<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



映画「メジャーリーグ」ではチームを売り飛ばしたいばかりに選手に意地悪するオーナーが、プロペラのオンボロ飛行機をチャーターするシーンがあった。
嵐の中をガタガタ揺れながら飛ぶその飛行機はコメディとしての要素をこの映画にもたらしていたが、実際にそういう事態になったらシャレにならない。

ブラジルのサッカーチームを乗せたチャーター機がコロンビアの山中で墜落。
生存者6名を見たものの、多くの乗客乗員が事故死する事態になった。
犠牲になった選手の中には日本のJリーグで活躍した選手や監督もいたという。

野球でもサッカーでも選手やスタッフは長距離を移動する。
飛行機事故は起こりにくいと言えども、こうして実際に発生してしまうと選手の家族はもちろんのこと、チーム1つが消えてしまうわけでリーグやスポーツ業界などへの影響は計り知れない。
航空機事故の恐ろしさを改めて知らせる事件なのであった。

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沢木耕太郎の「深夜特急」を読み返している。
4回目の読み返しだ。
私は同じ本を何度も読むという習慣があまりないのだが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」「竜馬がゆく」とこの「深夜特急」は読み返してしまう数少ない作品のひとつなのだ。

仕事やプライベートでストレスがたまると、10年ほど前までは旅にでることにしていた。
時間と予算が充分に確保されないところは西日本を中心とした国内旅行だったが、時間と予算が許せば海外へ飛び出た。
海外といっても東南アジアばかりだったか、木曜日、金曜日と有給休暇を取れば土日と併せて4連休が取れるので、日曜深夜に現地を出発する深夜便で日本へ変えてっくると4日を殆どいっぱい楽しめることが出来たのだ。

海外を旅すると日本という拘束がなくなる。
私の旅はほとんどの場合一人旅。
回を重ねるごとに現地でも日本人に会いにくい場所を選んで旅をするようになった。
だから渡航先はミャンマーが多くなったのかもしれない。
民主化前のミャンマーは現地を訪れる日本人は年間数万人しかいなかった。
だからタイのバンコクのように、どこに行っても日本人ばかりということは殆ど無い。
さらにミャンマーの地方の街へ行くと、ほとんど日本人に会わない。
日本の雰囲気をほとんど感ずることがなくなるのでストレスがなくなんとも心地よい。
ミャウーという街へ行ったときは日本人だけではなく他の外国人もほとんどいなかった。
なんといっても私以外は国連のスタッフ数名のみ。
大いに感動したものであった。

このように全く違った世界を短期間ながらも旅をすれことは非常に重要だ。
なにより心をリセットすることができる。
リセットすると日常をより冷静に過ごすことが可能になるのだ。
本を読んだり、未知の食べ物を体験したり、喧騒や静寂を感じる。
そして何よりも全く違った文化の中から自分の文化を俯瞰的に見ることができるのが旅の楽しみであり醍醐味である。

沢木耕太郎の「深夜特急」は私自身が旅に出られないときの代用旅行とも言えるもので、筆者と一緒にユーラシアを香港、マカオ、バンコク、シンガポール、カルカッタ、カトマンズと旅することで心のリセットをすることができる。
とっても大切な紀行ということができる。
今回は先月から続く仕事とプライベートのストレスをどうしても癒やしたくて第一巻から読み始めた。
内容はかなり記憶に残っているのだが、やはり読み始めると毎回新鮮で今まで気づかなかった「何か」を発見することになる。

第三巻を読み終わりやっと私たちはデリーに到着した。
「深夜特急」文庫版全六巻のうち三巻目でやっとスタート地点に到着。
これからバスでロンドンに向かうのだ。



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大阪府立中之島図書館。
数年前、その使い方について大阪府議会で侃々諤々の論議をなされたのはまだ記憶に新しい。
一部マスコミは「図書館解体」などと悪意をもった偽りの情報を流して府民の不安を煽った。
他にすることはないのか、こいつらという感じだが、要は中之島という大阪の一等地にある公共施設にしては使い方が十分ではないのではないか、という問題提起なのであった。
その結果、図書館はつい最近、ビジネス支援と地元大阪関連の資料を集めた専門図書館に生まれ変わった。
ある意味、一つの正しい方向へ向い始めたと言えるだろう。

もともと大阪府立図書館のメインは東大阪にある府立中央図書館だ。
電車で行くには非常に不便な場所にある図書館だが公共図書館としては国内最大。
ここよりも蔵書数の多い図書館は国立国会図書館しかない。
そんなことは知らない、というのが一般的な大阪府民の滑稽なところだ。
これが日本で一番メニューの多いレストランだったら食い意地のはった性格も手伝って大いに注目されるところだが、本は食い倒れの対象ではないので、知ることもない。
で、その蔵書数からすると中之島図書館は今となっては規模が十分ではなことは言うまでもない。
利用者にとっての利便性は抜群なのだが、中央図書館の単なる出先として使用するにはあまりにもったいなく、かつこの建物が刻んできた歴史に対しても失礼というものであった。

大阪府立中之島図書館は現役の西洋建築では最古参に入る建物だ。
明治生まれの御年112歳。
国指定重要文化財。
地盤の悪い大阪でいくつもの大型台風や、阪神淡路大震災でもびくともしなかった頑強さを持っている凄い建物でもある。
隣にあった旧大阪市市庁舎はこの図書館よりも数年後に建てられたにも関わらず先に寿命を全う。
新しい建物に建て替えられてすでに30年が経過している。

この図書館の設計を担当したのが野口孫市という建築家で今、図書館3階の展示室で「中之島図書館と野口孫市の建築術」という展示会が開かれている。
先日、仕事の資料を探しに訪れたところ展示会が開催だれていることに気づいた。
こういう展示会は見逃すことはないので仕事はともかく迷うことなく見学してきたのだ。

野口孫市は東京駅を設計したことで知られる辰野金吾の次の世代になる建築家で、実際に大学では辰野金吾に師事していた。
謂わば辰野金吾の弟子の一人である。
早くからその才能を発揮して住友家に見出され、数々の大阪の建築物の設計を担当。
中之島図書館だけでなく、今もいくつかの作品が現役として残っている。

設計デザインも斬新だ。
今見ても十分に通用するそのダイナミックで緻密な設計には、現代の建築には乏しくなってしまった優雅さがあり、私たちを強く魅了するのだ。
展覧会では会場になっている中之島図書館と住友家須磨別邸が取り上げられていた。
中之島図書館は図書館利用者には親しみのある建物で、灯台もと暗し的感覚があり、いかにこと建物がすごいのかということに気づかずに利用している。
今回改めて解説などを読みながら実物の中に居ると、その建物の素晴らしさを肌で感じるのであった。

もう一つスポットライトを当てられていた「住友家須磨別邸」は詳細な当時の図面の複写が展示されていた。
間取りを見ていると楽しくなってくる、まるでハリウッドの映画に登場しそうな豪邸なのであった。
玄関を入ると右手にホールがあり、奥が大きな客間になっている。
客間には大きな出窓があって庭に面していて、
「きっと須磨の美しい海岸を眺めることができたんだろうな」
と明治大正の上流階級の生活を創造した。
2階には家族のためと思われる寝室がいくつがある。
まるでサウンド・オブ・ミュージックのトラップ家の屋敷みたいだ。
ちなみにトランプ家ではないので念のため。
残念ながらこの屋敷は第二次世界大戦の戦火で全焼してしまったということだが、今も門柱その他燃えない部分がきちんと残っているのだという。
さすが世界の住友さんである。

展覧会をちまちまと見ていたら一つ大きく勉強になることがあった。
この野口孫市の所属した建築事務所は住友営繕という住友家の設計部隊だったそうだが、これが後に日建設計になったという。
今、東京の築地市場の建設問題でスポットライトを浴びている建築設計最大手の日建設計は大阪発祥の設計事務所なのであった。
まったく不勉強でこの展覧会を見なければずっと知らずに過ごしてきたところだ。

ということで、時間があればインバウンドで賑わう大阪も、違った側面が楽しめるのではないかという大阪府立中之島図書館なのであった。


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まずお断りしておくと、私は写真撮影は下手な方ではない。
どちらかというと上手い方だと思っている。
どうしてそうまで言うのかという理由は、上の写真があまりに見すぼらしく写ってしまい、もしかするとハンバーガーチェーンに迷惑をかけるかもしれないと思ったからだ。

同時に、外食をすると時々感じるのはメニューの写真や食品サンプルと実物が大きく異なることだ。
こういう時は思わずクレームを付けたくなることもある。

先週、久しぶりにモスバーガーへ行くと「冬のとびきり」とキャッチコピーの書かれた豪華なとびきりハンバーグサンド「国産ベーコン&チーズ」が目に止まった。
なんでも肉もベーコンもチーズも全て国産なのだという。
しかも、ハンバーガーにも関わらず価格も豪華。
1個なんと540円もするのだ。
HPで確認するとこんな写真なのだ。→http://mos.jp/cp/tobikiri/
540円というとすき屋の牛丼と味噌汁+サラダのセットよりも高価なのは言うまでもなく、時々食べる千里中央駅コンコースにある居酒屋の480円定食よりも高価である。
このハンバーガーとサラダセットを注文するとほとんど千円の世界になってしまい、
「そんなにハンバーガー屋で使ってもいいの?」
とビンボーサラリーマン的発送の私は考えてしまうのだ。

でも、モスの高級バーガーは他の廉価版バーガー店と違ってそこそこ美味しかったりするので、物は試しと注文することにしたのだ。
国産牛肉、国産ベーコン、国産チーズ。
中でも国産ベーコンは厚切りでかなり期待が持てそうだ。
1個500円を超える価格だけにボリュームもそこそこありそうだし、なによりもジューシーさが写真からもにじみ出ているではないか。

期待を胸に待つこと10分ほど。
でてきたのが冒頭の写真の一枚なのであった。
チーズは確かに見える。
バーガーパテも見るが、どこか違う。
で、ベーコンの姿はちょこっとだけ見ることができるもののレタスの姿は見当たらない。
大きさは一般的なモスバーガーと同じ。

正直、ちょこっとがっかり、いや、かなりがっかりしてしまったのであった。

ボリュームもどうも不足気味に見えるし、ジューシーさが感じられない。

失望を胸にしてひとカジリ、ガブッとしたところ初めてジューシーな肉汁と弾力性あるベーコンの食感を感じることができた。
「んんん〜、そこそこ美味しいな〜」
というところか。
モスバーガーのハンバーガーは汁気の多いものが少なくなく、よくラッピングペーパーの底に肉汁が溜まっていることがあるが、このハンバーガーもご多分に漏れず同様。
大量のジューシーなソースが溜まっていたのであった。
バーガー本体を食べ終わった後、クラムチャウダーを飲んだスプーンでソースを掬って口に運ぶ。

何かが違う、冬の飛切ハンバーグサンドなのであった。

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最近どうも悲惨なニュースが多くて痛ましい。
高齢者が運転する自動車死亡事故。
親の子殺し。
子の親殺し。
一家無理心中。
ストーカー殺人。
などなど。
どれもこれもB級週刊誌で数ページとって特集するほどの悲惨なニュースなのだ。

でもこれらに劣らない悲惨なニュースは自殺のニュース。
とりわけ子供や若い世代の自殺が多く、耳にするたびに暗い気持ちにさせてくれるのだ。
あまりに多いので日本の独自の社会問題とも言えそうだ。

電通の女子新入社員の自殺にスポットライトが当てられている。
業界の巨大であり、カリスマがあり、誰もが知っている知名度が暴露されたスパルタ的社内体制とあいまって「超ブラック企業」として報道されている。
あんなにきついから死んでしまうひとも出るんだよ、と。

また中学生の自殺も途絶えない。
交友関係、学校、勉強などなど。
様々な悩みの解決方法として自殺を選択する。

これらは社会の深刻な問題としてマスメディアに取り上げられて政府、教育委員会や労働基準監督署など様々な機関、団体で議論されている。
働き過ぎや学校教育が死に追いやっているというのだ。

この通り一遍等の考え方に、私はどうも納得行かない疑問を抱いている。
なぜなら、若い世代がこうも簡単に死を選んでしまうのには、何か他にもっと大きな原因があるのではないかと思えてならないのだ。
その背景には社会の問題はもとより、そうさせてしまう何かが他に存在するのではないかと。

私が子供の頃。
昭和40年代。
子供の自殺なんて考えられなかったように記憶する。
私自身、いじめられっ子だった。
小学校低学年の時は殴れ、蹴られ、悪口を言われ、たまに双方の親が出てくるほどの苛められ方をしたものだが、私自身「死にたい」なんてこれっぽちも思わなかった。
それに「学校に行きたくない」とも思わなかった。
先生の中には子供ごたごたから故意に距離を置いている人もいたこともあるが、自信が体験した戦中戦後の苦しかった話を持ち出して「苛め」がいかにつまらないかを滔々と話した先生もいた。
高学年になると付き合う友達が変わったこともあったが、すっかり苛めはなくなった。
中には私を苛める側の悪ガキグループの一人だったヤツも中学校に入るとたまたま同じクラスになったことをきっかけに普通の友人として付き合うようになった。
高校生になると学校は違うにも関わらず一緒に旅行はするは役に立たたない勉強もするわで、40年経過した今も友人であり続けているくらいだ。
「いじめられっ子」だった経験はそれはそれで「子供の人間関係」を今に考えるのにも役立っているし、大人の世界にも似たようなところがあり、嫌な人が上司や顧客にいても案外当たり障りなく付き合うスキルの基本の一つにもなっている。

社会人になると「残業」や「飛び込み営業」を敬遠できる仕事を選んだつもりが、たまたま成り行きで入ってしまった建築設備という仕事が恐ろしく過酷であった。
どれくらい過酷かというと、たとえば担当していた建築現場へ通うのに長距離通勤は当たり前だった。
1980年代半ばは首都圏の長距離通勤が話題になっていた頃で、湘南から都心まで、木更津や宇都宮から都心に通う、というの「通勤2時間」なんてことが話題になっていた。
私は大阪の堺に住んでいたのだが、担当してた現場が神戸の六甲山の裏側とか、ポートアイランドだとか、京都の洛北だとかだったので通勤時間は片道2時間は当たり前の世界なのであった。
しかも残業や休日出勤は当たり前であった。
夕方、そろそろ仕事を仕舞って帰り支度でもしようかな、と思っていたら現場の所長が、
「○○君、今晩騒音測定するから残ってくれる?」
と言ってくる。
「はい!」
と答えると、その日はもう帰宅できない。
竣工が近づいてくると完成図書を仕上げなければならないので徹夜で現場調整して、徹夜で図面描きの手伝いをした。
当時は現場にはまだCADが無かった。
週休二日なんてものにも縁がなく、土曜日は一般勤務で日曜日も「お客さんが休みのときしか作業できないから」と休みじゃなくなることも少なくなかった。
私は最長1ヶ月連続勤務があったけれども同僚の中には3ヶ月連続勤務というものもあった。
初めての仕事がこんな過酷だったため、
「ふ〜〜ん、仕事というものはこんなものが普通なのか」
とさえ思った。

いじめ。
過酷労働。
いずれも今考えると「普通」だったように思えるのだ。
しかし、今の労働環境と比較して考えてみると、昔とは大きな違いが2つあることになんとなく気づく。
1つは環境が陰険になったこと。
2つ目は周りに「死」に誘う雰囲気や情報があるのではないか。
ということだ。

「いじめ」はあったが今思うと「陰険」ではなかったと思えることがある。
ひょろひょろとして、どこか頼りなく、お友達といえば女の子が主だった私は、考えてみれば「のび太くん」みたいなもので格好のいじめ対象だったのだ。
ただし「陰険さ」はないので誂われたり、殴られたり、蹴られたりしたことはあったが、執拗に小突かれたり、待ち伏せを食って這いつくさばれることもなかった。金を巻き上げられることもなかった。

会社もそう。
勤務先の建築現場が大手の現場だったからかもわからないが、所長さんや同じ年頃の技術者、現場担当者はみんな高学歴で体力があった。
無理な仕事を与えられたあとは、
「お、これで朝飯でも食ってこいや」
とごちそうになったり、徹夜続きの現場が一段落して終わるころ、
「みんなで鍋、食べに行こう!」
と現場近くの飲み屋に出かけて水槽の魚を食べ尽したり、というようなことが一度ならずあったものだ。
つまり緊張に対する緩和が存在したのだ。
しかも建築現場なので職人の親方連中も強面の容姿に反して優しかかったりした。
建築現場というのは過酷な肉体労働が伴うが、技術も伴わなければ話にならず、その指導者たる親方・職長さんたちは信頼のおける人が多かった。
厳しくはあるが、私のような他社のものでも親切にノウハウを教えてくれる人が一人や二人必ずいたのだ。

それに対して今はどうだろうか。
先の見えない仕事量。
終わりなき、陰湿ないじめ。
仕事を教えてくれない上司に先輩。
プライベート重視で飲みニケーションも一切なし。
行ったら行ったで組織のルールが現前とある。

しかし、それを理由に「死」を選ぶのは、そういう環境があるからではないか、と私は考えている。
つまり未来がない、と教える悪魔がいるのだ。

岡田有希子が自殺した時に後を追うように多くの若者が自殺する社会現象が発生した。
自分の年齢に近い有名人が自死すると、そういう傾向のある人には一種の引き金となってしまい死ななくてもいいのに死んでしまう。
そういう社会心理が働くのだ。
今、社会の中で蔓延する「自殺」の原因は職場や学校などの陰湿さも原因しているのかも知れないが、自殺に関するニュースをたれ流し、ある時は「死は社会が原因である」とさえ伝える報道や行政の態度にもあるのではないだろうか。
だから「苦しい」ということが安易に「死」に結びつく。
岡田有希子の時と同じように周りの雰囲気が死を選ぶようにしていおるのではないか、と。
よしんば「死にたい」と思っても、「死ぬくらいなら辞めてしまえ」と自分に言い聞かせることができる雰囲気さえ奪っているのではないかと思えるのだ。

そこでつらつらと思うのだが、若者向けに「死」を選ばないドラマを普及させたらどうだろうか。
死ぬくらいなら学校や家族を捨てて家出しても良いんだよ。
死ぬくらいなら、そんな仕事やめてしまえ。周りが煩ければ家出をしてもいんだよ。
と。
家出をした後、様々な人に出会って成功していくストーリーが良いかもしれない。
「家出ドラマ」実現で最悪の「死」を回避して、別の世界に明日を見いだせる希望を抱かせる。
「明日がだめなら、明後日があるじょ。明後日がダメなら、明々後日がるじょ。どこまでいっても明日があるじょ」
というNHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」でドンガバチョが歌っている「明日の歌」を聴いて自殺をとどまった人がいたエピソードは有名な話だ。

適切ではないかもしれないが、人生行き詰まった時は「逃げ道」が必要だと思う。
家出までも行かなくても退社、退学、休学、休職。
どれもこれも生きてさえいれば、やり直しは効くのだから。

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2008年年頃から始まり2011年に爆発した植物工場のブームに陰りが出てきた。
その原因は「儲からない」ということだ。

LEDを使用した人工光式密閉型植物工場は未来的で注目を集める。
しかし、膨大な初期投資が必要な一方、栽培がスムーズに行かないことに加え、電気代が馬鹿デカで利益を生み出すことが非常に困難な施設園芸であるのだ。
しかも、多くの場合、それら植物工場は使わなくなった工場の敷地やビルディングの空き室を利用して設置されるものだから固定資産税が高い。
現在の行政では農地から宅地に転用できても、その逆はまず認められない。
だから農地ならほとんど無料のような土地代に対して工業用あるいは住宅用の土地を充てがうわけだから電気代に加えて土地管理の費用も莫大になる。
固定経費がどんどん膨らんでいく。
育てえうことのできる植物も葉野菜中心で根野菜はできにくい。
しかもいくら頑張ったところで太陽光ほどの力はLEDには無いので、収穫される作物の味にも限界がある。
実をつける植物は人工光では製品になるほどには育たないために設置地域にも影響をされる。

そんなこんなもあってかどうか。
利益を順調に上げている植物工場はほとんど無い。
現実は厳しい。
設備を作っているメーカーも競争が激しいうえに飽和状態になってきているので利益がほとんどでない。
面白みに欠けるビジネスになりつつあるのだ。

だからかどうかわからないが、和歌山にトンデモ植物工場があるのが発見されて今日、逮捕者が出た。
和歌山県かつらぎ市。
大阪との府県境にある町なのだが、ここで植物工場を作って中で1万株以上もの大麻を栽培していたのだという。
その末端価格は20億円。

植物工場は外から見ると普通の工場か倉庫にしか見えない。
だから中で何が行われているのか知りようがないのだが、大麻の栽培とは。
植物工場の金儲けになる使い方には犯罪になるものもあることがよくわかった事件なのであった。

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ちょっと以前になるけれども準大手ゼネコンの前田建設が「ガンダムの地球連邦軍基地」を本当に建設したら費用はいくらかということを積算してネットで公開したことがあった。
私はガンダムのファンではないのだが、こういう夢のあるプロジェクトが大好きなので「なかなか粋なことをするもんだ、前田建設!」と感動したことを覚えている。

SFに登場する様々なメカや施設というものは一体どのくらいの費用で建設あるいは開発されるのであろうか。
時々そういうアホなことを考えることがある。

サンダーバードの秘密基地はトレーシー家というイギリス大金持ちが自己資産を費やして建設。
登場するサンダーバード号のような凄いメカもトレーシー家の財産で開発された。
で、一体どれくらいの費用がかけられたのかは当然の如くドラマで説明されることはない。

007に登場する悪役の秘密基地もしかり。
ウルトラセブンに登場するウルトラホークなどの飛行機もしかり。
ドラえもんのタイムマシンもいくらするのかは説明されることはない。

価格がわかるのはリー・メジャース主演の「600万ドルの男」ぐらい。
これは価格がかるだけでに時間とともに為替変動で次第に価値がへってしまい、そのうち二束三文で叩かれそうな雰囲気がして、これはこれでいただけない。

で、スタートレック最新作「BEYOND」を観てきて真っ先に感じたのは、宇宙船エンタープライズ号を建造するのに必要な費用はいったい幾らなのかということだ。
さらにその資金は誰がどこから調達してきて、誰が決済するのかだろうか、ということなのであった。

スタートレックシリーズの登場する主役級の宇宙船「エンタープライズ号」はTVシリーズではほとんど破壊されることが無いのだが、映画のシリーズとなると幾度となく破壊されている。
攻撃されたらどういうわけか惑星に墜落。
大破する。
しかしそこは主役ということもありその都度、何らかの形で復活する不死身の宇宙船だ。

今回も敵との戦闘で船体がバラバラに破壊され墜落を余儀なくされる。
それもドラマの前半で復活不可能になってしまうのだ。
観客としてはどうやって乗組員たちはその惑星から脱出し、帰還するのかが大きなテーマとなる。
ところがシリーズを観ているファンは「どうせ都合よく宇宙船なんかが居るんやろ」と思っているので心配はない。
問題はどうやって戻って、エンタープライズが同復活するかだ。
そこんとろは安直なSFということができる。
しかもドラマはその予想を裏切ること無く、古い宇宙船が存在したりしているのでドラマの結末は自ずから見えてしまうところが、なかなか辛いところだ。

結局、新しいエンタープライズ号が建造されているシーンで今回の映画は終わるのだが、その建造シーンがリアルなCG画面であるばかりに観ていて、
「ん〜〜〜〜〜。この建造費は誰が出すんや」
と思ってしまったのであった。
もしかすると22世紀の社会では銭金に関する考え方や価値観が違っているのかも知れない。
でも今から200年前の日本社会を思い浮かべてみると江戸時代とは言え経済は資本主義。
今とほとんど変わらない貨幣経済で世の中が成り立っていたわけで、200年後の未来がそう簡単に変わっているとも思えない。

スタートレックBYOND。
思わず銭勘定をしてしまう映画なのであった。

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バームクーヘンは私の大好きなドイツ菓子だ。
あの年輪状に焼き重ねられたケーキは独特の食感を持っていて、子供の頃はよく層になった部分を一枚一枚剥がしては食べ剥がしては食べていて、
「アホな食べ方しなさんな!」
と、よく親に怒られたものだ。
バームクーヘンのように層になったお菓子類はどうしても剥がしながら食べたいという欲望に駆られて、たとえばミリフィーユなんかも剥がしながら食べそうになり、
「アホなことせんといて、オッサンが」
とカミさんに叱られそうになるのだ。

層になっている構造はどのお店のバームクーヘンでも同じだが、層構造と味とともにお店の特徴を代表するのはなんといっても食感である。

バームクーヘンはそれこそお店によって食感が異なる代表的なお菓子と言えよう。
あるものはしっかりとした弾力があり、またあるものはふんわりした柔らかさがあり、また別のあるものはパサパサ感があってちっとも美味しくなかったりするのだ。

個人的な好みで申し訳ないのだが、私はバームクーヘンは神戸のユーハイムのものが一番美味しいと思っている。
さすが日本にバームクーヘンをもたらしたドイツ人カール・ユーハイムの創業による日本の老舗。
どっしりと、しかし濃厚でガッツリとした味わい。
ドイツ菓子はかの民族と同様に職人技に長けたマイスター文化を感じさせるものでなければならないのだ。
私は中でもやや円錐形になってシュガーコーティングがされたディアバームクーヘンが最もお気に入りなのだが、なかなか食べる機会に出会わないのが辛いところである。

ところで、最近バームクーヘンの類が非常に増えていて大阪でも東京でも長蛇の列ができるているお店がある。
ある店は抹茶味。
またある店はアメリカンドックのように串刺しタイプ。
そしてある店は正統派のようなバームクーヘンなのだ。
同僚に聞くところによるとその正統派みたいなバームクーヘンを提供するところは全国的に人気のあるお店で本店は関西の地方都市にあるのだという。
関西の地方都市、というところが怪しい。
ユーハイムのように神戸ではないのだ。
神戸はなんといっても洋菓子用砂糖生産の圧倒的シェアを誇る街であり、当然、神戸はバームクーヘン以外の洋菓子も美味い。
従って神戸でこういうバームクーヘンが誕生するはずはない。
大阪も洋菓子には煩いので大阪でもない。
尤も大阪は食べ物となるとあらゆるものに煩い。
京都は和菓子というイメージだが、実は京都人は伝統を重んじる一方すこぶる革新的性格を持っているので、こんなもの許すはずはない。
で、バームクーヘンの大好きな私だが、どうしても食べたくて仕方がない時に買うコンビニのバームクーヘンとユーハイム以外はあまり興味がないので暫く食べないでいたところ、先日そのバームクーヘンを食べる機会を得た。
どんな味なのか、興味津々で食べてみた。
その感想は、なんで行列を作ってまで買う人が存在するのかまったくもって理解に苦しむ「食感」なのであった。
正直、層になっていればバームクーヘンだと思っているのであれば、この店はドイツ文化を冒涜していると言える。

食感はふわふわ。
歯ごたえはまるで一般的なケーキのスポンジ部分を食べているような感触だ。
これはバームクーヘンではない、と思った。
層になっているスポンジケーキではないかと。

列を作ってる人々はどんな味覚の持ち主であろうか。
バームクーヘンは簡単なお菓子ではないことを、この人気店は知る必要がありそうだ。
それがどうしたと言われるとそれまでですが。

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農業の世界に変革が訪れている。
正確には農業だけではなく漁業、林業、畜産を含めた1次産業に大きな変化の波が訪れているのだ。

私が生まれた昭和30年代終盤から40年代初めの頃は東北地方や九州地方からの集団就職がやっと終了した時期だった。
農村部の人口が過剰ぎみで都市部では労働者を求めていた。
また農村部の現金収入と都市部の現金収入に開きがあり、地方の若者が都市にあこがれている時代でもあった。
だからかどうか知らないが、私のように大阪に住んでいる子供からすると農業は苦しい、しんどい、収入が低い、格好が悪い、などのイメージが植え付けられ、畢竟農業は将来目指したい職業ではなくなってしまっていたのだった。

私は父が岡山県の農村部出身だったこともあり、小学生高学年まで頻繁にその岡山の祖父母の家を訪れていた。
従って、大阪堺の都心部で生まれ育ったにも関わらず、春は田植え、秋は稲刈りを手伝わさせられる経験をしており、他の人よりもさらに「ううう〜、めんどくさい仕事や」と思うようになっていた。
尤も、小学校も高学年になると稲刈りも田植えも機械化されており手伝うことはほとんどなくなっていた。
鎌を手にしてザクザクと稲の穂を刈るなんてことはなくなってしまい、今思い出す度に非常に寂しく感じられる光景である。
今もミャンマーやタイの農村部へ行くと村中総出で手作業の稲刈りや田植えをしている風景を見るにつけ、昔の日本のようで懐かしさを感じるのは多分私だけではないだろう。

そういう農業のイメージが一新されようとしている。
農業にICT技術が応用され始めてすでに20年以上が経過し、それを研究・開発してきたNTTや日立といった企業を中心に多くのノウハウが蓄積されてきている。
あのグーグルやアップルでさえも日本での農業ICTへの研究に参入しているのだ。
従来はベテラン農家の経験と感が頼りだった農産物の育成についてもITがそれを補えるレベルまで達しようとしている。
また施設園芸の技術も上がっている。
水耕栽培やそれに類する技術は安定した栽培を可能にしキノコ類に至っては工場生産が主流になり、台風が来ようが日照りが続こうがスーパーマーケットでの販売価格はほとんど変動しない。

近い将来ほうれん草やレタス、ネギといった軟弱野菜もきっと同じように安定した価格になるのかもしれない。

さらに農業の動きとして6次産業化を忘れてはいけない。
これは生産(1次産業)するたでけではなく、加工(2次産業)し、販売提供(3次産業)までをすべて農業側がやってしまおうというビジネス形態なのだ。
野菜を作ればそれを漬物にしたり、チップに加工したり、サラダにしたりして販売する。
そうすることによって生野菜で得る5倍の利益を確保できるように計画することも可能になる。
農業は格好悪いどころか、多くの可能性を秘めた新産業に変わろうとしているのだ。

金丸弘美著「里山産業論 食の戦略が六次産業を越える」(角川新書)は日本国内で起こっている農業を中心とした産業およびビジネスの変化を紹介した良質の参考書なのであった。
町おこしと1次産業の関わりを中心に海外の事例や、近年やっと生まれてきている日本の事例などが具体的に記されていてビジネスだけではなく新しい社会の動きとして知ることができるのがかなり魅力だった。
しかも具体的な活動として例えば五感を使ったワークショップなどが取り上げられており、実用書としも使えそうな雰囲気だ。
里山と言う言葉に注目が集まり始めて結構な時間が経過する。
その里山で生産される様々な産物が日本が直面している社会問題の幾つかの解決への指標になるようにも思える。

それにしても他分野の産業も融合した農業の魅力は絶大だ。
正直、本書に書かれているようなことがもっと広がり強化されると議論を呼んでいるTPPは否定すべきものではなく、うまく活用すべき国際的な取り決めではないかとも思えてくる。
日本の食の問題はかなり楽観してもいいのではないかと思えてくるのは私だけではないかも知れない。



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ニシェル・ニコルス、ウーピー・ゴールドバーグ、ケイト・マルグルー。

この三人には共通点がある。
それはテレビシリーズ「スタートレック」で重要な役割を演じた女優たちという共通点だ。

ニシェル・ニコルスは1966年放送開始のオリジナルシリーズで通信士のウラ中尉を演じていた。
ベトナム戦争が激化。
米国の国内世論は反戦運動が活発化しはじめ、世界的には東西冷戦状態がより不安定になっていた時代だった。
その頃、女性の社会進出も声高に叫ばれていた。
現実の米国はそれほど女性に寛容な社会ではなかったのだ。
スタートレックに登場したウラ中尉というキャラクターはそんな時代でより大きな影響を次世代に与えていた。
宇宙艦の重要クルーに女性がいること。
しかもそのクルーは黒人の女性であること。
スタートレックというテレビ番組で刺激を受けた若い世代、とりわけ黒人女性の中にはニコルス演じるウラ中尉を見て未来の自分たちを想像した人は少なくなかった。

ウーピー・ゴールドバーグはその刺激を強烈に受けた一人だった。
スタートレックが放送されていた頃、ティーンエイジャーだったゴールドバーグはウラ中尉を演じるニコルスを見て女性、とりわけ黒人女性の可能性に大きな希望を持った。
女性であっても、しかも黒人であっても活躍できる世界があることに刺激され、彼女は女優になる道を進んだ。
彼女は女優としてスターの地位に上り詰める。
そんな彼女がスタートレックの新シリーズに準レギラーのガイナンというキャラクターで活躍することになったは、ただ単にスタートレックが人気テレビシリーズという理由ではなかった。
女性であろうと少数民族であろう、すべての人が活躍できる社会を描く番組そのものに魅力を持ち続けていたからだ。

TVシリーズのスタートレックは放送開始以来いつも社会的テーマに挑戦してきた。
先に上げた東西冷戦もしかりだが、人種差別や病、災害、教育の欠如、貧困など、我々が抱えている社会的な問題をSFという手法でデフォルメすることでメッセージを送り続けているのだ。
それが世代性別人種を超えた多くのファンを抱える最大の理由であり、他のSFとは決定的に違う部分でもある。
その社会的テーマの一つが女性問題であることは間違いない。

その女性の社会進出をテーマにしたこの番組の最大の象徴がケイト・マルグルー演じる宇宙艦ヴォイジャーのキャサリン・ジェインウェイ艦長だ。
女性でありながら大型宇宙艦の指揮官となった彼女は、想像を絶する危機に直面する。
未知の異星人のテクノロジーのために一瞬にして7万光年彼方に吹き飛ばされてしまうのだ。
70年の歳月を要する地球へ戻るための旅を強いられるわけだが、その途中に遭遇する物語の数々で見せる彼女の指揮官としての頼もしさは歴代艦長の中でも特筆すべき魅力を備えていた。
100名を越える乗組員の指揮官であり、且つ女性として若い士官や船内で生まれたり、或いは育った子どもたちにとっては母のような存在になっていた。
まさに女性が指揮官になったとき、そのひとつの代表的な姿を彼女は体現していたのかもしれない。



今週最大の話題となった米国大統領選挙は多くの期待と議論を呼び起こしたが、ヒラリー・クリントンは勝者になることができなかった。
初の女性大統領の呼び声が高く、しかも対するトランプ候補が従来の大統領候補者には見られなかった人格的問題を抱えていたため、彼女の勝利はかなり確立の高いものではないかとも思われていた。
しかし結果は多くの期待を裏切ることになった。

女性大統領の登場を阻んだものはなんなのか。
現実ではドラマのようにはいかない厳しさがあることは間違いなさそうだ。

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