べると各段に乗り心地が良いのが長所だが、モノレールであることに変わりはなく、走るのがトロイ。
本数もデイタイムは1時間に上下8本程度だったと思うから、便利も良くない。
だいたい、大阪市内からダイレクトに行けないのが良くない。

あの大阪発祥の大企業、武田薬品をして「こんなところに工場や研究所つくれまっかいな」と言わしめ、関東に逃げ出した場所であるにもかかわらず、アメリカの大映画会社はテーマパークを作るのだという。

尤も、USJ、東映太秦映画村とここを併せて「映画テーマパークの三都物語ツアー」なんかが企画できて、案外ヒットする可能性もないではない。
しかももし、無謀な私の提案だが、パラマウントが誇るSFテレビ番組「スタートレック」シリーズの実物大エンタープライズ号でも建設すれば世界中からオタッキーが来ること間違いなく、繁栄を極めることになるであろう。
また、大阪が世界的に有名になるに違いなく、その経済的インパクトは橋下知事5人分ぐらいに相当するかもわからない。


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インターネットチケット販売のe+で申し込んでいた大阪城ホールでのアリスの復活ライブの先行チケットが抽選で外れた。
正直、ショック半分、安堵半分。

ショックなところはやはり、あのアリスのライブを生で聴くことが出来ないという残念さ。
もちろん通常発売日に、ドドドドドとアクセスすれば買い求めることの出来る確立はまだ残っているが、多分仕事で無理。
「冬の稲妻」
「チャンピオン」
「ジョニーの子守歌」
「遠くで汽笛を聞きながら」
「君の瞳は10000ボルト」
「走っておいで恋人よ」
などなど。
カラオケのレパートリーを本人らの歌で、しかも生の声で聞くチャンスを逸したのだ。

これは辛い。

安堵したのは、チケット代を払わなくて済むことだ。
アリスともなればチケット代はクラシックコンサートレベルだ。
なんといっても堀内孝雄、谷村新司、矢沢透の三人である。
一人一人でもきんちゃん以外はコンサートで客入りも満員(だと思う)の人たちだ。
安かろうはずはないのだ。

思い起こせば前回のアリスの復活ライブのチケットを買い求めることができたのは偶然なのであった。
JCB会員向けの販売当日、大阪城ホールのファイナルを買い求めようとJCB大阪チケットセンターに電話をかけ続けた。
ところがやはりアリスである。
電話がアクセス集中で全然繋がらなかったのだ。
この時突如、
「JCBのチケットセンターやったらどこでもええんやから、九州にかけたろ」
と閃いた。

で、福岡のチケットセンターに電話をすると一発でオペレーターと繋がって、あっという間にアリスのチケットを購入することができたのであった。

9月のライブは忘れがたいものになった。
何といっても、ライブの観客を見渡すと、私が最も若い世代に属しているのに驚いた。
アリスが最も人気を誇ったあの頃。
高校生だった私はアリスのファンでももっとも若年層に属していたのだ。

そしてライブの感動も冷めやらぬ1週間後、ニューヨークの世界貿易センタービルに2機の旅客機が突っ込み、ペンタゴンにもう1機、そして中部の州に乗客がテロリストと格闘した飛行機が墜落したのであった。
いわゆる9.11は前回のライブ直後に発生したのであった。

ともかく、アリスのライブチケットが外れたことは、もう、元気で生きている三人の最後のライブを見逃したことになやも知れず、暫く眠れそうにない。

残念だ。

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私は今、昭和40年代までの日本人は本当に偉かったのだとつくづく思っている。
夏の蒸し暑い季節にエアコン無しでほとんどの人は過ごしていたのだ。

「ベランダに打ち水して旋風着回して寝ててんで」

と私の母などは過去を振り返る。

「クーラー買ってから電気代はかかるし、身体、弱なったわ。」

とも言う。
クーラーを買ったのが中年にさしかかる年齢だったから身体が弱くなったのはクーラーのせいなのか年齢のせいなのかは判断できない。
でも、クーラーが良いものでは決してなく、むかしのやつは温度調整器のなどもいい加減だったので、暑いか寒いかのどちらかしかなかったように記憶している。

それにしても昨夜の大阪は暑かった。
無風状態。
湿度、きっと80%越え。
エアコンの無い、私の睡眠は十分ではなかった。
朝、通勤で自動車を運転したのだが、そのエアコンの気持ちよかったこと。
運転しながら思わず寝そうになったのであった。

わが家の欠点は実はエアコンがないことだけに留まらない。
実は扇風機もないのだ。
あるのは小さな冷風機と首を振らないファンだけ。

そんな軟弱な設備で私は昨夜の暑苦しさを乗り切ったわけだ。
60年前、あのインパール作戦で餓えと雨と英印軍の爆撃にさらされフーコー谷で命を落とした、日本陸軍の兵隊さん苦労が偲ばれたのであった。

エアコン無しで夜が明けて。
今夜は心地よい風が窓から入ってきて良く眠れそうだ。
但し、エアコンがあればもっと良く眠れるかもわからない。

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事情があって、この夏、只今のところエアコンなしの生活を送っている。

今年の夏はなかなか暑くならず、朝夕涼しい日が続いていたが、さすがに今夜は暑くてたまらない。
こうしてブログを書いていても汗が流れてくる。
ブログを書くことがスポーツになるとは思わなかった。

昨年の暮れから住まいを断片的に別の場所に移しており、そこは未だエアコンが設置されていない場所なのだ。
年末から年始にかけてはエアコンがなくても「暑い」などとはこれっぽっちも感じなかった。
むしろ2月ごろは「寒いのぉ~」とさえ思っていた。
そのうち、そのまま放っておいたら寒さも和らいできたのでエアコンがなくても快適だと感じるようになった。

その頃になるとエアコンの必要性はおろか、この世にエアコンがあるなどと思うことさえなくなっていたのだ。

ことろが今夜になるとエアコンがないだけで「暑い」ことが判明し、私はエアコンがないと生活できないエアコン中毒患者になっていることに初めて気付いたのであった。

エアコン中毒患者になると、まずエアコンが無いと眠れなくなる。
今から40年ほど前。
私がまだまだガキ出会った頃。
夏の最中、暑くてむしむしして入れば、裸になって「畳」や「コンクリートの壁」にべっちょ~と張り付いていれば涼がとれたものなのだったが、40歳を超えるオッサンとなった今では、さすがに家でも畳にべっちょ~はおろか、コンクリートにべっちょ~もできなくなっていしまっていたのだ。
だいたい、現代の住宅に畳の部屋は数えるほどしかない。

エアコンが無いと飲むと火照ってくるビールなど、恐ろしくて飲む気にもならず、暑いからといってアイスクリームばかり食べていると、頻繁に歯磨きをしなkればならなくなり、ますます暑くなってしまうのだ。

但し、エアコンがないと電気代が安く付くのだ。
どれくらい安く付くかというと、省エネ能力フォースターのエアコンよりも断然消費電力が少なく、安くつくのだ。

ということで、ここまで書いているうちに意識が朦朧としてきた。
その証拠に「朦朧」とワープロではスラスラと書けるのに、ペンでは書けないのだ。
書けるようになるためにエアコンを買うことにしよう。

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このほどDVDが発売になった「崖の上のポニョ」はスタジオジブリの数ある作品の中でもおそらく「つまらない」作品のひとつだと私は思っている。
面白くて印象に残っているのは「主題歌」だけで、それがなければ何もなし、の中身空っぽの映画なのだ。
もっとも、宮崎ファンタジーに強く想いを馳せている人には素晴らしい作品に思えるだろう。
「絵が凄い」
「イマジネーションが大胆」
「子供が親を名前で呼ぶわりにクレヨン新ちゃんのように不快じゃない」
などなど、数多くの「素敵な」理由を挙げるだろう。

しかし、
「ポニョ、宗介が大好き!」
などという単純な言葉に、
「何言うとんねん、この映画」
となってしまった人は少なくない筈。

そのつまらないDVDが、どこの街のどの書店、CD・DVDショップに行っても大量に例の歌を流しながら販売されているのだ。
宮崎ファンに言いたい。
4000円以上も出してつまらん作品を買うより、980円の「トム&ジェリー」の著作権切れ作品集を買って見た方がよっぽど精神が豊かになること請け合い。

ポニョはなんといっても内容もポニョなのだ。

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産経新聞2009年7月10日記事「最良の客は日本人、最低はフランス人」

産経新聞が伝えるところによるとインターネット旅行代理店のエキスぺディア社が調査したところ、ホテルにとっての最高の客は日本人で最低はフランス人なのだという。
これって、納得できるようで、できないような、なかなかの調査だ。

私個人の実経験からするとホテルにとっての最低の客はオーストラリア人なのであった。

今から14年ほど前。
私は友人の結婚式に呼ばれて初めてシンガポールを訪れた。
宿泊したのはカールトンホテル。
中の上のランクのホテルでサービスは悪くなく、快適そのもの。
部屋も広くて窓からは眼下の大通りが一望できた。

この時結婚した私の友人はオーストラリア人で元私の英会話教師。
彼は大阪で英語を教えていたのだ。
奥さんも友人で、こちらは日本人だ。
当然のことながら、結婚式には日本人以外にオーストラリア人や英国人、アメリカ人やご当地のシンガポール人などが出席しており、非常に国際色豊かな、まるで自分が国際人になったような錯覚に陥る結婚式なのであった。

で、先述したように私はカールトンホテルに、そして他の日本人の多くもカールトンホテルに宿泊していたが、オーストラリア人一行はオールソンホテルというどうみてもカールトンよりはかなりランクの下のホテルに宿泊していたのだ。
それはなぜか。

私は別のオーストラリア人の友人に連れられ、一行が宿泊している部屋に入ってみて納得がいったのであった。

すでにそこは客室などではなく、パブ。
いや、パブならばもう少しお洒落な筈。
そこは酔っぱらって自制心を喪失した魑魅魍魎の巣くう酒池肉林ならぬ酒池アホ林のどや街になっていたのであった。

日本のビジネスホテルレベルの狭いツインの部屋には少なく見積もっても10人以上が屯していた。
なかは異様な熱気に包まれていた。
タバコをふかすもの、プロ野球の優勝パーティよろしくビールの飛沫をばらまいているもの、飲み過ぎでへどを付いているものなど。
それはそれは物すごい光景なのであった。
会社の慰安旅行でよく客室で社員同士が飲み合ったり、マージャンに勤しんだりして「朝まで飲んで疲れた~」などと平和なことを自慢するサラリーマンがいるが、これと比べればまるで子供の遊びでしかない。
麻薬がないだけが救いだとも言えるレベルなのであった。

ここシンガポールでは麻薬は最悪死罪にされてしまうので、もし誰かが持っていたりして、そこにシンガポール当局が「ご用!ご用!」と押入ってきたら、今ごろ私はミッドナイトエキスプレスになっていたことだろう。

当然、そんな乱痴気騒ぎなので部屋が美しく保たれているわけはなく、あちらこちら「ドロドロ」。
格の低いホテルが宿泊先になっていた理由は考えなくてもわかったのであった。

新聞記事によるとフランス人が最低ということであるが、私の知人のカナダ人によると、
「イタリア人は、ひどい」
ということなので、最低の客の真相はなかなか謎なのである。


写真:バンコクのサトーン地区にある私の定宿から見た景色。

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