<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



首都圏の人たちには信じられないかも知れないが、リクルート社発行のフリーマガジン「R25」が大阪で発行され始めたのは先々週のこと。
もっと信じられないことは、その「R25」が先週末まで駅のマガジンラックに売れ残っていたということだ。

大阪での「R25」。
最初は苦戦の様相を呈している。

これは何も、

「へっ、わてら大阪人が東京モンの読みもん読めるわけおまへんがな」

という大阪人独特の東京人に対する意味のない対抗心が原因になっているのではない。
ただ単に、

「R25って何?」

と何も知らないことに原因があるのに違いない。
というのも、R25が大阪で発行されるということを私が知ったのは、新聞やテレビ、雑誌の広告でも、インターネットでもなく、地下鉄御堂筋線梅田駅に小さな小さな広告が上がっていたのを発見したからであった。

「お~、R25が大阪で発刊! もう、いちいち東京まで取りに行かなくて済むんや」

しかし、R25とはなんことやらわからない人々には、注目もされない広告になっていたように思われる。
しかも発行当日でさえ、地味なPR。
なんばの駅前でさえ黄色いジャンパーを着込んだ女性二人が、

「今日発行のR25でーす!」

と配っているだけで、殆どの人は受け取らない。
何かの宗教団体にでも勧誘されるかも知れないとでも思っていたのか、受け取る人は少なかったのであった。

私はR25発行大歓迎。
素直に一冊頂戴したのであった。
なぜなら、我が家はR25の愛読家族だからなのだ。

東京への出張が多い私は、R25の発行日に上京した時は必ず2冊抜き取って大阪に持ち帰るようにしている。
一冊はすぐ読むため。
もう一冊は大阪への土産用なのである。

このR25はなかなかよく編集・取材が出来ていて、フリーマガジンなのにじっくりと楽しませてくれる憎い雑誌だ。
大阪にもこの雑誌に匹敵するものに市営交通が出している「ノッテオリテ」があるが、こちらは隔月で一回だけの発行。
R25は今でこそ月二回の発行だが、以前は毎週木曜日に発行されていた。
このフリーマガジンを取れるときはなるべく朝一番の飛行機で大阪から羽田へ向かうようにしてさえる。
なぜなら、R25は首都圏では超人気マガジンであり、朝確保しておかないと、午後にはもう駅のマガジンラックから姿を消しているかもしれないからだ。

そういうこともあり、大阪での初発行日は売り切れてはいけないとばかりに、勇んで一冊頂戴したのだったが、発行後1週間以上過ぎた先週土曜日でもまだ、売れ残っていのでビックリしたのだった。

なお、大阪人は「ただ程高いものはない」ということを子供のころから教育されており、フリーペーパーやフリーマガジンにも様子見をする傾向にあるのだと思う。

そのうち「無害であること」がわかったら、大阪人は必ず手に取り読む!
リクルートの人。
諦めずに配布続けてください。


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最初に書店でこの本を見つけた時、買うべきか買わないでおくか、先ず悩んだ。

理由はいくつか挙げられるが、その最大のものは「インチキビジネス本かも分からない」との疑いが晴れなかったからだ。
たとえこの本が日経に紹介されていたからといって、納得のできる内容を持っているという保証はない。
かといって、「選択」することや「選択」されることを「科学」として捉えた書籍には今だお目にかかったことが無かったので、結局「インチキ本ではあるまいな」という疑いに対して「読んで見たい」という欲求の方が勝利を収め、平積みされていた本書を手に取りレジに向ったのであった。

結論から述べると、コロンビア大学ビジネススクール教授シーナ・アイエンガー著「選択の科学」(文藝春秋社)は実に面白い参考書であった。
参考書、というよりも教科書という方が正しいかも知れない。
なんといっても、色々なシュチュエーションを例にとり、その時々にどのように人々がいくつかの選択肢からひとつを選び出すのかという解説がスリリングで興味深く、読み進んでいて読者の好奇心を放さないのだ。

著者の研究として有名であるそうな「ジャムの研究」だけではなく、「コーラの味比較テスト」や「東ドイツではコーラもファンタも他の炭酸系清涼飲料水も全て同じ『ソーダ』だった」など、驚く内容が目白押しだ。

ところで、私が勤務している会社の製品はその世界では品種が豊富で、カタログ掲載製品だけでも3000点を超えるバリエーションを数えることができる。
数えることができる、と言ってもシリーズごとの製品内ではそれぞれ大きな違いはあまりなく、ほとんど似たり寄ったりのものばかりがラインナップされている。
その原因はOEMされている製品が多いことと、サイズ違いが多いということで、私は以前からこの煩雑さに辟易としていた。
しかも製品バリエーションが増えても売上げがその品種分増加する、ということもあまりなく、まったくもって新製品や製品のリニューアルというのが無意味になっていたのだった。

なぜか?

煩雑で面倒くさい私は、楽をするためには労を惜しまない性格なので、なんとかならないか、と思っていたところに出会ったのが本書でもあったわけだ。
つまり「ジャムの研究」はまさに目から鱗の理論なのであった。
品種が少ない方が売上げが増える、という考え方に大きく共鳴したのだった。

私はこの理論を適用すると、売上げを増やそうとショーモナイ新製品を会社上層部の人たちが考えて、それを支える企画から解放されることを期待したのだ。

実際のところ、品種を減らしてトライ、という実験はまだできずにいる。
新製品を増やしても売上げは増えないが、減らしてしまうと減少するかも分からず、怖くてタッチできないのだ。

いずれにせよ、実験をするしないもひとつの選択であり、その選択には様々な要素が作用する。
その要素が働きかける力の方向や強さ、ぶつかり合いを研究することが「選択の科学」であることが、良く分かったのであった。

なんだか世の中みんなギャンブル、というような気がしないでもないのだ。

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インターネットが普及してすでに10年以上。
今では「どこでもいつでも誰とでも」という、まるで不詳宮嶋茂樹カメラマンのキャッチフレーズにようになってしまっているのだ。

そのおかげといってはなんだが、簡単な端末を持っているだけで必要な情報はいつでもとり出すことができる。
それも迅速に、素早く、悩むことなく取り出すことができるのだ。
その反面、購読にお金のかかる新聞や雑誌、テレビなどは相対的にその価値を失ってきている。

広告費用のトータルもインターネットがすでに新聞雑誌を追い抜いているそうで、テレビを追い抜くのも時間の問題。
マスメディアの業界図が大きく変わりつつあるのだ。

インターネットの功績で最も大きいことは世界中の人々の距離をさらに縮めたことで、これは実に大きい意味を持っている。
なぜなら、人と人との距離が近いと、争いごとがしにくいからだ。

「あ、あの人のことなら良く知っている」
「あの人は友達だ」
「見かけは怖いけど優しいひとだよ」

と、人と人が良く知るとそれだけ偏見も減ることになり、戦争や差別がしにくくなる。
知っている人を殴るわけにはいかないだろう。

ところが知っていると困ることもあって、

「性格悪いから、あの人は嫌い」
「裏で汚いことしているのに、二重人格だ」

というような悪い情報もきっちりと露出してくるので、アクドイことをしている人はそれなりに糾弾されることになる。

このため、中国や北朝鮮のような共産主義や独裁主義の国はインターネットが大嫌い。
必要な情報は都合の良いものだけが見られれば良いのであって、為政者のホントの姿はさらけ出したくない、というのが「紛争ネタ」になる。

実のところ、数年前にミャンマーの僧侶によるデモ騒動もそうだったし、市街戦もどきまで発展した昨年のタイのバンコクでの二派衝突もそうだったわけで、何が騒動に火をつけて、それを燃え上がらせるかというと、私はインターネットでやり取りされている膨大な情報が人々を燃え上がらせているのだと思うのだ。

で、今回はエジプト。

デモ騒動から死者が出るほどの抗争に政府とデモ隊の闘いは発展してしまったが、その火だねと導火線の役割は、どうもインターネット。
騒動が大きくなるに従って政府がインターネットを遮断した事実でも良くわかる。

ということで、下は友達の悪口から、上は政府や民族の対立まで。
インターネットの功罪は小さくない、というのが今の世の中だと思うのだが、例によってテレビも新聞も報道しない。

そんなにインターネットが癪にさわるのか。
これもまた功罪のひとつかも知れない。

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先日、出勤しようと朝、ズボンを履いてベルトを締めたらバックルの孔が長さギリギリになっていることが判明した。

「う、デブになっている」

と言うやいなや、

「宴会のやり過ぎちゃうん」

と嫁さんが即指摘。その調子に乗って小学生の娘までが「お腹出てんちゃうん」という始末。
確かに、どことなくポコッとお腹が出て、首周りに小さなクッションが入っているという感覚を自覚したのであった。

年明けはともかく、昨年の年末の忘年会の数は例年に比べてかなり多かったのは事実なのだった。
会社の忘年会。
会社の有志による忘年会。
得意先との忘年会。
得意先の有志による忘年会。
研究会の忘年会。
交流会の忘年会。
などなど。

つまり食っちゃ飲み食っちゃ飲み、していたのが悪かった。
とりわけ東京で実施したある研究会の忘年会が最悪なのであった。

東京大学にほどちかい地下鉄本郷三丁目駅徒歩数分。
とある食べ放題飲み放題の中華料理店が会場だった。
その中華屋。
普通、食べ放題飲み放題の店は時間制限があるのだが、この店、どういう仕組みになっているのか約4500円を支払うと、時間無制限で食べ放題飲み放題なのであった。
従って、一般的に、
「2時間でお願いします~!」
というタイムリミットで救われる宴会も、中締めを取りにくく永遠に続くという地獄が展開されることになる。

宴会メンバーの構成員にそれこそ酒飲み話好きが含まれていると、終のない世界になってしまい、会場をさることが難しくなるのだ。
とりわけ私のように出張で東京にやってきていて、予め「今日は泊まりなんです」などと告白していたりなんかすると、
「もう終電です」
と逃げることもできなくなってしまい、店が閉まるまで長々と付き合わされることになるのだ。

「今日は大阪に帰らなければならないので、7:30で失礼します」

と言えれば良いのだが、今回私は「この近くに宿とってますんで」と言ってしまっていたので逃げることが許されず飲み放題食べ放題拷問にさらされたというわけだった。

とまあ、こんな具合で連日宴会が祟ってベルトの孔が危機状態になっていた、というわだ。

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大阪市交通局が二ヶ月に一回発行しているフリーマガジン「ノッテオリテ」。
その最新号の記事によると、この3月に大阪市営地下鉄全駅でエレベータの設置を達成するそうな。
どういうことかというと、どの駅でもエレベータを使ってホームから地上まで移動できるバリアフリーを完成する、ということ。

エライ!

赤字バス事業でも高給取り。
あんなにお客が乗っているのに黒字なのは御堂筋線だけ。
民営化をかたくなに拒否。
などなど、日頃は褒められることの少ない大阪の地下鉄と市バス。
でも、今回のエレベータの件だけは素直に褒めてあげたくなってしまう。

地下鉄に限らず駅にエスカレータやエレベータがないと高齢者でも身障者でもない私でも大変困惑することがある。
それは荷物を大量に抱えている時や、過労でフラフラ、とりわけ真夏の昇り降りは大変だ。

タイのバンコクに高架鉄道BTSが走り始めた頃、物珍しさと便利さが相まって、バンコク滞在中は引っ切り無しに利用した。
もちろん、今も利用する。
なんといっても交通渋滞がないのでバスより早いし快適だ。
冷房はガンガンに効いているし、清潔だし。
料金の高いことに目をつぶれば乗っている間は日本で電車を利用しているのとまったく変わらなかった。

問題は駅の改札への昇り降り。

BTSはビルの高さでいえば5階以上の高いところを走っていて、改札口はホームの下階中間のフロアに設置されている。
この改札口からホームへはエスカレータが設置されているのだが、地上から改札口へ上がるのにエスカレータはもちろんエレベータなどが設置されていないところが多く、体力が要って大変だった。
改札口も高さが3階~4階のところにあり、そこまで長い階段をテクテク歩いてふうふう息をあげながら上がらなければならなかったのだ。



ただでさえ長い階段。
そこへ毎日の最高気温が30度を突破する熱帯のバンコク。
汗びしょびしょでヘロヘロになったのは言うまでもない。
さらに、そのびしょびしょの汗の染み込んだシャツを着たままガンガンに冷房の効いている電車に乗ることになるので、シャツが「ピチャ」っと肌に張り付いてひんやりする瞬間が気持ち悪かった。

大阪の夏はそんなバンコクも顔負けの酷暑だが、そんなときに重い荷物を持って階段を昇り降りするのは酷だった。
でもその厳しさがついに解消するときがやってきたといわけだ。

「年取ったら郊外でのんびり暮らしたい」

と言う人も多いそうだが、実際は都心部に住んだほうが交通の便はいいし、買い物先も至近距離。
ただ駅の階段や歩道だけが障害物。
そういう意味では大阪市内はいち早く高齢者の住みよい体制ができあがったと言えるかも知れない。

駅にエレベータもエスカレータも少なく、通路の途中にも平気で段差があちこちある東京都営地下鉄と東京メトロは大阪市営交通局の爪の垢でも煎じて飲むように。
夏の東京出張が大変だ。

但し、親方日の丸的な赤字体質は真似んでよろしい。




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こういうことを書いてはいけないのかも知れないが、ロシアという国でテロが起こったとしても全然不思議に思わないのは、私だけだろうか?

ロシアの近代史は侵略と粛清、殺戮の連続だったといっても過言ではない。
ヨーロッパの北東に位置する西ヨーロッパと比べると「ちょっと遅れた人たち」の国家で、もともと今ほど大きな面積ではなかった。
徐々に徐々に東へ東へと進出し、国土を広げて行った国に過ぎない。
その間、どういうふうにして侵略地域を手懐けていったのかは想像するまでもないこと。

日本もその侵略コースに位置していたため、今から108年ほど前に国家を上げて、その圧力に抵抗して勝利を収めた。

当然これだけ力で押さえつけているわけだから、あちらこちらに歪を生じる。
ソビエト時代はその圧倒的な力でもって抵抗勢力を駆逐していたに違いない。
なんといっても鉄のカーテンのお国柄。
抵抗活動は表沙汰にならなかった、というのが実情なのだろう。

冷戦が終了し、ソビエトどころか社会主義や共産主義のほとんどの国家が消滅した今日、人の口に衝立はできない。
しようと思って記者や政治家に刺客を向けるとインターネットで世界が繋がってしまっているので、露骨に悪事が露見し、疑われ、叩かれることになってしまう。

テロという行為は決して許されるものではないけれど、これだけ大きな国際空港でのテロ事件でさえ、マスコミ一般に「ロシアもやっぱり....」が感想で、「ロシアがなんで....」とならないところがロシアに対する国際的な感情と言えるのかも知れない。

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古典落語と新作落語。
何度聞いても面白いのが古典落語で、何度も聞けないのが新作落語。
だって新作落語は使い捨てみたいな噺が多いから。

大体の傾向はそういったところだろう。

古典落語はオチが分かっているのに、なぜか楽しんでいる自分がいる。
そういう事実に自分自身驚くことは少なくない。たぶん古典落語には精神的に人を癒してしまう機能があるのだろう。

それに引き換え新作落語。
オチが分かっていたら聞く気もしないし、だいたいが初めから聞く気もしないものが少なくない。

例えば有名落語家、仮に桂S枝と呼ぶとしよう。
かの師匠の新作落語は数が多い。
多いけれども内容は薄い。
小説や論文の世界ではよく見かける多作で中味なし。
でも演じる人がポピュラーな人だから、それをCDにして販売したりなんかしている。
買う人が居るのが古典の好きな私には理解できないが、理解出来ないだけに地球資源の浪費ではないかと思ってしまうことも少なくない。

とまあ、環境問題にまで、言及しそうになってしまいそうな品質なのだ。

古典は基本。
基本がしっかり出来上がっているのだから、なんど同じ内容を聞いたとしても楽しめる。
新作でも基本がしっかりしている小佐田定雄の作品には何度聞いても楽しい話が結構ある。
尤も、その基本がなんであるのかを説明するのはかなり困難ではあるが。

そういう意味で、夢路いとし喜味こいしの漫才は「古典漫才」と呼んでも過言ではなかった。
なんといっても、古典落語のように同じネタを何度聞いても面白かったのだから、凄い!という他ない。
しかも子供の頃に聞いた漫才と、大人になってから聞いた漫才を全部面白いと感じるのだから、その漫才、まさに芸術。
今も時々、仕事でイライラしたときにYouTubeなどでお世話になっている心和ませる漫才だ。

そのいとしこいしの生き残り、喜味こいしが亡くなった。
享年83歳。

まったくもって惜しいというか、なんというか。
相方でお兄さんだった夢路いとしは随分前に亡くなっていたので、最近は二人の漫才は見ることができなくなっていたのだけれども、それでも片方が存命であるのと、そうでないのは大きな違いがある。

「ぐちゃぐちゃで思い出したんやけど、君とこの嫁はんは元気か?」
「なんで『ぐちゃぐちゃ』でうちの嫁はんを思い出すんや!」

もう、生では聞けないネタになってしまった。
さよなら、古典漫才。

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ニュースの記事によると、

「新入社員募集の条件としてTOEICの評価730点以上を求めます」

大阪の武田薬品工業は英語を話せない人は入社して欲しくない、しかも業務で使えるレベルを話せない人は要りません、という条件を出すことにしたそうな。

楽天。
ユニクロ。
管理職としてのパナソニックにマツダ。

多くの日本企業が「英語話せます」を条件に社員や幹部社員の登用や採用を決める傾向が強まってきた。
正直私はこれは愚の骨頂だと思っている。
以前、「業務中、大阪弁を話したら罰金でっせ」と言って話題を集めた機械工具系商社より「愚」だと思う。

なぜならな、世の中、英語を話せなくても優秀な人はいくらでも居るわけだし、外国語何ぞ、入社してから習うという手もある。
しかも英語を話す機会がないのに英会話必須なんてことになると能力のオーバースペックなわけでもあり、最近接することの多い、例えば帰国子女と呼ばれる英語堪能な人たちには、
「英語で話す前に、口の聞き方習ったら。」
と言いたくなる人も少なくないのだから、英語、英語、英語、と叫ぶ企業の感覚が良くわからない。

「日本的経営は間違いで、これからは欧米型経営術を取り入れるべきだ」というようなことがバブル崩壊後数年経ってから叫ばれ出した時期があった。
なんといってもその頃は日本式経営はバブルを生み出し崩壊したではないかいな、という気分になっていたところだから、
「ん~。日本式経営は良くないか」
と思い込んだ経営者も少なくなかった。

で、欧米式経営術の信者になって、組織を挙げて日本式のマネージメント方法を根こそぎ覆し、そして欧米方式を取り入れた。
とりわけ団塊世代以降の経営者が率先して取り入れた。
学生運動で保守的なものはなんでも否定した世代だったので、日本式経営を否定するのも躊躇わなかった。
そして、それら否定したほとんどの会社は失敗した。

冷静に考える能力を喪失していたのだ。
流行に流されたおバカさんになっていたとも言えるかもしれない。

だいたい戦後ほとんどゼロから出発して世界のトップに躍り出た日本企業。
その日本式経営がそのまま100%間違っていたことなどあるわけがなく、経済の停滞は「マンネリ」「不真面目」「不誠実」「過信」など、日本式経営から最も逸脱した行為や行動、考え方が蔓延したからボロボロになったのだ。
だから「欧米式経営導入」は優れたものでも解決策でもなんでもなかった。
だいいち「欧米」と「ヨーロッパ」と「米国」を十羽ひとからげに叫ぶことが胡散臭い。

「あんた、あの2つの大陸は思想がまったくちゃいまっせ」

と指摘したり気付いたりする人やマスコミがいなかったのも「愚」なのであった。

それで今回の英語能力要求トレンド。
なんとなく「欧米式経営術」神話に似ていなくもないのが、気にかかる。

「日本の会社も公用語は英語にしなければ良い人材が雇えない」
という人の多くは米国での経験で語っている場合が多い。
明治のはじめに「公用語は英語で」なんていう運動をした人たちに雰囲気が良く似ている。
ずいぶんな勘違いがあるように思うのだ。

多人種多民族国家の米国と、黄色人種小民族国家の日本と一緒に考えるのはナンセンス。

私の知っている某有名国立大学の先生には英会話がかなり苦手な学者さんがいるのだが、英語を書かせるとちゃんと書ける。
論文ぐらい、英語で書けないと学者生活できるわけがない。
それでも話す方はメチャ苦手。
「先生、いつも学会は筆談でっか」
と一度訊いて見たいのだが、怖くて未だに訊けずにいる。
という優秀な人もいるわけだから「言葉」で仕分けするのは民主党の仕分け作業より愚かだと思う。

ということで武田薬品の英会話能力要求。
英語でアリナミンを作れるとは思えないのだ。

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私の人生はまさにチャランポラン。

最近特に感じるようになってきたのだが、人生というのは真面目に送らないほうがストレスも少なく楽しいのではないかと、思う。

若い頃は真面目に頑張ったのだが、真面目に頑張ったものほど悲惨な結果に終わったものが少なくない。
逆に不真面目、と言っては語弊はあるが、真面目に取り組まなかったものの方が成功することが多いのだ。

大学4年生の時に私も他の人達と同じように就職活動を展開した。
しかし、三流芸大生の私を「貰ってくれる」会社はなかなかなく、就職が決まらないまま卒業を迎えてしまった。
玩具店のバイト仲間のS君は早々に「イトマン」という総合商社に就職が決定。
「おれ商社マンや。世界をまたに掛けて働くで」
と自慢たらたら。
就職の決まっていない私を蔑むような目付きまでしたのでムカついた。
正直、悔しくはなかったがムカついたのだ。

なぜなら芸大生の私に商社マンになる気などさらさらなく、
「商社マンのどこがええねん。こんなやつそのうち出世街道から外れて系列の子会社で一生贈ることになったらええわ」
と思っていたら、神様にその祈りが通じたのかどうか数年後「イトマン」は会社ごと消滅。
S君のその後は杳として知れない。

で、私はというと大学時代のバイトをそのまま続けるのも格好が悪いので、建築設備関係の会社へバイトで入社。
半年一生懸命働いていたら、
「うちに来ないか」
と社長から誘われたので、そのままいつくことになった。
実にチャランポラン。

クリエティブな仕事を探していたのに建築設備の会社で働くことになったのだった。

しかしやってみれば建築の仕事も「クリエティブ」な仕事に変わりはない。
職人というアーティスト。
監督というデレクター。
設計事務所というプロデューサー。
お施主さんというパトロン。

なるほど、クリエイティブな世界とかわりはない。
が、このままであ不本意なので、仕事の合間を見て真剣に探した映像機器関係会社に真面目に就職しなおした。

ところが真面目に入った会社は驚くほど詰まらなく、建築設備会社の仕事のように「広大な現場」とは比較にならないちっぽけな仕事で阿呆らしくなって試用期間で辞めてしまった。

で、「もう一回、やとってくだはい」と恥を偲んで建築設備の会社に契約社員で戻った。
またまたチャランポラン。

それから数年、何度か真面目な入社と不真面目なバイトを繰り返したが、不真面目なバイトのほうが仕事が乗るので、いまさらながら「なんでやろ?」と思うのが不思議だ。

現職はちゃんと就職したのだが、面白くなってきたのは新規事業部隊に配転されたからで、暫く不貞腐れて好き勝手にやってたことが、ズンズン業績に反映されていくので次第に快感になった。
好き勝手、つまりチャランポラン。
難を言えば、収入が業績のようにズンズン進まず、チャランポランなのがいただけない。

土屋賢二と三浦勇夫の対談本『「ゆる人生」のススメ』(新講社刊)は正しくそのチャランポランを評価するお笑い対談。
哲学者と精神科医の会話というのはホントに恐ろしく、笑わせてくれる。
現代派ストレス社会などと言われるけれども、あまりに真剣に取り組むと、ことが成功しないばかりか病気になってしまうという怖いこともあるようで、例えば三浦先生の患者に対する発言はある意味勇気がいるものの、「真面目な人ほど鬱になる」というような現実がある限り、真面目な相談をしに来た人を茶化して笑わすのは重要かも分からない。

ツチケンエッセイはそれなりに楽しく、新刊が発行されるたびに購入しているのだが、私にとって取っつきにくい対談ものもツチケンものであれば楽しく読了できて、価値ある一冊だ。


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先日、新幹線の列車運行システムに異常が発生して3時間以上東北上越新幹線と、それに繋がる各ミニ新幹線が不通になった。
その事故の原因は運行システムCOSMOSへの過剰なダイヤの入力だったのだという。
こんなことが発生したら、必ず出てくるのは.....

「新幹線の海外ビジネスは大丈夫か?」

とあいも変わらず悲観論大好きなメディアという名の不思議な人達。
新幹線が売れなくなったら嬉しいのか、この人達は、と思いたくなるのだが、一部のメディアは大陸国家のスポークスマンみたいなところもあるので、さもありなん、というところか。

以前マサチューセッツ工科大学の鉄道模型クラブのことをリポートしたノンフィクションを読んだことがある。
その本によると自動制御で何が難しいかというと、鉄道模型の自動制御ほどむつかしい物ははなく、それだけにMITでの鉄道模型クラブの権威はひときわ高いのだという。

世界最高峰の工科大学MIT。
ホンマかいな、と疑いたくなる内容だった。

でも実際鉄道模型をダイヤ通りに自動で運行させようとするとかなり複雑だ。

中学生の時にメルクリンという鉄道模型をダイヤ通りに走らせる試みをしたことがるのだが、なんといっても子供のおもちゃ。自動制御どころか一本のレールの上に2本の列車を走らせるのにもテクニックが必要だった。

鉄道はひとつのレールを区間ごとに分けて制御するのだが、それは鉄道模型とて同じ。
区間ごとの電流を制御して列車を走らせたり、止めたりする。
メルクリンの線路でも一周数メートルの楕円の線路を6区間ぐらいに区切って組み立てた。
パワーボックス、つまり運転コントローラーがひとつしかなかったので各区間はオンオフだけの制御で作った。

2列車はそれぞれ性能の異なる機関車だったので同じ電圧でも走るスピードが異なる。
これが大変。
放っておくと、片方の列車の制御区間に別の列車が追いついて制御不能に陥る。
放っておくと脱線、転覆、と本物の事故そのままに大切な模型にキズがついてしまうのだ。

そんなこんなで模型のダイヤ運行はゲームよりも難しく、やがてめんどくさくなってそんなアホな遊びはやめてしまったが「制御」というものを体で経験するいい機会になったことは間違いない、

さて、新幹線。

新幹線といえば、とかくスピード重視で早いほうがいいように思われがちだが、運行体制が最も重要。
新幹線よりもフランスのTGVの方が走るのははいけど、輸送力は半分以下。
一本の電車の消費電力は新幹線の倍。
第一、ラッシュアワーでも一時間に上下4本程度の運行なんだという。

一方新幹線はラッシュアワーは上下合わせて最大32本。

時速300km近くで走る列車をこんなに走らす技術は日本にしかない。
地下鉄でも、これほど走っている路線は少ないのだから。

マスメディアも自国の技術をけなしてばかりではなく、ちょっとは褒めたりサポートしてはいかがか。





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