<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



年の最後に何を読もうかと考えて、お気楽な一冊「決定版、ジョーク世界一」というのを見つけたので購入した。

本当は沢木耕太郎の新刊(訳のみ)を読みたかったのだが、なんといっても今回の新刊は「殺人者へのインタビュー」なるノンフィクションなので、重い気分で正月を迎えるのもなんだかと思って笑える本を探していての購入だった。

ジョークの本はここのところ静かなブームのようでこの一年私も何冊かを購入した。
主に新書判サイズだったが、今回の一冊はシリーズ本のようで単行本サイズ。

どの本も共通して言えることは短時間で読めること。
本書も一日で読んでしまった。
そして、心の底から「クスッ」と笑えること。

ともかく年末年始はお気楽に!
という人にオススメの一冊だ。

笑う人には福来る!

~「決定版、ジョーク世界一」情報センター刊 天馬龍行編集~

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民主党が政権を取って数ヶ月。
「民主」党だから少なくとも一人一人の議員が主役かと思っていたら、小沢将軍様がふんぞり返って天皇陛下まで政治利用。
何に遠慮をしてかわからないがテレビも新聞も小沢を避難することを忘れている。

そう、
日本がおかしくなっている。

政治が変になれば社会や文化も異変を来す。
福音館書店が「たくさんのふしぎ」という月刊誌を発行停止にしたのも、そういう小沢ライクのファッショな出来事が原因だ。
ニュース報道によるとなんでも「おじいちゃんが煙草を吸っている描写がある」ので児童書としてふさわしくなく出版は駄目だという。
煙草は反社会的だから子供の本でおじいちゃんが煙草を吸うのは好ましくないという考え方だ。
今の時代。
煙草を吸わないおじいちゃんの方が世代的に珍しいんじゃないだろうか。

理由は一部の市民団体がガミガミ言い出したので「発行停止」にしたという。
例によって、その市民団体の名前は報道されていない。

これって言論と表現の自由に反していないか。

煙草が駄目なら酒も駄目だろう。
ということは嗜好品一般が駄目なことになり、お茶にコーヒー、紅茶なんかもだめになる。
これらの飲み物にはカフェインが含まれていて子供の脳にはよろしくない影響がある、と考えている人もいるからだ。

確かに煙草は迷惑で、私も臭いも煙も大嫌い。
だからといって煙草文化を否定するつもりはまったくない。
煙草を吸っているシーンが駄目ならハンフリー・ボガードやオーソン・ウェルズなどのクラシック洋画も駄目だろうし、刑事コロンボのような外国ドラマ、時代劇も鬼平犯科帳は見てはいけないということにもなる。


今回の決定で思い出されるのが「ちびくろさんぼ」撲滅キャンペーン。
大阪に住むとある一家が社会問題化したという童話止し止め裁判は童話の世界にマイナス面での大きな傷を残している。

ファッショ化する日本。
来年はどんな自由が失われるのか。
空恐ろしいものがある。

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私の地元大阪で最もお気に入りの美術館が天保山サントリーミュージアム。
ちなみに都内で最もお気に入りの美術館は恵比寿の都立写真美術館。

天保山サントリーミュージアムが2010年12月26日に閉館されるというニュースが発表されて4ヶ月。
初めて聞いた時はあまりのショックで今後飲むウイスキーはニッカにしようと心に決めたぐらいだった。
ところが残念なことにニッカウヰスキーの銘柄がひとつも頭の中に浮かんでこず、結果的にウイスキーは未だ国産の場合オールドを飲んでいる。
ニッカの人はもうちょっと広報に努めるように。

経済紙の報道によるとミュージアムの閉館はサントリーがキリンと経営統合されるための布石なのだそうだ。
が、東京にあるサントリー美術館は閉館されず、サントリー本社のある大阪のサントリーミュージアムが閉鎖されるのは明らかに首都圏偏重ではないかと思われ、地元愛に溢れた私の悔しさも少なくない。
先週新聞などで伝えられたように新会社はキリンの比率の方が多い。しかし最大の株主がサントリーの経営一族。
まるでピクサーを買収したディズニーなのに、その大株主はスティーブ・ジョブスという構図みたいなのだ。
なのであるから、もっとしっかりと地元の文化施設を保護していただきたいと思うのだ。

ところで、大阪市は今、未着工の大阪市立近代美術館の助成金をめぐって国から「金返せ」のプレッシャーを受けている。
計画した通りの建設と開館をしなければ罰金をとるというのだ。
もしかするとサントリーミュージアムの行方は、創業家によるサントリーミュージアムの大阪への寄付で終わるのではないか、と楽観主義者の私は予想している。

ちなみに大阪の主たる文化施設は企業の寄付によって作られたものがすくなくない。
例えば大阪市立美術館の建つ天王寺公園は住友家の旧宅跡。
大阪市立東洋陶磁美術館は倒産した安宅産業から住友が受け継いだ文化財を住友が大阪市に寄贈したことで開設された施設であるわけだし、大阪府立中之島図書館も住友家の寄贈で、さらに現鉄筋コンクリート作りの大阪城も2割が大阪市民、8割が住友家からの寄贈による文化施設なのだ。

住友家ばかりが目立つのは仕方がないとしても、大震災で被害を受ける以前は天下りゼロだった阪神高速道路公団や、8つの橋を除くとすべて民間で管理をしていた江戸期大阪の道路インフラなどを考えていくと、大阪は民間企業が作る街、という遺伝子を持っているということもできるわけだ。

サントリーミュージアムは大阪の世界的建築家・安藤忠雄による設計。
故佐治敬三会長の指揮で作られたという、そういう意味でも文化財。

ともかく世界的大阪企業サントリーによるミュージアムの行方とその後の利用法が大いに気になるところなのだ。


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中学生の頃から面白いと思った映画はパンフレット同時にサントラ盤も欲しくなるという癖があり、
「小遣いそんなにあげられへんで!」
とお袋によくしかられた。
それでも高校生頃から小遣いでサントラ盤を購入するようになり、30年経過した今も大切に保管している。

初めの頃に買ったのは「アドベンチャーファミリー」「007私を愛したスパイ」「ルーツ」「未知との遭遇」「スターウォーズ」などで、このうちスターウォーズだけは数年前CD版を買い直した。

先日お伝えしたようにピクサーアニメの最新作「カールじいさんの空飛ぶ家」は非常に面白い映画だった。
ピクサーアニメは中身が優れていることはもちろんのこと、いつも音楽がしゃれていて大好きだ。
この点、同じアニメでも宮崎アニメと共通するような気がして「良きアニメには良き音楽」という、勝手な理論を持っている。

そこで映画を見終わって自宅に帰ってアマゾンドットコムで「カールじいさんの」のサントラを購入しようとアクセスしたところサントラ盤がヒットしない。
絵本やそれに類似した書籍類か、未発売のDVDばかりヒットするのだ。
検索方法が悪いのかと思い「カールじいさんの空飛ぶ家 サントラ」と入力してみたが、引っかからない。
「もしや」
と思ってアップルのiTunesミュージックストアにアクセスするとちゃんと販売されていたのだ。

で、色々調べてみるとこの映画のサントラはインターネット配信でなければ買えない製品になっていた。

考えてみれば「音楽」という製品はインターネットでの販売が最も容易な製品だ。
インターネットで配信するとCDを流通させるための「製造費」「運賃」「倉庫費」「店頭小売マージン」などが不要になる。
これは大きい。
在庫は必要なくなるし小売店のマージンがなくなり、その分を顧客と製作元で分配することができる。
現物の無いことやジャケットのデザインなどを楽しめないというデメリットはあるが、メリットの方が多いようにも感じるのだ。

そこで気になるのが街のレコードショップ、もといCD&DVDショップ。

その昔、高校生の時に近所のショッピングセンターにあった新星堂の店員の兄ちゃんと親しくなり音楽について色々話したり、教えてもらったことがあった。
でもインターネットになれば口コミはあるものの、そういう生身のコミュニケーションはなくなってしまう。

「カールじいさんの空飛ぶ家」のサントラは、売れるけれどもネット配信、という新しい音楽産業のスタイルを如実に表しているのかもわからない。

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手塚治虫の「鉄腕アトム」は20世紀に生み出されたテクノロジーの粋を集めて21世紀に誕生した人型ロボットだ。
100万馬力の力を持ち、空も宇宙も飛行することができる。
人工知能は非常に優秀で人と寸分変わらない感情を持ち、とりわけ正義感は人以上だ。

この驚異のロボット「アトム」の開発・組立は天馬博士ただひとりで実施。
研究実験室にこもって、ひとりでアトムの開発設計、組立、プログラミングまでこなした天才だ。

マンガや映画の世界ではこのようにたったひとりの科学者が偉大な発明や開発を行うということが少なくない。
古くはフランケンシュタイ博士や80年代はタイムマシン"デロリアン"を開発したエメット・ブラウン博士などが挙げられる。
しかし、21世紀に繰り広げられている実際の科学の世界ではひとりの学者が何かを開発したり発明したりすることはほとんどなく、チームで研究が行われている。

ニコラス・ウェイド著「ノーベル賞の決闘」は、そんな科学の世界をビビットに、そして残酷に、そして醜く描き出した傑作だ。
ほ乳類の生殖を司るホルモンの発見に対して1973年に二人の学者に贈られたノーベル賞がその題材。
発見に至るまでのその二人の競争が克明に記されてる。
本書でも語られているとおり研究活動というものはチームで行われるもので、某博士というのは映画で言うとプロデューサーやデレクターに相当していて実際の研究活動に当たるのはスタッフなのだ。

ノーベル賞というのは、言うなればアカデミー監督賞や作品賞に相当する存在であることも本書を通じてよく理解することができる。
映画の祭典がそうであるように実際の研究活動でスポットライトが当たるのは研究室や研究機関の代表者ということになるらしい。
そういう意味においてノーベル賞はアカデミー賞と比較して、より一掃一個人を讃える賞ではないかと思われる。
少なくとも映画はスタッフロールにすべてのスタッフや関係した業者の名前が刻まれるわけだし、アカデミー賞を取ったからといって、その後の映画人生が保証されるということはいっさいなのだから。

「ノーベル賞の決闘」では研究実務の生々しさや、自分が勝者になるためにはなりふり構わない科学者の姿が描かれており、これまでイメージしてきた研究・実験活動に没頭する「善」としての科学者と、自己の名誉と利益のために奔走する「悪」としての科学者が入れ替わり、科学の発展というものを見る目が大きく変わりそうな印象を受けた。
チームスタッフは使用人。
自己の目的を達成するためには使用人個人がトライしたい研究活動など従事させない。
独裁者。
紳士の仮面。
などなど。

どこの世界にも競争は存在する。
科学の世界とて同じもの。
むしろノーベル賞を狙う世界的な科学者ほどその闘争心はむき出しで卑しいものなのかも知れない。

~「ノーベル賞の決闘」ニコラス・ウェイド著 丸山工作、林泉訳 岩波書店~


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講談師の田辺一鶴が亡くなった。

最初、新聞でその記事を読んだ時、
「はて?、講談師の田辺一鶴っていったい誰?」
と思った。
落語が大好きな私なのだが、同じ一人芸の講談は馴染薄。
講談師の名前を聞いただけでは誰か誰だか分からなかった。

昨日、法事で親戚の家を訪れた。
親戚のオジサンオバサン、従兄弟連中と話をするのがいささか億劫だったので新聞を読んでいると、件の講談師田辺一鶴の写真が載っていた。
特徴あるヒゲ。
メガネ。
細い目。

「おおおお!あの元祖どっきりカメラのオッサンやんけ!」

ということで、田辺一鶴があの伝説のバラエティ番組「元祖!どっきりカメラ」の名作エピソードの被害者その人であることを知ったのであった。

私は子供の頃「元祖!どっきりカメラ」が大好きな嫌なガキなのであった。
あまり細かなことは覚えていないのだが、田辺一鶴が騙された「ヤクザの前で講談をする」という作品が最も印象に残っているエピソードのひとつになっている。
ビクビクしながら講談をしていると、そこへ腹を刺されたヤクザが飛び込んでくる、というような内容だったと記憶している。
何がおかしいかといえば、その時の田辺一鶴の驚いた顔ほど面白い表情は、これ以前も、これ以降も見たことがないくらい傑作なのであった。

ちなみにもう一本面白かったのは変装した林屋三平が家族を騙しに行くというエピソードで、騙す行動に出る前に途中の道で落語家デビュー前のまだ子供だった林家正蔵に、
「あ、おとうさん。どこ行くの?」
と訊ねられて、いきなりネタバレしたエピソードである。

ということで、図らずも田辺一鶴死去のニュースで面白いテレビ番組を思い出した。
もう一度、講談ではなく、どっきりカメラでびっくりしている田辺講談師の表情を見てみたいと思ったのであった。

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現在の日本の学校教育では日露戦争はあまり取り上げられないのだという。
というのも、
「日露戦争は日本の侵略戦争の始まりで、これがアジア侵略につながりやがては破滅を招いた」
から、というのが理由らしい。

世界の人々(ご近所の困った2~3カ国は除く)の認識とは随分と異なる見解ではある。

あのNHKが司馬遼太郎の「坂の上の雲」をドラマ化するといことを初めて耳にした時、私は「まさか」と思った。
青いものでも赤に染めてしまいそうな放送局なので、日露戦争を扱ったドラマは絶対に無理だと思ったのだ。
司馬遼太郎の原作小説は日露戦争を称賛はしていない。
しかし世界史上における生まれたての国「日本」を若さの漲った生き生きとした姿に描いている。
従軍慰安婦の大好きな人や、保守派政治家へのインタビューねじ曲げ大好きの人が一杯のNHKにはあり得ないドラマだと思ったのだ。
それともドラマだけに偏向脚色は簡単なのかも知れない、とも思った。

ところがどっこい、放送開始以来、現在のところ小説のダイジェスト版みたな印象は拭えないものの、内容は偏向されもせずちゃんとした物語になっているので大いに感動しているところだ。
しかもエネルギッシュで近ごろ珍しい良質のドラマだと思う。
少なくともドラマが面白いと感じたのは「ハゲタカ」以来だ。

役者も良い。

主人公を演じる本木雅弘や阿部寛、香川照之などはもちろんのこと、菅野美穂や伊東四郎、高橋英樹などの脇役も輝いている。
いや、このドラマは司馬遼太郎作品だから、すべての登場人物が主人公かもわからない。
もともとNHKは美術にお金をかける放送局だが、見ているだけでこのドラマの美術向け製作費が尋常ではないことがわかる。
ともかくディテールを再現し、あえて「凄い」と言わせない自然さが「小憎らしい」のだ。

自分が愛読している小説やテレビシリーズが映画化されると、とかく文句を付けたくなるのが私の悪い癖だが、今回のドラマはそういう部分がいまのところ少ない。
大河ドラマでは幕末維新を扱うと視聴率が良くないらしいのだが(来年の大河ドラマは主人公がどうみても竜馬に見えそうにない役者が演じているのでセオリー通りコケると思われる)この「坂の上の雲」は別格かも分からない、

ただ難点は、最終回を見るのは2年後。
3年越しのドラマになるということで、その間にホントに出演者が死んでしまったりしないかどうかいささか心配だ。
が、それだけ製作に力が入ったドラマは近年ないだけに、これからも大いに期待したいところだ。

なお、私はちゃんとNHKの受信料を支払っている。(ケーブルテレビの団体割引で)


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「すべて私が悪いのじゃ」の「じゃ」。
「我らが秘密じゃ」の「我ら」。
「そんなことをしてはならぬ」の「ならぬ」。
「ウソはございませぬ」の「ませぬ」。

よくよく考えてみると、時代劇に出てくるセリフの中には不思議な言葉が沢山溢れている。

例えば、最初の「じゃ」。
この「じゃ」は「のです」の時代劇形なのであるが、男であろうと女であろうと使用することができる真に持って万能な言葉なのだ。
しかも江戸城が舞台でも、地方の、例えば熊本城が舞台でも「じゃ」は共通しており、地方性も超越しているという特長がある。
現代の東京や大阪において、誰が「なんとかじゃ」と言うであろう。

現在の日本において「じゃ」を言葉の最後に持ってくるのは岡山県ぐらいであろう。
「そんなこと、ワシにはわからんのじゃ」

大阪生まれの私は父の故郷である岡山を訪れるたびに外国のように感じたのを昨日のことのように覚えている。
ところが外国のように感じた岡山弁の「じゃ」も時代劇の「じゃ」になると不自然さを感じない。
不思議なことだ。

さらに深く考察してみると、時代劇では方言を使用することもほとんどない。
あの「水戸黄門」でも地方の言葉として登場するのは関西弁ぐらいで、それもヤクザか商売人に限られる。
黄門様が九州へ行こうが仙台に行こうが、だいたいは時代劇風共通語が話されており、時代考証も文化考証もメチャクチャになっているのだ。

お侍はまだいい。

参勤交代で江戸詰の経験があるだろうから共通語を話しても不思議ではない。
実際に幕末から明治にかけて活躍した桂小五郎こと木戸孝允は長州藩士でありながら江戸生まれの江戸育ちであったため山口弁は話せなかったのだということを聞いたことがある。

問題は百姓だ。

時代劇のお百姓は必ず語尾に「んだ」とか「だ」とか「だなや」などの言葉を付ける。
一人称は男も女も「オラ」。
例文として「オラ、お侍様も言うことはわかんねんだ」「んだ」「んだ」。
なんてのが書けるのだが、これもう農民をバカにしているとしか言いようがないように思えてならない。

大阪の農民を例にとると庄屋さんは船場言葉。小作人もその使えている庄屋さんの文化程度により言葉はかなり奇麗であったという。
いわゆるテレビなどで耳にする河内弁などは、かなり底辺の人たちが話す言葉であったらしい。
さらに付け加えると船場言葉は大阪訛りの共通語といっても不思議ではない。
テレビで良く聞く「だれだれはん」という「さん」に相当する言葉はテレビと舞台にしか存在せず、実際の船場島の内では「だれそれさん」とちゃんと「さん」付けて読んだという。(上方文化の本に書いてあった)

ということで、時代劇言葉。
ドラマと同様、その時代信憑性はまったくない、というのが真実のところか。

ちなみにあのNHK大河ドラマでも「じゃ」「のよ」「んだ」がはびこっているのだ。


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年をとるとどうしても涙もろくなっていけない。

数年前にNHKドラマ「大地の子」を視聴中にボロボロと涙が止らなくなった。
主人公の妹が中国の極貧の中で息を引き取るというシーンなのであったが、まったくもって「実話に基づいたドラマなんだ」と思うと、やり切れない気持ちになり、さらに涙が止らなくなり、不覚にもいい年こいて泣きじゃくりまで入ってしまったのであった。
家族が私を見て笑ったのは言うまでもないが、その家族も泣いていたので笑う権利は無いように思う。
これ以降、大地の子に限らず、ちょっとしたドラマを見ると涙が流れるという、ある種感受性の疾患にかかっているのではないかと思えるほど感極まることが増えてしまった。

まさか自分が「探偵ナイトスクープ」の西田局長のようになってしまうとは意外であった。

ピクサーアニメーションスタジオの新作「カールじいさんの空飛ぶ家」を見てきた。
不覚にも、冒頭の10分間を見ただけで、涙が流れ止らなくなってしまったのだ。

「ヒック、ヒック」と泣きじゃくりまでしそうになったので「これはヤバい」と思ったが、心の糸に触れてしまったものは仕方がない。
尤も、すぐに場面はピクサーらしい笑えるシーンに変わったので、なんとか泣きじゃくりはやり過ごしたが、今回の「カールじいさんの」にはさすがに参ってしまった。

ピクサーのアニメーションはもしかすると今一番アメリカ映画らしいアメリカ映画なのかも分からない。
毎回エンタテイメント精神に溢れていて、退屈するシーンがまったくない。
音楽もおしゃれだし画面構成もスリリングだ。
そしてなんといってもストーリーが面白い。
奇想天外でスピード感があり、後味も悪くない。
ただ前作の「ウォリー」から大人向けアニメーションの要素が濃くなり単なるハッピーではなくなっているところが、良い意味で重厚さを生み出している。

まさかコンピューターグラフィックスのアニメーションで人生の重さを感じる日が来るとは思わなかったが、「カールじいさんの」はまさにテクニックを超えた他のプロダクションを寄せ付ない魅力を持つに至り、ついにはディズニーアニメーションを飲み込んでしまった凄さがある。
今作は従来にも増して、そんな感想を強く抱く映画になっていたのだった。

なお、「カールじいさん」を「カールおじさん」と誤読していたあなた。
あなたは私か。
カルビーのカールの食べ過ぎには注意しよう。

~「カールじいさんの空飛ぶ家」2009年ディズニー&ピクサー作品 字幕板を観賞 原題:UP~

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「タイが好きでよく行くんですよ」
と言っていたら、知らないうちにスケベおやじに仕立てられたことがある。
変な病気を持っているんじゃないか、とか、少女趣味や変態趣味があるんじゃないか、といった類いのまことに勝手な噂をつくられたので、以後注意を払うようにしている。
まったくもって貧弱な発想だ。
確かに男だけのタイ旅行と言えば、そっち系の旅行が主流だった時代が存在した。
私よりも一回り上の人たち(団塊世代後期の人まで)にはそういうことが一般的で、「タイへ行って豪遊をした」なんてことをさも立派なように喧伝していたアホウなオッサンが存在していたことも確かである。

しかし時代は変わった。

タイ旅行といえば頭の中の古い人たちにはまだまだそういった印象を与えることも少なくないが、今やビーチリゾートや遺跡巡りの拠点として、地域の地位は各段に高まっている。
事実、バンコクに向かう飛行機に乗ると大勢の女性旅行者がお喋りや食事を興じてるし、学生グループが大半を占めていることもある。
さらに金さえ積めば入学できる欧米の大学ではなく、もともとしっかり学業に励んでいないと入学できないチュラロンコン大学へ留学していたり、社会学や宗教の研究をするために滞在している学者や研究者たちも少なくない。

このタイでの滞在スタイルのひとつに「僧侶になる」というのがある。

タイやミャンマーで信仰されている上座部仏教は日本の大乗仏教と異なり一時的に僧侶になるということが可能であり、また男子は生涯のうち1度は仏門に入ることが尊ばれる文化を持っている。
実は私もこの地域を旅するようになって最も関心が高いのが上座部仏教で、日本の仏教と違って地域の生活と密接に結びついたこの仏教文化を最近では羨ましいとまで思うようになっていた。
それにはタイではなくミャンマーでの体験が大きく影響しているが、ともかく、もしこのまま安穏としたサラリーマン生活が続くようであれば一度僧になって修業をしてみるのも良いかも知れない、と今になれば安直な考えも持ちはじめていたのだった。

青木保著「タイの僧院にて」は1970年代、まだまだ現在のような日本人の訪泰スタイルが一般的ではなかった時代に、タイで留学中に仏門に入った社会人類学者の体験記だ。
随分と古い本で、わたしはこの文庫を古本市で見つけたので現在も普通に販売されているかどうか分からない。
しかし、この時代にタイの文化を僧侶の世界という内部に入り込みしっかりと研究しようとしていた人がいたことにわたしは驚きを感じた。

冒頭、僧侶となった著者が托鉢に出かけるシーンからこの体験記は始まっている。
その記述から連想するものは、
裸足で歩くバンコクの街。
割れたコンクリートの路面。
側道を汚しているゴミ。
そしてスコールの跡が残る泥道。
などなど。
バンコクの朝。その生の吐息を感じるのだ。

半年間に渡る著者の僧侶としての生活には驚きと困惑と、そして大きな感動。
日本人が僧侶になるということがいかに大変で、またその激しい体験から売るものがいかに素晴らしいことなのか。
本書は読んでいてある意味羨ましく、ある意味、わたしには出来ない、と思う物語でもある。
出会えて良かったと思える古書なのであった。

~「タイの僧院にて」青木保著 中公文庫~

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