<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



昨日、忘年会から帰宅したところカミさんが縫い物をしながら一心にテレビを観ていた。
何か新手のバラエティでもやっているのかと思ったら、ディズニーの「ライオン・キング」が放送されていたのだ。

「お。いんちきジャングル大帝か」

という私の一言は無視された。
著作権で揉めた話などどうでもよろしく、要は面白ければそれでいいのか、判断に苦しむところだが、聞き捨てならなかったのは、

「この映画、アニメ版と違って実写やねん」

の一言であった。
実写でライオンやマントヒヒが喋ったりするのか。
ペリカンが演技をするのか。

昔、わんぱくフィリッパーや名犬ラッシー、ミスターエドなど、イルカや犬や馬が演技をするテレビ番組が無くはなかったが、人間のように演技するものはひとつもなかった。
動物は動物。
カメラワークとそれなりに見える調教師の動きのつなぎ合わせで物語が成り立っていたのだ。

昨日見たのは明らかにCGアニメ。
実写とは言えない。

ここ数年、CGのクオリティが目を瞠るほど高くなっている。
現実と虚実の見分けがつかない。
それだけ多くのデータをPCが処理できるようになったことが背景にあるのだろうが、中でも動物の描写は「不気味の谷」が小さいからか、かなり以前からCGによる描写がなされていた。

このCG映像を実写というカミさんはもしかするとボケたか。
と疑ってみたころ、多くの映画関連サイトで、

「金曜夜放送のライオン・キング実写版」

と謳っていることが判明。
世の中何をもって実写というのかアニメというのか判断がつかなくなってきているらしい。

そういえば、ジャック・ブラックが出演したキング・コングではすでにCGでゴリラのデカイのが不通に演技していたものだ。
ジュラシックパークのように実物を誰も観たことのない恐竜のようなものなら、多少の嘘があっても騙されることはないが、キングコングの描写には目を疑うリアルさがあったのだった。

今回のライオン・キングはそれと同様。

先が読めるストーリー展開よりも、実写と見紛うCGを実写と呼ぶ時代が来ているのではないか。
そのことが結構ショックな映画なのであった。


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20世紀におけるポップアートの頂点。
アンディ・ウォーホル。

キャンベルの缶詰をデザインしたイラスト。
マリリン・モンローの肖像。

誰もが一度は見たことがある作品の数々。
米国の画家・アンディ・ウォーホルの作品が大挙して京都にやってきた。
その数は日本史上最大。
目を瞠るはずのその展覧会は京都市京セラ美術館で開催されていて、やっとのことで先週見に行くことができた。

感想は?
と、問われると。
そう、アートとは生を見ることで初めてその衝撃性を体感することができる、ということを実感したこと。
その一言に尽きる。

今回の展覧会は実にそういう類の美術展なのであった。

そもそも今回の展覧会を知ったのは開催2月ほど前の春のこと。
超有名人気作家の作品展だけに観客の混雑と高価なチケット代が予想されたので、早速WEBでチェックしたところ前売りチケットの種類で「ペア券」があるのを見つけた。
どうせ一人で観に行くことはできない。
行ったりしたらカミさんにこっぴどく叱られることが明らかなので、はじめから2枚買い求めることを考える必要があった。
だからペアチケットは非常にリーズナブルな存在で私は即、ローソンチケットだったかイープラスだったかで買い求めたのであった。

会期の最初の頃は新型コロナによる規制の真っ只中だった。
このため鑑賞には予約が必要だった。
チケットを持っているだけでは観ることのできない、面倒くさい状態になっていた。
そこで、混雑していない日、かつ時間の予定が立つ日とばかり考えているうちに会期はどんどん経過していった。
途中、なんとか見てみようと京セラ美術館まで行ったものの、結局は「ボテロ展」を観たために、ウォーホルはパス。
次回にということにして帰阪してしまった。
アンディ・ウォーホルは後のお楽しみにしまっておくことにしたのだ。

会期は年明けの2月初めまであるから慌てる必要はない。
けれども岡本太郎展がそうであったように人気のある展覧会の終盤はやたら混雑するので避けたほうがいい。
そこで年末も押し迫ってきた数日前、私はカミさんを伴って雨の降りしきる京の街へでかけたのだった。



天気の関係なのか、たまたま平日だったからか、観客はかなり少なめ。
美術館だけではなく平安神宮前の岡崎公園はガラガラ。
だからといってはなんだが広い京セラ美術館の中で、ウォーホルの作品群をゆっくりとじっくりと観ることができたのだった。

ウォーホルのように雑誌やテレビ、映画などで作品をいくつか知っていると、どうしても実物まで観なくていいような気になってしまう。
とりわけ現代のポップアートとなると、なんとなくメディアを通じて鑑賞するので十分な気になってしまうのだ。
もう十分知ってるやん、という感じだ。
ところが今回、実物の作品群に触れることでアート作品が持つ生の感覚が、拾のところメディアを通じると失せてしまうということを痛切に感じることになった。
他の展覧会でも同様なはずなのに、なぜかポップアートという分野で痛烈に感じたのだ。

ペンのタッチ。
サイズ感。
質感。
完成された絵から感じる、裏面にあるそのプロセスと作者の苦悩というか苦心というか、テクニック。
考え。
アイデア。
直感。
そして空気感。

ポップアートだからこそ感じ取れる「生き活きさ」「アートの生命感」が美術館の中では溢れていたのだった。

今回、驚いたことがあった。
最近は結構普通になりつつある館内撮影が巨匠アーティストの作品展であるにも関わらずスマホでの撮影に限られていたものの自由になっていたことだ。
あまり有名でない作家の展覧会では撮影自由というものも少なくないが、巨匠の作品展の撮影が許されていることは感動に値した。
ビデオは禁止ではあったものの写真は取り放題。
だから複写よろしく作品をパチパチ撮影している人の多いのには独特のムードがあったが、ここが肝心。
先に書いたように写真では絶対に作品が持つその魅力を完全に写し取ることなどできない。
主催者側はそれが十分にわかっているのだろう。
だから写真撮影が自由にできる、という趣向になっているのではないかと思った。
つまり私はその寛大な雰囲気の裏に、
「へっ、あんさんら。どうせ写真なんかぎょうさん撮っても展覧会の価値まで持って帰ることなんてできへんえ」
という意固地な感覚があるのではないか、と思ってしまうくらいに生と写真の違いを感じることになった。

アンディ・ウォーホル。
改めてその巨匠の魅力にエネルギーを頂戴したひとときなのであった。

もう一度観てもいいかも。




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来年の4月から、自転車乗車時のヘルメット着用が法令で努力義務化される。

で、その「努力義務」って何?

努力義務などという制度があることを今年まで全く知らなかった。
自転車のヘルメット装着は全国に先駆けて愛知県で今年の4月から実施されていた。
そのことを知ったのは名古屋の某大学で親しい先生と話していた時なのであった。

「愛知県は4月から自転車乗車時はヘルメット着用なんですよ。でも、努力義務だからな〜」

という内容なのだった。
努力義務。
だからなんなのよ。
という感じだ。

義務であれば着用していなければ警察に呼び止められてきっぷを切られる。
免許の要らない自転車なので減点は無いだろうが、罰金は払わなければならないだろう。
でも「努力」ということ本人の意思でなんとでもなる。

「髪型が乱れるのでかぶりたくなかった」
「ヘルメットを買うお金がない」
「ヘルメット、格好悪いから」
「面倒だから」

というような理由で被らなくても問題はないのだ。

そもそも自転車の死亡事故の大半は頭蓋骨骨折だという。
転倒あるいは衝突、あるいは転落など。
色んなパターンの事故があるだろうが、自転車とて二輪車なのだからモーターバイクと同じように頭部をぶつけるとただでは済まない。
とりわけスポーツサイクルに乗っていると、時速50km以上で走ることもあり、そのときに事故に遭えばモーターバイクの事故となんら変わることもないわけで、

「自転車はヘルメットがなくても安心」

などということは決してないわけだ。

私の住んでいる大阪府では府の条例ですでに65歳以上の人はヘルメットをかぶるように指導されているようだ。
街なかでママチャリに乗った高齢者がヘルメットをかぶっているのを見かけることがあるが、あれは条例を遵守している人たちなのもしれない。

自転車のヘルメットは努力義務ではなく義務化が正解だと思うのだが、反対する人も多いんだろうな。


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自宅のトイレの引き戸が開きにくくなった。
取っ手を引くと重くて「ズズズズズズズ〜」っという音がしていたのだ。
この音は昨年夏ごろより鳴り始め、徐々に悪化をたどってこの夏ぐらいからは、「ギスギスギス、ギス」というように音も変わってきたのだった。

「これは戸車かレールの問題だろう」

と思っていたが口には出さなかった。
もし出したりすると、

「修理して〜」

と家人に言われて面倒くさいDIY作業をしなければならなくなる。
DIYはお父さんの作業なのだ。
したがって、

「掃除したら治るんちゃうん」

とレールに溜まったゴミを原因としていたのだった。
これはある程度的を射ていた。

というのも、昨年暮れに掃除をしたところ、少し動きも音も改善したからだ。
引き戸式の扉はこまめにレールを清掃する必要がある。
しないと動きが悪くなる。
世の中にはこの部分に蝋を塗る人もいるけれども、そこまでする必要は無いと思っている。

で、清掃で直したつもりに自分もなっていたものの、やはり根本的に戸車がいかれていたようで、先月ついに扉がレールから脱線するというトラブルがあり、戸車交換作業をすることになった。
電車の脱線も危険だが、戸車が脱線すると床が傷つき、下手をすると倒れてくることも考えられる。
脱線はいずれにせよ危険だ。

扉を慎重に外して横に倒し、戸車をチェック。
ホコリが随分と溜まっていた。
掃除機と針金で真っ黒になっているホコリを清掃して左右2つの戸車を扉本体から取り外してチェックしたところ、片方の戸車の車輪は難なくコロコロと回るのだが、もう片方が回らない。
何かが噛んでいるようでホコリをとっても動かない。
もしかするとホコリが塊になって車輪と車輪枠の間にはまり込み、動かなくなっているのかもしれない、と思ってゼムクリップを分解した細い針金の先で狭い隙間を突っついてみた。
確かにホコリは入っていたものの、その奥には目視できない金属製の何かがあって分解しない限り確認することも排除することもできないことが明らかになった。
戸車というのは車輪を台車にカシメて固定していることが多く、壊さない限り分解することはできない。
車輪が動かないことを確認するために戸車そのものを破壊しなければならないのであれば、これは修理できないと同意義であり、私はこの時点で、

「馬鹿者!」

とつぶやいていたのであった。

結局、新しい戸車ユニットを買い求めることにして、壊れた戸車の側面に刻印されている品番をインターネットで叩いてみた。
アマゾン、モノタロウ、ミスミ、楽天の4社があれば、いずれかが扱っているだろうと思ったのだ。
ところが、いずれのサイトも扱っていない。
扱っていないのは、作っていたメーカーがすでに倒産して存在せず、したがって小売店が在庫を持っていない限り入手できないことがわかったのだ。

「なんと!」

戸車どころか引き戸そのものを作り直さなければならないのでは、という疑問が沸き起こった。
戸車一つで扉交換とは大げさすぎるではないか。

そもそも我が家は大手ハウスメーカーS社の建物なので、部品ぐらいは系列のメンテナンス会社でなんとかなるんじゃないか、と一瞬考えた。
半年に一回送ってくるユーザー会誌兼カタログなんかに掲載されているのかもわからない。
でもでも、なのであった。

2年前に台風で傷ついた外壁の小さな傷と、換気扇出口の汚れについて、サポートの営業マンに相談したところ、一気に外壁全部の塗替えに発展したことがあり、うかつに相談すると余計なお金がかかりそうに思ったのだ。
戸車修理が引き戸製作になり、引き戸製作が引き戸枠も併せて製作で、さらに発展するとその周辺の壁面と床、壁の改修にと巨大化することも考えられないこともない。
まさか戸車ひとつで建て替えになるとは考えられないが、相手は凄腕営業マンだけに注意が必要だ。

尤も2年前の外壁の塗り替えは正解であった。
保証期間の延長には必要であったし、足場を組んだおかげで屋根瓦の一部が欠損していることもわかった。
放っておくと雨漏りの原因になったとも考えられなくはない。

「これ、割れているのを見たのは初めてです」

と敏腕営業マンのMさんも言っていた。
住宅メーカーは屋根の素材についてもしっかりと開発検証しているので、こんなケースはほとんど見たことがないという。
多分台風で何かが飛んできてぶつかったのだろうが、もしかするとロミュランの宇宙船からのフェーザー攻撃にあったのかもわからず、依然として原因は謎なのであった。
スタートレック・オリジナルシリーズの1シーンで、
「宇宙で最も硬い物質である電磁スクリーンがご覧のように。(バキッと手で割る)粉々です」
というスポックのセリフのシーンを思い出していたのだ。

ともかくそういうこともあり、建て替えを回避するためにも戸車は自分でなんとかしたいと思った。

S社の住宅部品ぐらいホームセンターで売られていないだろうか。
と、私は近所の、といっても自宅から8kmほど先にある超大型ホームセンターを訪れたのだった。
するとやっぱり「Sハウス、Sハイム、Dハウス対応品」などと書かれているユニット型の戸車を発見した。
倒産したメーカーの製品はないものの、その代用になる製品が作られていたのだ。

早速私はそれを買い求めようと陳列から外して価格を見て愕然とした。
なんと1セット1400円弱。
絶句の一言なのであった。
戸車ごときで、信じられない高額だ。
1400円といえば吉野家の牛丼を3杯は食べられる金額である。
はま寿司なら14皿は食べられる高価な価格だ。
いくら円安と物価高とはいえ、この価格は戸車業界の異端児といえよう。
そもそも戸車なんか一個100円から300円ぐらいで、いくら高くても500円ぐらいと思っていた。
ところが回転寿司14皿分となると、もしかするとプラチナでできているのではないかと疑ったぐらいだ。

そもそも今回は動く方の戸車も一緒に交換しようと決意してホームセンターにやってきていた。
なんといっても新築約20年弱。
一度も戸車なんぞ交換したことがない。
したがって両方とも新品にして気持ちよくしようと思っていたのだが、両方のために2つ購入すると2800円もするではないか。
2800円といえばピーチエアのバーゲンチケットで関空から新千歳まで飛んで行ける金額だ。(片道)

そんなこともあって、1個だけ買い求め家に帰って交換したのだ。
結果、引き戸はスムーズに動くようになった。
早く交換すべきなのであった。
早く交換しなかったためにレールに少しばかり傷がつくことになったが、これは交換せずにいるつもりだ。
このレールはハウスメーカーに発注する必要があり建て替えに発展する可能性がある。

ともあれ倒産メーカーの戸車探しは結構大変な作業なのであった。


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防衛予算を増額せんといかんので増税で賄うということだそうで、高市早苗議員が「呼ばれてないで、会議に」と文句を言っていることはさておいて。

道具買っても使えんかったら意味ないのとちゃいますか?
国家議員のみなさん。

日本の防衛力は現状でも決して低レベルのものではなく、その技術はとりわけ海上自衛隊においては世界的にも秀でている。
米英海軍とならぶオーシャンネイビーの称号とともに、ステルス性優れた潜水艦部隊。領空監視の優れたイージス装備。
弾道ミサイルを迎撃できるミサイル防衛能力。
などなど。

これに各種ハイテク兵器を増強して国土を守るというのだから非常に心強いように見えるけれども、結果的に使えんかったら意味がない。
というのが憲法という超重量級の足かせ。

今のところ防衛のために新型の高性能兵器を装備しても、敵ミサイルが攻撃してきたら、
1:国会を召集
2:迎撃するかどうかを議題をあげ
3:憲法9条に抵触しないかどうか論議して
4:総理大臣権限で迎撃ボタンを押していいか協議して
5:憲法9条を拡大解釈するコメントを作成して
6:議会の多数決とって迎撃決めて
7:総理大臣が記者会見して「しっかりと、まさにしっかりと」迎え撃ちたい

といっている頃には、ドカン!
敵は「日本にゃ憲法9条があるから、何があっても動けない」とお見通し。
だから何を買っても結局は意味をなさない。

憲法変えるほうが金もかからず防衛もやりやすくなる。
畢竟、現在の兵力でもそこそこ睨みは効くわけで、そこに防衛力増強で初めて適切な効果がでる。

もしかすると、憲法論議せずに進んでいるので、あいつらの議論は増税だけが目的なんじゃないかと、密かに私は考えている。


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京都市立京セラ美術館で今、日本国内史上最大規模の「アンディ・ウォーホール展」が開催されている。
この秋冬最大の関西のアートイベントかもしれない。

先日その「アンディ・ウォーホール展」を観に行こうとと京都まででかけてみたが「ウォーホール展はまだまだ会期があるから」と同じ京セラ美術館で開催されている別の展覧会を観ることにした。
それが「ボテロ ふくよかな魔法展」なのであった。
この展覧会は12月11日が終了になっていたからだ。

鑑賞した感想はというと、
「今日はこのあとウォーホール展見ないことにしよう。だって負けてしまうかもしれないから」
というぐらい面白い絵画展なのだった。

南米コロンビアの画家フェルナンド・ボテロはあることがきっかけで「ぶっとい肖像」を描き始めた。
肖像だけではない。
フルーツも。
木々も。
聖書の世界も。
何もかも。

中でも1963年に発表した「12歳のモナリザ」はニューヨークで話題を集め、彼にとって初のMoMA収蔵の一作となった。

彼の作品の何が特徴かというと先に書いたように描かれる対象が「ぶっとい」のだ。
それも単なる太ったパロディーではなく独立した作品としての印象が強く、感動する前に穏やかなユーモアが心の中に満たしてくれる。
南米らしいラテンな暖かさが溢れているのだ。

この「モナリザ」を始め、多くの有名な作品がボテロの手にかかって新たな作品に生まれ変わっている。
今回はMoMA収蔵の作品は未出展ながらも多くの著名作品が集められた比較的規模の大きな初めての国内展ということもあり、見どころ満載なのであった。

描かれている対象が太っているだけではない絵そのものの表現の豊かさ。
南米の作家らしい温かい色彩構成。
そして「ふくよかな」気持ちになる温かみ。
どれをとっても新鮮で、ぜひとも我が家にも欲しいと思える明るい絵画がいっぱいなのだ。
もちろん買うことは予算的に叶いませんが。
見終わる頃には「今日は連続してウォーホールを観るのは適切ではない」という判断にいたるほどのポジティブな衝撃を感じたのであった。
なぜなら見慣れた作品の多いウォーホールを鑑賞すると、いくら有名な作品が多いとはいえ現代アート。
「ん〜、ありきたり」
となってしまいそうで怖かったのだ。

師走の京で、ふくよかな気持ちになろう。
でも会期は今週日曜まで。
あたたか〜いボテロ展なのであった。



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ツイッター買収で話題のイーロン・マスク。
そのうちお取り潰しの憂き目に遭うんじゃないかと思っている人は少なくないかもしれない。

というのも前例が日本にあるからだ。

大阪メトロ御堂筋線の淀屋橋駅。
ここ淀屋橋駅の駅名に由来は江戸初期の豪商淀屋。
大阪人だけでなく、少し歴史を聞きかじっている人には周知のことだ。
固有名詞がつけられた地名が大阪は比較的多いが、このように街を代表するような地名になってる人名由来の橋はここが一番大きいかもしれない。

この淀屋は現存していない。
大阪の豪商は今も住友、藤田、鴻池などの財閥系は今も名前こそ変われど活躍中。
でも、淀屋は跡形もない。
どうして無いかと言うと先述のように、驕り高ぶりすぎて潰されたからだ。

この淀屋は18世紀のはじめ日本一の豪商でその資産は現在の価値で200兆円とも言われている。
それだけに屋敷は贅を凝らし、あの時代に全面ガラス板を敷いた水槽があり魚の展示飼育などを行っていたということが文献に残っている。
同じ時代にすでに住友や鴻池も豪商として存在しており、身近なところでは大丸百貨店も心斎橋で呉服商の営業を始めている頃だ。
何をどう振る舞ったのか不明だが、全財産没収という信じられない行政処分でその歴史にピリオドが打たれた。
世間の羨望の的であり、経済力の頂点という存在であってもお上には勝てない。
たとえは悪いが共産世界に暴力団が存在しない理由に似ている。

で、イーロン・マスク。
資産的にはビル・ゲイツやジョブス以上に成功した御仁ではあるものの20世紀の変革のヒーローである二人ほどの魅力がちっともなく、その傲慢で押しの強い、独裁者的感覚には強烈な不快感すら感じてしまう。
これはいったいなんなのか。

近い将来、イーロン・マスクの終焉が淀屋に重なるんじゃないかとニュース報道などを見て感じている次第だ。


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私と同世代の有名人が亡くなると色々と思いを馳せてしまい、しばし他のことが考えにくくなる。
昨日の朝、俳優の渡辺徹が亡くなったというニュースが国会中継の画面の上にテロップが流れたときは、まさにそうゆう心境になった。
そして「郁恵ちゃんが可哀想」という多くの人が抱いた思いと同じことを考えてしまっていた。
まだまだ若く、活躍が期待できたのに病魔がそれにピリオドを打ってしまった。
実に悲しい。

渡辺徹というとニュースでは「太陽にほえろに出演した」ということが再々伝えられているが、私には渡辺徹で忘れがたい役はNHK水曜時代劇「腕に覚えあり」に登場した浪人細谷源太夫だ。

「腕に覚えあり」は藤沢周平著の「用心棒日月抄」を中心にいくつかの作品を下地にした痛快時代劇で主役の青江又八郎は村上明宏。その許嫁を清水美砂、その弟をデビューしたての香取慎吾、美貌のくノ一を黒木瞳。口入れ屋のたぬき親父を坂上二郎という、なんともすごいキャストなのであった。

その中で渡辺徹は主人公が脱藩して江戸に出てきたときに相棒となる作州津山出身の浪人細谷源太夫を演じた。
その人が良くて正義感が強く、陽気で酒好きだが腕は立ち、かみさんと子供を多く抱えて生活が大変な庶民的なキャラクターをとてつもなく魅力的に演じていたのだ。
主役の村上明宏やその周辺も忘れがたいが、私にとっては渡辺徹演じたこの細谷源太夫が忘れがたい存在になっている。

このような時代劇でも味のある素晴らしい演技をした渡辺徹。
これから歳を重ね、男としての魅力が増してくるそのときに、ああ、なってこった!

残念で寂しい、俳優の死去を伝えるニュースなのであった。


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長年使ってきたiMac。
2016年から使っているのでまる6年間使用しているということになる。
会社を辞めて自営をするようになってからは趣味のパソコンという地位から業務用という地位に変わったこともあり、そのiMacはトラブルを恐れてOSのアップデートをせずに使い続けてきたのだ。

アップデートすると発生する主なトラブルは業務に使っているソフトウェアが使えなくなること。
これはとても危険だ。
とりわけ2016年あたりからOSが徐々に32ビットから64ビットに変わりつつあったため、私の愛用している32ビット用ソフトウェアは64ビット環境では使えない。
なのでOSをアップデートすることができなかった。

とはいえ、6年経過。
使っていたソフトも他に同様の機能を持つより優れたソフトウェアの登場もあり出番が少なくなってきた。
必要なのは古いデータを閲覧したり加工するときぐらいで、使用することは月に一度歩かないかの状態になっていた。
さらによく使うようになってきたソフトウェアは買取からサブスクが主流になり、OS環境も64ビットの最新でない動かない、あるいは動きにくいという困ることが出てくるようになった。

そこで先週、いくつかのソフトとの見切りをつけ、OSのアップデートを試みた。
そしたらなんと、最も恐れていたことが発生したのだ。
それは古いソフトウェアが使えなくなったということではない。
使えなくなるのは承知の上でアップデートしたので、その程度ではショックを受けることはない。
で恐れていたトラブルと何かというと、それはシステムの入っているSSDがぶっ飛んだことであった。

最新OSをインストールしたところ、再起動するのに3時間も4時間もかかっているので、
「これはおかしい」
と思った。
で、再起動するのを待ってiMacの画面を観察していると、リンゴマークからアップロードの経過を示すバーグラフになってしばらく進むと、そこでエラーが発生して勝手に再起動。
そしてリンゴマークがついたら、という繰り返しに陥っていたのだった。

大変なことになったと思った。
泡を食ってお出かけ時に使っているMacBook airで対策を検索。
セーフティモードの使用、ディスクユーティリティでの対策など色々試してみたが、結局ダメなのであった。

結局SSDを初期化してOSを再インストールした。
幸いなことに、昨年内蔵HDDの調子がおかしいので外付け起動にしていたことが幸いし、調子の悪い内蔵HDDから必要データをOS再インストールに移行。
なんとか使える状態まで復旧したのだった。

とはいえ1日半の時間が無駄になり、何らの業務をこなすことができず、大変困ったのは言うまでもない。
OSアップデート。
個人事業主には大きな冒険だ。


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