<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



はじめてミャンマーを訪問してから10年以上が経過した。
あの時はいわゆる軍事政権下で、
「ミャンマーには自由はない」
と言われていた。
例えば、携帯電話を持ち込むと罰則があると言われたので、いつも使っている携帯電話を大阪の自宅に置いて出発した。
パソコンも情報機器なので念のために持ち込まず、ハイテク機材といえばカメラぐらいで訪問したのだった。
大阪の領事館がなぜか9.11の影響で閉鎖されていたので、ビザはヤンゴンの旅行社にインターネットでお願いしてアライバルビザを取得した。
このアライバルビザというのが大変だった。
関空でも、バンコクのドムアン国際空港でも誰もミャンマーのアライバルビザの存在を誰も知らなかったので、搭乗手続きするごとに、
「引き返すことになるかもしれませんよ」
と脅された。
その毎に、
「ミャンマーは聞きしに勝る、大変なところなんだ」
と、ある意味腰を据えて出かけたのだ。

結果、聞くと見るとは大違いであることがはっきりした。

正直言うと、
「ミャンマーって何か悪いことをしたの?」
と言いたくなるぐらい拍子抜けだった。
確かに街中で政治向けの話はしないほうがいいとガイドさんにも言われた。
でも、こっちがしなくても何故か愚痴は聞かされて、結構影ではみんな好き勝手なことを言っていた。
もちろん、人々は明るかった。
驚いたことに性格は昔の日本人そっくりで気さくで大らかで心配性で優しくて、ホントに良い国だと思った。
少なくとも、ほとんどの人々が良い人なのであった。
出発前のミャンマー情報はかなりのパーセンテージで誤りだった。
むしろミャンマー報道はミャンマーに何らかの恨みがあって、故意に悪くいい、その政府を転覆させるのが目的なんじゃないか、と思うほど現実とミャンマーの外での情報がまったく異なっていた。

そこは普通の発展途上国で、むしろ中国なんかのほうがよっぽど人権侵害や腐敗がはびこっているのではないかと感じたのであった。

報道は信じることはできない。
ミャンマーを訪問して得た教訓であった。

実際、最近でもミャンマーに行ったことのある人に会うと、必ずと言っていいほど、
「報道というのは作られるんだな~ということをミャンマーへ行って初めて知りました」
という意見を聞く。
人権弾圧、強制労働、少数民族の迫害。
なにやら半島の付け根にある国と同じじゃないかと思えるようなことばかり伝えられていたので現地へ行くと拍子抜けしてしまったのは私だけではなかったらしい。
実際は英国植民地支配の置き土産の少数民族紛争との闘いと、その少数民族のいくつかが大きく関与している麻薬の撲滅、宗教紛争の押さえ込みと、西欧の人権団体が大好きなスーチー女史の自宅軟禁という蟄居処分が変なふうに曲げられて「極悪非道の国家」との印象を与えていたのだ。

報道は人為的に作られる。

やれ従軍慰安婦がどうのこうの、侵略戦争だ云々かんぬん。
本音と建前。
聞いているこっちはうんざりするのだ。
自分の国を悪く表現することが美徳だというようにマスメディアは事実に目を瞑り、変な国の肩ばかり持つ。
その変な国は、一方は日本の領土を不当に占有しようとし、もう一方はすでに占有しお粗末な軍事要塞を築いている。
戦後ウソばかりついている国が被害者で、ウソに翻弄されている日本が加害者だなんて、よく言えたものだ。
慰安婦が会見、と言いながら、直前になって逃げ出したことにも目をつむり、
「橋下市長が反省の態度を見せないから、遭う気が失せた」
とはよく言えたものだ。
訊くところによると老元慰安婦は日本国内で主張もそこそこ寄付金の振込用紙を配り歩いていたという。
公の場で、正体をさらされるのが恐ろしくなって逃げ出したのは誰が見ても明らかだ。
それを指摘するマスメディアがほとんどないのはどういうわけだ。
インターネットで市井は彼らの態度を嗤っているのに、どうしたんだろう。
メディアは市井の声を代表しているんじゃなかったのか。
メディアには高学歴が多く、自分の既得権益を死守しようとする政治屋に公務員に大学時代の友達が多いからかわからないが、日本国内でかつてミャンマー報道したような真似をするのはやめていただきたいと思う、橋下コメント事件なのであった。

それにしても橋下徹市長も、もっと言動には注意を払わないと。
敵は揚げ足取りに虎視眈々なのだから。

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私が中学3年生だった1977年の秋。
テレビはアメリカのミニシリーズドラマで話題は持ちきりだった。
そのミニシリーズの題名は「ルーツ」。
アメリカ史のダークサイド、黒人奴隷の家族についてアフリカで奴隷狩りに遭ってから、現代に至るまでのストーリーで、かなり衝撃的な内容だった。
モデルはその作家のアレックス・ヘイリー。
一種のタブーを扱ったドラマだけに本国アメリカでは視聴率40%以上を獲得し、社会現象にまでなった。

西アフリカで囚われた少年クンタ・キンテが奴隷船で米国へ。
上陸した港の奴隷市場で買い叩かれて白人の農園へ。
数々の虐待にもめげず、主人から与えられた「トビー」という名前を拒否しつつ、彼は本名クンタ・キンテを捨てずに部族の誇りを捨てずに生き続けた。
結局、彼は二度と故郷のアフリカに戻ることはなく、そのまま彼は米国で娘を授かり、その娘の成長を見届け米国で奴隷として亡くなった。
その娘が息子を授かり、奴隷解放令以降、その息子が自由な黒人として新天地へ旅立つ所で最初のシリーズは終了。
以降は「ルーツ2」に引き継がれた。
クンタ・キンテの孫から始まり、3代先の作者のアレックス・ヘイリーまでが描かれた。
ドラマのクライマックス、現在のアフリカを取材で訪れたアレックス・ヘイリーは、祖先がいたと思われる部族の長から長い物語を聞かされる。
何時間にも及ぶ物語の末に先祖のクンタ・キンテの名前に出会うのだ。

あまりの感動に、アメリカ版大河ドラマとしてもてはやされ、刺激を受けた人たちが自分のルーツを探し当てようと家系図を調査、辿る運動がにわかに高まったのであった。

ところで、人というのはどこまで先祖を遡ることができるのだろう。
人の祖先を遡ることは難しく、1000年以上続く確実な家族といえば、正直天皇家以外に無いのではないかと思ってしまう。
さらにこれを人類一般に当てはめて、例えば「日本人はどこから来たのだろう?」と問いかけると、ほとんど訳がわかならない。
アジアだから北京原人に至るのか、はたまた別の原生人類に至るのか。
それに対する解答はついこの間まで存在しなかった。
調査するすべが無かったのだ。
ところが、科学の進歩が、歴史をも解明することが可能になりつつあるということに衝撃を覚えたのであった。

ブライアン・サイクス著、大野晶子訳「イヴの七人の娘たち」(ヴィレッジブックス)は女性のみが遺伝的に受け継いでいくというミトコンドリアDNAを用いて人の先祖を追い求めた科学ノンフィクションだ。
なんでも、欧州では殆どの人が7人の女性に行き着くという、「人類みな兄弟」的結果がでているのだという。
古代人の化石からDNAを採取することに成功し、しかもそのゲノムを解読し、現代人のそれと比較した結果だからという、
「そんなこともできるのかい」
という驚きなのだ。

筆者はアルプスの山中で発見されたアイスマンのDNAを解読したことで知られる科学者であり、その信ぴょう性は著しく高い。
人間、祖先を6代前どころか2万年4万年と遡れば、かなりの頻度で「親戚だった」という証拠が見つかるというのも驚きだ。
DNAは生命が生み出した、自然のデータファイルなのであった。

本書にはいくつかの読み物としてのキーポイントがある。
前半の学会で巻き起こった議論の応酬と学者間の闘いは、アカデミックな世界の生々しい人間臭さを浮き彫りとし、後半の7人の女性の物語はDNA調査の結果に基づいた作者の創作だが、物語というよりも、当時の様子をイメージする助けにもなり、かなりユニークだった。
また、いわゆる「ミッシングリング」問題についても結論を出していて、ネアンデルタール人とクロマニオン人の間に遺伝的繋がりはなく、数万年前までは「人」にカテゴライズされる動物が複数存在したことの証でもあるということも、大いに驚きなのであった。
クロマニオン人はDNAでも明らかに現代人のそれと同じで、現代ヨーロッパ人の祖先であることも確認されているようだ。
しかしネアンデルタール人がなぜ没落し、最期の一人がイベリア半島で死を迎えることになったのかの謎は、大部分は想像の世界に包まれているのが現状だ。

読んでいて私がイメージしたのは、もしかするとビッグフットやヒマラヤの雪男は細々と生きながらえているネアンデルタール人の末裔ではないか、というイメージも浮かんできたのであった。

ともあれ、おしまいには日本人についてのDNAの解析結果も載っていて、これもまた興味をそそられるところなのであった。

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松島に来る前に仙台駅の案内表示に、
「松島へは仙石線の松島海岸駅で下車ください。東北本線の松島駅は観光スポットから離れています」
と書かれているのが目に止まって、仙石線でやってきた。
仙台駅に表示されていたそのサインが事実であることは松島駅に近づくに連れて明らかになり、到着したらもっと明らかになったのであった。
松島駅は、何の変哲もない田舎の駅なのであった。
駅前にはコンビニすら無く、駅の中には売店もない。
無人駅でないだけが救いだが、電車は1時間に2本しか無く、あいにく私は駅前にたどり着いたと同時に仙台方面行きの電車が発車するのが見えたので、30分待つことになったのであった。

それにしてもハラが減っていた。
正直言って、駅前にそれなりの店があれば食べてもいいという感覚になっていたのだが、どうもそういう駅ではない。
立派なロータリーがあるのに何もないのだ。
「松島駅」
という名前につられて松島を見に来る観光客は少なくないのではないか。
事実、私も仙台駅で案内看板を見るまでは東北本線でやって来ようと思っていたくらいだ。
何も知らずにここを降りたりしていたら、
「松島って........ホンマに観光地か?」
と思っていたに違いない。

ベンチに座って待つこと17分。
GWということもあり臨時の快速電車が走っているようで、仙台方面にリゾートみのりという快速電車がトロトロと入ってきた。
「ラッキー!少しでも早く帰れるわ」
と感動し、さっそく乗り込むと、なんとなくイメージが違う。
特急列車みたいな作りなのだ。
すると車内アナウンスが流れた。
「この列車、乗車券の他に指定席券が必要です。」
なんおことはない、全席指定の特別列車で「快速」という名前の特急みたいなものなのであった。
駅でのアナウンスは何もなく、案内表示板にも「全席指定」の文字もない。
まってくもって、お騒がせの列車なのであった。



わざわざ仙台まで指定券を買って乗るまでもなく、私はさっさと下車してレギュラーな列車に乗ることにした。
もう15分ほど待てばやってくるのだから。
ホームに降りると、私と同じように「全席指定」のアナウンスを聞いて降りてきたお客さんが何人もいたのであって。

仙台駅に到着すると、すっかり夜になって、相変わらず駅前には多くの人で溢れていた。
昼間と違ったのは、そこに楽天ゴールデンイーグルスのユニフォームを着て歩いている人がそここにいることで、普段、縦縞ユニフォームを着て黄色と黒のメガホン持って、「おら~~~~~!」と言っている人たち(私も含む)ばかりいる私の街とは大きく異なるものだ、と感動しきりなのであった。
ここ仙台では、やはり楽天は人気球団なのだ。

しっかりご飯とビールを飲んで仙台空港についた時、そこいる客の殆どは大阪関西に向かう私のようなピーチエアの乗客がほとんどを占めている雰囲気に包まれていた。
仙台なのに、関西弁がそここで聞かれたのだ。
ピーチエアのチェックインカウンターは相変わらずTVゲームかATMみたいなパソコンなのであったが、手荷物預かりはANAのカウンターで行われていたのであった。
ANAがピーチエアの筆頭株主であることを思い出し、LCCだけどANAのマイレージをつけて欲しいなぁ、と我侭にも思ってしまったのであった。
出発ロビーに腰掛けて、またまたビールを飲んでいると、どこかで見たことのある人がずーっと向こうに腰掛けてこちらを向いている。
あれは......かの有名な京都○○大学のHセンセイではないか。
H先生は大阪に自分の事務所とコンセプトショップを持つ有名デザイナー。
私も何度か交流会でお話をさせていただいたことがあるが、特徴的なのは意見交換をしていて意見を述べてる途中で、

「これ以上、お金を貰わんと話せませんわ」

と守銭奴のごとき態度をとることだ。
本人は冗談で言っているようなのだが、冗談に聞こえないリアリティがあり、この人とデザイン契約したらボラれるんではないかと思わず決め込んでしまう商売人でもある。
先生は同じく京都○○大学の同僚の先生とビールを飲んでらっしゃるんのだが、ここで1つ疑問が生まれた。
関西だけでなく、全国的に著名なデザイナーであるH先生が、なんでまたこんなチープなエアラインを利用しているのだろうか、と。
もしかしたら、
「金もらわんと話せませんわ」
というのは冗談ではなく、ホントに貰わんと危機的状況になるのではないか。
人は見かけに寄らぬもの、
真実は誰もしらないのであった。

そうこうしているうちにボーディングタイム。
ピーチは窓際の座席番号の人と、そのお連れさんがまず搭乗させられる。
短時間で乗り降りさせるには一番の方法だ。
帰りの便もほぼ満席。
この便は関空に向かう最終便だったので、機内の食べ物はオール30%オフ。
私は迷うこと無くピーチアイスを買い求め、仙台の一日に想いをはせながら関空への空の旅を堪能したのであった。

おわり



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「あゝ松嶋や松島や松島や」
と芭蕉が詠んだ場所(注:ダジャレではない)というのは五大堂。
松島湾に少しだけせり出した島のような半島のようなところに建つお堂で、松島に来たからにはここに寄らなければお話にならないという観光スポットなのだ。

瑞巌寺を参詣した私はまたまた国道を渡って海側に行き、観光客でごった返している五大堂へ行くことにした。
誇張でもなんでもなく、ほんとうにごった返していたのだ。

五大堂は瑞巌寺から徒歩数分のところに位置しているのだが、国道を海側に渡ってから、そこへ行くまでには2つの木造の橋を渡らなければならない。
背の低い赤い欄干の橋なのだが、足下がシースルーになっていて、鉄道の枕木状の梁部分に足場板が敷かれているという、いたってシンプルなものなのであった。
これがいささかややっかいだった。
なぜなら1つ目の橋は下の海面までそんなに高さがないのでなんともないのだが、2つ目の橋は高さが5mはあるうえに橋の巾が1つ目の橋よりやや狭い。
欄干も膝頭ぐらいの高さしか無く低い。
これが何がいけないのかというと、若干恐怖にビビって前へ進めない人が出てくるという欠点があるのだ。
ごった返しているところにビビる人がいる。
しかも橋の幅が狭いので人同士がすれ違うと、その衝撃で低い欄干を容易に乗り越え、下に落っこちるのではないかと心配になり、さらにビビる人が出てくる。
このような状態なので、一旦列ができてしまうと人間の交通渋滞が発生し、なかなか前に進むことができなくなってしまう。
なんとも言えない通勤ラッシュアワー並みの五大堂になってしまっていたのであった。

やっとのことで五大堂にたどり着いたのはいいのだが、多くの観光客は五大堂などそっちのけ。
一生懸命、前方に広がる海をバックに写真撮影に余念がない。
お堂にお参りしている人は数えるほどしかいないのであった。
私もまた、その写真撮影に余年のない一人になってしまっていることに気がついたのは五大堂を立ち去ってからなのであった。
結局「日本三景」なので、景色を楽しむのが目的だから、バカボンのパパ風に述べると「これでいいのだ」ということになる。



本来なら、ここから船に乗って島々の景観を楽しめばいいものの、瑞巌寺で随分とゆっくり時間を使ってしまっていたことと、ラッシュアワーに巻きまえれてしまったことなどが重なって、時間がかなり経過していた。
私は夕ごはんを仙台駅の近くで落ち着いてとってから仙台空港に向かいたいと思っていた。
松島でゆっくりしていて万が一ヒコーキの時間に乗り遅れると、そこは人気があってもピーチエアはLCC。
乗り遅れは自動的に100%料金負担のキャンセルになってしまう。
だから仙台で食事をとり、余裕を持って仙台空港に到着する必要がある。
朝の関空ではないが、もしかしたらセルフ式のチェックインカウンターが混雑している可能性もある。
仙台空港へ向かうには午後7時に仙台駅を出発する電車を予定していたので、そろそろ仙台に向けて帰らなければならない時間が近づいていた。

では、どういうルートで仙台に戻るのか。
仙石線の松島海岸駅に戻ってもいいのだが、それでは芸がない。
東北本線の松島駅まで歩くというのはどうだろうか、と自問自答したのであった。

旅に出ると私は基本的によく歩く。
タイのバンコクも最初は歩きまわった。
自動車やバイクの排ガスと、気温35度を上回る熱帯の暑さで死にそうになった。
なんといってもシンガポール在住の日本人がバンコクへ来たら、
「暑い~、死ぬかも」
というのが、バンコクの暑さだ。
しかも、王宮近くに限らず観光スポット近くでは、観光客目当ての客引が宝石詐欺の店などを本物の宝石店と称して斡旋しており、それらを振り切るのも一苦労。
そんな中、屋台で買い食いしながら歩きまわったのだ。

歩きまわったのはなにもバンコクだけではない。
ベトナムのホーチミンも歩きまわった。
付きまとってくるシクロのオッサンを振り払いながら歩きまわったのだ。
ベトナムはタイほどしつこくなく、バンコクほど暑くはないが、当時、冷房の効いているところが少ないのには辟易とした。
国立博物館でさえ、冷房が効いていなかったのだ。
小休止をとりつつ、バイクタクシーを使うという誘惑と闘いながら歩いたのであった。

歩きまわったのは何もアジアだけではない。
冬のシカゴでも歩きまわったのであった。
シカゴは遊びではなく出張だったが、仕事の合間をぬってダウンタウンを歩きまわった。
ループ電車も乗りまくった。
ブルースブラザーズの撮影場所になったオレンジカウンティの役所や、アンタッチャブルに出てくるシカゴ駅の大階段、TVシリーズ「シカゴ」の雰囲気のあちこちを治安も気にせず歩きまわったのであった。

もちろん東京出張でも都内を歩きまわる。
浅草、本所、神田、門前仲町、深川など、時代劇に登場するような地域に関しては、最近では東京在住の人よりも詳しいくらいだ。
だから仙台ももっと歩きたいと思っていたのであった。

だから、ここは残された少しの時間を使って東北本線の松島駅まで歩いていくことにした。
距離にしておよそ2km。
大した距離ではない。

五大堂の前の横断歩道をまたまたまた国道を渡って、私はJR松島駅に向かって歩きはじめた。
相変わらず道路は大渋滞で、その中を鉄道代行バスが走っているという、まったくもってお気の毒な光景が展開されていたのであった。

つづく



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瑞巌寺の参道を抜けて入口まできた。
ここで拝観料を収めなければならない。
だが、拝観料を払って中に入るべきかどうか一瞬躊躇ってしまった。
なにも拝観料の支払いがSuicaやICOCAで支払えるように自動販売機で近代化されていたからではない。
入口のずっと先に見える本堂が銀色の工事パネルや屋根に囲まれており、そこにでかでかと「鹿島建設」と記された看板がかかっていたからなのであった。

「なんや~、ここまできて工事中かいな~」

と、さもずいぶん前からこのお寺の訪問を楽しみにしていた観光客のような台詞をつぶやいてしまったのであった。
実際は2時間ほど前に仙台の駅で「どこへ行けば良いのやら」という結果、やっと見つけた訪問先なのであった。
ここは。
でも、せっかく大阪から片道たぶん700kmのこの地にやってきて訪れた著名なお寺の本堂が工事中というのは、いかにも寂しい。
昨年、なんかの拍子で訪れた法隆寺も修理中であったが、そこは家から電車1時間もかからない距離で、なんかのついでに行ける場所でもある。
でも、ここ瑞巌寺は飛行機でなんかのついでで来られるところではない。
たとえピーチでも無理なのだ。

思案していると入口にかかっている案内板に目がとまった。
そこには「特別公開」の文字が踊っていたのである。
なんでも、本堂の大規模修理を記念して寶華殿が特別にご開帳されているのだという。
その賽華殿とは、伊達政宗夫妻の位牌が収め垂れている場所で普段は堅く扉を閉ざして公開されることはないという。
今回は期間を5月6日まで限定で公開しているのだ。
伊達政宗というと、どうしてもNHKの大河ドラマ「独眼竜正宗」を思い出してしまい、渡辺謙の姿を連想してしまう。
その后の愛姫を誰が演じていたのか忘れてしまったのだが、渡辺謙の顔をした伊達政宗公は凄いお寺を建てたものだと感動しきりなのであった。

ということで、次回はいつ御開帳されるのか分からない賽華殿を拝むため私はJR西日本のICOCAで拝観料チケットを買い求めて境内の奥へと進んだ。

それにしても修理の工事さえしていなければ、荘厳でゆったりとしたお寺なのだろう。
参道沿いの苔が美しく夕日に映えている。
宝物殿では「桃山時代の美」みたいなこともやっているのだが、なんとなく京都か奈良に来てしまったような錯覚を覚えそうだったのでここも入ることを若干ではあるが躊躇してしまった。
賽華殿への途中には山を手で繰り抜いたようなトンネルをくぐり、坂道を上がる。
坂道と石段を上がりきったところに賽華殿が扉をあけて建っていたのだった。

江戸期の侍の習わしなのか趣味なのか。
私は建築の外部装飾は少々ハデハデケバケバで馴染めないものがある。
いわゆる仏壇のでっかいやつ、というイメージだ。
日光東照宮などはその代表例で、徳川家康の趣味の悪さが輝いていると思えてならないのだが、政宗公も家康と同時代人だけに少々趣味はいかがなものだろうか、というような作りをしていた。
すくなくとも極彩色に近い装飾がなされているという点では一致していた。
それでも、この賽華殿が美しく感じるのは、その規模がこじんまりしているからで、周囲も深い森に囲まれているからだろう。
周囲の墨には石窟にもあった石仏のかけらがちらばり、それに苔が生えていて千と千尋の神隠し的世界が展開されている。

アマチュアカメラマンがシャッターを切っていて、私も負けずにシャッターを切った。
夕日が木漏れ日となり賽華殿の装飾を照らす。
キラキラ。
キラキラしている風景が印象的だ。
大阪では桜の季節はとっくに終わってしまったが、ここ仙台では桜の花びらがまだチラチラ風に舞う季節で、賽華殿の周りも風が吹く旅に桜の花びらが、自然の優雅な演出に彩りを添えていたのだった。

御開帳された内部を正面から拝んで、拝観させていただいたことを渡辺謙のイメージを拭い去ろうとしながら、伊達政宗公ご夫妻の御霊にお礼を言い、下山したのであった。



つづく

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瑞巌寺。
松島に関する予備知識がまったくないまま訪れていたので瑞巌寺というお寺が伊達政宗公の菩提寺ということは全く知らなかった。
拝観料を支払い、パンフレットを見て初めて知ったのであった。

いつもの旅行なら、私は旅行に行く目的地のことは、かなり調べあげてから出かけるのだが、今回は仕事なので仕事以外の予備知識はまるで無し。

例えばベトナムを初めて訪問した時は、近藤紘一の書籍を読みあさり、司馬遼太郎、開高健のベトナム戦記を読み、ロバート・キャパの伝記なども読んだ上で出かけたのだ。
その結果、最大の目的地がクチのトンネルでも、戦争博物館でも、アオザイのブティ区でもなく、サイゴンのマジェスティック・ホテル屋上にあるスカイブリーズバーになってしまったのであった。
実際、サイゴンに到着し、ドンコイ通りにあるビジネスホテルに宿泊し、歩いてバーへ行った時のことは今もなお、ベトナム初訪問時の最大の印象として残っている。
涼しい夜風に吹かれながら、地上から聞こえてくるバイクの群れの喧騒。
サイゴン川を行き来する船。
ライトアップされた看板などなど。

「あ~、なかなかええ雰囲気やな~」

と、なるはずであった。
ところが実際はバーの横の宴会場で結婚式の披露宴が開催されておりカラオケの騒音がわんわん響きムードぶち壊しなのであった。

仙台でも松島を訪れることを最初から決めていたらそれ相応に調査してからやってきたであろうに。

これまたGWということもあり境内は多くの観光客で賑わっていた。
門をくぐると高さ20メートルはあろうかという杉並木が参道の両側に並んでいて圧巻である。
右手には石窟寺院が並び、一種独特の雰囲気を醸し出している。
荘厳な雰囲気と密教的な雰囲気が合い交じり合い、なんともいえない旅愁をそそる。
とりわけ石窟寺院は私の最もお気に入りの雰囲気で、その異境的雰囲気はまるで外国か映画の世界のようにさえ感じさせるのだ。

石窟寺院に初めて興味を持ったのは、大学生の時であった。
私の卒業した大阪芸術大学は大阪府の河南町というところにあり、その背後は「近つ飛鳥」または「河内飛鳥」と呼ばれる歴史の古い地域である。
どれくらい古いかというと聖徳太子の墓や小野妹子の墓があるほど古い地域なのだ。
その近つ飛鳥の東背面には二上山と葛城山があり、その間の谷間になっている峠を超える道が日本最古の国道竹内街道だ。
ちなみに作家の故司馬遼太郎はこの竹内街道沿いの奈良側の出自だと、たしか「街道をゆく」に買いてあったと記憶する。
があまり確かではない。
この竹内街道が通る峠を竹内峠と呼ぶのだが、この峠から二上山の山頂に向けて登山道が通じている。
ある日、私は50ccのバイクで登山道口までやってきて、そこから頂上を目指して歩こうとした。
で、実際に歩き登りはじめた。
頂上から大阪平野の写真を撮影しようと思ったのだ。
10分ほど登ると、登山道が枝分かれしていた。
不慣れなので、どちらへ行けば良いのかよく分からず、適当に進むことにした。
多少道を迷っても、そこは二上山。
規模が小さいからどうにでもなると、危なっかしくも考えたのであった。
この登山道。
次第に細くなり獣道のようになってきた。
「迷ったかな」
と不安になってきて、それでも歩いて行くと、やがて視界がひらけて平坦な場所に出た。
草ぼうぼうの広場みたいな所であったが、なんと正面には山を繰り抜いた大きな洞窟が有り、目を凝らすと仏様のようなものが掘られている。
さらに周囲をよく見ると石塔のようなものも朽ちた姿で立っていて、そこが仏教に関係する何らかの場所であることがうかがい知れた。
正直、気味が悪かった。
なんなんだ、ここは。
と思ったのだ。
洞窟に近づくと、「ガチャ!」という石がぶつかるような大きな音が立ち、なにかがガサガサガサと動いたので、私は飛び上がらんばかりにビックリして、這々の体で下山したのだった。
あとで調べるとそこは「鹿谷寺遺跡」と呼ばれる石窟寺院跡で山そのものを繰り抜いて出来たお寺の跡、山岳信仰の印なのであった。
しかも大阪府の史跡に登録されてるようだったのだが、予算が無いのか、だれも知らないのか朽ちるに任せた姿になっていたのだった。

とまあ、そんなことで以来、鹿谷寺であろうと敦煌であろうと石窟に興味を持つようになったのだった。
尤も、敦煌へは行ったことはありませんが。

瑞巌寺の石窟は幾つもの石窟が並んでいて迫力がある、というより独特の美を醸し出していた。
岩面にはところどころ苔が生えていて、いっそう美しい。
どこかで見たような景色だ。
そういえば、「千と千尋の神隠し」に出てくる現実世界の方のワンシーンみたいだ、と思った。
霊気が漂い、幻想的な石窟なのであった。

つづく

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松島海岸駅前にある観光案内所で松島の観光地図をもらって海岸に向かって歩きはじめた。
駅前はもちろん海岸まで人が多く、駅前の国道は大渋滞になっていた。
GW。
当たり前だが電車できてよかった。
この付近にはマリンピア松島水族館というのがあるそうで、多くの家族連れやカップルがそちらの方向に向かって歩いてる。
私はというと水族館にはよらず、観光船の船着場に向かってあるくことにした。
沖縄の海洋博博記念公園を訪れた時も水族館には立ち寄らなかった。
沖縄の場合、かの有名な美ら海水族館なのだったが、
「ここへ入る時は家族と一緒。とりわけ娘も一緒」
という、私らしくない考え方が頭をよぎり、水族館をパスしたのであった。
が、ここ松島水族館も少なからず同様で、水族館のような人が群れてとんでもない状態になっているところは避けることにした。
遊覧船に乗りたいという気持ちも、なんとなく時間もなかったのだが、海を見たかったのだ。

松島といえば、
「ああ松島や、松島や」
という訳のわからない句があるけれども、この光景はなかなかよろしい。
関西人の私にとっては、
「お、なんとなく瀬戸内の光景に似ているな」
となってしまうのだが、さすが日本三景。
もう一時間早く来ていれば遊覧船で島巡りでもしたろうに、仙台駅でグズグズしていたので到着が午後3時を過ぎてしまっていた。
少しく後悔するのであった。

この松島は小さな島が松島湾を取り囲むように望まれ、それが美しい景色を演出している。
「3.11の津波では松島は比較的被害が小さかった」
ということのようだが、この地形がこの景勝地を守ったのだろう。
尤も、津波事態が世界最大級だったので「比較的小さかった」といってもホントは小さなものではなく、遊覧船も津波に飲み込まれ遠い所まで運ばれたらしい。
今ではすっかりそういう惨事の跡かけらもなく、ごく普通の観光地の顔をしている。
傾いてきた陽射しが島々を照らしだしてなんとも美しいところなのだ。

「塩釜行きまもなく出ます_」

というアナウンスで桟橋を見ると大勢の観光客が少し大きめの観光船に乗り込んでいるところだった。
あの船は松島の島々を眺めながら、最終地は南へ少し行った塩釜港なのだ。
これに乗って塩釜まで行き、そこからは電車で仙台へ戻るのがいいかもしれない、と一瞬考えたが、そうすると島々を見るだけでこの辺りをちっとも散策できないまま帰らなければならず、断念したのであった。

それにしても国道の混雑は凄い。
きっと天橋立も一緒なんだろうな、と思っていてふとしたことに気がついた。
ここへは自動車で来て大渋滞を作ってはいけないと気づいたのだ。
なぜなら、JR仙石線はこの次の駅から不通で代行バスがこの国道を走っている。
その国道が大渋滞ということは、駅からバスに乗ったけど、住民の人はなかなか家へ帰れないとか、目的地へ着けないという問題が発生しているということだ。
地震の後の交通被害はいかに苦痛か。
神戸で体験している関西人にはよく理解できることであった。
あの時は阪神電車の青木駅から三宮までどれだけの人々が歩いていたことか。
また、渋滞で動かないバスに揺られていたことか。
観光シーズンだからといって、ここは被災地で交通の便が今も復旧していないわけだから、やはり電車で観光すべきではないか、と素直に思いつつ、

「まさか私はいい子ぶっているのではあるまいな」

と自分で自分を疑いながら再び国道を渡り、瑞巌寺境内へ向かって歩きはじめたのであった。

つづく

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東京組の二人に仙台駅まで自動車に乗せてもらって、そこで別れた。
二人は一路東京へ向かって帰路につく。
GWまっただ中。
東京までどれほど時間がかかるのか。
私は二人に、
「頑張れ~、福島で喜多方ラーメンで口直しして帰りや~」
と言って別れたのだ。

一方私自身。
時計を見ると2時半。
帰りの飛行機は20:45分仙台空港発。
6時間もどうするんだ?
6時間あったら新幹線で大阪まで帰るではないか。
私は一瞬途方にくれてしまったのだった。

なんどか仕事で仙台に来ているものの、観光は仕事の空き時間に青葉城を訪れた1度だけ。
他の観光スポットはよく知らない。
美術館か博物館を訪れるのもいい考えだが、何処か他のところはないだろうか。
平日だったら他の事業部の仙台事務所で仕事をさせてもらうのだが、なんといってGW中。誰もいないし鍵がかかっていて入れない。
仕方がないので仙台駅の観光案内所で無料の宮城県の観光パンフレットをもらってどこか訪ねるのいい場所はないかどうか調べて見ることにした。

宮城県は大きく分けて北部、南部、中部と言う具合にエリア分けすることができるようで、南部には白石という小さな城下町があるようで、興味をそそられるし、北部には石巻があって、この街も訪れてみたいところだ。
でもどちらも仙台からは多少の距離があり6時間以内に行って戻ってくるのは移動だけに時間をとられるようで良いアイデアとは思えない。
もっと近場にいいところはないものか、と仙台近郊に目を凝らしてみたところ「日本三景 松島」が目にとまった。

「日本三景?.....日本三景というと天橋立、厳島神社、松島のあの松島か?....松島って、仙台にあったんや」

と、マヌケにも長い人生において、はじめて松島がどこにあるのかを知ったのであった。
それが電車で30分もかからないところだということなので、これは是非とも松島を訪れなければと、即6時間の時間つぶしに松島を訪問することに決めたのであった。
しかも津波被害のあった沿岸部は私の会社の仙台事務所のある空港近くしか知らないので、訪れるにはいい機会でもあると思ったのだ。

これまで「天橋立」と「厳島神社」は訪れたことがある。
これに「松島」を加える事により日本三景のグランドスラム達成ということで、今日はめでたく帰りに宮城のお酒で一杯やりたいところだと思った。
「天橋立」は小学1年生の時に父の運転する自動車で母と三人で初訪問して以来、何度か訪れている。
途中、酒天童子で有名な大江山で蕎麦を食べ、宿泊は城崎温泉。
家族3人での最後の楽しい旅でもあった。
以後は父が会社を興したので社員旅行にごっちゃにされ、まったくもって詰まらない旅行になってしまい、以後、家族だけの旅行は数年前にリタイアして家にいるだけの二人を引き連れて岡山の下津井に墓参りを兼ねて出かけるまで何十年もなかったのだ。
しかし天橋立は京都府北部と言う地の利もあり最後に訪れたのは5年ほど前。
訪れた、というよりも仕事で宮津へ行った途中に通過した、というのが正しいのだが、とりあえず天橋立の片鱗はうかがい見たのであった。

「厳島神社」は20年ほど前に1度だけ訪れたことがある。
この時は仲良くなった英会話スクールのインストラクターだった二人のオーストラリア人の友人と出かけたのであった。
LとCという二人ので凸凹コンビはキャンベラの大学を卒業し、ワーホリで日本に来ていた気のいい奴らで、この時、ちょうど日本に来てから1年ほどが経過していたにもかかわらず、あまり旅行をしたことがないということなので、私のマイカーで広島旅行をすることにしたのだ。
当時、私の英語力はというと英会話スクールでもベーシッククラスに所属する頼りないもので、今考えるとよく二人に通じたものだと感心することがある。
岡山の瀬戸大橋、岡山城、広島の平和記念公園と移動し、湯来という広島の山合の温泉町に宿泊する前に厳島に立ち寄ったのであった。
厳島は奈良のようなところで鹿が境内をウロウロしていて、そのウロウロしている鹿の写真ばかり二人が撮影していたことが印象に残っている。
印象に残っているというと原爆資料館を訪れた直後、二人が私に、
「なぜ日本人はアメリカ人に抗議しないんだ。こんなのめちゃくちゃじゃないか。なんで黙っているのか理解できないぞ」
と本気で憤っていたことも印象に残っている。
私は返答に困ったのは言うまでもない。

ということで、ついに偶然にも日本三景のグランドスラムをこのGWに達成することになった私は、仙台の駅のガイド看板に記されていたように仙石線に乗車し、松島海岸駅を目指したのであった。

仙石線。
私は、
「釜石へ行く列車なんだな。時間があったら釜石まで行ってみたいな」
と地下ホームへ通じる階段を下りながら考えていたのだったが、仙石線は一昨年の地震で甚大な被害を受けた路線であり、松島海岸の次の駅からは不通になっていることを松島海岸駅に到着し、代行バスの乗り場に列ができているのを見て思い出した、というか気がついたのであった。
神戸も代行バスのバス停に長蛇の列ができていたものだが、それも4ヶ月ほどで解消した。
ここ東北宮城は今もなお不通区間があるという、その現実の空気を来てみて初めて体験することになった。

つづく



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そのラーメン屋さんは何の変哲もない普通のラーメン屋さんだった。
ただ、その普通のラーメン屋さんに11時30分だというのに10人以上の列ができていることで、これら周辺のいくつかのラーメン屋さんも同様なのであった。

「ほら、もう行列ができていますよ」
と我が同僚。

大阪人の私としては飲食店前で並ぶのはあまり好みではない。
大阪ではうまい店であっても行列ができることは滅多に無く、

「行列を作って待つぐらいやったら他の店で食べよ。時間の無駄やし。」

と、Time is Money の大阪人ならではの発想に至るのである。
従ってこんな郊外のラーメン屋で列を作って待つ、という感覚が理解できない。
それだけ美味しいということか、はたまた安いということなのか。
私は大いに疑問を感じながらGWだというのに少々肌寒い中をぼーっと立っていたのであった。

「ご注文は何にされますか」

驚いたことに、このラーメン屋はスターバックスよろしくメニューカードを持って外で待っている客から注文を受けている。
これは商魂たくましいというかアホらしいというか。
並び始めて15分以上経過しているこのときに、

「もう、この辺の客は帰らないだろう」

という考え方で、なかなか客を甘く見ているというものだ。
ここで私が酔っ払いモードで軽く理性を喪失していたりなっかしたら、一番高いものを注文して、別のお店に移動しただろうに。
しかし、ここはシラフであり東京からの同僚も一緒にいる。
当りまでが、我慢をして「チャーシューラーメン 680円」を注文したのであった。

店の中はカウンターのみで、テーブする席はない。
従って私たち三人はカウンター横一列に座らされ、ラーメンが出てくるのを待った。
カウンター向こうは厨房だ。
この時すでに待ち始めてから40分が経過。
私が40分も列を作って待ったのは過去にUSJのアトラクションと、1970年の大阪万博のパビリオン前の2回だけである。
図らずも悔しくも、仙台のラーメン屋で待つことになろうとは。
人生色々あるものである。

列を作って外で待っている時にオーダーをとっているので、すぐにラーメンが出てくるかというと、そういうこともなく、さらにカウンターで10分以上待たされることになった。
これで旨いラーメンが出て来なければ世の中間違っている。
私は、そう叫びたくなってくる気持ちを抑えながらラーメンを待っていた。
すでに仙台駅で食べた立ち食いそばの効果はなくなっている。
で、結果はというと、世の中は間違っていたのであった。

ラーメンがカウンター越しに「へい!お待ち」と渡された。
丼に並々と盛られたラーメンとつゆ。
かなり豪華そうだ。
でも、何かが違う。
なんだろう?
そう、チャーシューラーメンを注文したのにチャーシューが2枚しか入っていないのだ。
これは、もしかすると間違っているのかもしれない。
隣に座っている同僚が恐る恐る伝票をみてみると、「ラーメン」のところにチェックが入っていてチャーシューラーメンにはチェックは入っていない。
なんだ、これは。

「間違ってますね。交換してもらいましょうか?」

と同僚。
しかし私はすでに割り箸を丼の中に突っ込んでしまっていた。
いまさら交換というのも、なんだと思い、待ったをかけて、レンゲで汁を掬って飲んでみた。

「.........」
「どうです?」
「........ラーメンはなんぼ?」
「500円です」
「...このままいこか」

私はスープの味を確認した瞬間、価格の高価なチャーシューラーメンに変更させる必要は一切ないと判断したのであった。
この判断はラーメン屋を出てから2人の同僚に絶賛されることになった。

それにしてもどうしてこういうラーメンに行列ができるのだろうか。
理解に苦しむ。
ラーメンのスープは出汁が十分に出ておらず、醤油で色がついて、そこに豚の脂が浮いている、というようなシロモノなのだ。
しかも、2枚入っていたチャーシューはカスカスで甘みは殆ど残っていない。

「なんじゃこれ!」

と、往年の刑事ドラマの人気デカの死に間際のセリフのような感じなのであった。
正直、インスタントラーメンのほうが数100倍はうまい。
東京の2人が自分たちの味覚が間違っているというのではないことを納得し、喜んだのは言うまでもない。

「やっぱり、私たちじゃなかったんですね」
「.....そんな場合やないやろ」

仙台で美味しいラーメンに出会えない理由がよくわかならない。
宮城県の南隣、福島県には会津喜多方ラーメンという実に美味なラーメンが有り、北隣りの岩手県にはこれまた盛岡れーめんなる、すご美味の冷麺がある。
またその西隣の秋田県には稲庭うどんという、東北地方なのに関西テイストでかつ、関西の饂飩の上をいくのではないかというぐらい美味い麺がある。

仕事がすべて終わって仙台駅に車で向かう途中もラーメンの謎解きはできなかった。

「あ。ここは行列ができてませんね」
「もしかすると、美味いかもわからへんな。」
「どうしてです?」
「だって、熊本ラーメン、って書いてあるもん」

つづく

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結局、会社のメンバーとの合流地点である陸前落合駅に到着した時、時刻は午前10時30分を過ぎていたのだった。
なんのことはない、仙台空港に到着してから陸前落合の駅まで2時間もかかるという信じられないことになった。
トラブルもなく普通に来ているのに。
なんだか大阪から仙台に来るよりも、仙台空港から仙台郊外の陸前落合に行くほうが多くの時間を要してしまったような感覚だ。

午前中の打合せで仕事はほとんどすんでしまったのが、午後も少々お客さんと話す内容があったので、12時前にお客さんに断ってからランチを食べにいくことにした。
レストランが混雑する前に食べに行こうという算段である。
この時私はあまり腹が減っておらず、猛烈に食べたいという感覚はなかった。
なぜなら、仙台空港からこちらへ向かう途中で、あまりにお腹が減ってしまったため、ランチまで我慢することが到底できなくなってしまい、仙台駅で立ち食いそばを食べてしまっていたからだった。
しかし、東京からやってきている仲間の社員は腹を空かせている。

「お腹へってないから、勝手に食べに行ってや」

というような冷たい態度はとれない。
それに、互いに出張中の身分なので何かと積もる話もあろうもの。
食事をしながら情報交換が理想的な雰囲気だ。
もっとも情報交換といっても社内の勢力争いの話だとか、誰それさんは調子に載っているが今に痛い目にあう、○○子は結婚したけどできちゃった結婚だった、という類の話になることもあり、正直そんな話しになるのであれば社員と一緒に食事はしたくないものだ。
でも、私の仲間はそんな話よりももっと趣味に傾倒した話になることがおおい。
サイクリングに行ったら下り坂で転倒して鎖骨を折ったが、「ええ歳をして」と誰にも同情されなかった話。
山梨のパスタ屋の大盛りは驚異的だというような話。
錦糸町のキャバクラにはもう二度と行かない。
といったような話が交わされるのだ。
従ってランチ不要の断りができず、一緒に食べに行くとこになってしまった。
正直、食べに行かなければよかったのだ。

東京からは二人来ていたのだが、二人はもうすでに仙台に1週間泊まり込みですっかり現地事情に詳しくなっていた。
二人が言うには、
「仙台のラーメン屋は凄いんですよ」
という。
「何が凄いの?」
と訊くと、
「行列ができているんです」
とのこと。
行列の出来る店ぐらいどこにでもある。
「で、それで?」
と私。
「昨日なんか外で30分、中で30分待って、食べられるまで1時間もかかったんです」
「じゃあ、有名な店やったんやね。味もバッチシ?」
「...........」
沈黙があたりを支配した。
行列ができるということは、美味いから行列ができるのであって、そんなことは世間一般の常識だ。
「おとといも、そうだったんです。」
「東京の人と仙台の人は味に対する感覚が違うのか、それとも東京の我々がおかしいかです。」

東京の人の味覚がおかしいというのは私も時々思うことで、ある意味当を得ているかもしれない。
もんじゃ焼きだとか、濃口醤油のうどんだとか、白ネギのラーメンだとか、
「なんやねん、これ」
というようなものが少なくない。
関西のお好み焼きや焼きそばに至っては、関西系チェーン店以外では「?」というような味であることは何度も経験しているところでもある。
だから東京の感覚では仙台の味が理解できないのかも、というのが二人の考えだ。

ということで、今日もまた別のラーメン店に行って味を確認しようという計画のようだ。
大阪から来た私がなんと答えるのか。
二人は知りたくて仕方がないという表情を浮かべて自動車を出発させたのであった。

つづく

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