<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





タイへ行くとそこここにある飲食系の屋台でインスタントラーメンを調理して販売していることころがある。
何も特別なラーメンではなく一般のスーパーマーケットで販売しているような普通のインスタントラーメンだ。
注文すると袋を破き鍋で調理し、多少の具を入れてくれて「ハイ出来上がり」と出してくれるのが、私は同じ屋台ならせっかくバンコクに来ているのだからクイッティオ屋で美味しくて安いタイヌードルを食べることにしている。

このインスタントヌードルの調理屋台はタイだけではなくミャンマーの屋台でもあったりして、「食べ物が限界だ~」というときに結構重宝することがある。

先日、このインスタントラーメンを調理してくれる屋台ではなくお店が日本でも発見してビックリした。
それも東京の渋谷で。
しかもJR山手線のプラットホームで。

その日私は新宿での打合せが終わって知人が作品を展示している表参道近くの画廊に立ち寄ろうと渋谷駅で山手線を下車しようとした。
電車がホームに滑り込み、ドアが開こうとしたまさにその時、ガラス窓の向こう、ホームの奥に
「ラ王屋」
なる看板を発見した。
入り口で店員が大声で客寄せをしている。
こんなラーメン屋はなかなかない。
塩ラーメン、醤油ラーメン、味噌ラーメン各250円、
これは安い。

ここは立派な店構えの日清食品のアンテナレストランなのであった。
日清のインスタントラーメン「ラ王」を食べさせる店なのであった。
実を言うと、私は渋谷に来る直前に新宿駅前でランチを食べており、空腹は十分に満たされていた。
ところがインスタントラーメンのアンテナショップとばかりに、どうしても食べたくなってしまい店に入って醤油ラーメンを注文してしまったのだった。

店は意外に繁盛していた。
入ってすぐのところにカウンターが有り注文する。
カウンターの奥ではラ王を調理する3個の片手鍋がレンジに置かれており、ぐつぐつをラーメンが作られていた。
価格も250円なので立ち食い蕎麦なみの価格だ。
インスタントラーメンということを忘れると、実にリーズナブルで価格対価値は十分のものになっていた。
私は片手鍋3人めという幸運なタイミングで発注できたのでよかったが、私の後から入ってきた人は、

「すいません。5分ほどおまちいただきますがいいですか?」
とか、
「10分ほどお待ちいただきますけど、いいですか」
と超人気ラーメン店も羨む盛況ぶり。
インスタントラーメン恐るべしなのであった。

で、運ばれてきたラ王を見て再度驚くことになった。
なんと、普通のラーメンと何ら変わるところはないではないか。



その見応えと、意外な美味さに私は下手に出汁に凝った不味いラーメン店よりもインスタントラーメンで楽しむラーメンのほうが人生に豊かさをもたらすことに感動を覚えていたのであった。

なお、情報によると、その昔大阪の阪急梅田駅にはエースコックのワンタンメンのアンテナショップが出たことがあったそうな。

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東京都の都営地下鉄と都営バスが段階的にできるかぎり運行を24時間体制にもっていこうという、ニューヨークの地下鉄みたいな方針を正式に発表。
とすれば、民営化論議で侃々諤々の大阪市営地下鉄とバスはどうなるのか?
大阪人の私としては大いに気になるところだ。

例えば、大阪市営地下鉄が24時間運行になったとする。
するとどういう効果があるかというと北は吹田市から南は堺市まで深夜でも電車で結ばれるということに鳴る。
乗り継ぎを気にせず、私の場合、堺市内にある実家までは何時になっても大阪市内からだと電車で帰れることになるのだ。

今のところ、品川駅の港口側の安飲み屋街で飲んでいたとする。
最終の新大阪行の新幹線は9時25分頃なので、それに合わせて飲めばいいように思うのだが、これに乗ると新大阪駅からの最終の地下鉄に乗れないことがあり、天王寺止まりと相成る。
従って難波あたりまで地下鉄を利用し、そこからタクシーになってしまうのだ。
会社の業績の良い時はタクシー代は会社が出してくれないこともないが、悪い時は自腹になってしまうので注意が必要だ。
これが24時間運行になると終電の新幹線でもちっとも問題にならなくなる。

また都営地下鉄よりも大阪市営地下鉄のほうが運行エリアは広い、という特徴がある。
実は大阪市民も気がついていないのだが、大阪市営地下鉄は東京メトロといいとこ勝負の巨大鉄道会社なのだ。
そういすることで、大阪市内の主な繁華街は地下鉄網で繋がれる言うことで、体力があれば午前1時までは梅田の阪急東通で飲んでいて、1:30からは宗右衛門町のアイリッシュバーで3:00まで飲み、4:00からは京橋の串カツ屋で朝ごはん、ということも可能になる。
私はそんなことしませんが、ともかく経済効果は東京と同様にあるに違いない。

でもデメリットもあるもので、嫌な客と飲んでいて、
「そろそろ終電なんで帰りましょう」
という作戦が使えないという欠点があることを忘れてはいけない。
尤もT大学のO先生にはそれも通用しませんけどね。

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宮崎駿の最新作「風立ちぬ」は幻想的なシーンをところどころに散りばめながらも、内容は「大人向け」長編アニメーションだった。
終わった時は一緒に出かけたカミさんの顔は涙でボロボロ。
横で見ていた娘はそれを見て笑っていたが、中学生ではまだまだストーリーの中の重みの感じ方は十分ではなかったようだ。
私はといえば、カミさんほどではないにしろグッと来るものがあって、娘に笑われないようにするのが大変なのであった。

この映画、外野がうるさいのでどんな物語なのか大いに気になっていた。
主人公がゼロ戦の開発者だった堀越二郎を主人公にしているので、
「戦争賛美の映画」
とばかりにヒステリーなことでは評判のお隣の半島の国が叫んでいたし、タバコを吸うシーンが多いとばかりに、
「子供も見る映画なのにけしからん」
と嫌煙運動の団体がこれまたヒステリーになっていた。

実際に映画を見てみると、戦争賛美はいちゃもんだし、タバコシーンのカットの叫びは言論制限の一種に他ならず、こういうものを取り上げるマスコミの方がどうかしているんじゃないかと思えて仕方がなかった。

この映画は多分、今の日本人が失ってしまった心の持ち方について描いていたのではないだろうか、と偉そうに映画評論家気取りで私は思ったのであった。
ゼロ戦の開発は二の次で戦争場面は極めて少なく、はっしょってさえいたことを考えると、パンフレットに立花隆が寄せていた解説のような「富国強兵も近代化も失敗した」世界を映画いているのでもないことは明らかだ。
戦争により破壊は戦後日本の民主化と近代化を生み出し、世界有数の先進国へと発展させたのは歴史上否定できまい。
そういう意味では戦争による敗戦は創造のための破壊だったかもしれない。

ではこの映画の主体は何か、と考えるとやはり敗戦と共に失うことになる日本人としての「美しい心」だったのではないだろうか。

実はこの映画を見ていて思い出したのは山口百恵の「絶唱」であった。
もう35年以上前の映画だが確か健気に生きる若い男女の物語で、その健気な生き方を奪い取るように戦争と結核という病が二人を引き裂くというストーリだったように記憶する。
なんせ見た時私は小学生だったので確かではないのだが、最後の方で死んだ主人公の百恵ちゃんが花嫁衣裳を着せられて祝言を挙げるという、ある意味ショッキングだが悲しくも美しいシーンが今も思い出されるのだ。

「風立ちぬ」もまた、仕事に対する思い、家族に対する思い、そして愛する人に対する想いを戦前の日本人がどのように表現したのか。
愛情。
情熱。
出逢い。
別れ。
そして生と死。
今の私たちが社会のマンネリと唯物主義のために見失っている大切な要素。
人が生きる中で避けることのできないこれらの要素を思い出させてくれるのだった。

これはあまりに美しく、哀しい物語だったが、それをある種の清々しさが包み込んで見る者に言い知れぬ感動を与えてくれる大人のアニメ映画なのであった。

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昨日は相変わらずの靖国神社参拝問題でマスコミがザワザワ。
いつものように中国と韓国のステートメントを報道していたら福知山の花火大会でガス爆発事故があり、話題はそちらへ。
靖国参拝問題なんかしょせん花火大会の事故よりも小さな比重なんだから、ワイワイ騒ぐのはやめたらいいと私なんかは思うのだが。

そもそも中国や韓国政府や国民が怒っているというニュースを伝えるが、肝心の私たち日本人がどう思っているのか伝える国内のマスコミは皆無だ。

私も伯父が一人、靖国神社で祀られているので年に何回か出張の途中で靖国神社に参拝している。
7人もいる父の兄弟のうち、不幸にもお国のために亡くなった伯父なので、感謝の気持ちを込めて、また家族でゴタゴタがあったときに自分自身の心に伺いを立てるためなどに靖国にお参りし、伯父さんの御霊に話しかけるのだ。
これって、日本人なら誰もが初詣や願掛けに神社仏閣を訪れたときにする行為と同じであり、それが靖国神社にお参りした時、それがたまたま天照大御神や菅原道真ではなく、うちの伯父さんであるわけで、何もやましいことはないと思う。

国のために不本意ながら戦地に赴き、不幸にも帰国することが出来なかった軍人はなにも伯父だけではなく、このような家族を持つものは日本人には何千万人といるのだ。
だからこそ、終戦の日に靖国神社に首相がお参りをするのかどうか、ごたごた自分の立場のためにケチを付ける外国人は不愉快だし、それしか伝えない自国のマスコミはもっと不愉快だ。

中国人や韓国人の筋の通らない文句だけ正義のように飾り立て報道するのは不可解だし、肝心の日本人の気持ちをきちんと取り上げてこそが日本のマスコミの役割ではないかと思う。

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熱中症で倒れる人が絶えない。
甲子園では6日間で181人が救急車で搬送されたとかしないとか。
暑いのわかってるんだから暑さに弱い人は夏の甲子園球場はおでかけ先には不適切。
高校野球を見たければエアコンを入れた自宅でビールでも飲みながら、

「おー、暑そうやの~。グビッ」

とやれば平和である。
いっそのこと高校野球を大阪ドームでやってプロ野球はそのまま甲子園で行えば、大阪ドームは冷房が効いているし、甲子園球場で阪神を応援するトラキチは熱中症になるのも忘れて熱烈に応援するので、熱中症の心配がないかもわらない。
そもそも高校野球はヤジれないので、これも熱中症+高血圧になる素因になっているものと思われるのだが、いかがか。

ところで、このめちゃくちゃ暑い日中に私は自宅の菜園の草抜きをすることにしている。

「死んだらどうするの!」

とカミさんは言う。
しかし東南アジア旅行が大好きな私は暑さへの対処はある程度わかっているつもりだし、十分に水分も塩分もとって日陰も作りながら作業をするので心配は無用だ。
できればノンラーを被って仕事をしたいくらいだが、ここはメコンデルタではなく大阪なので近所の評判になってはマズイと思い我慢しているくらいだ。

だいたい私が何故、最も暑い時間帯に草抜きなど家庭菜園の作業をするかというと、気温が30度を遥かに超えると蚊の活動が鈍るのか、蚊に刺されることが少なくなる。
朝夕など防虫スプレーをしようが蚊取り線香を焚こうが完璧には防御できない蚊どもは極端な暑さに弱いと見えて真夏の日中は蚊に刺されないというメリットがあるのだ。

このことに気がついたのはある科学ドキュメンタリー番組を見ていたときのことであった。
それはニホンミツバチに関する記録ビデオで、西洋ミツバチに居場所を奪われ、もはや絶滅危惧品種じゃないかとも思えるようなニホンミツバチは、じつは恐ろしいスズメバチを集団で殺してしまうという特技を持っているのだ。
ニホンミツバチは自分よりも何倍も大きな体を持つスズメバチに集団で取り巻いて羽を動かし、その体温でスズメバチを蒸し殺してしまうのだ。
スズメバチはある一定の温度以上になると生命活動を停止してしまう、という弱点を持っていたのだ。

もしかして昆虫って高温の熱中症に弱い?

私がなんとなく昆虫は暑さに弱く、極端に暑いと行動がにぶるんじゃないかと気がついた瞬間なのであった。

以後、蚊も同様と思い日中の暑い時間に農作業を実施したところ、蚊に刺されなかったのだ。
これは大きな発見なのであった。
しかも農作業の後にシャワーを浴び、エアコンの効いた部屋でよく冷えたビールをグビッと飲む楽しみも増えたというもの。

実はそれまで私は真夏の農作業をほとんどしなかった。
私の家庭菜園は雑草がのび放題。
近所迷惑もいいところなのであった。
数年前のある夏の暑い日。
当時小学校5年生だった娘に手伝わせて草抜きをしたことがあった。
最初の1~2分は楽しそうに作業をしていた娘なのであったが、15分ほどすると、

「んん~~~~、小学生には無理」

という名セリフを残してリタイヤしたのだった。

小学生には無理な真夏の草抜き。
蚊も存在できない暑さが好きな私は、ちょっと変人なのだろうか。

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沖縄の那覇から国道を名護に向かって走っていたら途中、昼になった。
昼になると自動的に昼ごはんを食べたくなる私は何か沖縄らしい物を食べたくなって国道を少し横道に入ったところに、そこそこの店構えの沖縄そば屋さんを見つけた。
沖縄そばは私の好物の1つである。

店に入ると沖縄民謡がかかっていて2~3人いる店員さんは皆琉球衣装をまとっている。
「いらっしゃませ」
沖縄らしい明るい雰囲気で私は嬉しくなった。
さっそく沖縄そばとスパムがセットになった昼定食を注文。
できればオリオンビールも頂戴したいところだが、自動車運転中なのでそれは我慢。
モノレール以外に電車のない沖縄の辛いところだ。

暫し店の中を観察していると、多くのビジネス客や地元の人達に混じってアメリカ人の姿が多いことに気がついた。
そういえば、このそば屋のある街にも米軍基地がある。

10分ほどしてお盆に載せられた定食が運ばれてきた。
これこれ。
このラーメンと蕎麦の中間のような味わいが、たまらない。
スパムの焼いたものが定食についてくるのも沖縄ならでは。
嬉しいな~、と思いながら食べていると米軍関係者と思える外国人のご一行さん3人が店に入ってきた。

すると店員の女の子は慣れているのか3人のところへ歩み寄り。
「いらっしゃいませ」
と日本語で言った。
でも、日本語はそこまでで、そこからは流暢な英語で3人をテーブルに案内して注文をとると何事もなかったかのように厨房に向かって去っていった。

正直、私は唖然としていた。
米軍関係者が入ってきたことにではない。
沖縄だからそんなことは当たり前なので珍しくもなんともないのだが、そば屋の店員の女の子、失礼ながら、それもどこにでもいそうなアルバイト学生のような(かなり可愛かったが)女の子がネイティブな発音でアメリカ人の客を扱い、普通に振舞っていたことに驚いていたのだった。

「.......沖縄やな~........」

蕎麦を食べる箸をとめ、意味もなくつぶやいていたのであった。

実は私は今はマーケティングと研究員の仕事を担当しているのだが8年ほど前までは普通の営業マンだった。
担当地域は大阪を中心とする関西圏と鳥取、島根の山陰、そしてなぜか沖縄県も入っていたのだった。
従って沖縄には10年と少し、年に数度仕事で訪れていたわけだが、その沖縄が実はダブルスタンダードな地方であることに気付くにはさして時間はかからなかったのだ。
ダブルスタンダート。
それは何かというと、在日米軍には反対だが、賛成でもある、という複雑な事情のことだ。

沖縄はビジネスの民間プロジェクトが少なく、畢竟公共事業や自衛隊や米軍関連の仕事がビッグということになる。
県民のほとんどすべてが、この公共事業と防衛関連に関係していて、それを無視しては食べていけない構造になっているのだ。
国や一部の大企業などによる物流拠点や貿易特区などの試みはそれはそれで結果を出しつつあるものの、まだまだ経済を潤すところまでには至っておらず厳しいところだ。
また戦後半世紀、米軍との深いつながりを持ってきてしまったためにプライベート面でも米国との繋がりの濃い人が多く、米軍に対する悪言雑言は沖縄の人たちからはなかなか耳にすることはない。
そう。
沖縄の人たちから基地問題に対する強烈な批判を訊くのは容易ではない。
むしろ、
「基地がなくなると困りますから」
ということは頻繁に耳にしたのだった。

「基地よ出て行け」
と叫んでいるのは大抵の場合、本土からやってきた内地の人たちで、それも大阪弁で言うところの「なんとなくケッタイな連中」なのであった。

そのケッタイな連中にマスメディアが含まれていることは言うまでもなく、その筆頭がNHKと朝日新聞。
これらマスメディアは何かについて米軍を非難し、出て行けコールを叫ぶわけだ。
尤も米軍にもそれを言われても仕方がない程度の低さには反省すべきだが、自衛隊とは違いモラルの範囲が限定されているのか同情できないところがあまりに多い。
今大騒ぎしているオスプレイの配備にしても、マスメディアは、

「ヘリコプターの墜落事故があったばかりなのにオスプレイの追加配備に踏み込みました」

とさも反対を前提にしたような放送法違反の疑いのある報道にこれ努めている。
「沖縄県民は怒りに燃えている」
と言いながら、
「ホンマにそうかいな。スカイマークの安チケットで東京から押しかけている革マル崩れの化石連中ちゃうんか」
と思いたくなるのは私だけだろうか。

そもそもオスプレイが配備されるのは対中防衛の一環であることは中学生の我が娘でもわかろうというもの。
平時であれば要らぬ兵器かもわからないが、ならず者中国の艦船が領海侵犯を繰り返しているのは周知のこと。
これに圧力を加えているのが中国の技術では製造不可能なオスプレイというわけだ。
もしそういう軍事的防衛行動を取らないとどうなるのか。
ならず者中国の艦船が近所をウロウロしている沖縄県民の立場になってみると、オスプレイはともかく防衛力強化は歓迎ではないのだろうか。

沖縄の立場をわかりやすく説明すると、家の近所を地上げ屋暴力団がドスをもってウロウロするのに「警察で警備を」とお願いしているのに対して、マスコミが「暴力団はともかくとして、拳銃持っている警察はいけません。セコムで我慢しないさい」と言っているようなものだ。

ともかくマスメディアはまずは「反対」。
だからオスプレイの報道と尖閣諸島に跋扈する魑魅魍魎は別個に報道する。
これって理由としては成立するが、日本のマスコミとして成立しないと思うのは私だけだろうか。


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日航機123便の御巣鷹山墜落事故から早いもので28年が経過した。

28年前の昭和60年。
夕方家でダランとしながらテレビを見ていたら「日航機が消息を断つ」という第一報が入り、それからはテレビの報道番組に釘付けになった。
たぶん、日本国中の人々がテレビから離れられなくなってしまっただろう。

以後、暫くの間、翌朝の生存者の救出速報に続いて次々と入っている凄惨な現場の様子がマスメディアによって伝えられた。
とりわけ衝撃的だったのは乗客の遺書で、そこには家族に宛てた最後のメッセージが記されており今読んでも胸が痛む。
また遺書ではないが、同便の客室乗務員が不時着に備えて不時着後の行動項目をしっかりメモしている手帳もあった。
危機に直面しても動じないJALのスタッフの勇気に、プロとしての凛々しさを感じる。
このことは乗客の遺書にも記されていて、客室乗務員がダッチロールを繰り返す絶望的な機内の中で毅然として業務をこなし、乗客に安心感をもたせようと努力をしていることにも感動を覚える。

10年ほど前に公開されたフライトレコーダーの録音でも同様の印象を受ける・
コックピットクルーの最後まで諦めなず、なんとか羽田へ帰そう、不時着させようとパニックに陥ること無く努力する姿には心を打たれるのだ。
機長、副機長、航空機関士の3人があらゆる手段を講じていた姿が素人の私たちにも音声から伺うことが出来る。
人は死に直面した時にどのような行動をとることができるのか。
この音声記録はその一つの解答であるように思えた。

ところで、この28年間。
この事故を通じて非難されているのは、ひとえに123便を飛ばしていた当事者の日本航空である。
それはもっともであろう。
誰のヒコーキの事故だったか、というと日本航空の飛行機での事故だったから当然といえるかもしれない。
しかし、事故の原因となった修理ミスは日航ではなく製造元ボーイング社になることは大声で叫ぶ人はほとんどない。
これはいったいどういうことなのか。

私はいつも疑問に思っている。

例えば、一時期問題になった三菱トラックの欠陥隠し事件。
これはトラックの軸の部分に強度不足の欠陥があって、それが原因で走っていたトラックからタイヤが外れ、そのタイヤが子どもたちの列に突っ込み多くの死傷者を出した事故だ。
この事故で避難されたのはトラックの運転手でも運送会社でもなく、三菱なのであった。

このセオリーからいくと日航123便の事故の責任は日本航空ではなく、ボーイング社にあるんじゃないかと思うのは私だけだろうか。
日航は多額の倍賞を支払い、評判は業績に悪影響する原因の1つとなり20年後に倒産する。
一方、ボーイングがなんらかの責任をとったのかどうかは分からない。
もしかすると政治的に決着させ、だれにも文句を言わせない、なんらかの力がかかっているのだろうか。
マスメディアがボーイングに対して沈黙し、執拗に日本航空だけを責めるのは、なんだか不自然な感じがするのだ。

この28年間。
乗客の家族の苦労は伝えられるが、当事者である日本航空のスタッフについてはあまり伝えられていない。
ドキュメンタリーや小説などで、その片鱗が伝えられるだけだ。
コックピットクルーの家族の苦悩。
大阪空港でのしりもち事故の修理を担当した責任者の自死。
小説「沈まぬ太陽」に描かれた遺族担当者の苦悶など。

この事故をきっかけに飛行機の制御はフライバイワイヤーという油圧系統に頼らない方法に変わっている。
このフライバイワイヤーがB777の信頼性に繋がり、例えばサンフランシスコでの韓国の航空機事故でも拡大を最小限に防いでいる。
事故が航空機の安全設計に大きく貢献していることも確かだが、30年を迎えてしまう前に、感情や政治だけではなく、冷静に分析するときが来ているのではないか。
亡くなった人やその家族のために。そして今後の航空機産業のために、30年の時の流れから俯瞰して振り返ることは大切ではないかと。

8月12日のニュースを見るたびに、そういう思いが強くなるのだ。


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「強い揺れが来ます。注意してください!」

会社の館内放送から緊急地震速報のメッセージが警報音と共に流れてきた。

「なんだなんだ、故障か?」
事務所内がざわざわしているとすこし遅れて携帯電話にもメッセージが飛び込んできた。

「奈良県で強い地震が発生しました。強い揺れに備えてください」

の表示が現れた。
誰かが言った。

「おーい、30秒後に来るらしい!みんななんかに捕まって」

緊張が走る。
10秒。
20秒。
30秒。
1分。

結局地震は来なかったのであった。

昨日の緊急地震速報の誤報は気象庁の「ごめんなさい」の一言で収拾したが、すべての電車が止まってちょっとした影響がでた。
それよりもなによりも、本当に緊急地震速報が鳴ったら、どういう気分になるのかということを実地にしることになって、そのほうが良い教訓になったのであった。
正直、気象庁に怒りに気持ちはない。
むしろリアルな訓練になったとの想いがひとしおである。

私の会社の大阪本社に勤務する社員の半分以上が何らかのかたちで阪神大震災を経験しており、中には震度7という揺れがどのようなものであるのか実際に経験したものもいる。
当時住んでいた堺市内の私の家は震度6のエリアで小さな本棚が倒れて、中学生の頃から大切にしていたプラモデルの箱が破壊され、ゴミクズと化した。

「地震や!起きて」

と叫んだあの日の朝のことを思い出し、正直気持ちのよいものではなかった。
ついでながら勤務している事務所は臨海部にあるため、

「津波、来るんやろか」

という冷静な声も聞かれた。
しかし、津波に備えて誰かが動き始めるということもなく、震源が奈良ということもあって津波よりも直下型の鋭い揺れに緊迫したムードを漂ったのであった。

私は自分の席で吹田にある大学の中にある自分の会社のラボへ行く準備をしていたのだが、
「奈良で地震やったら、いまから仕事が大変になるな。」
と神戸の時のことを思い出していた。
呑気に大学で学生相手に冗談を言っている場合やなくなるな。
と考えていたのであった。

地震が誤報であったことは、すぐさま緊張を解すことにならなかった。
もし本当に大阪を震度7や6強の地震が襲っていたら、と考えただけで背筋に冷たいものが走った。

地震速報の誤報はいろんな教訓を与えてくれた大きな事件なのであった。




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「花を育てるなら食べられる野菜を育てなさい」

近所のおじいさんがカミさんが植物を栽培しようとし始めた頃に語った言葉だ。
以来カミさんは観賞用植物よりも実益のある食べられる植物を育ていることにしている。
ちなみに世話をしているのは私である。

そんなこんなので、夏を迎える頃にハイビスカス購入で一悶着あった。
ハイビスカスは食べられないからダメなのだという。

夏。
ミャンマーやタイ、ベトナム、そして我が沖縄が大好きな私は夏が近づき日中熱くなってくるとハイビスカスを育てたくなるのだ。
ハイビスカスの真っ赤な花が咲くと、それだけで「夏」が来たように思え、そのまま気分は大阪から那覇を経て恩納村へ本部へ飛び、さらにはベトナムのメコン・デルタやバンコクの裏路地、ミャンマーのピンウーリンのお花畑を思い出すのだ。
ああ、ガイヤンを食べながらシンハービールを飲みたい!
なんて思うのもこの瞬間だ。

ハイビスカスはもうひとつ良いポイントがある。
それは手間がかからないということだ。
陽射しさえちゃんとあって水をふんだんに与えるだけですくすくと育ち、パカッパカッと花が開く。
それもズズズ~んと大きな花が開くのだ。
だから物臭な私でも十分楽しめる植物であり、ハイビスカスは幸せをくれる花なのである。

一方、食べられる植物は総じて手間がかかる。
草抜きをし、肥やしを与え、時に支え棒を立てるなどをしなければ成長してくれず、枯れてしまうこともある。

今年の春は泉州野菜の種を買ってきていくつか植えた。
水茄子。
杓子菜。
青菜。
などなど。
現在のところ水茄子のみが元気に育ち、後は全滅であった。

青菜は1株だけが目を出したが、そこそこのサイズになったところで枯れてしまった。
水もやり、化学肥料もちゃんと与えたのだが、
「土が硬いんやわ」
とカミさんの分析である。
ちゃんと耕したのに。
杓子菜は「もうすぐ食べられる」というところまで成長したのだったが、バッタの群に襲われボロボロになってしまったのであった。
私は思わず手塚治虫のブッダという漫画のいちシーンを思い出した。
そこにはインドの中央部で穀倉地帯をバッタの大群が襲い、食べ物を食べ尽くし、人々が飢えるというシーンなのであった。
お釈迦様がその時にどうされたのかは忘れてしまったが、私の家庭菜園は何らかの手を打たなければ菜っ葉系はバッタにやられるという、害虫対策に悩むことになった。

「バッタに効く薬はないかな」

と言ったところ無農薬をポリシーとしているカミさんに反対された。
それにDIYショップで探してみたのだが、バッタの駆除剤は見当たらなかったのだ。

「こうなったら畑でカメレオンでも飼うか」

と言ったところ、そのカメレオンが行方不明に鳴ったりしたら大騒ぎになると指摘され断念。
なにか良い手はないかと目下思案中である。

水茄子は今のところ何の被害もなく育っているが一向に花が咲く気配がなく、このまま葉っぱだけの水茄子になるのではないかと危惧している。

それと比べて優等生が一株いる。
ミニトマトの一株なのだ。

このミニトマトは知人から数株もらったうちの1つなのだが、例によって私が水しかやらなかったためか、土が硬かったためか他の株は全滅し、このひと株だけが生き残った。
肥やしもやっていないのに生き残ったのだ。
それがすくすくと成長し、カミさんが棒で支えてやると、ますます大きくなって花を付け、ついには実が成った。
これはもう素晴らしいことで、実が熟して赤くなったものを1粒だけもいで家族三人でチビチビ食べたところ、めっちゃ甘くてみずみずしい果物のようなトマトになっていたのだった。

家庭菜園。
次回からトマト専用農園に変更しようと企んでいる私なのであった。

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5年ほど前。
こんなに暑いのにどんな奴らが観光に来ているんだろう?
いっちょ見に行ってみよ。

と、出かけたのが盆休の京都なのであった。
実際その暑さは生半可ではなく、タイのバンコクよりも蒸し暑く、ミャンマーのモンユウよりも痺れる暑さなのであった。
夏の関西旅行は東南アジアの暑さを体験できる、一粒で二度美味しい旅行なのである。

さて、京都は私の住んでいる大阪府南部から電車で約1時間半から2時間でたどり着く。
とっても安近短な観光地だ。

「へー、京都が安近短で羨まし~」

といわれる方もいるだろう。
しかし関西人にとって京都観光は「灯台もと暗し」なのである。
従って私は京都をまともな観光で訪れたことはたったの一回もない。
だいたいにおいてひねくれているのだ。

京都の夏といえば、まず祇園祭だろう。
今年の祇園祭は終わってしまったが、私も祇園祭には一度だけ訪れたことがある。
実に「訪れた」という言葉がぴったりで、楽しんだわけではない。
その時は山鉾でさえ一瞬にしか目にしなかったのであった。
なぜなら、阪急河原町の駅を下車して改札を出て、地上にあがったらその雑踏の凄いことに恐れをなして、そのまま地下に戻って、梅田行の特急に乗ってしまったからなのであった。
ただでさえ暑い京都の、祭の客でごった返す河原町なんぞをブラブラすることなであり得ないわけで、なんのために行ったのかというと問われると今もって困惑の極みなのだが、月並みに「祇園祭とはなんぞいな」という好奇心で行ったまで。
祭そのものを楽しもうなどという気持ちまではなかったというわけだ。

そもそも京都を初めて訪れたのは京阪電車に乗ってみたい、というそれだけが理由だった。
大阪京橋から京阪特急に乗って終着駅の三条まで出向いたのが最初だった。
この時も三条駅前には一瞬しか滞在しなかった。
尤も祇園祭よりは長かった。
少なくとも昼ごはんを駅前の食堂で食べて戻ってきたのだ。
まだまだ京阪電車が鴨川べりの地上を走っていた時で、それはそれだけで京都的な旅情が楽しめたのであった。

以後、観光目的での京都訪問は記憶に無い。

仕事で京都を訪れる度に、その観光客数に圧倒される。
JR京都駅を降りると遠方からの観光客が案内所に列をなしている。
それもびっくりくらいの人数が列をなし、すでに満杯の宿泊施設に空きはないかと案内所の人に色々と尋ねている光景を目にする。
掲示板には「今日の京都のホテルに空き部屋はありません」と記されているのにも関わらず、粘る。
そもそも駅の案内所に「空き部屋なし」の掲示を貼るのも京都ならではの光景に違いない。
なお、夏の京都は鴨川べりで野宿しても死なないのでダイジョブだ。

ここ河原町も人で溢れ、糞暑いにもかかわらずカップルは鴨川沿いで等間隔に並び川面を見つめている。
不思議なのは等間隔だけではなく、暑い既設も寒い既設も何をあんなところで何を話しているというのだろうか。
まったくもって謎なのである。

で、いよいよ盆休。
今年の京都も酷暑は繰り返す。
暑さに弱い人は来ないほうがいい観光地でもある。

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