<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





「子どもは独特の輝きを放っている」

東京都写真美術館で開催されているコレクション展「子供の情景ー戦争とこどもたち」を鑑賞してきた。
懐かしさと衝撃が同時に心をとらえる印象的な展覧会なのであった。

主に日本国内で撮影された戦前戦後前後10年くらいの写真が展示されているが、ユージン・スミスやキャパが撮影した海外の作品も多数展示されていた。
中でも原爆投下直後に撮影された長崎の写真や終戦直後に撮影された東京風景は、知っている写真も少なくないにも関わらず、かなりショックが大きかった。
とりわけ大震災とそれに続く原発事故で大きく国が揺れている現在の雰囲気の中、その写真を見た印象そのものが、大きく変わっていることに感じずにはいられない。

原爆の爆風を浴びて、顔中怪我だらけの子ども。
身体のほとんどがケロイド状になって死を待つだけ、細い息を吐く乳飲み子。

こういう非戦闘員さえ無差別に殺戮させていしまうことになる戦争の悲惨さ。
それは現在でもなお、地球上の何処かで原爆こそ使用しないが似たような状況が繰り広げられていることを考えると、どうしようもない無力感に囚われる。
白黒写真が津波で被災した被害者の写真と重なって、よりリアルに感じられた。

栄養失調の子どもたち。
靴磨きをして生計をたてている子供たち。
乞食をする父と子。
家なしの子ども。
これもまた、世界の乏しい国々では今もなお展開されている光景だ。

今の日本なら社会が決して許さない光景がそこにある。
それら一枚一枚の写真から伺える「日本は昔は、こんな国だったのだ」という驚きは、書物や聞き伝で知っていても小さいものでは決してない。

例えば、津波で壊滅的になった街に親を亡くして乞食に身を落とした子供たちがいるだろうか?
原発の影響を無差別に受けて、治療もろくに受けることができない子供たちがいるだろうか。
現在ではそういうことはありえない。
それは常識ではけれども、たった半世紀の日本はそれは常識ではなかった。
社会にはびこる矛盾をなんとかしようという気持ちはあったかもしれないが、それをなんともできない非力さが、まだまだ存在していた。

そういうことをの感じるだけでもこのコレクション展の重みが伝わってくるのだ。

それでも、子ども表情や姿は、苦しい社会の中にも明るさがある。

「子どもが放つ独特の輝き」

とこの展覧会の挨拶文に表現されているその言葉は、なによりも大きな今回のテーマだ。
いや、この展示会だけではなく、今の日本を包み込む言い知れぬ不安感を吹き飛ばす、大きなテーマなのだ。

ありきたりの写真展と思って「とりあえず」鑑賞してみたが、意外にも多くのことを学び、掴んだ展示会なのであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






あれだけ「ANAもケチになったもんだ」とか批難していたのに、宗旨替えか?

と指摘されそうだが、最近ANAの機内サービス「My Choice」のソフトドリンクに凝っている。
300円や400円あるいは500円を払っても味わうだけの価値があるドリンクが少なくないことに気づいたのだ。

昨年「ANAの機内サービス有料化」のニュースを読んだ時、私は飛行機の旅が特別なものではなくなったことを大いに悲しみ、かつ「なんてしみったれた航空会社なんだ」とクレームをつけたものだ。
そのクレームはこのブログのバックナンバーでも読むことができるのだが、いざ「My Choice」なるサービスが始まってみると、試しに金を出して飲んでみたい衝動にかられて数ヶ月前、一本のジュースを買い求めてしまった。

そのジュースは和歌山県産ジンジャエール。

今はすでに販売終了しているジュースなのだが、このジンジャエールがすこぶる美味かったのだ。
他のジンジャエールを圧倒する強い刺激。
朝早い便に乗ることの多い私には、朝の目を爽やかに、そして強烈に目覚めさせてくれるその鮮烈さが魅力的で、思わずグググッとファンになってしまったのであった。
「これは......うまい!」
一口飲んだ時、心のなかで無意識のうちにそう叫んでいた。

あれだけ批難していたANAの有料サービスに簡単に篭絡されてしまった瞬間なのであった。

以来、私はANAを利用すると座っている位置と混雑具合、そしてその日の小銭の持ち加減でこのサービスを利用するようになった。
あるとき、
「ジンジャエールのお味はいかがですか」
と客室乗務員のお姉さんに訊ねられたことがあり、
「美味しいですよ」
と答えたことがあった。
そのお姉さんによるとお客さんによってはANAの和歌山産ジンジャエールは刺激が強すぎるということであった。
味の好みも人様々。
その翌月からメニューから消えたことを思えば、ある種のアンケートであった可能性は否めないが、あの濃い味のジンジャエールは数あるジンジャエールでも絶品。
海外でも行かなければ味わえない奥深さがあったように記憶している。
さすが、国際線もビュンビュン飛んでいるエアラインだと思った。

ジンジャエールが終わってしまって寂しく思っていたところに新たに登場したのが、「信州産の搾りたて巨峰を使ったぶどうジュースです」。
ずいぶんと長い名前なのが玉にきずだが、これがすこぶる美味なのであった。

味は赤ワイン。
作っているメーカーもワイナリーなので、その製法は近いものがあるのかも知れないが、コクがあり、甘すぎず、酸っぱさはなし。
いわゆるグレープジュースなのかもしれないが、市販のグレープジュースと全く違うのは、後味がさっぱりしていることと、はやり味の重厚さなのだ。

前回飲んだときは写真を撮るのを忘れるくらい味を楽しんでブログのネタにするチャンスを逸してしまったので、今回こそは、と関空から羽田に向かう飛行機の中で撮影した。
しかし、今回もやはり、味を楽しむことに気を取られたあまり、写真を写す前に開封して一口飲んでしまったのであった。

なお、有料メニューを購入すると客室乗務員のお姉さんが透明のプラスチックのカップに氷を入れてくれるので、それもまたワンランク上のような感じがしてなかなか良い。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




朝日放送の名物ローカル番組「探偵ナイトスクープ!」によく登場した林先生は辻調理師専門学校の先生であった。

「母乳でプリン」
「街中の池に住んでいる貝を料理」
「食べられるラーメンどんぶり」

など、様々な食物を編み出しては会場の笑いを誘っていたのであった。

4月末。
その辻調理師専門学校が破産していた。
正直ニュースびっくりした。
なんといっても大阪では辻調理師専門学校といえば、その分野では名門専門学校なのだ。
海外にも学校を持っていて、ここで修行した調理師は、それなりの信頼がある。

ここ数年少子化が影響して苦しい経営を続けていたというのだが、学校経営の難しさがここに滲みでているように思われる。
なぜなら報道によると2007年に生徒数のピークを迎えたと書かれていたからだ。
それからわずか数年での経営破綻。
少子化以外になにか原因があったのかもわからない。

なお、学校は東京の学校法人が引継で残るそうだが、関西人の私としては「また東京かいな」という気持ちは抑えられない。
「ダイエー」の専門学校バージョン経済事件のような気がするのだ。



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




FM放送を聞きながら車を運転したら、懐かしい小泉今日子の歌声が聞こえてきた。
知らない歌だったので、はじめのうちは誰が歌っているのか分からなかったが、柔らかなトーンでちょっと甘え気味な歌い方は、
「おお、小泉今日子やんか」
とわかる特徴ある声なのであった。

そこでふと気づいた。
最近の女性アイドルはどのグループも同じような歌声だな、と。

単品売り出しのアイドルがほとんどいなくなり、グループばかりなので声が似てくるのも当然かも知れない。
さらに、私がオッサン化しているために、若いアイドルの声はもとより、顔も名前も覚えられなくなっていることも原因しているのだろう。
しかも、我が家で頼りの中一の娘はアイドルに無関心。周囲では極めて珍しいタイプで、アイドルよりもルパン三世やシャーロック・ホームズがお気に入りなので、同じ世代の友達との話についていけるかどうか、心配になってくるくらいなのだ。

で、同じ声に聞こえる女性アイドル。
その共通の歌声は「キーキー声」。
その昔、アイドルになるための登竜門だった「スター誕生!」だったら審査員の松田トシ先生なんかが、
「その歌い方はいけません」
と注意しそうな歌い方のアイドルばかりなのだ。

このキーキー声で平気で歌うようになったのはカラオケが大きく影響していると思われる。
子供の頃からカラオケで鍛えた声は、民謡や童謡で鍛えた声とは異なり、声ではなく、音を出す練習をさせているのかもわからない。

そもそもこの頃のキーキー声はどこから始まったのだろう。
私は「スピード」というグループあたりが初めではなかいと思っている。
というのも、先日メンバーの田中好子が亡くなったキャンディーズもキーキー声ではないし、ピンクレディーもそう。
WinkもCOCOもキーキー声ではなかった。

「キーキー声」と「下手くそ」はもちろん意味が異なる。
歌の下手くそなアイドルは昔からそれなりに存在していて、それなりに市民権を得ていたと思う。
大場久美子。
浅田美代子。
の二人はその代表だが、どちらも現在でも活躍しており、ともにキーキー声ではあかった。

先述したように、昔は主流だった単品アイドルに至っては各々が特長ある歌声で小泉今日子に限らず、声を聞いただけで誰が歌っているのか知らない歌でもよくわかる。

山口百恵に桜田淳子、松田聖子に中森明菜。
太い声、柔らかい声、甘えた声、しゃくりあげる声など、様々なのであった。
それぞれに個性があり、それぞれに価値があったように思われる。

ここのところ韓国のアイドルが隆盛を誇ってきていて日本のそれを凌駕し始めているが、案外、こういうところが日本製アイドル衰退の原因なのかもわからない。
普通の人は、お金を出してまで素人の歌は聞きたくないものだ。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )






京都の四条河原町交差点にあった阪急百貨店が知らないうちにマルイになった。

ここのところ関東の百貨店の関西進出が盛んだ。
先日はJR大阪駅が完全リニューアルし、そこへ三越伊勢丹が入居。
新聞記事によると一日平均20万人もの来客がるそうで、私も驚いているところだ。

何を驚いているかというと、20万人もヒマな人がいるとは思わなかったのだ。

三越はともかく伊勢丹はJR京都駅にも入っているので関西では二店目。
梅田界隈というと、もともとは阪急阪神グループのお膝元なので、関西老舗の百貨店村に関東の百貨店が殴りこみをかけてきた、という図式なのだ。

この伊勢丹よりも店舗数が多いのがマルイ。

十年ほど前に神戸の三宮に出店したのが関西初で、その後大阪なんばの高島屋本店向かい、映画興行発祥の地・南街劇場跡になんば店が開業したのが数年前。
そしてついに京都の繁華街のど真ん中にも開店したというわけだ。

しかし、そこは関西。
マルイの知名度はまだまだ。
「マルイ?なにそれ」
という人も少なくなく、そういう光景をたまたま目撃することになった。

京都のマルイもどういうわけか「高島屋京都店」向い。

その高島屋から買い物をして出てきた老夫婦の会話をタクシー乗り場前で耳にした。
「おい、あれなんや」
とご主人が尋ねると、
「なに?あ、あれ」
と奥さん。
「あの、『おいおい』って書いているやつ?」
「そや、あの『おいおい』や」
「なんやろね。」

マルイのマーク「OIOI」は関西ではまだまだ「おいおい」なのであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






「私の記憶力はすごい。絶対正しいから」
と自信満々に言った上司が、つぎの瞬間、
「で、あの契約書類はもう社長の判子、貰ったよな」
と私に訊いてきたから、
「あれ、確か◯◯◯研究所のKさんが文面確認してから直接うちの総務に送ります、っていってましたけど。部長もいましたよ、その時」
と指摘した。
すると上司は首をかしげて、
「ん?.........そうだったけ」
と答えたのだった。

このように、人の記憶というものは曖昧なものだ。
以前、私が言った話をさも自分の経験のように話した友達がいたので、
「それ、俺が前に言うた話やで」
と指摘したら、
「え?そうやったっけ?」
とちんぷんかんぷんな表情をしたことがある。

私も最近は睡眠時間が短い上に仕事も忙しいので、ときどき自分の経験が「実際にあったこと」なのか「夢で見たこと」なのか区別がつかないことがある。
京急線に乗っていても、難波駅で降りることを考えていたりするのだ。
もしかすると気が触れてきたのかな、それとも高齢者の仲間入りをしたのかな、と40代後半になって悲しくなってくることがある。

こんなことは従来なかったので、よほど疲れているのかも知れないと思っていたが、実際に人間の記憶というのはかなり曖昧なんだそうである。
一安心。
記憶だけではなく、今現在見ていることさえ見落としてしまうようなことも簡単に起こしてしまうのだという。

クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ共著「錯覚の科学」(文藝春秋社)は様々な実例をあげながら人間の認識力や記憶力にはいかに多くの間違いや見落とし、改ざんがあるかを一般の読者にも分かりやすく書かれている科学ノンフィクション。
例えばバスケットボールのパスの回数を数える実験を例にとりながら(これはイグノーベル賞受賞の面白い実験)、あの「えひめ丸事件」を例に取り、事故を起こした原子力潜水艦の船長にはえひめ丸が見えていたのに、なぜぶつかってしまったのかという「見落とし」についてのメカニズムが述べられており、初めから好奇心をグイグイと刺激される。
今この目で見ているものでも、それを意識しなければ簡単に見落としてしまうこともあるというのだ。

また別の例では、交差点で右折するとき、自動車ばかりに注意を取られてバイクとぶつかってしまうのは「運転者はバイクを見るという意識に欠けているため、見えているのに認識しないので事故に至るのだ」というようなことが書かれていた。

これを読んだ時、私は高校生の時に経験したある出来事を瞬時に思い出した。

その日、私は放課後、友達と話しをしながら駅の改札口をくぐった。そこで反対方向から歩いてきた中年のオバハンにぶつかったのだ。
「あ、すいません。」
と謝った。
大きな男子高校生が中年のオバハンにぶつかってケガでもされては大変だと思ったのだ。
「大丈夫ですか?」
と言ったら、
「あんた、母親の顔も分からへんのか」
と怒られた。
私がぶつかった中年のオバハンは私のオカンなのであった。
友達と話すことに夢中になって、相手の顔を見ているはずであったのに、ぶつかってしまい、しかも、それが自分の母親であることにも気づかなかったのだった。

このような出来事は、はるか高校生の時だけではない。

つい最近のこと。
私は嫁さんを連れて、ある交流会に出かけた。
某大学で行われた交流会では10分程度の小さなセミナーが20余り開催され、そのプログラムによって自分の聞きたい会場へ足を運ぶというものだった。
ある地域活性化とマスコミの役割についてのセミナーで立ち見していた私は隣に知人が立っているのを見つけ挨拶をした。
なかなか面白い話で知人とは挨拶だけでプレゼンターの説明に耳を傾けていたのであったが、
「これはうちの〇〇子に聞かせてやりたいな」
と嫁さんの姿を探した。
もしかすると他の会場にいるのかも知れない。
残念だ。
と思っているうちにセミナーが終了。
つぎの会場に移ろうとした瞬間、知人の立っているのとは反対側の隣から、誰かが私の袖を強く引っ張ってきた。
「何すんねん」
と思って隣を見たら、嫁さんが立っていた。
「お!〇〇子やないか!いつからここにおんねん?」
「何回も、横におるでって指で突っついてるのに気づけへんねん。アホちゃうか、と思って見てたんや」
これも目に入っているのに、突っつかれているのに、気づかない認識の欠如のひとつなのであった。

ともかく最近は「〇〇の科学」という書籍が多いが、ハズレがなく、面白いものが多い。
本書も最初から最後まで退屈することなく読める楽しい科学本なのであった。

なお、本書とは全く関係ありませんけど「〇〇の科学」という出版社や団体には注意したほうが良いかも。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




千葉にある丸善石油化学の工場が東日本大震災で被災して操業できなくなっている、というニュースを読んだのはもう一ヶ月ほど前。
このため一番困っているのは印刷業者だそうで、なんでもこの会社、日本国内のインク用原料を100%担っていたという。
もはや日本の印刷物はこの工場が復旧するまで、クオリティの高いまともなものは印刷できない状態になっているとか。

「この地震で、意外な事実がたくさん分かってきて、そのことにもとても興味がありますよね」

と得意先のYさん。

一時期、日立の工場が被災してしまい電車のモーターブラシが生産できないので西日本の鉄道が間引き運転しなければならなくなる、というニュースが流れた。
えらいこっちゃ、電車の本数も減らされるで、といささか地震とは直接関係ないと思っていた近畿中国の人たちもびっくりしたかもわからない。
かくいう私もびっくりしたものだ。
実際は部品はなんとかなったみたいで、当面の列車運行には支障はない、ということで一安心した。
とこが、同様の被害は、モーターブラシやインク原料にとどまらないらしい。

実はこれに似た「一社一品運動のできそこない」のようなことは世の中にたくさんある。
例えば木製家具に使う国産のパーチクルボードは石巻のメーカーがほど一社で生産していたために、全滅。
したがって、国産材料の家具の製造が困難になっている上に、輸入物の材料も品薄の状態になっている。
また、電源トランスに使用する石油製品も被災地域の一社で製造。
このため電気製品のトランスが生産できなくなっているので、これも品薄状態。
この他、電線の一部や、被災地域ではなくても業務用のエアコン(関西地方が主なメーカー集積地)が品切れしていたりで、大変な事態になっている。

そんなこんなで「6月からはデザイン雑誌やファッション雑誌のクオリティーが落ちます」なんてことも伝えられており、

「お、いよいよ電子書籍の時代かな」

と、震災に後押しされるように電子書籍が益々一般化していくのではないかとの雰囲気が漂いだしている。

新聞記事によると、アメリカのアマゾンでは電子書籍の販売が紙の本の売上を追い抜いたという。
日本は「著作権がうんたらかんたら」「著者の権利がうんたらかんたら」「出版社の権利がうんたらかんたら」「新聞社や放送局の権利がうんたらかんたら」と、利権むさぼる大日本印刷や凸版印刷、書籍取次会社を中心とする、大企業の都合に左右されている関係もあり、電子書籍の進捗が今ひとつだ。

インターネット白書2010年度版には確か電子ブックのすでに読んでいる人の比率は3%以下。
読んでみたい、という前向きな人を含めても30%に届かなかったと記憶している。

そこに今回のインク不足が手伝って日本の出版業態はどうなるのか、気になるところ。

ところで、私は仕事では電子ブックを推奨してることになっている。
というのも私の会社では広報誌やカタログなどの印刷物の制作は私の担当で、「費用削減」を意識しているうちに、やはり電子ブックは経費削減に非常に有効なのでお気に入りだ。
印刷費用と流通費用の必要ないカタログの制作は、写真撮影やコピー作成などを含む編集費用だけを考えればいいわけで、従来の印刷物の1/3以下に抑えることができる。
これはなかなか魅力的だ。

それでも、実際に書籍を読むとなると電子ブックはいささか使いにくい、というのが現状でもある。

なんといっても電子端末が必要で、持ち運びが一冊の本と比較すると持ちにくいことが多い。
iPadにしろキンドルにしろガラパゴスにしろ、片手でもってパラパラすることができないのも気に入らない。
それに、電池が必要だし落とすと壊れる、というリスク付き。

私は時々電車の中で居眠りしてしまい、持っている本をバサっと床に落として目覚めることがあるけれども、これも本だから拾えば良いものの、もしiPadやガラパゴスだったら修理費用が発生するかもわからない。

まず、電子書籍はグラビア雑誌から、というのが流れだろう。
文芸作品を読むには、まだまだという感じがするのが現状だ。

電子書籍販売数が紙の本上回る アマゾン、米のサイト(朝日新聞) - goo ニュース

-----------------------------------------------------------------------

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




CNNネットによると、かのホーキング博士が「天国はおとぎ話に過ぎない」と言って波紋を呼んでいるという。

博士の発言に異議申し立てをしているのは宗教関係の方々だそうだが、さもありなん。
人は言ってもらいたくないことを指摘されると怒る傾向があるので、こういうことになって当然。

宗教を職業にする人たちにとって「天国」「や「地獄」の話はなくてはならない真実の世界だ。
そういう事に対して博士が科学の側面から「そんなのあってたまるかい」というニュアンスのことを言ったものだから当然のことながら話題になる。

私も中高校生の時に「死」というものを「単なる生命機能の停止。死んだ人自身にとって、後は無の世界になって何も感じなくなるだけ」という覚めたことを言っていたものだ。
これはテレビのSF番組の見過ぎと宗教嫌いが融合されて至った結論なのであった。
未だに真面目な顔をして、
「天国」の話をする人に出会うと、どんなにいい人でも病院に行って精神カウンセリングを受けたほうがいいんじゃないか、と思うことが少なくない。

一方、宗教嫌いの方は大の親友の一人が大学生の時に某キリスト教系新興宗教に入信してしまったために嫌いが大嫌いに発展したが、東南アジアを旅するようになってから仏教の基本的理念のようなものには、納得するようになった。
というか、仏教は宗教ではなく哲学だ、と思った時からかなり面白く感じるようになったのだ。
従って、今も仏教の、とりわけ上座部仏教の精神的な考え方には大いに共感することが多いのだが、やれお経をお唱えないとダメだとか、嘘を言ったら地獄に堕ちるだとか、お葬式屋と化している日本の仏教には大いに反発を感じるところもある。

ホーキング博士の「天国はお伽話だ」というのももっともな話で、丹波哲郎の死後の世界の話ではあるまいし、いつまでも想像だけでモノを言うことは考えたほうが良いのではにか、という博士の主張なのではないだろうか。

ちなみに宗教者の非科学的主張は後の科学で全否定されているようにも感じる。
宗教は哲学の道を歩むべき。
ガリレオ・ガリレイが「地球は回っている」と指摘した時と同様に「なんちゅうこと言うんや」と反発したくなるのもわからなくはないけれども、そろそろ宗教本来の道を模索してはいかがだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ミャンマーのマンダレーからバガンまでエヤワディ川を船旅したときに途中の港で10トンの大型トラックが止まっているのを見つけた。
トラックの側面を見ると、
「おいしいお米、栃木米」
と書かれており、
「あれも日本の中古車か」
と、なんとなく感無量になってしまった。
「おお、こんなところにも日本のトラックが第二の人生を送っている」
しみじみ、そう思ったのだった。

ミャンマーでは走っている自動車のほとんどが日本の中古車。
ヤンゴン市内でも路線バスの多くは日本のもので、例えばちょっと大通りを見渡すだけで、元大阪市バス、元南海バス、元神奈川交通、元都バス、元銀バス、元東武バス、などが走っている。
行き先表示板には「新宿」と書かれた上にミャンマー語で行き先が記されているのも当然ながら、車内にも「つぎ止まります」の表示や「〇〇歯科」といった看板もそのままだ。
仏教遺跡で有名な街バガンを自転車で走っていると、先を行くバスの後ろに、
「パルケエスパーニャ、志摩スペイン村」
と広告が書かれており、
「わたしゃ一体どこにいるの?」
という感覚にとらわれることもあった。

バスがそうだから、トラックもそう。
日本で走っていたときの広告や文字は消さずに走っており、日本人がめったに訪れない街でも、「おいしいお米、栃木米」と書かれたトラックが、ミャンマー米を載せて走っているのだ。

そんなことを思い出しながら、先週、東北自動車道を栃木方面から福島県に向かって走った。

天気の良い日で陽気が爽やか。
大阪はもう梅雨間近のジメジメした雰囲気だったので東北地方の涼やかな風は気持よかった。

が、ご他聞に漏れず福島県内に入ると雰囲気はなんとなく一変。
高速道路を走っていると、何度も「ガタン」と段差があって車が揺れる。
阪神大震災後の中国道と同じだった。
郡山市を通って福島市に入るまで、数多くの自衛隊のジープやトラックと行き交った。
それぞれのヘッドには「災害救援」の垂れ幕が取り付けられ、これも16年前の中国道と同じだった。

違うのは原発事故で目には見えないものが空間を通り抜けているということだ。
ある放射線に詳しいお客さんの話によると、福島南部で放射線量は大阪の10倍。
郡山市でその10倍。
福島市に入るとさらにレベルが上がるという。
ホントかどうか分からないが、まるで夢のような状態が続いているわけで、言葉にならない緊張感が漂っていた。

走行中、ふと、車窓を見ると驚いた。
なんと沿道の田圃では田植えが始まっているのだ。

「おお、田植えが。福島県の農家の人達が今年も田植えをしている。」

福島県も米どころ。
この地方のコメも、他の東北地方のコメと同様極めて美味だ。
でも多くの農作物が出荷停止を受けている中で、先の見えない田植えをする農家の人達のことを考えると、思わず話す言葉がなくなってしまったのであった。

これも聞くところによると、米に限らず植物には放射性物質を土壌から浄化する効果を持っているそうで、今年のコメは万一食べられなくても、今年収穫することで土壌洗浄に繋がり、来年はちゃんと食べられるお米ができるとか。
ホントかどうか分からないが、今年収穫されるであろうコメのこともしっかり政府は苦慮すべきと、強く感じたのであった。

やはり、現地に行かなければ見えないこともあるようだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ここ数年というもの、自前でボールペンを購入したことがない。

というのも、私は展示会を訪れることが多いからだ。
ボールペンは東京ビックサイトなりインテックス大阪なり、展示会という展示会で各ブースのノベルティとして頻繁に配られいる。
それらをもらうだけでもボールペンを購入する必要が全然ない。

しかも全然ないという以上に、現実にはもらったボールペンを使い切ることもできず、机の引出にはボールペンの在庫の山が築かれることになっているのだ。

あまり自分の仕事とは関係ないのだけれども、毎年どういうわけか国際ステーショナリーショーやギフトショーを訪れている。
これら展示会と同時開催の展示会に私の古くからのお客さんが出展しているため、そのお客さんのブースを訪問したあとに、

「せっかく東京ビッグサイトまで来ているのだから.........ついでに見とこ」

とつまらない欲を出してその展示会のエリアに行くと、ここはもともとノベルティなどを展示する展示会のため、ほんとに色々なボールペンを頂戴することにもなるのだ。
その展示会のボールペンに他の展示会のボールペンがそれこそ毎月のように増殖するので困惑する。

ところで、みなさんはボールペンを使い切ったことがあるだろうか。

私は大学生の頃からボールペンを使っているのだが、未だにインク切れで「使いきりました」という経験は一回しか無い。
大抵はペン先にトラブルが発生してインクがでなくなるか、古くなってインクの粘性が硬くなりインクが出なくなるか、インクとインクの間にどういうわけか空気が入ってインクが出なくなるかの、いずれかの症状によりボールペンは寿命を終える。

このように、筆記具として天寿を全うできないボールペンが多いなか、展示会で次々に頂戴するボールペンはありがた迷惑であり、最近は説明だけ聞いて「ボールペンは要りません」ということも少なくない。
それでも、紙袋や封筒ごとカタログや資料をもらうと、知らないうちにボールペンが入れられており、「要らんのに」と思いながら持ち帰ることが多々ある。

展示会でもらうボールペンには当たり前だが会社名が印刷されていて、ボールペンの価値はその会社名でも左右されることになる。
必然的に聞いいたこともない会社のボールペンや、格好悪い類の会社のボールペンは、なかなか使ってもらうことができない。
一方、ファッション性、先進性に優れた会社のボールペンは、とりあえず生のボールペンより格好良かったりするので、早々に使ってもらえることになる。
後者は外資系の会社のことが多い。
これはロゴやボールペンそのもののデザインが影響しているようにも思われる。

ともかく、「消しゴムで消せるボールペン」や「万年筆の質感のボールペン」などは高価なのでもらったことはなく、欲しくてももともとボールペンの在庫が有り余っているだけに自腹で買う気にもなれない筆記具なのであった。

なお、これまでに頂戴したボールペンで最も気に入っているのは京セラのセラミックボールペンで、書き味滑らか。
これだけはなぜか大切に使っているのであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ