<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



「窓を濡らさずにワイパーを動かさないでくださいね」
と言ったのは今朝のNHKのラジオニュース。

黄砂を払わずにワイパーを動かすと自動車のフロントガラスに傷がつくというのだ。
私は傷をつけたことはないけども、車の上に黄砂が積もってそこに雨が降ってシミになるのが大いに迷惑ではある。

それにしても中国の迷惑なこと。

黄砂にPM2.5。
挙句の果てはコロナウィルス。
ミャンマーでは国民を撃ちまくっている国軍を支援。

でも、何も言わない我が国の外務省。
どうなっとるんじゃい!


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自転車の制限速度が標識がない限り60km/hだということで、ふつう「そんなに早く走れない」となるので問題になることはない。
でも、もしそれがアシスト自転車ならどうなるのか。
これも併せて調べてみた。

結論から述べるとアシスト自転車のアシスト機能は時速24kmを超えるとOFFになるという。(ヤマハのWEBサイトより)
したがってママチャリにアシスト機能の付いている一般的なアシスト自転車は時速24km以下で走ることを前提にしているということか、というとそうでもないらしい。
アシスト自転車のアシスト機能制限は時速24km以上で走ることは法律で制限されているという。

これもまたびっくりなのであった。

つまりアシスト機能を使って24km/h以上のスピードで走るときはおそらく原動機付き自転車の部類、あるいは自動二輪の部類に入ってしまうのではないかと私は想像している。
今現在調べていないので確証はないのだが、きっとそうだ。
従って各自転車メーカーはアシスト機能のあるものには24km/hのリミッターを付けて、それ以上のスピードになると自動的にアシスト機能が停止して自力走行になるのだ。

では、最近流行りだした電動アシスト機能付きのロードバイク、所謂e-bikeはどんなんだ、というと、やはり24km/hでアシスト機能が切れてあとは自力走行になるらしい。
25km/h以上でもアシストが機能する自転車はいわばモグリの電動ロードバイクということが言えそうだ。

そういえば私んちにもアシスト自転車が1台あり、日常の買い物を主にカミさんと二人で利用している。
パナソニック製の製品なのでもちろんモグリではない。

ある日のこと、この自転車で10kmほど離れたJAの直売所へ行ったことがある。
このJAの直売所は国道脇にあるのだが、ちょうど国道が長い坂道を上がった山の麓に位置していて普通の自転車で行くと結構体力が必要だ。
だからアシスト自転車で行くと楽ちんだと思ったのだ。

私は少し距離のある移動はクロスバイクを利用しているのでママチャリよりは早く走る。
堺の実家に行くときも時々このクロスバイクで走る。
畢竟、時速は24km以上で走るところが多いので同じ感覚でアシスト自転車を漕いだのだった。
するとなんと、クロスバイクよりもペダルが重いではないか。
楽に登れるはずの坂道もゆ〜〜くりなら登れるのだが、少し力を入れると圧倒的にクロスバイクの方が楽ちんだ。

この衝撃的な経験は「アシスト自転車ってなんなのよ」という疑問を生んだ。

今回この疑問が氷解したわけで、アシスト機能と言えども動力が付いている限り、それは純粋の自転車ではない。
だから制限速度もあり、法的にも色々縛られ、変な自転車を買ってしまうと罰せられる可能性もなきにしもあらず。

ともかく高価なe-bikeを買うのであれば、その半額のロードバイクを買うほうが経済的だしスポーティでいいと思う。
だからといって「e-bikeならこれくらいだけど、その半額のロードバイクでいいから買って」と言ってもカミさんの合意が取れるかどうかは不明でもある。


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「私は時々自転車で堺の自宅から泉州地域(大阪南部)にある大学まで行くことがあるんです。」
「へ〜、そうなんですか。どれくらい時間かかります?」
「だいたい30分ですね。」

あるネット交流会でその某大学の名誉教授の先生は言った。
正直びっくりした。
なんて脚力なんだ、と驚いたと同時に、
「きっといい自転車に乗ってんだろうな....羨ましい:
と思ったのだ。
その先生の大学があるのは関西空港の近くの山側で堺市からだとだいたい30km離れている。
この距離を30分で移動ということは時速60kmで走っているということになる。
名誉教授なのでもちろん定年されている年齢なのだが、なんと凄い肉体をお持ちんだろう、と感動し、我が脆弱な肉体を恥じたのは言うまでもない。

こんなへなちょこの私だが、たまに自宅から実家まで自転車で走ることがある。
私は関西空港まで南下しないがやはり泉州地域に住んでいて実家は堺。
名誉教授の先生とは反対方向で距離にして約20km。
しかし先生と違って早くなく、これまでこの20kmを走った最短時間は50分ちょい。
時速にして20kmちょいなのであった。
実際の最高速度は60kmは出ていないとしてもiPhoneアプリの記録を見ると時速40kmちょいは出ているところもあるし、20kmを1時間前後なので走っているときは30km/h代になるかならないかと思っている。
でも交通ルールを守ると赤信号でどうしても止まることになり20kmを走るのに1時間を切るには、ちょっと信号でインチキをする必要が出てくるのだ。

先生の発言にはいささか脚色の傾向がないこともないと思うのだが、実際に国道26号線を爆走するロードバイクのなかには自動車と似たような速度で走っている者もいるのは事実であるし体育系の先生ならそんな速度で走るのだろうと信じられないこともないのだ。

この交流会のあと、ふとある疑問が浮かんだ。
それは、「自転車の制限速度って、あるの?」ということだ。

そういえば原動機付き自転車は法定速度30km/hというのがある。

私は大学1年のときに自動車学校に通って普通運転免許を取得した。
取得したあと、車は買えないので原チャリを買った。
電車での通学が面倒くさい大学だったので通学に原チャリを使おうと思ったのだ。
大学までこの原チャリで通うことにしたのが大学2年生の時。
私の堺の自宅から大学のある大阪府河南町までは片道15kmぐらい。
今なら原チャリなのどに乗らずに自転車で走る距離なのだが、当時から私はヘタレ気味であったのでペダルを踏まずに走れる原チャリを選んだのだ。

この初めて原チャリで初めての違反切符を切られた。
その時の違反は「踏切一旦停止せず」というやつだった。
捕まったのは通学時ではなく買い物に阿倍野橋へ向かっている時に南海電車の踏切で捕まってしまったのであった。
踏切を通過した時。すぐ後ろにパトカーが付いてきていることにちっとも気づかなかったのが非常にマヌケで強く印象に残っている思い出なのだ。

しかし、この警察に呼び止められたのはこのときが初めてではなかった。
この初めての違反切符を体験する数週間前に通学途中の府道脇で検問をしていた警察に呼び止められたことがあった。

「きみ、原動機付きバイクは制限速度30kmやで。遠くからみていたらエライ飛ばしてたやん。アカンよ。今回は堪忍したるけど。」
とお灸を据えられて開放されたことがあった。
私がシオシオとしていたのであろう。
切符は許してくれたのであった。

で、そんなことも思い出しながら、
「原チャリに制限速度があるのだから自転車にもあるだろう」
と調べてみたら、なんと自転車の制限速度は道路交通法に規定がないことがわかった。

これもびっくりであった。

ある程度予想をしていたものの、自転車も車両なのに制限速度に関する規定が明記されていないとは。
しかし調べてみると規定はされていないが、規定のないものについてはその道を走る最も早い車両の速度が制限速度となるということなので、なんでも自転車の場合は自動車の60km/hが該当するという。
自転車で時速60km/hはなかなか出せる人はいないと、一瞬考えたのだが、あの先生なら出せるわけだ。
しかも到着するまでの単位時間の速度が時速60kmということなので、信号を守ったりしていることだろうから実際はもっと早く走っていることが考えられる。

ということで自転車の制限速度は60km/hということがわかった。

先生は信号無視はしていないと思うが、スピード違反をしている可能性があることがわかった。
そのうちネズミ捕りで捕まって切符をきられることになるんじゃないかと思われ、次回お話をお聞きするのが楽しみになってきたのであった。


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「命の救援電車」を読んでいて副産物として得たのが「御堂筋が完成する前の大阪のメインストリートはどこだったのか」ということだった。

このこと、あまり考えてこなかった。
大阪といえば地元大阪人の私達にとっても御堂筋であり、これは不動のポジションである。
ちなみその不動の御堂筋は府道ではなく国道である。

しかし御堂筋は私の父母が生まれた頃の昭和8年完成で、それ以前は存在していなかった。
いや、存在はしていたが幅の狭い路地のような筋(大阪では南北の通りを筋といい東西の通りを通りという。私はこれをAvenueとStreetの違いみたいなもんと外国人には説明するようにしている)はあったが、間違ってもメインストリートではなかった。
どちらかというとそのあたりは心斎橋筋がメインであったはずだ。

ではいったいどこがメインストリートだったのか。
その回答がこの本に記されていたのだ。
しかもごく自然に。

御堂筋の一本東の大通りと言えば堺筋。
この堺筋が元々の大阪のメインストリートなのであった。
ここは北方向一方通行の大通りでその下を地下鉄堺筋線が走っている。

私はこのことを知るに及び、多くの謎が氷解するのを感じたのであった。

それは何かというと、なぜ大阪の大企業の多くがその本社を堺筋とその近辺にもっているのか、あるいは持っていたのかということだ。
例えば重要文化財になっている野村證券やコニシボンドの本社建物、オフィス家具のイトーキなどの本社は堺筋にあったし、今もおいているところがある。
三井グループの総元である三越の大阪本店も堺筋にあったし、高島屋は今も堺筋に店を持っている。
それに大企業よりもなによりも大阪証券取引所は堺筋と土佐堀通りが交差する北浜の交差点にある。

そういうことでこういう重要拠点がなぜこの通り沿いには多いのかという謎が一気に氷解したのであった。

さらに追加すると大川(旧淀川)にかかる橋の名前が御堂筋は淀屋橋(中之島の南側)と大江橋(中之島の北側)なのに堺筋は「難波橋」。
名前だけから考えると難波橋のほうがランク上のような感じがしていた。
欄干にライオンの彫像があることからライオン橋などという別名があるのもこの橋だけだし、中之島で北側と南側の名前が分断されていないのもこの橋だけだ。

千日前通りより南側の堺筋は大阪の秋葉原ともいえる日本橋の電気街があっていささか品位に欠けるところがあるものの、なぜ千日前通りより北側が威厳に満ちていたのか。
しかも道頓堀も堺筋より東側に劇場が存在したのに、なぜ御堂筋から西側に劇場が存在しないのか、という理由もよくわかったのであった。

ということで堺筋の謎が少しばかり溶けたということで、街歩きの楽しさが少しく増すかもしれないとと思っている副産物なのであった。



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第二次世界大戦前に開通していたフル規格の地下鉄は今で言うところの東京メトロ銀座線の浅草〜渋谷と大阪メトロ御堂筋線の梅田〜天王寺だけだった。
東京メトロは開業時から私鉄で大阪メトロは当時というか、つい最近まで公営鉄道だった。
双方第三軌条方式といってパンタグラフがなく線路の横に敷かれた3本目のレールから給電をうけるという方式の電車なのだが、これはこのブログの本題には関係はない。

何を言いたいのかと言うと私は長い間、この両地下鉄は戦時中はどうなっていたのか、ということが気になっていたのだった。

例えば原爆が落ちた広島の鉄道は壊滅的な被害を受けていたと思っていた。
ところが柳田国男のノンフィクション「空白の天気図」を読んだところ原爆投下の当日の午後2時に広島駅発西条駅行きの列車が出発していたことを知ることになった。
当時は自動列車制御装置もないし、蒸気機関車がまだまだ主流の位置を占めていたので電気が通じていなくても列車を動かすことができたのだろう。
それにしても原子爆弾を生き残った国鉄マンの意地を感じ大いに感動と驚きを感じたのであった。
また広島電鉄も爆心地は流石に設備が大破してしまい使えなくなってしまったが被害の比較的少なかった地域の一部はすぐに運転を再開したという。
原爆が落ちても電気が通じているところがあったのだ。
東京も同じ。
東京大空襲で甚大な被害を受けた省線は「敵に侮られてはいけない、そのためには平常を尽くすことと」と被害の少なかったところは山手線など意地でも電車を動かしたという。

このようなことを聞いていたので「なら、地下鉄はどうだったのよ」と長年疑問に思っていたのであった。
地下鉄は字のごとく地下を走っているし空襲の被害を受けにくい。
でも、戦前走っていた地下鉄東西2路線だけ。
どちらも戦時中どうしていたかはあまり耳にしたことがない。
もしかすると軍用施設に転用されていたのかも知れないなどと思ったりもしていた。
というのも例えば現在の都営浅草線の新橋から日本橋にかけては「戦時中に官公庁を結ぶための連絡路として秘密裏に建設された地下通路を拡張して利用している」などということを聞いたことがあったからだ。
地下鉄は地下通路という大坂城秘密の抜け穴みたいな機能が備わっているので多分そんなんじゃないかしら、と思っていたのだ。

ところが事実は大きく違っていた。
その答えを最近知って大いに驚いたのであった。
その答えの一つが取り上げられていたのが坂夏樹著「命の救援電車 大阪大空襲の奇跡」(さくら舎刊)なのであった。

本書によると東京の地下鉄銀座線は戦中空襲があるときは運転禁止令がでていたという。
事実東京大空襲で爆弾が銀座駅に命中して大破した。
だからきっと米軍の攻撃中は止まっていたのだろう。
これに対して、大阪の地下鉄はそんな命令は出ていなかったというのだ。
出していなかった上に、初の空襲のあった昭和20年3月14日の深夜はいつもはやっている終電後の通電オフもせず、電気が通じていて電車が走る状態だったという。
しかも置かれていた心斎橋駅近くの変電設備は鉄筋コンクリートの頑丈な造りの上、当時世界でも最先端の設備を導入。
米軍の攻撃ぐらいで潰れるような代物ではなかったらしい。
さらに御堂筋線は銀座線と異なり大川(旧淀川)の下をくぐっている。
当時大川は水運としての機能が未だ残っていたので堰き止めてトンネルを作るということができなかったので技術を駆使して川の下を深く掘削してトンネルを建設。
このため御堂筋線は地下深く走ることになり300トン爆弾にも耐えられる構造なのだという。
この御堂筋線の建設をしたのは関一(せき はじめ)という市長で、その構想力は橋下徹元市長をも凌駕するすぐれたものであった。
幅数メールだった御堂筋を数十メートルに拡張。
その下に地下鉄を建設。
その地下鉄も将来を見越して10両編成の電車が停車できるような大きな駅として建設。
開業当時はホームが長いのに電車は1両で営業。
乗客はホームのどこに電車が停まるのかわからず走り回ったという吉本新喜劇みたいな逸話が残っている。
さすが大阪の地下鉄である。
この「無駄遣い」と思われた長いホームは現在10両編成の電車が運用されており、建設時ほぼそのままで使われている。
このことを考えると関市長の判断はいかに先見の明があったかと現在の多くの政治家諸兄に見習って欲しいものがある。

で、このことが空襲下の大阪市民を救うことになった。

空襲は午後11時50分頃から午前3時半頃まで繰り返され地上は火の海と化していたが地下では煌々と明かりが灯り広いホームには大勢の避難民が。
心斎橋駅ではホームだけではなく改札口とつながっている大丸心斎橋本店の地下にも1000人を越える市民が避難していた。
そこへ電車がやってきて多くの被災者の命を救ったというのだ。

この都市伝説のような話はNHKの朝ドラ「ごちそうさん(ご指摘により「まんぷく」から修正)」で取り上げられたことがあったようだが、信じられる話かどうか疑わしかった。
ドラマの作り話だと思われたのだ。
ところが毎日新聞がそれを調査すると、出てくる出てくる。
多くの証言が集められ、実際に御堂筋線の電車が動き、心斎橋駅や本町駅で被災者を拾って梅田や天王寺方面に逃したというではないか。

本書はその証言集になっていて読み始めると、あまりの意外さと驚きで読むことを止められなくなってしまったのだった。

この歴史秘話はどうして実現したのか。
本書を読んでのお楽しみだが、読むと大阪メトロの印象がかなり変わることは間違いない。
御堂筋線は凄い歴史を秘めていたのだ。


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今の若い人は知らないと思うがその昔、1970年代後半に石野真子というアイドル歌手がいた。
今の朝ドラに出ている福富楽器店の女将を演じている いしのようこ の姉だと説明しても、たぶんわからない。
長渕剛のもと嫁さんと言ってもなおさらわからないだろう。

この石野真子が活躍した頃、私は高校生だった。
その頃はニューミュージックが爆発的な人気を博しており若々しいサザンやアリス、ツイストやゴダイゴ、渡辺真知子や八神純子たちがミュジックシーンのリード役で私もどちらかというとアイドルよりもそっちの音楽のほうが好きだった。

かといってアイドルが中途半端だったというわけではなく山口百恵はその伝説の総仕上げに入っている時期でもあり、松田聖子や中森明菜など現在も活躍する女性アイドルが登場した時代でもあった。
そんな中、石野真子は二番手のアイドルだったような気がするが、今ではテレビに出てこない限り記憶から遠のいているのできっとそうだったんだろうと思うことがある。

そんな石野真子の歌を昨日ラジオで久しぶりに聴いた。
曲名は「春ラララ」。

この曲。
タイトルを聴いてすぐにメロディーを思い出したぐらい当時はヒットしたアイドルソングだった。
ああ、もうそんな季節なんだな〜。
と、しばし懐かしさに包まれたのであった。
桜の開花宣言が聞こえ始めた時期でもあり、春にちなんだ曲が新旧関係なくラジオでかかっているが、この曲もそういうことで選曲されたのだろう。
メロディーは明るいし、石野真子は当時は可愛子ちゃんアイドルの一人で悪いイメージはなかったからだ。

ところが歌を聞き始めてしばらくすると、私は歌詞の意味を初めて理解して愕然としたのであった。
以前は歌詞にちっとも関心を払わなかったのだろう。
「春ラララ」の部分しか覚えていなかったのだ。

で、その中身とは、

なんでも「春」という字は「三人の日」と書くのだという。
この時点ではなるほど〜、と思う程度だった。
轟という字が車3つでドドドドドと轟音響くというような感覚かな、と思った。
ところがここからである、
「私とあなたと、そして、誰の日?」
と来た。
「?....誰?」
なんの歌じゃい?
つづいて、
「あなたに会う前にちょっと愛した人かしら」
ときた。
もしかして浮気の歌だったのか、と思って聴いていたら、
「久しぶりに会ってみたいな、あなたも話が合うでしょう」
なんじゃそら?
今彼と昔彼を会わせたら話が合うだと!
そんなことありえん!
で、
「三人そろって春の日に、春ラララ」
おマエのあたまが春ラララちゃうんか!
「なにか始まるこの季節♪」
ケンカ始まるやろ!
明るいメロディでちっとも気づかんかったけど。
これは凄いというか、ひどいというか。
なんちゅう歌やったんや。
で、私は無意識に吠えていたのであった。
「責任者出てこ〜〜〜い!」

石野真子の「春ラララ」。
聴いているうちに人生幸朗になってしまう恐ろしきアイドルソングなのであった。


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冷戦が終わった、と言われていから早いもんで今年のクリスマスがきたら30年が経過する。
今から30年前のクリスマスの日にソビエト連邦が終焉を迎えたのだ。

このソ連崩壊の少し前に湾岸戦争と天安門事件があった。
今になって思えば中東の中世的きな臭さと中国の覇権主義がその姿を見せ始めた兆候だった。
ソ連崩壊が一段落ついたら、9.11世界同時テロとアラブの春があった。
やがれサダムもカダフィも処刑された中東は力による均衡が崩れ始めた。
習近平や金正恩、プーチンは処刑されずに生き残り、金はともかくその影響力は次第に増している。
とりわけ中国はせっせと銭稼ぎの方法を切磋琢磨して人口の多さも手伝い日本を抜いて世界第二位の経済大国にのし上がった。

力によるバランスを失った中等と、銭を溜め込んだ中国がここにきて本性を剥き出しにし始めている。
独裁主義による世界統一だ。
中東はともかく中国はその本性を剥き出しにしてコロナ禍をきっかけに思惑実行に移り始めている。
まるで「鷹の爪団」を地で行っているような展開でやっていることは歴史教科書に出てくるような19世紀的帝国主義だがその中身は笑えないことが多いのは世界中の人が知っているところだ。

この中国や中東に見られる独裁主義に民主主義よりも優れている点があることが図らずもコロナ禍で判明。
人権抑圧、情報統制がパンデミックの制圧に有効であることが明らかになっている。
冷戦で勝利を収めた民主主義はパンデミックで独裁主義に敗れるのか。
その瀬戸際にきているというのが顕になっているのがミャンマーの情勢だ。

クーデターを犯した国軍の背景には中国が存在があることは明らかで、それに抵抗する国民側にはその他多くの国々が付いているが何もできないというのが現状である。
国軍がこのような行動に走ったのはこれが初めてではない。
しかしこれまでと違うのは国民のほとんどがこの10年間に民主主義を享受し、国が急速に発展し始めたことを肌で感じていたことが大きく異る。

なんでも今回は政府側にも国軍につかずに反旗を翻している者が多いという。
国鉄に至っては組織を上げて軍に抵抗しているということがSNSで伝わってくる。

冷戦時代の東西対立の象徴がベトナム戦争だったとすると、ミャンマーのクーデータによる民衆vs国軍の図式は、今世界にける民主主義と独裁主義の対立の象徴と言えるのかも知れない。
もしそうであるのなら世界は総出をあげて民衆を支える必要があることは明らか。

役人と民間人の飲み会で揉めている日本のできごとなど、いかにくだらないことか。
十分に考える必要がありそうだ。




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時代劇ファンには衝撃的なニュースが今週流れた。

再来年にあの鬼平犯科帳が映画化されるに際して鬼平役を松本幸四郎が演じるのだという。

ん〜、無理だろ。これ。

フジテレビ系列で放送された鬼平犯科帳シリーズは他の時代劇の追随を許さない優れたドラマ展開と個性的な俳優陣で過去に例をみない魅力をもっていた。
中でも長谷川平蔵を演じる中村吉右衛門は原作者の池波正太郎をして感動させた役作りで今や鬼平といえば吉右衛門。
その国宝的役作りはかつての松本白鸚、萬屋錦之介、丹波哲郎バージョンを忘れさせてしまうほどのインパクトがあった。

もはや長谷川平蔵の厳しく優しく、それでいて粋な雰囲気を生み出すことは他の役者には非常に難しいものになっているといっていい。

そこへ大胆にも松本幸四郎がその役を引き継ぐのだという。

松本幸四郎その人が役者としては人気も演技力も力不足。
そのような俳優に人気キャラクターを演じる勇気があったとは。
びっくり仰天なのであった。

この役にハマった役者以外がその役を演じることの難しさは、例えば映画「男はつらいよ」の車寅次郎を渥美清以外が演じるのはほぼ不可能であることと同意義と言えるのかも知れない。

この人だからこの役が、とうキャラクターを他の人が演じて失敗している例は少なくない。

松本幸四郎の長谷川平蔵。
かなり無理があるように思うのだが、いかがか。




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先月のとある日のこと。
日本経済新聞の関西欄で大阪の道頓堀がNYのブロードウェイより古い演劇の街だったことを紹介していた。

「飲食街だと思っていた道頓堀は実は劇場の街だった」
だってさ。

正直、びっくりした。
道頓堀を大型の屋台街と間違えとる。
日経の記者は経済なかりに興味があって日本の文化には興味がないのか。
「道頓堀が演劇の街だったなんで」
というぐらいだから、
「船場が日本経済の中心地だったなんて」
と言いださないこともなく、現在のマスメディアの混迷ぶりがよく分かるところなのであった。

さて、その道頓堀。
NHKの朝ドラで女優・浪花千栄子をモデルにした「おちょやん」が放送されていることもあり今は「くいだおれ」の街と思われているが、かつては芝居の街であった。

残念ながら当時の息吹を伝えているのは松竹座のみ。
私が高校生の頃までは少なくとも演芸の角座、藤山寛美の松竹新喜劇で有名な中座、文楽の朝日座があって道頓堀東映、松竹座の映画館があった。
劇場と呼べるものが合計5館存在していたのだ。
角座は一旦映画館になったあと建て替えられ、つい数年前まで演芸場だったが折からのインバウンドに押されて複合ビルに建て替えられてしまった。
松竹芸能の芸人さんはどこで漫才や落語、マジックなどをやっているのか大いに気になるところだ。
吉本興業に移籍したのだろうか。
中座は火災に遭って、その後は劇場にされずこれも複合ビル。
文楽は(大阪の)日本橋の国立文楽劇場に引っ越して朝日座は取り壊し。
道頓堀東映も無くなって松竹座だけ建て替えられて歌舞伎がメインの劇場に生まれ変わった。

飲食の街というのはあくまでも劇場があっての飲食店だったが、それが「かに道楽」や「くいだおれ(閉店)」など料理の中身よりも看板のほうに注目が集まるような店に焦点が当てられ劇場文化は徐々に廃れてしまったのだ。
そこへインバウンドで外国人、とりわけ中国人が大挙して訪れるようになり道頓堀は劇場の街はおろか飲食街でもなく和風中華街みたいになってしまったのであった。
びっくり仰天である。
近松門左衛門がタイムスリップしてきたらきっと腰を抜かすに違いない。

私はこのような道頓堀を中心にする「ミナミ」地区が実は大阪らしさを失い、どこの街ともつかないUSJもびっくりのWorseワンダーランドに変わるにつけ足を向けなくなり、飲むのなら天神橋筋商店街か京橋(大阪の)あたりになってしまったのだ。
正直、一昨年まではミナミへ行くよりも渋谷へ行くほうが多くなったくらいなのであった。

そこへ来てコロナで外国人インバウンドが崩壊。
そしてNHKの朝ドラが道頓堀を舞台に始まり、ミナミが元のまともな大阪らしい繁華街に戻りつつある。
そこに今回の日経の記事。

大阪が実は演劇を支える文化・歴史のある街であることを大阪人自ら再認識しなければならない記事なのであった。



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東京オリンピックが場外乱闘で盛り上がっている。
オリンピックの競技にプロレスが入っていたら組織委員会はダントツの金メダル獲得だ。
組織委員長のちょっとした冗談が冗談でなくなって大騒ぎ。
柔道家のパワハラ。
聖火ランナー辞退騒動。
などなどなど。
どちらかというとマスメディアによるマッチポンプというような感じもするが誰も指摘しないので情けない状況になりつつある。

そもそもオリンピック。
そんなに神聖なものなのかどうか。
オリンピックには高校野球にも似たどことなく胡散臭い神聖さの香りが取り憑いているように思われてならない。

例えばその費用。
東京オリンピックはすでに2兆円以上のお金を消費しているという。
一体そんなお金がどこにあるのか、使っていいのか、誰が許可したんだか冷静に考えてみるとなんだかおかしい。
そもそもなんで2兆円もかかるのよ、と言いたい。
誘致だけで7500億円もかかっているのだから、どこかに問題があるのは間違いない。

女性の人権を傷つけたからと組織委員長を交代させたが、少数民族の人権を弾圧しながら虐殺まで繰り返している国が平気な顔して出場するのは一体なんだろう。
同性愛や思想信条の自由などありえないという国もある。
しかもそのような国のひとつが次回の冬季オリンピックの開催国なのだから大いに嘲笑えるところでもある。

スポーツ選手はストイックで記録への飽くなき挑戦をしているからといって、例えばドーピングや人体改造、国籍変更までして出てくるのもストイックなのか。
そういうことをさせてしまう背景があるようなイベントになにか特別な良いことがあるのか。
ここは冷静に考える時期でもあるような気がする。

このような心情になってしまったのはジュールズ・ボイコフ著「オリンピック秘史 120年の覇権と利権」(ハヤカワ書房)を読んだから。

オリンピックに関するノンフィクションは沢木耕太郎の「オリンピア」以外はあまり読んだことがなかった。
あまり関心がなかったのといい本に巡り合わなかったからだが、今回この本を見つけてクーベルタン男爵以来の近代オリンピックの表と裏が描かれているので買い求めたのであった。

それにしても驚き満載なのであった。
オリンピックには知らないことが多すぎて、これらを知ったらとてもじゃないが開催したいなんてもとより誘致なんかお断りだ、となってしまうに違いない。
その点、日本はノーテンキなのだろう。
来年の冬季オリンピックが中国という現在の世界で最も問題のある国家で開催されるのは究極の選択であったことも初めて知った。
なんと北京が選ばれたときは他にカザフスタンのアルマトイしかなかったという。
どちらも人権や思想信条の自由に大きな問題を抱え、オリンピック開催には適していない。
にもかかわらず北京が選ばれたのは、そのままであれば開催地が決まらないことと北京は夏の大会の経験があったことだという。
では、他の都市はどうだったのかというとオスロやストックホルムが上がったがほとんど全部が地元の反対にあって頓挫したからだという。

オリンピックはお金がかかりすぎ地域にとって何らメリットがないといのが現在のオリンピックに対する考え方の主流なのだ。
現に黒字の大会など一度もなく大金が動く割に儲かるのはIOCのみで、開催都市は持ち出しばかり。
今回の東京大会も同様である。

女性蔑視発言が問題になったが近代オリンピックの父として讃えられるクーベルタン男爵は実は女性差別者で女性のオリンピック参加を死ぬまで否定し続けたことも驚きであったし、様々な芸術的パフォーマンスも展開するオリンピックのスタイルを作り上げたのはナチスドイツであったことも改めて認識することになった。
デンバーの冬季オリンピックは住民投票まで実施され大差でボツにされた最初のオリンピックとなったことも、オリンピックのスポンサー企業は税制優遇があるらしいが、その優遇されたものは社会には還元されないこと、開催費用があまりに高騰しているのでテレビ放送権も高騰して、その権利を売らないと開催できないので高額な放送料を払えない途上国ではオリンピックは放送されないという異様な事態にもなっている。

オリンピックってどうなのよ、と考えてしまう一冊なのであった。







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