<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



今から十年ほど前、同僚のYさんと一緒に東大阪市内にあるお客さんを訪問した後、近鉄電車八戸ノ里の駅前で喫茶店に立ち寄った。
暑い季節だった。

ホットコーヒーは飲む気にならず、かといってアイスコーヒーという気分でもなかった。

「○○さん、パフェ食べへん?」
「............ええで」

ということで、いかついオッサン二人でバナナパフェを注文。
ウエイトレスの女の子に微笑まれたのであった。
たぶん心の中では爆笑していたことだろう。

私は酒のみなのだが甘いものも大好きで、実際のところ、子供の頃からパフェが好きなのだが、オッサン1人ではなかなか食べる勇気が湧いてこない。
どういうわけかパフェといえば女子供のデザート、といった固定観念が存在する。
従ってオッサン1人で「イチゴパフェください」とは言いにくい社会的現状があるのだ。
もし1人でパフェなど食べようものなら周囲の関心を集めることは間違いない。

ところで、そのような状況の中、最近パフェ専門店を訪れることが出来た。
家族でパフェを食べに行くことになったのであった。

インターネットを使って見つけたのが道頓堀近くにある「パラソル」
パフェ専門店と謳っていたが、パスタやピザなども扱っていて、どちらかというとイタリアンという感じだ。
店の内装はチャラチャラした感じで男1人では入りにくい雰囲気は否めないが、子供や女性と一緒であればまったく問題がない。

私が注文したのは「プリンバナナパフェ」。
パフェのベーシックなような気がしたのでネットでチェックした時からこれを注文しようと決めていたのであった。
サイズはレギュラーとドルチェという大小があり、私は小さい方のドルチェを注文した。

で、味はというと、これが美味い!
プリンとベースになっているアイスクリームのコンビネーションが絶妙でアッサリ甘で、すっかり気に入ってしまった。

このパラソルというお店。
結構有名なようで、会社の若手F君も知っていた。
ちなみにF君は下戸。
甘いものが大好きなのだという。

ともかく久々に食べたファーストフードではないパフェは、甘いもの難民の私の心をホノボノ~と暖かく満たしてくれたのであった。




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沢木耕太郎の「深夜特急」は今や日本人バックパッカーにとっては、旅の教科書と言っても過言ではない存在になっていると、私は思っている。
紀行「深夜特急」に出会うことにより日本を飛び出し、気ままな貧乏旅行へ旅立とうという若者は少なくない筈だ。
いや、若者に限った話ではなく、30代40代の働き盛りの人たちの中には、会社を辞めてまで旅に出かける人がいるだろうし、人によっては短い休みをとりつつ、「旅する力」で紹介されている沢木ファンのように少しずつ「深夜特急」のバスの旅をなぞっている者もいるのだろう。

また中には、深夜特急の旅を追いかけすぎたがために、命を落としてしまった者もいるかも知れない。

それだけ「深夜特急」の旅は魅力に溢れ、人々をデリーからロンドンまでのバスの旅へと誘っていくのだ。

新潮社刊「深夜特急ノート 旅する力」はその深夜特急に関わる著者の最後の作品だそうで、この本を読むことで深夜特急にまつわる数々の知識的な欲求不満を満たすものになっている。

私自身も昨年末に本書を購入して、「読むのであれば深夜特急を再読してからにしなければ」と思わせる期待感と迫力が存在した。

実際、深夜特急での数々の謎が本書によって解き明かされている。
例えば、深夜特急がロンドンで幕を閉じてから、実際の著者はどこをどう旅をして戻ってきたのか、
といったものや、
あれだけの長い旅の詳細をどうやって記憶していたのか、
といった謎である。

旅する人にはそれぞれスタイルがあり、深夜特急は信じられないほど魅力的な旅でがあったが、あくまでもそれは沢木耕太郎という人のスタイルであり、教科書であったとしてもまねることはできないのだと、つくづく感じた。
とりわけ旅の適齢期というものについて語られている章については痛切に同意しなければならない痛みさえ伴っていたのだ。

著者が旅に出たのは26歳の時。

「深夜特急」の中には同じ26歳で妻も子供もある男と親しくなる場面が出てくる。
著者はそれに衝撃を受ける。
片や家族を養うために全力を注ぎ、そして片や世界を放浪のような旅をしている。
「こんなことでいいのだろうか」
誰しも思うことだ。

私の場合はもっと酷く、海外を頻繁に訪れるようになったのが30歳を過ぎてからであった。

26歳での旅立ちが古いのであれば、30歳を過ぎてからの旅立ちは救いようが無いように思えたのだった。
しかし、著者は本書の最後に自信のサイン会に訪れた人たちの言葉を紹介している。
それによると、先ほど延べたように、旅には様々なスタイルがあり、それぞれの人生に見合った形で誰もが楽しんでいることを記しているのだ。

デリーからロンドンまでバスの旅、という一般には信じられないような、皆が憧れる旅をした著者が素直にファンの語る旅に羨望する。

旅は人生のようだ、と著者は本書の中で語っているが、まさしく紀行大河である「深夜特急」の締めくくりにふさわしい一冊だった。

あ~、どこでもいいから旅をしたい。

~「旅する力 深夜特急ノート」沢木耕太郎著 新潮社2008年刊~ 

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「南アジアでは旅が向こうからやって来る。しかし、ヨーロッパでは旅はこちらから出向かなければならない。」

という意味合いのことが深夜特急には著されていて、わたしも強く同感した。

わたしはヨーロッパには行ったことはない。
ちなみポルトヨーロッパ(和歌山市)にも行ったことはない。
さらに最近は忙しいうえに10代、20代でもないのでヨーロッパ通り(大阪市心斎橋)にも行ったことはない。
この際、そんなことはどうでも良いのだが、旅をしていると確かに旅が「向こうからやって来るところ」と「こちらから訪れないといけない」ところがあることは強く感じる。

例えば、日本国内でも旅をしていると向こうからやってくるところ(馴れ馴れしいところ)とこちらから向わなければならないところ(無愛想なところ)がある。
前者には大阪の黒門市場、宗右衛門町、阪急東通商店街、東京のアメ横、新宿区役所通、六本木交差点、などがあり、後者には深夜のコンビニ、出入国管理事務所、注文が止まった客に対する焼き鳥秋○難波店の店員の態度、などが上げられる。

このように国内だけでも「旅」に出た者に対する旅が見せるその顔は千差万別である。

沢木耕太郎の「深夜特急」は3冊に別れているが、実際のとこと大きく分けたら2つの章に分類することが出来るかも知れない。
それは陽気で人懐っこいアジア編であり、もう一つは上品でかつ落ち着いたヨーロッパ編だ。
アジア編は同時に埃っぽくて、汗臭く、かつ数々の香辛料が漂いでてきそうな感じがするし、それに対してヨーロッパ編はモノトーンで乾いており、かつ無意味に清潔に思えるという違いがある。

どういうわけか、旅は雑然として人々の体臭がニオイ出てくるようなものの方が魅力がある。

深夜特急も同じなのだった。

インド、パキスタンあたりまでの旅は体力的にかなりタフなものを感じるがエキサイティングで面白く、トルコ以西の旅は上品だが、なんだかかなり物足りないものになっていたのだ。
ただポルトガルのリスボンで地回りらしき酔っ払いの男に声をかけられ夜のクラブを引きずりまわされうる姿は、「受け身の旅」としての面白さとしては、アジア編に引けを取らないアグレッシブさを持っていた。

「深夜特急」。
旅は色んな要素を含んでいるのだから面白い。



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改めて「深夜特急」を読み返してみると、前回まで読んだときの楽しかった記憶に加えて、
「案外、人って本の中身を覚えていないもんだな」
という、深夜特急とはまったく関係ないことを思ったりした。

というのも、私の記憶から「カトマンズ」訪問の章がまったく抜け落ちていたのだ。

その原因はいくつも考えられるのだが、カトマンズを訪れる前のインドでのエピソードがあまりにも刺激的過ぎて、続くネパールの印象が極めて希薄であったことがあげられる。

こういうことは実際の旅でもなくはない。

私は東南アジア、とりわけタイとミャンマー国内をうろうろすることが大のお気に入りなのだが、多くの町や村を回っているうちに、やはり同じような現象に出会うことがある。
刺激の大きな町を訪問した後で、あまりに変哲のない、ごく普通のところを訪れたりすると、旅行メモでもつけていない限り、その部分の記憶が欠落するのだ。

むしろ有名な街を訪れたことよりも、不通の何の変哲もない道路わきの屋台で買った「スイカが美味かった」なんてことのほうが、はっきりと記憶に残ったりするものだ。

このカトマンズの章を読んだ記憶が抜け落ちていたことは、印象が薄いということ以外にも、なにかあるのではないかというヒントが、「旅する力 深夜特急ノート」に書かれていた。

新刊「旅する力」には、深夜特急執筆にまつわる話が数多く載っているのだが、このカトマンズの章の大切な記録であるある文章(メモだったか)が著者の手元に残っていないのだという。

著者が自分の記憶に大部分を頼って描き出した「ノンフィクション」は、資料を駆使したノンフィクションと比較して、圧倒的に力が落ちる。
このカトマンズに於ける物語を読んだのを忘れてしまっていた、という私の記憶の欠落は、こういう「書物のオーラ」のような力が、少しばかり不足していたからかもわからない。

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沢木耕太郎の新刊が昨年末に出版された。

「深夜特急ノート 旅する力」

旅ドキュメンタリー「深夜特急」の総決算とも言うべきエッセイ集で、書店で見つけたときは迷うこと無く買い求めた。

旅好きの人のほとんどは沢木耕太郎の「深夜特急」を知っていることと思う。
私もこの深夜特急を初めて読んだときの楽しさと衝撃は今も新鮮に残っている。

「深夜特急に刺激されて、アジアの旅に出かけました」
という人も少なくないようで、沢木耕太郎のまねをして南アジアで行く不明になってしまう若者もいるのだという。

1970年代中頃。
著者、沢木耕太郎は26歳のときにインドのデリーからロンドンまでバスで旅するという、今で言うバックパッカーを実行した。
旅は1年に及び、その旅を描いたのが「深夜特急」。
今や旅好きな人々のバイブルになっている。
私は旅をするようになってからこの本に出会い、
「こういう旅もあったんだな。もっと若いときにこの本を読んでいたら、まねをしたかもわからない」
と思ったものだった。

実際、自分自身が会社で木金と有給休暇や代休を取り、土日とあわせ出かけていた短期間のシンガポール旅行やタイ旅行では、沢木耕太郎の「深夜特急」式の超ミニ版の旅をしていたので、その超特大版とも言うべき「深夜特急」に私は興奮を覚えたものだった。

この作品は文庫本で読み終わった後、数年後に全集の一冊「ミッドナイト・エキスプレス」として出版されたときに再読した。
そして今回、「旅する力」が出版され、それを読む前にもう一度読了しようと、再再読することになった。

そしてまた、忘れていたこと、新しいことに気づいて、多いにシルクロードの旅を満足したのであった。

つづく

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新しいアメリカ合衆国大統領としてオバマ氏が今日就任する。
リンカーンの聖書に手を置いて宣誓したり、リンカーンスタイルで列車でシカゴからワシントンDC入りしたりして、なかなかな演技派だ。

初めての黒人の大統領として注目されているが、半分は白人なので部外者の日本人である私からは、なんら違和感はない。

違和感があったのはインディペンデンスデイでモーガン・フリーマンが演じていた黒人大統領だ。

SF映画でウェルズ原作「宇宙戦争」の焼き直しというB級映画であったことも手伝ってモーガン・フリーマンの大統領は不自然かつ安っぽいものであった。

「なんでアメリカの大統領が黒人なんや」

映画を見ながら私は小さくつぶやいていたものだ。

「せっかくドライビング・ミス・デイジー」で演技派やと思ったのに」

とさえ残念に思うくらいなのであった。

映画の中では数多くの俳優さんがアメリカ合衆国大統領を演じてきた。
だいたい大統領が主演の映画は少ないので、どちらかというと脇役の俳優さんが少なくない。
その中で大統領が主演という映画が、マイケル・ダグラスが演じた「アメリカンプレジデント」とハリソンフォードが演じた「エアフォース・ワン」だ。

マイケル・ダグラスの大統領はなかなかはまり役であった。
父譲りのその落ち着いた雰囲気と、ロブ・ライナーの粋な演出が、エンタテイメントとして隙のない作品に仕上がっていた。

それと比べるとハリソン・フォードはまるで、
「お、インディが大統領になったのか」
という、そのまんまで雰囲気で、大統領というよりもその警備主任というような役のほうが向いているのではないか、というぐらい板についていなかった。

考えてみると、固定したキャラクターのイメージがついている人気俳優が大統領という政治家として確固たる「顔」を持っているキャラクターを演じるにはいささか無理があるのかもわからない。

本物のに大統領になったレーガンは俳優としては、かなりいまいちであったことを考えると、大統領を演じる俳優は無名か脇役俳優のほうがいいのかもしれない。

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読売テレビが毎年琵琶湖で開催している「鳥人間コンテスト」。
なんと今年は初の休止になることが決まったのだという。

WEB産経新聞の記事

私はこのコンテストがお気に入りで、毎年テレビで観戦している。
本来、ずっこけるようなフライトが大好きなので、ここんところ、凄い記録のラッシュでいささか食傷気味ではあったが、それでも「人が空を飛ぶ」という一種の憧れを実現しようと、悪戦苦闘する人々の姿には感動を誘うものが少なくなかった。

そのコンテストが休止。

なんでも、コンテストを維持する経費の捻出が難しく、安全の確保ができないためだという。
来年は実施する予定だそうだが、この休止宣言。
全国の鳥人間に与えている衝撃は少なくないはずだ。

番組を見ると、飛行を成功させるのはもはや趣味の世界なんてものではなく、大学の威信、企業の威信、個人の生き方に関わっている一大事業と言えるものになっている。

例えば、大阪岸和田市のだんじり祭りのようなものだ。

大阪岸和田のだんじり祭りは、その「野性味」で有名だが、有名なだけではなく、この祭りにかける地元の人々の熱意には狂気を感じるときさえある。
だんじり祭りに参加するために会社の転勤を断り、あるときは退職し、またあるときは住所さえも変えてしまう。
人生はだんじり祭りとともにある。
一年は「だんじり祭りのためにあり」という、よそ者には理解不能な精神世界が息づいているのだ。

ちなみに私も理解できない。

鳥人間コンテストには、この岸和田市民が見せるだんじり祭りに対する情熱にも似た狂気が存在するように私は思っている。
だから鳥人間コンテストの休止の衝撃は計り知れないくらい大きいに違いない。

今回の事件は、テレビ局の弱体化が背景にあるのだろう。
インターネットの普及。
視聴者のチャンネル選択の幅の拡大。

つまらない番組が多い地上波民法の番組に金を払うものは少なくなっている。

で、つまらない番組のために、面白い番組「鳥人間コンテスト」が休止されるというわけだ。

ここはひとつ、航空会社や航空機メーカーが出資してコンテストを続行してはいかがだろう。
景気の悪さを吹き飛ばす意味でも、鳥人間コンテストは縁起物だ。

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昨年末、幸運な事に私は株価が下がったからといって、ほとんど損失を出すことは無かった。
なぜなら、私は株なんてものは一株も保有していないからなのだ。

正直、株を売買するほど財産は持ち合わせていないし、最近流行の一株株主なんてものにも興味はない。
ゲーム感覚で株を売り買いし、その価格の上げ下げに一喜一憂するのも、資本主義を担う投資家としてなんとなく格好良く無いように思えるのだ。

株はいつの間にかゲームになってしまった。
経済システムに於ても株価が会社の価値を決定するようになっているので、株が400円下がりました、上がりました、8000円を超えました、なんてことが世の中を動かすようにもなった。

かつて報道の中核でもある日本経済新聞は、経済紙としての威厳を持ち、同紙が報道する株価は経済動向の指標でもあった。

「就職するためには日経を読むように」

と、20年前なら大学の就職担当者は我々学生に説明したものだ。
日経を読むことイコール、経済人としての常識であった。

ところが今や日経を読むことイコール週末のサンスポや大スポ(=東スポ)を読むことと対して違いはなくなってきているようだ。
紙面が変わったというのではなく、紙面を読む読者の目つきが変わったという方が正しい。

つまり日経の株価欄や先物欄を見つめる読者の目の色が、スポーツ紙の競馬予想を見つめる目と、殆ど変わらなくなってしまっているのだ。

株はゲームだ。
会社は馬で、株は馬券。
どの会社が早く走り馬券の価値を高めるのか。
価格が上がった馬券は換金して利益を得よう。

株は本来、その会社の将来性にかけた資本家の人々が株を購入するというものだと私は思っている。
株を購入することでその企業に投資し、育てることに投資家も情熱を注いだ。
それが強い日本を作った。
利益は配当から得る。
株の売買益は二次的なものであくまでも配当。
従って一株株主なんてのは成り立たない。

株価が422円下がった?
それで騒ぐのはまるで「米上げいかき」。
落語の世界だ。

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駅の書店で平積みされている雑誌を眺めているとエルマガジンが目に飛び込んできた。

「ベスト・オブ・エルマガジン」

白いバックにそれだけが書かれたエルマガジンの今月号は何やら意味深。
もしや。
と思って手に取ってページをめくると最終ページにお知らせが。

「休刊のお知らせ」。

正直、かなりのショックを受けてしまったのだった。

エルマガジンに最初に触れたのは1980年代初頭。
大学生になった頃のことだった。
当時、タウン情報誌はエルマガジン以外にもいくつかあり、さすがにプレイガイドジャーナルはすでに休刊していたが「Q」なんて雑誌もあったりしてインターネットの無い時代の貴重な街の情報源になっていた。
映画の割引券もついていたり、美術館情報なんかはエルマガジンの情報を元にあちこち足を向けたものだった。

大学3年生の時に、当時、自分自身がスタッフを務めていたとあるSFテレビ番組のファンクラブがエルマガジンに取り上げられることになった。
そのきっかけは何であったのか今になっては思い出すことができないが、大阪市内でエルマガジンの記者さんに面会し、クラブの活動や歴史について説明したように記憶する。
「アルバイト学生みたいな記者やな」
と感じたフリーライターと思われる記者さんは、私たちへのインタビューを2ページにまとめて掲載してくれた。

その掲載号は、今も押し入れの何処かに段ボール箱に詰められ他の雑誌類と共に眠っている筈だ。

大学を卒業し、仕事が忙しくなるとエルマガジンも買わなくなり、30代になると対象年齢から外れたこともあり、エルマガの記事よりも同じ出版社が発行している「ミーツ・リジョナル」の方を買い求めることが増えた。
40代の今になってはエルマガジンはまったく違う世代の雑誌に変わってしまっていた。
それでもたまに買っては今の「関西」の流行をチェックするためのツールではあり続けていたのだった。

紙面のデザインを変えたり、内容をおしゃれにしたり、様々な試みを繰り返したと思われるエルマガジン。
インターネットが普及して雑誌が売れないという昨今。
よくぞここまで持ちこたえてくれたものだ。

大阪の雑誌「エルマガジン」。
関西の文化が今またひとつ変化をしようとしているのかもわからない。

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年末に大阪千日前にあるビックカメラへ買い物にでかけた。

私の地元大阪も気がつけば家電販売店は東京資本はほとんどを占めるようになっており、かつてのプランタン難波のビルディングにはビックカメラが店を構え、梅田にあるヨドバシカメラと大阪での覇権を競い合っている。

この千日前からほどちかい日本橋の電気街も東京秋葉原と同じく電気街としての機能はそのほとんどを失いつつあり、オタクの街として確固たる地位を築いてきている。

このビックカメラの南側の出口を出てみると向かい側に映画館「千日前国際劇場」があったことに気付いた。

気付いた、というと聞こえはいいが、すっかりその存在を忘れていたのだ。

この千日前国際劇場は中学高校生の時に良く訪れた劇場で、上映の合間にハモンドオルガンを弾くオジサンが現れるのが特長だった。
オジサンはおもむろにオルガンを弾く。
聞いている観客はいるのかいないのかわからないが、上映時間を知らせるスポットライトが点滅すると、オジサンは演奏を客席に向って礼をした。

パチパチパチ。

まばらな拍手が聞こえる時と聞こえない時があったが、聞こえる時の方が多かったことを考えると、オルガン演奏を聴いていた人は少なくなかったのだと思う。
私も聴いていた方だ。

その国際劇場がシネコンのラッシュに押されて昨年の3月末に閉館。
今も使い道が決まらず、シャッターを閉めたまま放置されている。

千日前にはかつてこの国際劇場と国際シネマ、大劇シネマ、千日前セントラル、東宝敷島といった大形館が点在した。
東宝敷島はすっかり規模が小さくなって敷島シネプレックスというシネコンとなって生き残っているが、メジャー系ではない他の映画館は姿を消した。
(但し、エロ映画館は残ってます。AVの時代にエロ映画。エロ映画の生存力恐るべしです)

姿を消すのは映画館だけではない。
もうすぐ難波駅前の奇っ怪な建物、「新歌舞伎座」も姿を消す。

現在盛んにサヨナラ興行が公演されている。
多くは演歌歌手や、それにちかい俳優の演劇もの。
若いものは見る機会の少ない出し物だ。
新宿歌舞伎町のコマ劇場が消えるように、ここなんば新歌舞伎座も消えるのだが、あまり報道されることもない。

難波といえば、日本の舞台芸術の発祥地ともいえる道頓堀を控えていて、現代だけではなく江戸時代からのエンタメの中心地だ。
しかも興行としての映画も日本では難波が最初で、今の丸井、TOHOシネマズ難波の場所が日本初の映画館の場所でもある。

ということで、大阪の中心繁華街なんば。
ここのエンタメはこれからどこへ行ってしまうのだろう。

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