<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



来年に迫った東京オリンピック。
各競技の観戦チケットが発売されたが私は結局申し込まなかった。
買ったとしても見に行けるかどうかわからないし、場所が東京というところにもある。
交通費は馬鹿にならない。
宿泊先を確保できるかどうかという不安もある。
また記念にという意味だけで興味のない試合を見るのもなんだしな〜と思ったこともあるからだが。
もちろん雰囲気を味わうにはテレビでは不可能だということはわかっているのだが、なんとなく気分が乗らないのだ。

考えてみれば長野オリンピックのときはチケットで大騒ぎすることもなかった。
確か札幌大会でもそんなことはなかったように記憶する。
前回の東京オリンピックのとき私は1歳だったので当然覚えておらず、なんで今回の東京大会でそんなに大騒ぎしているのか、考えれば考える程わけがわからないのだ。

それだけ夏の大会は冬の大会よりも価値ありということなのかどうかは不明だが、なんだか今回は無理やり盛り上げようとしている感覚がある。
そう、国家的祭りと言うよりもビジネスという感覚が色濃く漂い、どうしても気分が乗ってこないというのがチケット購入に踏み切らせない、バリアなのかも。


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トランプ大統領が国技館の土俵に上がって優勝力士に大統領杯を授与したのは昨日のこと。
もしかすると、
「ヒョーショージョー!」
がトランプ大統領によって復活するんじゃないかと期待をしていたが、表彰は英語で。
その表彰状も片手渡しで、表彰状の授与の作法もめちゃくちゃだったが、それはそれ。
日付のところで「Reiwa One!」と言ったのが妙に印象に残って場内でも「うぉー」という感じがテレビを通じて伝わってきた。
なんだかAirforce Oneみたいでヘンテコリンな感じがしないでもないが、確かに令和元年は英語では「Reiwa One!」。

それなりに面白かった異色の千秋楽なのであった。

それにしても優勝力士が日本人で良かった。


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先年株主からの要望があったかどうか知らないが、SONYがこの夏NHKが映らないテレビを発売されて話題になっている。
機種名はブラビア BZ35F/BZシリーズ。
要はチューナーが内蔵されていないテレビでNHKだけではなく他の民放も地上波やBSは映らないテレビなのだ。しかも法人向けの販売で一般小売店では販売していない。
いわゆるプロフェッショナル向けテレビということができる。

もう何十年も前だが、ソニーには「プロフィール」というトリニトロンブラウン管テレビがあって、確か一部の機種にはチューナーが装備されておらず、モニターとしての機能をメインにしたテレビであったように記憶している。
デザインもソニーらしく秀逸で、フレームでキューブ状に形成されていて積み重ねたり横に組み合わせてマルチ画面を構成できるような仕組みにもなっていた。
「欲しい!」
と思ったが学生身分の私に買えるよう代物ではなかったのだ。

今回の新製品はチューナーはないがネットに繋げてアプリを入れるとネットを通じて民放番組を見ることができるそうで、ある意味新時代のテレビの形ではないかと思われている。

ところで現行法によるとチューナーを内蔵しているテレビも持っていると、ただ持っているという理由でNHKに受信料を払わねばならないのだという。
最近多くの裁判の判例が生まれてきていてNHKにはすこぶる有利な展開だ。
ところチューナーを内蔵していないテレビはその対象外。
従ってNHKの電波を受信することができないテレビならば受信料を支払わなくても済むということになる。

インターネットが普及して我が家なんかは地上波テレビを見るための設備はなく、テレビはもっぱらiMac。
インターネットでYoutubeや民法のネット配信を見ていて、どうしても地上波が見たい時は双方の実家へ行くことにしている。
それで生活に困ることはないし、TV番組そのものも魅力のあるものは少ないしで、ニュースなんかはラジオでも十分だ。

そこでふと思ったのが、もしかしたら数年以内にNHKのビジネスモデルは崩壊するのではないかということ。
各家庭がネットを通じてテレビを見るようなれば畢竟チューナを使った地上波番組を受信することはなくなる。
NHKを見るためにわざわざNHKアプリをダウンロードするとも思えず、ダウンロードしたところで全世界の隅々から受信料を徴収することもまず不可能。
NHKを有料にしたら、それこそCSの1つと存在価値は変わらなくなり、どうしてもそれを見たい人以外は電波の購入はしなくなるに違いない。
実際CSとて存亡の危機に立たされているの現状だ。
ネットフィリックスのようなサービスが急成長しているところからもその傾向は伺える。

各家庭から強制的に料金を徴収するNHKのビジネスモデル。
もしかすると終わりが始まっているのかもわからない。


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アメリカと中国の貿易戦争がますます激化してきている。
幸いなことに私の仕事にはまだ影響はなく、その兆候もないのだが、お客さんによっては「引き合いが減っている」というような話もちらほらと出だしている。

正直なところ、トランプ大統領が中国の輸出戦略に対して非難轟々としているところは、以前から多くの人達が心の中で思っていたことで、日本の政治家なんぞは、というかヨーロッパも、その他の国々も中国に恐れをなして言えなかったし行動にも出せなかった部分であることは間違いない。

ファーウェイがその最大のやり玉に上がっているわけだが、多くの技術を要する製造業でほんの20〜30年の間にあれだけの会社に成長するには何らかの国策や特権機能が働かないと実現することはできないだろう。
ファーウェイそのものの急激な事業拡張が、国家が関わっているという何よりの証拠なのだ。

とりわけファーウェイのように通信機器に関わっている会社が国の支援を受けて大きくなることは情報統制厳しい中国のような国では当然のことなのかもわからない。
かれらは国家の体制を維持するためにも個々の通信端末の傍受は必要であるし、かといって個数を制限すると商売にならないのでそれはしない。
畢竟、どうやって無数の情報機器から情報を集めて、そのなかから都合の悪いものを選択して発信元と受信元を挙げるのか。
それは非常に重要だ。
この国内向けの技術を海外に展開しないわけがないわけで、米国の主張は経済安定というよりも安全保障を考えると必要な措置なのかもしれないと思わないわけにはいかないのだ。

ということで、ファーウェイにファーウェル。
中国との取引を早々に東南アジアかインドに移したところが21世紀前半の勝者になることはほぼ間違いなさそうな雲行きだ。


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平日の夕方。

実家で一人暮らしをしている父の様子を見に立ち寄ったら元気に相撲中継を見ていた。
大相撲を見なくなってずいぶん時間が経つのだけれども、子供の頃は相撲は大好きでテレビの前で熱く観戦していたものだ。
父とテレビを見るということもなかったので、しばらく一緒に相撲中継を見ていたら、ふと疑問が浮かんできた。

「はっけーよーい、残った残った!」

行司の掛け声「はっけーよい!」

「親父、はっけよーい、って何やろ?」
「?」
「はっけよーい、どんな意味何やろね」

「............そりゃ、チコちゃんにでも聞かにゃわからんじゃろ」

はっけよーいの疑問も不思議だったが、親父の口から「チコちゃん」が出てくるとは。
ほのぼのとした驚きの夕方なのであった。


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橋下徹が大阪府知事に当選したときに、かれは早稲田の学生の時に皮革衣料品の取引で大損をした経験があるということがその経歴の中で度々紹介されていた。
その時の悔しさをバネに商売とはこういうふうに動かして勝利しなければならないというような考えが生まれたのだと言われていた。
その商売というか経営手腕は大阪維新の会の行政手腕に活かされているようで、この10年間で大阪は明らかに変わったと大阪人とその周辺の関西人も強く感じている部分だと思う。
国家議員の集まりの日本維新の会がそうじゃないようなところが残念ではある。

何が言いたいかというと優秀な政治家には優秀な経営者が多いことだ。

戦前であれば高橋是清や井上準之助などがその手の政治家だと思っている。
双方とも事業の運営や財政に明るい。
とりわけ高橋是清には、
「お金に縛られて公の利益を優先できない経済状態の人は組織の上に立つべきではない」
と述べていたくらい、リーダーとしての責任感は卓越したものがあったようだ。

元日産のCEOに聞かせてやりた言葉なのだ。

そこんところへいくとドナルド・トランプ米大統領は歴代大統領の中でも出色の下品さを持ちながら出色の実業家でもある。
絶好調の米国経済を見据えながら華僑の本山である中国へ経済戦争に打って出る手法は日本人には真似のできない凄みすら感じられる。
それが良いことかどうかの判断は人によって違うかも知れないが、中国ビジネスに多くの不満を抱えているビジネスパーソンにとっては市場が「厳しくなるかも」しれない戦いかも知れないが、別の意味で「よくやってくれている」と思える戦いでもあるような気がする。

世界は経済で動いている。
よって政治家には商売人のセンスが重要であることに違いない。
その点でいくと日本の政治家は欠陥品だらけともいえそうだ。


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ドリス・デイの訃報を聞いて、

「まだ生きてたのか」

というのは失礼かもしれない。
でも、それほど昔の人なのでまだ97歳であったことに驚いたのであった。

「ケセラセラ、なるようになれ」
の歌で有名なドリス・デイ。
私が子供の頃はテレビで「ドリス・デイショー」の再放送がされていて数回は見た記憶がある。
当時は米国製テレビドラマにはまりかけていた年齢で上品なコメディよりも「白バイ野郎」、「バイオミック」「スター・トレック」「ハッピーデイズ」「ゴングショー」なんかのほうが好みだったので真剣に見ようとはしていなかったと思う。

とはいえ、ヒッチコックの映画にも出演。
ケセラセラは世界的なヒット曲で日本でも知らない人はいないだろう。

ドリス・デイ。
ご冥福を祈ります。


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「これから帰るよ」

と大学生の娘からメールを受け取ったのは夜10:00を過ぎた頃。
電車の到着時間が近づいてきたので自動右車で最寄り駅のロータリーで待っていると到着時間が過ぎても娘が帰ってこない。

「お、もしかして」

娘はよく居眠りをして乗り過ごしていた時期があり、

「しっかりせんか!」

と叱りつけたことがたびたびあった。
久しぶりにやりよった、と思ったのは到着時間を10分以上過ぎてもロータリーに出てこないからで、これは困ったと思った。
というのも時刻が遅くなって乗り過ごすと大阪南部に住む私んちでは、和歌山方向または関西空港方向へ行ったら、向こうから大阪方向へ来る電車の終電が過ぎてしまっている可能性がある。
大阪から関空や和歌山方面へは結構遅くまで電車があるのだが、その逆は早く終わってしまう。

自動車で最悪和歌山まで迎えに行かねばならない。
懲らしめてやる。
と思ったそのとき、娘が自動車のドアを開けた。

「ん〜〜〜、人身事故。電車動かへんし。」

人身事故で電車がストップ。
ダイヤがめちゃくちゃになってしまっていたのであった。

最近どうもいただけない。

「人身事故が発生しましたのでただ今〇〇線は列車の運転を見合わせております。」

というアナウンスや電子表示によく出会う。
これは大阪に限った話ではなく、東京でも頻繁だ。
で、この人身事故の大半が「自殺」。
それも若い人の自死が多く、痛々しさがかなり大きい。

昨夜も私の娘が利用している、というか家族が通常の通勤通学に使っているJR線で人身事故。
聞けば17才になる高校生が電車に飛び込んだのだという。
塾帰りが遅いので心配していた家族が探していた時の出来事だという。
なんという痛ましいことであろうか。

私が高校生の時。
70年代から80年代になる昭和時代終盤のころ。
自殺なんて考えたことは、ちっともなかった。
進学や学校のこと、家族のことで悩みがないなんてことはなかったが自分で死のうなんてちっとも思わなかったのだ。
私の場合、学校には問題はあまりなかったが家庭の方がめちゃくちゃの状況に近く、普通であったらグレていても不思議ではない環境なのであった。

私のクラスにも家庭環境の厳しい友達は少なくなかったように思うのだが、死にそうな奴はいなかった。
学校を辞めてしまったやつはいたことはいたのだが、選択肢に「死」というものはなかった。

なぜこうも自死を選ぶ雰囲気が社会に蔓延しているのだろう。
テレビのニュースで「今日、〇〇で飛び降り自殺があり」というようなものを平気のへっちゃらで流したりするところに大きな原因があるのではないか。
私は世の中がルール主導で融通が効かないというところにもマスメディアの野次馬根性と同じぐらい悪影響の原因があるのだと思っている。

世の中、修正の効かないことなんかほとんどない。
要は大きいか小さいかの違いで、「山より大きな獣は出ず」という言葉があるとおり、どんなことでも着地点があるものだ。
とりわけ若ければ若いほどその着地点は用意されていて、さらに修正ややり直しが効くのが普通であろう。

マスコミを含めて社会はそういうことをアピールすべきであって、事実だけを暗ら〜〜く伝えるのは大きな間違えだ。

「君しにたもうことなかれ。」

私のあまり好みではない、私の出身地大阪堺が生んだ与謝野晶子が日露戦争に皮肉を言った言葉ではある。
が、今こそそう社会が声がけをする時だと人身事故の情報を聞くにつれ強く思う次第なのである。


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書店で色川大吉著「ユーラシア大陸思索行」を買い求めたことはすっかり忘れてしまっていた。
先日、自宅の書棚で山積みになっている仕事の書類を整理していたら、その書類の中から紀伊國屋書店のカバーに包まれたこの本が出てきたのだ。

「こんなの買った覚えはないような....」

でも、パラパラとページを捲ってみると裏表紙の説明に1台のキャンピングカーでポルトガルのリスボンからインドへ走破した記録とあるので、
「なるほど、沢木耕太郎の『深夜特急』の逆方向への旅の本なので買ったんだな」
と合点がいったのであった。
深夜特急はインドからリスボンまでのバスでの移動だったが、これはキャンピングカーでの逆方向。
時代も同じ1970年代初めという共通点もある。
私が興味を持ったのもうなずけるというものだ。

でも、なぜ読まなかったのだろうか。
しかも買ったことさえ忘れていたのだ。

読み進めていくうちに読まなくなった、あるいは読まなかった理由がなんとなくわかった。
理由は旅行記としては期待していたほど面白いものではなかったことと、著者にこの時代の文化人特有の上から目線を感じたからかもしれない。

それにしても1台のキャンピングカーで旅をするという企画は面白そうだ。
しかしどうしてそれが学術調査になって、文化の交流になるのか。
当時としてはそのような旅行スタイルが日本人が取ることのできるギリギリのところだったんだ、と思い込んだとしても物足りなさは否めなかった。
というのも、1台のキャンピングカーに乗っているのは日本人だけ。
この日本人だけのグループで海外を移動をして、しかも要所要所で「ご飯、味噌汁」の日本食を自炊しているのだから、当時は常識だったジャルパックの貧乏旅行版というような感じもしないではなかったのだ。

日本人の環境に守られて旅をする。
潜水艦に乗って海の中を行くのと同じような感覚だ。

しかも筆者は矛盾する話を度々繰り返す。
たとえば砂漠を疾走する自動車の中で仲間の日本人が日本の流行歌を聴きながら運転していることに否定的な意見を述べている。
せっかく異国に来て、異国の環境の中にいるのに日本の流行歌を聴いているのは残念でならないと。
でも、当の本人は日本人だけのグループで旅をし、さらにところどころで日本の食べ物を食べながら移動しているのだから、そんな批判などできないのではないかと私などは思うのである。

それだけではない。
「だから日本はだめなんだ」理論が随所に出てくるのもいただけない。
この時代の文化人。
筆者も大学教授ということだが、こういう人たちに共通するのは自分の文化を否定的な目でばかり見て、それが旅をしている国の文化とどう異なり、どういう良さがあって、問題はあるのか考察するところが大いに足りないと思われてならない。
確かに海外を旅すると、その土地々々の習慣や文化が日本とは大きく異なり、それが正解のように思うことが私自身も少なくない。
そういうときは「だから日本は」と思わなくはないのだが、でもよくよく考えてみると何もかも同じなんてことはありえないわけだし、経済や文化、衛生度、教育レベル、質といったものを論じるときに一方的に自分の文化を非難するのは勘違いも甚だしく思えてならない。
途上国に見られる貧困や階級社会には日本にはない、深刻な問題が存在するわけだし、宗教が力をもって人間らしさを形成している部分にしても、宗教そのものの種類や受け止め方が異なるわけだから、知識人であればそこまで考えて主張すべきなんじゃないかと思うのだ。

いわんや本人は日本人ツアーグループのリーダーとして動いているから、余計に矛盾した印象を与える。

批判するのは必要かも知れない。
しかし、海外で活躍する日本人ビジネスマンに出会っても、そのビジネスマンの負の部分を強調する。
でもそのビジネスマンは筆者と違って孤軍奮闘しているかも知れず、非難するだけではなんとなく納得できないものもある。

その他、日本のことを「天皇島」と呼んでみたり、ヨーロッパの習慣文化を一方的に称賛するような部分があるのもいただけないと思った。

このように読んでいると、はと何かに気づかざるを得ないのだ。
それは最近も「元号はいらない」などと宣っているどこかの困った人たちと同じような匂いがしていたのだ。

とはいえ、キャンピングカーでのユーラシア縦断は魅力的で、バーミアン、カブール、クルド人地区など今では訪問の難しい箇所もすくなくないだけに、旅としては悪いものではなかった。
根底にある思想はともかく、もう少し現地の香りを感じることができればよかったのにと思う作品なのであった。


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今年のアカデミー作品賞受賞作品「グリーンブック」を観てきた。

あの「ボヘミアン・ラプソディ」を抑えての受賞だっただけに、どんな映画なのか大いに気になっていたのだ。
それとタイトルの「グリーンブック」って何?という疑問もあった。


で、鑑賞してみた感想はといえば。

「良い映画」だった。

しかも静々としたストーリー展開で嫌味がなく上品で、それでいて強烈な人種差別への反発がある一方、クスクスと笑うことのできるスパイスが効いている。
「コメディ」に分類される映画とのことだが質の良い人間ドラマ。
最近のCGばかりで作られている映画とも異なり安心して楽しめる映画だった。

もちろん「ボヘミアン・ラプソディ」を抑えて作品賞を獲得する優れた映画だと納得したのは言うまでもなかった。

人種差別がテーマの映画といえば、とかく内容が暗く重苦しいものが多い。
私の場合はどうしてもミニTVシリーズの「ルーツ」、映画の「ミシシッピー・バーニング」を思い出す。
人権問題に直接繋がってしまいそうな残酷な描写が多く、決してニコニコ観ていられるドラマではない。
でも、内容は濃く、鑑賞後にいろいろと考えさせられるドラマでもある。
これは差別というテーマそのものが社会のダークサイドでもあるからだろう。

一方今回の「グリーンブック」はこのダークな部分を逆手にとってうまくアレンジしている。
とりわけ主人公の二人の関係が変化していく様は観ていて緊張感から清々しさに変わっていくのがなんともいえず心地よい部分でもある。

タイトルの「グリーンブック」は黒人のための旅行ガイドブックだということをこの映画のパンフレットを読むまで全く知らなかった。
1960年代まで黒人が主にアメリカ南部を旅行しようとすると、日本人の私達には想像もできないような規制があった。
それら不条理な差別を回避して安全に黒人が旅をするために必要な情報が書かれているガイドブック。
このようなものが存在したこと自体が悲劇だがこの映画では説明を加えることなく、ごく自然にその存在にスポットを当てている。

「グリーンブック」というタイトルだけでアメリカの観客はそれが何を意味しているのかわかったのだろうし、物語を想像することもできただろう。
その初期の印象はわからないが、タイトルの重々しさとは反対に上質なロードムービーに仕上がっているところに多くの人が感銘を受けたことは間違いない。

DVDになったらもう一度観たいと思う映画なのであった。


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