<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





20世紀におけるポップアートの頂点。
アンディ・ウォーホル。

キャンベルの缶詰をデザインしたイラスト。
マリリン・モンローの肖像。

誰もが一度は見たことがある作品の数々。
米国の画家・アンディ・ウォーホルの作品が大挙して京都にやってきた。
その数は日本史上最大。
目を瞠るはずのその展覧会は京都市京セラ美術館で開催されていて、やっとのことで先週見に行くことができた。

感想は?
と、問われると。
そう、アートとは生を見ることで初めてその衝撃性を体感することができる、ということを実感したこと。
その一言に尽きる。

今回の展覧会は実にそういう類の美術展なのであった。

そもそも今回の展覧会を知ったのは開催2月ほど前の春のこと。
超有名人気作家の作品展だけに観客の混雑と高価なチケット代が予想されたので、早速WEBでチェックしたところ前売りチケットの種類で「ペア券」があるのを見つけた。
どうせ一人で観に行くことはできない。
行ったりしたらカミさんにこっぴどく叱られることが明らかなので、はじめから2枚買い求めることを考える必要があった。
だからペアチケットは非常にリーズナブルな存在で私は即、ローソンチケットだったかイープラスだったかで買い求めたのであった。

会期の最初の頃は新型コロナによる規制の真っ只中だった。
このため鑑賞には予約が必要だった。
チケットを持っているだけでは観ることのできない、面倒くさい状態になっていた。
そこで、混雑していない日、かつ時間の予定が立つ日とばかり考えているうちに会期はどんどん経過していった。
途中、なんとか見てみようと京セラ美術館まで行ったものの、結局は「ボテロ展」を観たために、ウォーホルはパス。
次回にということにして帰阪してしまった。
アンディ・ウォーホルは後のお楽しみにしまっておくことにしたのだ。

会期は年明けの2月初めまであるから慌てる必要はない。
けれども岡本太郎展がそうであったように人気のある展覧会の終盤はやたら混雑するので避けたほうがいい。
そこで年末も押し迫ってきた数日前、私はカミさんを伴って雨の降りしきる京の街へでかけたのだった。



天気の関係なのか、たまたま平日だったからか、観客はかなり少なめ。
美術館だけではなく平安神宮前の岡崎公園はガラガラ。
だからといってはなんだが広い京セラ美術館の中で、ウォーホルの作品群をゆっくりとじっくりと観ることができたのだった。

ウォーホルのように雑誌やテレビ、映画などで作品をいくつか知っていると、どうしても実物まで観なくていいような気になってしまう。
とりわけ現代のポップアートとなると、なんとなくメディアを通じて鑑賞するので十分な気になってしまうのだ。
もう十分知ってるやん、という感じだ。
ところが今回、実物の作品群に触れることでアート作品が持つ生の感覚が、拾のところメディアを通じると失せてしまうということを痛切に感じることになった。
他の展覧会でも同様なはずなのに、なぜかポップアートという分野で痛烈に感じたのだ。

ペンのタッチ。
サイズ感。
質感。
完成された絵から感じる、裏面にあるそのプロセスと作者の苦悩というか苦心というか、テクニック。
考え。
アイデア。
直感。
そして空気感。

ポップアートだからこそ感じ取れる「生き活きさ」「アートの生命感」が美術館の中では溢れていたのだった。

今回、驚いたことがあった。
最近は結構普通になりつつある館内撮影が巨匠アーティストの作品展であるにも関わらずスマホでの撮影に限られていたものの自由になっていたことだ。
あまり有名でない作家の展覧会では撮影自由というものも少なくないが、巨匠の作品展の撮影が許されていることは感動に値した。
ビデオは禁止ではあったものの写真は取り放題。
だから複写よろしく作品をパチパチ撮影している人の多いのには独特のムードがあったが、ここが肝心。
先に書いたように写真では絶対に作品が持つその魅力を完全に写し取ることなどできない。
主催者側はそれが十分にわかっているのだろう。
だから写真撮影が自由にできる、という趣向になっているのではないかと思った。
つまり私はその寛大な雰囲気の裏に、
「へっ、あんさんら。どうせ写真なんかぎょうさん撮っても展覧会の価値まで持って帰ることなんてできへんえ」
という意固地な感覚があるのではないか、と思ってしまうくらいに生と写真の違いを感じることになった。

アンディ・ウォーホル。
改めてその巨匠の魅力にエネルギーを頂戴したひとときなのであった。

もう一度観てもいいかも。




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京都市立京セラ美術館で今、日本国内史上最大規模の「アンディ・ウォーホール展」が開催されている。
この秋冬最大の関西のアートイベントかもしれない。

先日その「アンディ・ウォーホール展」を観に行こうとと京都まででかけてみたが「ウォーホール展はまだまだ会期があるから」と同じ京セラ美術館で開催されている別の展覧会を観ることにした。
それが「ボテロ ふくよかな魔法展」なのであった。
この展覧会は12月11日が終了になっていたからだ。

鑑賞した感想はというと、
「今日はこのあとウォーホール展見ないことにしよう。だって負けてしまうかもしれないから」
というぐらい面白い絵画展なのだった。

南米コロンビアの画家フェルナンド・ボテロはあることがきっかけで「ぶっとい肖像」を描き始めた。
肖像だけではない。
フルーツも。
木々も。
聖書の世界も。
何もかも。

中でも1963年に発表した「12歳のモナリザ」はニューヨークで話題を集め、彼にとって初のMoMA収蔵の一作となった。

彼の作品の何が特徴かというと先に書いたように描かれる対象が「ぶっとい」のだ。
それも単なる太ったパロディーではなく独立した作品としての印象が強く、感動する前に穏やかなユーモアが心の中に満たしてくれる。
南米らしいラテンな暖かさが溢れているのだ。

この「モナリザ」を始め、多くの有名な作品がボテロの手にかかって新たな作品に生まれ変わっている。
今回はMoMA収蔵の作品は未出展ながらも多くの著名作品が集められた比較的規模の大きな初めての国内展ということもあり、見どころ満載なのであった。

描かれている対象が太っているだけではない絵そのものの表現の豊かさ。
南米の作家らしい温かい色彩構成。
そして「ふくよかな」気持ちになる温かみ。
どれをとっても新鮮で、ぜひとも我が家にも欲しいと思える明るい絵画がいっぱいなのだ。
もちろん買うことは予算的に叶いませんが。
見終わる頃には「今日は連続してウォーホールを観るのは適切ではない」という判断にいたるほどのポジティブな衝撃を感じたのであった。
なぜなら見慣れた作品の多いウォーホールを鑑賞すると、いくら有名な作品が多いとはいえ現代アート。
「ん〜、ありきたり」
となってしまいそうで怖かったのだ。

師走の京で、ふくよかな気持ちになろう。
でも会期は今週日曜まで。
あたたか〜いボテロ展なのであった。



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大阪南港・ATCギャラリーで開催中の「テオ・ヤンセン展」を訪れてきた。

テオ・ヤンセン。
この人の作品をずーっと前から観てみたいと思っていた。
最初は三重県立美術館で展覧会が開催されているのを発見。
作品の写真を見て、ゾゾゾっと興味を誘われた。
「なんなんだ、これは?」
という感覚だ。
これは見に行かなければ、と思ったがその時はなかなか時間が作れずに訪れることができなかった。
で、昨年どこだったかは忘れてしまったけれども、大阪から行くのにそんなに遠くないところで展覧会が開催予定。
ところが今度は時間が作れそうだったけどコロナの緊急事態宣言で展覧会が中止になってしまった。

「たぶん、そのうちどこかでするだろ」

と考えていたら、地元大阪で開催されることを知った。
それも開催1週間前に知人のFBのコメントで知ったのであった。
一人で行くとカミさんに叱られるので慌ててe+で前売りペアチケットを購入。
いざ鑑賞に備えたのであった。

このテオ・ヤンセン。
その作品の何が面白そうかというと、無機物なパーツで構成して組み立てられたオブジェがあたかも生きているかのような有機性を感じさせるところだ。
こんなふうに書くと、何がなんやらわからないのだが、要はプラスチックのパイプと布、ビニルチューブ、ペットボトル、ビニルテープ等などで組み立てられた「風で動くロボット」なのだ。
その仕組は学研の玩具メカモと酷似しているが、大きな違いはより生物を感じさせることと、電源や内燃機関などの人工的なエネルギーは一切使わず、風の力だけに頼るSDGsな動くロボットというポイントだ。

このテオ・ヤンセンという人はもともとは物理学を専攻した科学者出身の画家というユニークなベースを持ったオランダのアーティストで、物理学の知識を生かして今回展示されている「ストランドビースト」と呼ばれるロボットを生み出した。
風を受けると帆を広げて動力として数多くの足が動き出し、歩く。
向きも変える。
オランダの浜辺を動く場所としているが、海に近づくと水を感知して立ち止まり、逆方向へ歩く。
このビースト自身が物を考え、判断し、動いているように見えるわけだ。

展覧会ではこのストランドビーストに触れることもでき、中には自分で押して動く時の感触を体験できるものもあった。
写真撮影は自由だし、仕組みも詳しく解説されていた。
私が小学生なら「今年の夏休みの工作はこれで決まり!」というような楽しい展示内容であった。

こういうものを観るとつくづく思うのだが、なぜ日本人は文系と理系と分けたがるのだろうか。
ストランドビーストは理系と文系の知識があって初めて生み出されたものであり、そういうものは世の中には溢れている。
アートを生み出すためには、時に構造設計も必要だし、電気の知識も要るだろう、モノの仕組みをよく知ることも必要だ。
写真なんかは本来、化学の知識も必要としている。
教育姿勢が文系、理系で分ける限り、新たな面白いものは生まれ難いんじゃないか。

そういうことをひしひしと感じる展覧会なのであった。



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時々「これってなんやろ?」というアートに出会うことがある。
観ていてちっともその価値がわからない。
その作家が世界的に有名な人であればあるほど、何がなんだかわからなくなるのだ。

大阪中之島にある国立国際美術館で開催されていた「ボイス+パレルモ」展はまさにそういうアートの一つだった。
観ていて「凄い」と感じないこともないのだが、その何が凄いのか、自分自身でもちっともわからないというのが正直なところだ。

「おお、何の展覧会かわからないままあなたについてきたけど『ボイス』とは!パレルモって知らんけど」

とカミさん。
カミさんはフランスで学生だった頃、このボイスが頻繁に出てきて今の私と同じように、なぜフランスの教官がボイスをとりあげ学生に教鞭するのかよくわからなかったという。
フランスだけではなくヨーロッパではボイスは注目される存在だった。
本国ドイツも含めて彼は著名であり斬新であり刺激的でもあった。
今回の作品の中には彼が公衆の面前で演じるパフォーマンスのフィルムも上映されていた。
柱状のものと脂肪を使った組み立て風景のようなもの。
檻の中でコヨーテと同居(?)している様子など。
でもカミさんはコヨーテとのパフォーマンスを観て「なんで?」と感じたのだという。

作品の多くはインスタレーション、あるいは金属や木箱などを使った抽象的な作品で解説書が無いと何を言いたいのかがわからないものがほとんどなのであった。
もしかすると作品の中に書き込まれているドイツ語を読むことができる、あるいはドイツやその周辺地域の文化習慣に通じている、というのであれば理解ができやすかったのかも知れない。

「ん〜〜、学生の時に悩んだ作品群に対する総まとめ、みたいな展覧会やったかな〜。良かった。すごく。」

とカミさんは喜んでくれたのだが最も印象に残った展覧会なのであった。


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むかしから気になっていた歴史上の人物。
伊能忠敬。
定年が見えてきだしたら多くのビジネスマンがその生き様を羨ましく且つたくましく思う人。
隠居後に本格的に測量を学び、習得した科学的知識と類まれなるマネジメント力をもって公儀公認をとりつけて日本全国を実測して地図に仕上げるという偉業を成し遂げた。

伊能忠敬は定年後の人生を考えるシンボル的な存在ということができるのではないか。
と、私はずっとそういう印象を持ち続け、現在に至っている。

その伊能忠敬が神戸へやってきていた。
もちろん200年前には実際にやってきて測量をしていたわけだが、今回その伊能忠敬がまとめた地図の写しの数々と測量につかった各種測定器具や関連備品が神戸市立博物館にやってきていたのだった。

そもそもこの展覧会が開催されるのを私はちっとも知らなかった。
神戸市立博物館は暫く閉館して全館リニューアル工事をしていた。
そのためイベント案内サイトでもめったにチェックされることがなく、日頃は兵庫県立美術館や京都市京セラ美術館などに気をとられているので、チェックを怠っていたのであった。

で「なんか面白いのやってないかな〜」とたまたま直接「神戸市立博物館」と検索すると、なんと伊能忠敬展が開催されているではないか。
私は即、見に行きたいと思った。
だが、即決することがなかなかできなかった。
というのも仕事がそこそこ忙しいことと、
「ドラえもん展を見に行きたい」
というカミさんの要望をなんとか払拭しなければならず、なかなか言い出せなかったのだ。

勝手に神戸へ行くと文句を言われるので、それもまた困る。

ドラえもん展は京都市京セラ美術館で開催されており、大阪に住む私にとっては神戸市立博物館とは反対方向。
同日に一緒に行ってしまうということはできなくはないが、面倒くさい。
しかもドラえもん展は入場料が大人2000円もする。
二人で行ったら4000円。
さらに図録を買ったらそれだけで2750円。
合計6750円必要で、京都までの交通費と昼飯代を含めると軽く15000円コースになってしまう。

「図録はやめてコロコロコミックじゃだめ?」

と訊いたら「バカにしてんのぉ〜?」と怒られるに違いない。

実はドラえもん展を開催している京セラ美術館には2ヶ月ほど前に行ったことがある。
それはフランソワ・ポンポン展を見るために行ったのだが、その時すでにドラえもん展が開催されており、私は、
「これ、見たい?」
と訊いたところ。
「今日はいい」
との答えだった。

この「今日はいい」のニュアンスが微妙なので注意を要する。
「今日はいいけど今度ね」
なのか、
「今日はいい、つまり今回はもう見なくていい」
という回答なのか熟慮する必要があるのだ。
で、結局その時はポンポン展を見ただけで大阪へ戻ってきたのだったが、その数週間後、たまたま聞いていたFMラジオでドラえもん展が紹介され、見たくなったというわけなのだ。

それにカミさんが伊能忠敬に興味を示すかどうか微妙だと思った。
地図を作った江戸時代の理系趣味の地味なオッサンの偉業を称える展覧会。
どう考えても色気がない。
どちらかというとアートというよりも理科や地理の世界であって、ナビのついている自動車を運転していても道に迷う可能性のあるカミさんに興味があるかどうか疑わしい分野でもあった。

でも、そうはうかうかしていられない。
開催終了日が近づいていたのだ。

「あのぉ〜〜〜、実は伊能忠敬展が神戸の博物館でやっていて」

と恐る恐る切り出したところ、

「行きたーい!」

と即決なのであった。
カミさんも伊能忠敬には興味があるという意外な展開で、二人して神戸市立博物館へ行くことになった。

それにしても緻密な地図であった。
こういうものを江戸時代に測定して製作した人というのは信じがたい忍耐力があったのであろう。
まさか想像でここまで緻密に描けるわけがない。
私は展示されている伊能図の数々をみてひしひしとそう感じたのであった。

伊能忠敬の地図は残念ながらオリジナルのほとんどが失われているという。
原因は維新後すぐに伊能図を保管していた政府の書庫が火災で焼けてしまったこと。
残った地図も関東大震災の時に消失してしまい残っていないというのだ。

ところが伊能忠敬は御公儀の支援のもと測量したのはもちろんのこと各地域の殿様の援助も受けており、その返礼や殿様自らの依頼もあり数多くの写しやその藩専用の地図などが各地に残されているという。
これが今回神戸で一堂に会したということで見応え充分の内容なのであった。

国宝の測量隊の幟。
国宝の伊能忠敬日記。
国宝の何々と、国宝づくしなのであった。

もし今回の神戸市立博物館の展覧会を逃したら千葉の伊能忠敬記念館を訪れればよいわいな、と当初考えていたものの、これだけの各地に点在する資料を見ることは難しかったに違いない。

伊能忠敬の地図に魅了され、日本を旅する素晴らしい展覧会なのであった。

なお、本展覧会はすでに終了しているので神戸に行っても見れません。
京都のドラえもん展はまだやってるけど。


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兵庫県立歴史博物館へ行ってきた。

非常事態宣言下なので他府県への移動は大いに躊躇われたのだが、
ひとつ、兵庫県の状況も大阪府と似たようなもの
ひとつ、移動はマイカー。公共交通を利用しないので人との接触が極力少ない
ひとつ、会期終了が迫っており解除まで待っていると終わってしまう(会期最終日と非常事態宣言終了予定日が同じ)
ということでカミさんを伴って出かけてきたのだ。

兵庫県立歴史博物館は兵庫県といってもロケーションは神戸市ではない。
姫路市にある。
だから大阪府南部の我が家からは結構距離がある。
片道100kmはあると思う。
博物館は姫路市のシンボル姫路城のすぐ近くにあるのだ。
したがってその存在目的は世界遺産であり、かつ現存する天守閣では最大の姫路城を解説することにあるようだ。
常設の展示物は姫路城関連が主流を占めていたのだ。

私にとって姫路城といえば「暴れん坊将軍」の江戸城であり、「007は二度死ぬ」でのMi6に所属する忍者のトレーンングセンターなのだ。
が、私はまだ中に入ったことがない。
このこと、以前にも書いたことがあるように思う。
今回もまた非常事態宣言下ということもあり博物館だけ訪れたらさっさと帰阪することを誓っていたので、またまた訪問せずに終わってしまった。
しかし博物館では姫路城の構造や歴史などを見ることができて、それはそれで価値ありなのであった。
ちなみにフィクションの世界とは言いながらなぜ英国の諜報機関に忍者が所属していたのかはいまもって不明である。

今回この博物館を訪れた目的は「広告と近代のくらし」という展覧会を見るためであった。
戦前の広告の数々が出展されており、デザインやマーケティングを生業の一部とする私にとっては、勉強になると思われる展覧会だからだった。
それだけに「見なければ」という感覚が以前からあり、非常事態を圧して見てきたのだ。

出展品は幕末期の木彫り版画、いわゆる浮世絵と同じ技法で刷られた広告から明治、大正期の百貨店やお菓子メーカーの広告、昭和の前半のフリーペーパーなど。
いずれもアイデアを凝らした現在でも通じそうなデザイン資料の数々だった。

とりわけ百貨店の広告はその次代の流行を捉えていて面白いと同時に、各百貨店の個性の違いをうかがい知ることができて面白かった。
取り上げられている百貨店は三越大阪店、大丸心斎橋本店、阪急百貨店梅田本店などであった。
三越は今は大阪に存在しなくなってしまったが、戦前は北浜でブイブイ言わしていたことがよく分かる気品溢れた広告であった。
心斎橋の大丸もそうだが洒落たイラストレーションが巧みに使われていて、それなりの階級の人々を顧客として持っていることがよく分かる内容だった。

それと比較して阪急は写真を多用。
コンセプトは三越や大丸同様に高いところを目指しているものの、誰にでもわかりやすい現代的なその誌面構成は私鉄ターミナルの百貨店という前者二者との違いが現れていたのではないかと思ったりした。

そういえば一昨年88歳で亡くなった母が、
「昔は阪急百貨店は普段着で買い物に行ける百貨店やったんやで」
と話していたことを思い出した。
若いときに大阪市内に住んでいたときの経験だと思うが、そういうところが阪急の阪急たる特徴だったのであろう。

他にも森永や明治のチョコレートの広告、薬の広告、地元山陽電車などが並び非常に面白かった。
汐留のアドミュージアムでも同様の特集をやっているときもあるが、関西の博物館での開催だけに関西関連のものが多数あり、そのことも魅力的なのであった。

広告は単なるアートではなく、生きた文化と歴史を伴う素敵な芸術なのであった。


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ファッションデザイナーの高田賢三氏が亡くなった。
享年81歳。
日本のデザインブランドを引っ張ってきた重鎮の一人だったが、二月ほど前に山本寛斎が亡くなっているので、わずか数ヶ月の間に優れたデザイナーを二人失ったことは仕方がないとはいえ衝撃は少なくない。

ところで、このデザイナー稼業。
どんな有名人であってもだいたいは1代商売なのは仕方ないのだろうか。
誰かが事業継続できるというものでもないし、それがたとえ血のつながった子孫であったとしても難しい。
同様のことは建築士にも言えることかも知れないがファッションの世界はより個人の個性が鮮明に主張される世界のように思われるのだ。

落語家、漫才師、スポーツ選手、など特別な才能を必要とする仕事は容易に引き継ぐことができない。
そういう意味ではデザイナーもその一つなのだろう。

時代は移り、人も変わる。


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KYOTO GRAPHIE 2020の会場の一つとなっている京都府庁舎旧本館は明治37年建築の官公庁の建物としては現役最古で重要文化財。
京都は第二次大戦の空襲を免れた街なので町家や寺社仏閣はもちろんのこと御所もそのまま現存しているのは言うに及ばず。
当然、こういう明治時代建築の庁舎が残っていても不思議ではない。
KYOTO GRAPHIEというアートイベントではあるけれども写真のアート性はもとより会場となっている建物の芸術としての価値も計り知れないものがあった。

この会場では私は見る側よりも撮影する側に回ってしまったのは言うまでもない。

私は地元関西の大阪に住みながら葵祭も時代祭も見たことがなく、金閣寺、銀閣寺も訪れたことのない純粋無垢な灯台下暗しである。
だから京都府庁も訪れるのはこれが初めて。
これまでは丸太町通りを通る時に、
「お、あれは何や?」
とちょこっと見える府庁の建物をちょい見しては、
「何やらものすごい建物があるやんけ(←微妙に下品)」
と思っていたのだ。
そのうち訪れることもあるだろうと思いながら、今日まで一度も訪問したことがなかったのだ。



写真のアートイベントで訪れたこの日。
空は完璧な秋空で澄み渡る蒼。
雲がポッカリと浮かぶなんとも言えない雰囲気で、その蒼をバックに黄色い庁舎がどっしりと、そして美しく私とカミさんを出迎えてくれたのであった。

立派なエントランスをくぐると、正面に2階へ登る階段がある。
大理石で創られた階段はルネサンス様式の教科書になりそうな重厚でかつ繊細なフォルムなのであった。
窓から入ってくる淡い光にしばし見惚れる瞬間でもある。
写真展の一つの会場はこの階段を上がったところにあるのだが、この建物は現役でもあるのでイベント用ではなく生きた空気が漂っている。

「ちょっとトイレ行ってくるわ」

烏丸御池から移動してきて用を足しに行きたかった私はここのトイレに入ってみると、なんと!洋式便器がなかったのであった。
今どき和式一辺倒。
洋風建築の建物なのに、なぜかトイレは和式なのであった。

建物はロの字になっていて中央に中庭がある。
この中庭から東の廊下に差し込む日差しが窓のシルエットを廊下と黄色い壁に映し出し、なんとも言えいない美しさだ。
もう庁舎というよりも美術館。
先日生まれ変わった京都市立美術館もとい京都市立京セラ美術館の味気なさちとは比べ物にならない暖かさが漂っていた。
たとえ補修が中途半端なところがあっても、たとえトイレが和式でも、この方が私の感覚にフィットする。
美しく愛らしい建築物なのだ。



クライマックスは京都府議会議場。
ここも今はアートイベントに使用されている。
だがいつもは現役の議場として使わているようで完璧な保存状態であることはもちろんのこと、最近建てられている近代的な庁舎と比較して、今は手に入れるのも難しいのではないかというシャンデリアを初めてとする各種照明器具や木製什器などが素晴らしい。
まるで映画の世界のようなのであった。

きっと日本映画の都でもある京都のこと、映画の撮影にも使われたりしているのではないかとも思ったのであった。

KYOTO GRAPHIEがなかったら訪れることはなかったかもしれない京都府庁旧庁舎。
改めてコロナ禍の中、万全の体制で開催してくださったその方々に感謝なのであった。




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今年も国内最大の写真のアートイベント「KYOTO GRAPHIE 2020」が始まった。
予定より5ヶ月遅れの開催だったが、秋に開催するアートイベントもなかなか良いものだと思った。
なんといっても京都の秋は、それはそれは素晴らしいのだから。


コロナ禍のために5ヶ月遅れでの開催。
それでも中止されずに開催に持ち込まれたのは写真芸術に関わる主催者やスポンサー、そしてなにより写真家の方々の情熱によるところが大きいのだろう。
もちろん会場では万全の対策が採られていた。

展示会場は烏丸御池のNTT西日本のロビーを中心に京都市内各所に配置されている。
ある会場は有料であり、またある会場は無料。
チケットはそれなりの金額なのだが、それに相応しい作品群が世界中から集めれていて内容は、圧巻である。

有料、無料どちらの会場でも昨年と異なるのはチケットが必要であること。
チケットは名刺サイズでそれに個々のナンバーが記されている。
このチケットに記されているQRコードをスマートフォンで読み取ると登録サイトの画面が現れるので番号と自分の名前、メールアドレスを登録する仕組みになっている。
どのゲストがどこのギャラリーに何時頃訪れたのか記録され、万一コロナ感染者が判明した場合、会場で接触があったかどうかわかるようになっていたのだ。

もしかすると5ヶ月の延期期間の間にこのシステムを構築していたのかもしれず、それだけでもこの京都のアートイベントの凄みを感じさせ、感動ももたらす。



この日は烏丸御池周辺にある会場と京都府庁の会場を訪れた。
取り壊される直前の京町家を使用したギャラリー。
古い商家を使ったギャラリー。
おしゃれなインテリアテキスタイルのショールームを使ったギャラリー。
そして重要文化財になっている京都府庁のオフィスと府議会議事堂を使ったギャラリーなど。

一日で回りきれない規模は例年通りで、コロナ対策もあいまって入場制限のために入れなかったギャラリーもあった。

この秋の最大のアートイベント。
京都散策にぴったりの過ごしやすい秋なのである。





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兵庫県立美術館で開催している「ミナ ペルホネン/皆川明 つづく」展を鑑賞してきた。

この展覧会は昨年東京都現代美術館に別の展覧会を観に行った時に開催されていた展覧会で、その時は時間もないし関心もなかったし、平日にも関わらず随分と混雑していてチケット売り場に行列ができていたので鑑賞しなかったのだ。
しかも、なによりもそれよりも、私は皆川明を知らなかったのだ。

「この展覧会見に行きたいねん」

と兵庫県立美術館のウェブサイトを開いて私に言ってきたのはカミさんなのであった。
「つづく」
と書かれた展覧会の名前を見た私は、
「ん、どこかで見たことのあるような」
と思ったものの東京で目撃いしていたことは記憶の奥深くに入ってしまっていて思い出すことはなかった。

久々の兵庫県立美術館ということでコロナばかりで引きこもりもつまらないので展覧会に行くことにしたが、ここもご多分にもれずに予約制になっていた。
事前に鑑賞したい日時を選んでローソンチケットで購入してから会場に行かなければならなかったのだ。
したがって購入してからのキャンセルが効かず覚悟を決めて見に行く必要があった。
しかし東京都現代美術館のようにチケット売り場に並ばなくても良いというメリットもある。
そう思いながらローソンでチケットを受け取っって会場へ行ってみると結局インフォーションでチケットの確認手続きがあり並ぶことになってしまった。
なんという手間。

とはいえ入場制限をしている美術館はゆったりとしていていい。
コロナは歓迎できないがゆったり鑑賞は大歓迎だ。

皆川明はファションデザイナーということで私の不勉強もて手伝ってくれているうえ興味があまりない分野でもあったのでカミさんと違って期待をせずに見に行った。
この期待をしないという心理的準備は時に感動を増幅させる効果があるが、今回はまさにそれなのであった。

まず、エントランスの壁に貼り敷き詰められたクッション。
これが色彩と質感で面白い。
しかも兵庫県立美術館は安藤忠雄設計のコンクリート壁。
この安藤忠雄の意匠の世界と皆川明のファッションデザインの世界が融合して面白い空間を作りだしていた。

「これは.......面白いかも知れない」



今回の展覧会ではもちろん皆川明が得意とする独自のデザインのテキスタイルを使った衣装デザインが多く展示されていたが、デザインスケッチや、発想のもとになった絵画やコンセプト建築など分野は多岐に渡っていたのだった。
私もデザイナーの端くれでもあるので、こういう幅広くデザインのコンセプトや発想、その流れを紹介する展覧会は大好きである。
とりわけ切り紙で構成された海と泳ぐ人の絵やテキスタイルのためのパターン案の数々は見応えがありしばし見惚れることも少なくなかった。
普通であれば一つの作品の前でじっと見続けることなできないに違いない。でも今回は人が制限させているために作品の細やかさや思いに没入することができ素敵なひとときを過ごすことができたのであった。

なお図録が4000円以上するのはなんとかしていただきたかった。







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