<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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久しぶりにジャンボフェリーを利用した。
恒例となった年に一度の家族での四国旅行に出かけたのだ。
しかも日帰り。
しかも夜中出発の夜帰り。
賞味24時間の旅。

我が家は時々、
「四国にうどんを食べにいこう!」
という安直な理由を掲げて四国へ旅行をする。
前回は高知の仁淀川を見に行こう、高知県須崎市の鍋焼きラーメンを食べに行こう、と言いながら出発の理由は「うどんを食べに行こう」なのであった。
そのまた前回は愛媛の松山にお城の桜を見に行こう、内子の町並みを見に行こう、と言いながらやはり出発の理由は「うどんを食べに行こう」なのであった。
で、旅の出発のパターンは決まっていて深夜神戸発うどん県行きのジャンボフェリーを利用するのだ。
このジャンボフェリー。
行き先を「香川県」でも「高松港」でもなく「うどん県」としているところがなかなか優れている。
私のように大阪から四国への旅を「うどん旅行」と称している者にはとっても行きやすいダイヤの心配りなのだ。

日付も変わろうとしている午後11:45。
大阪南部から阪神高速道路湾岸線をぶっとばしてきた私たちは神戸港高松行突堤に到着。
現場はすでに0:45発のジャンボフェリーに乗るトラックや乗用車が乗船を待っていた。
すでに高松からのフェリーは到着している。
大きな船体が突堤の暗がりにぼわ~~んと浮かんでいた。
「どちらまで行きます?」
「高松まで」
赤く光る警備棒を持った誘導員は「高松行き」と書かれた黄色い紙を私に手渡した。
ホームページでは「うどん県行き」と書いているのだから、ここでも「高松行き」ではなく「うどん県行き」という表示にして欲しかったのだが、印刷の都合かどうか知らないが洒落っ気の乏しい表示なのであった。
そもそも行き先を訊かれるのは、この航路が半分の便が小豆島に立ち寄るからだ。
小豆島は瀬戸内に浮かぶ淡路島に次ぐ大きな島で映画「二十四の瞳」の舞台になったところだ。
私の乗る便は神戸を出発すると高松もとい「うどん県」までノンストップだが、そのまま乗船していて折り返し便で小豆島へ向かう方法があるらしく行き先を訊かれたというわけだ。

指示に従って乗船順番待ちのレーンに駐車した。
ここでフトいつもと雰囲気が違うことに気がついた。
何かが違う。
景色が違う。
よくよく見るとターミナルビルが新築されていていたのだった。
以前は失礼とは思いつつ悲惨なくらいボロっちい建物なのであった。
外壁は灰色に変色し、そこらここらにシミがある。
初めて訪れた時の薄汚れた経済制裁の下のミャンマー・ヤンゴン国際空港の旧ターミナルビルのほうがもっとマシ、というような建物であった。
中も凄く「昭和40年代」みたいな雰囲気が漂い、その中に券売場や売店、トイレがあった。
トイレについては船の中のほうが格段に綺麗なので我慢することもままあったのだが、それが新築で一新されているようなのだ。

乗船チケットを買うために建物の中に入る。
明るい。
行き先表示も液晶画面だ。
職員の皆さんもお客さんも皆こころなしか明るくなっているような気がした。
待合室は2階で、ここも関西空港の旧ピーチエアターミナルみたいな感じで美しい。
しかし深夜に乗り込む客は私たち同様、強行軍的お客が多いと見えてなんとなく雑然としているのであった。

ターミナルビルの入り口にはイーゼルにポスター。
「神戸開港150周年」
そうか、神戸は150年を迎えたのか。
もしかするとそれを記念する新築ターミナルビルなのではないかと思った。

近年、どのフェリー会社も経営は楽ではない。
大阪は明石海峡大橋ができてから大阪湾フェリーが廃業し、随分頑張っていた明石海峡を渡るタコフェリーも先年廃業した。
ジャンボフェリーはそういう意味では貴重な存在だ。
運賃も安い。
高速道路料金ほどで四国に渡れるのでガソリン代が浮くし、運転しなくて済むので楽だし、行楽シーズンで最も渋滞の懸念される明石海峡大橋から神戸市内を通らなくて済む。
最近は深夜便を多用するが寝ることができるし、昼間の便であれば瀬戸内の絶景が楽しめるのはいうことがない。
元々波静かなる瀬戸内海を走る大型船なのであまり揺れない。

新しいターミナルも完成し、益々私たちの旅の足として活躍して欲しいジャンボフェリーなのであった。

なお、うどん県には5:00に到着した。
うどんを食べようと思ったのだが、早すぎてどの店も開いておらず、
「んじゃまずは金毘羅さんでも行くか」
と言って琴平についても未だ早く、結局あの長大な階段を昇り降りして参拝を済ませてからの「うどん」になってしまった。
高松市内で朝5:00に開いているうどん屋さんを調査する必要がありそうだ。





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北海道新幹線が開通した。
これで函館から鹿児島まで最低2回の乗り換えは必要だが新幹線で行くことができるようになった。
所要時間はだいたい13時間。
飛行機の嫌いな人でも陸路で日本の北から南まで夏なら陽射しのあるうちに鉄道で移動できる時代がやってきたというわけだ。

新幹線開通のニュースを聞くたびに思い出すのが悲しい思い出。
それは山陽新幹線が新大阪から岡山まで開通したときのこと。
この時私は小学生だったが、新幹線が開通することで山陽本線の急行「鷲羽」が無くなってしまうことが途方も無く悲しく、正直言って超特急ひかり号が岡山まで行くことに喜びもへったくれもなかったのであった。

鷲羽号に乗る途中の楽しみ「姫路駅のえきそば」も新幹線になったら楽しめない。
ニュースで報じられていたので小学生の私でもよく知っていたのが「山陽新幹線」はほとんど「地下鉄新幹線」であること。
当時世界最長に近い六甲トンネルをはじめ東海道新幹線の曲がりくねった路線を反省して出来る限り直線にしたためトンネルだらけとなってしまった。
結果、景色がほとんど拝めない地下鉄のような新幹線になってしまったのであった。
私は物心が付く前から鷲羽号に乗ってきており、姫路のえきそばの次に楽しみなのが車窓の景色。
舞子付近を走る海辺の風景。
播但地区の緑広がる美しい風景。
などなど。
それが新幹線になるとほとんど見えなくなってしまうのだ。
とりわけ全線内陸部を走るため海を見ることが全くなくなるのが極めて悲しかった。

親は新大阪から岡山ま最速1時間でいけるようになることを感無量で喜んでいたが、私は2時間、3時間の列車の旅が無くなることをメチャクチャ悲しんでいたのであった。

新大阪から岡山までの所要時間も更に短縮され今や45分ほどになってしまったが大人になった現在もたまに仕事で広島や岡山に行く時を除いて新幹線はちっとも嬉しくなく、それよりも、
「新快速を岡山まで延長してくれんかな。東は福井の敦賀まで走ってるんやから。」
と在来線の快速電車の延伸と本数の増加を望んでいる。

本数の増加といえば新幹線が走っている地域は在来線の本数よりも新幹線の本数の方が多いところも少なくない。
新幹線が10~15分おきに走っているのに在来線が30分おきなどということは珍しくないのだ。
これって誰もヘンだと思わないのだろうか。
新幹線が地域のために建設されるというのであれば、私は在来線の本数を増やしてスピードアップするほうがどれだけ地域の役に立つだろうかと考えてしまう。
岡山駅では新幹線はデイタイムに1時間に上り下り併せて16~20本走っているのに、在来線の山陽線は4~6本。
乗りたい電車をギリギリで見送ってしまったら次の電車が来るまで30分も待たなければならない時があるのだ。

これが北海道新幹線の開通した新青森駅なら新幹線が1時間あたり上下合わせて2~4本、在来線が2~6本。
こういう地域に果たして新幹線を走らせることに何かメリットがあるのか大いに疑問である。
新幹線を走らせる予算で在来線を強化して地域の利便性を高める方が良いんじゃないかと思うのである。
そもそも鉄道は雪にも強いし、弱い地盤の地域でも安定して走行できる技術的メリットがある。
それにエコだ。
高齢者にもやさしい。
ビジネスマンや学生にも優しくバスのような運行時間にあやふやなところもない。

新幹線というのは多くの場合、東京と地方を結びつける手段であって、東京と繋がることにメリットのあるインフラだ。
だから東京一極集中で地方に自立性や自主性がなく、他力本願が強い場合は役に立つのかもしれない。
が、時代は地方に流れようとしている。
そして流そうとしている。
こういう時に1時間に1本しか走らない新幹線を作るよりも1時間に数本の在来線を走らせて近隣の小さな町でネットワークを形成するほうがよっぽど利益があるんじゃないか。
また北海道のように東京からも大阪からも離れたところは新幹線を整備するよりもカシオペアやトワイライトエキスプレスのような本格的長距離列車を走らせるほうが地方の時代の魅力を引き出すのに役に立つし、今の日本人が理想とする生き方に近いようにも思える。
正直言って東京や大阪へ行くのなら次の新幹線を1時間待っている間に空港へ行って飛行機に乗るほうが圧倒的に合理的で安くて早い。
天気が良ければ景色もいい。
なにしろトンネルがない。
ほとんどすべてが絶景だ。
新幹線が次の駅につく頃には東京や大阪に着いていて仕事を始めることができるのだ。

昨日の目出度いニュースを聞いて、オメデタイと思ってしまった私は子供の時に感じた山陽新幹線の「悲しい思い出」を北海道新幹線で「もっと悲しく」感じてしまったのであった。

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米テレビシリーズ「スピンシティ」はアメリカらしい秀逸なコメディドラマだった。
ニューヨーク市長と彼を取り巻くスタッフや市議会員、市民らが織りなす社会風刺ドラマ。
それもかなりセンスのいい上質の番組なのであった。

CSのスーパーチャンネルで放送されていたこの番組では「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や一連の映画作品とは違ったマイケル・J・フォックスを見ることになった。
彼の役どころはニューヨーク市長補佐。
市長を立てながらどのように市政をこなしていくかという、知的で行動力を要する仕事だ。
そもそもこういう「政治の舞台」をコメディにする能力に関しては日本人にはまったくといっていいほど備わっておらず、同様の番組を日本では見ることはない。
練られたアイデアがトントン拍子で進む筋書き。
個性豊かな各キャラクター。
時代を取り入れたセンスの良さ。
あっと驚くようなゲスト出演者が登場。
スピンシティは放送から20年近く経過したいま見ても楽しめる古くならないコメディだ。

そもそもどうしてこういうアイデアが生まれたのか。
大いに関心があった。
ツインタワーが遠目に臨める風景カットが時々出てくる番組は9.11で世界が変わってしまう以前の平和でノホホンなニューヨークであるというところも安心して見ることのできる要素だ。
当時の実際の市長はジュリアーニ氏だったわけだが、番組内に登場するランドール市長はそのフィクションさに違和感を抱かせない風格とおかしさを併せ持っていた。
そして市長を支える「背は低いがエリート敏腕補佐官」がマイケルなのであった。

先日読んだ「ラッキーマン」でこの番組の素となったのがマイケル・ダグラス主演、ロブ・ライナー監督の「アメリカン・プレジデント」であったことを知った時、少なからず驚いたのであった。
なぜなら、あの映画にマイケル・J・フォックスが脇役で出ていたことを完璧に忘れていたからなのであった。
彼の役どころは大統領補佐官。
マイケル・ダグラス演じる大統領は画面に頻繁に登場するが、マイケル演じる補佐官はそんなに画面に出てこなかったように記憶する。
今になって、
「お、あれマイケル・J・フォックスちゃうんか」
と彼が脇役をやっていることに少なからず驚いたことを思い出したのであった。

その裏側では、彼は映画での役割に限界を感じていたということがある。
主演する映画はことごとく失敗。
その証拠に、外国の我々には彼の記憶は薄れて、主演作の題名なんか言える人は殆どいない・
そんな時に「君には不十分な仕事かも知れないが」とオファーされた脇役を甘んじて受け入れた。
これはなかなか出来ないことだ。
ところがその裏側では、彼はこれをヒントにテレビへの復帰を模索した。
そしてマイケル・フラハティというNY市長補佐官の役どころで復活したのであった。
しかも彼は「スピンシティ」に製作者という立場で番組に参加。
制作会社も「バック・トゥ・ザ・フューチャー」以来付き合いのあるスピルバーグおドリームワークスなのであった。
病気療養に専念することを理由にチャーリー・シーンに主役を譲り番組を降板してからも製作に関与して活躍を続ける姿には感銘さえ受けるものがある。

先年「マイケル・J・フォックス ショー」というテレビシリーズで役者としても復活した。
パーキンソン病の治療目的で引退していたニュースキャスターが復活して活躍。
というコンセプトで、コメディのテンポも相変わらずの快調さだった。
ただ、今度はパーキンソン病の病状を隠さずに出演していたことが多少共影響があったのか、面白いけど「大変だね」と思ってしまうことも少なくなく、ひとつのシーズンで終了してしまった。

いずれにせよ、テレビの俳優から映画に進出し、そしてテレビに復帰した人気俳優は色んな意味で人びとに勇気と笑いを送り続ける。
映画と違って好きな時間に居間のテレビの前に座ってみるマイケル・J・フォックスアワーは近年少なくなったアメリカの良質なコメディを楽しめる貴重な時間なのである。




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発売されてからずっと気になっていたマイケル・J・フォックス著「ラッキーマン」を新古書で購入した。
いつか買おうと思っているうちに単行本が無くなり、文庫本になって、その文庫本も廃版になって中古市場でしか残っていなかったのだ。
ということは、書店で初めて見つけてから買うまで何年もかかってしまったということになる。

なかなか買わなかった理由は単純だ。
俳優や芸術家のバイオグラフィは興味があってもなかなか読まないからだ。
というのも、こういう人たちのバイオグラフィはどこかに必ずゴーストライターがいて、かれらが創作を織り交ぜながら書いているに違いない。
そう私は思っているところがある。
「ラッキーマン」はそういう意味ではちゃんとした自伝であり、人気作家の義兄の手助けを借りながらでもマイケル自身が自分で書いたものなのであった。

なぜマイケル・J・フォックスの自伝なんか読む気になったのか。
多くの日本の映画ファンにとって、もしかするとマイケル・J・フォックスは過去の人なのかも知れない。
というのも映画にはもう出ていないからだ。
いつの間にかスクリーンから姿を消し、日本の映画ファンは彼の姿を目にすることが無くなっていた。

これには2つの原因がある。
ひとつ、彼はテレビの世界に復帰していて映画には出演していないこと。
もう一つは彼がパーキンソン病に罹患しておりその治療とパーキンソン病への理解を深めてもらうための社会事業を行っているからである。

私がこの本を読もうと思っていたのは、映画ではなくて彼が主役と製作を兼ねていたテレビシリーズ「スピンシティ」が大のお気に入りであったことと、その「スピンシティ」を降板したのがパーキンソン病の治療に専念するからであったことの2つがある。
だからこそ「ラッキーマン」に興味を持ち続けていたのだ。

「ラッキーマン」はこの2つ至るまでの人生が綴られている。
高校を中退。
カナダからアメリカに単身渡航して食うや食わずの売れない時代。
テレビシリーズのオーディション。
バック・トゥ・ザ・フューチャーでトップスターに。
結婚と育児。
ヒットしなくなった主演作での苦悩。
そして絶頂期に診断されたパーキンソン病。

本書の優れたところは悲観的なところが全くと言ってないことだ。
時に笑い。
時に涙あり。
全編に流れる軽快な文章(もちろん日本語訳で読みましたが)はマイケルという俳優の思慮深さを感させた。
人気スターには珍しい実は普通のとてもいい人なのだと思わせるものがあったのだ。
考えてみれば人気スターは家庭の扱いもぞんざいで結婚離婚を繰り返す人も少なくない。
スキャンダルにまみれて、いつの間にかスクリーンやテレビから姿を消す。
しかしマイケル・J・フォックスという人は初めて獲得した人気番組「ファミリータイズ」で共演した相手役の女優と結婚して、以後今日まで本書を読む限り普通のあたたかい家庭を築いている。
だからこそ今のところ未だ不治の病であるパーキンソン病と戦うことができるているのだろう。

「ラッキーマン」はそういう意味で彼の人間としての側面と、彼の関わった様々な映画やドラマの成り立ちや裏側を窺い知れる、実に読み応えのある作品なのであった。


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今年は映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」公開から30年。
PART2では未来へ行くというストーリーが30年後の未来ということで、今年が1985年から30年の2015年。
それを記念していくつかのテレビの特別番組や雑誌の特集特集も組まれているようだ。

「映画の中で登場した未来のハイテクはどれほど実現できたのか」

と言った具合に。

空中に浮かぶスケートボード。
空飛ぶ自動車。
マルチビジョン型家庭用通信設備。
インターネット。
ロボット店員。

実現できているものもあるし、できていないものもある。
インターネットなんかは映画公開が終了して数年後に一般化。
今では映画で登場したよりスマートな運用がなされているように思えるのだ。

同じようなことが21世紀になったときに鉄腕アトムでも騒がれた。
その時も同じだったが、たかだか30年の時間の推移ではあまり大きな動きは実現出来ていないのも、また夢の無い現実でもある。

映画か公開された1985年は大きな出来事があった。
まず、私は大学を卒業した。
就職も決めずに卒業したものだから家族の顰蹙を買った。
暫くバイト勤めで頑張ったが当時も今もフリーターという自遊人は非難の対称となるのでずいぶんと嫌な思いもした。
かといって、このフリーター時代がないと今の企画マンとしての地位もないだろうから若いうちはアホをするのも重要なものなのかもしれないと思った。

そして8月12日には日航ジャンボ機が御巣鷹山へ墜落した。
前日の11日に大阪で大きなイベントを企画して開催していたので、
「まさか、東京からきた人に事故に巻き込まれた人はいないか」
と一瞬心配したが、考えてみれば逆方向なので事なきを得たが世間は暫くこの参事から目をそらすことができなかった。

御巣鷹山の事故の悲劇がまだまだ冷めやらぬ時。
我が阪神タイガースが21年ぶりの優勝をした。
甲子園だけではなく大阪じゅう、いや全国を熱狂の渦に巻き込んでついには西武ライオンズを倒して日本一に輝いた。
日航機事故で亡くなった球団社長への追悼という意味でも大きく報道されたのであった。
なお、この時に活躍したランディ・バース選手にみたてられたKFC道頓堀店のカーネルサンダースの人形が道頓堀川に胴上げの後投げ込まれ行方不明になる事件が発生。
長らく「カーネルサンダースの呪い」として優勝から遠ざかっていたタイガースは18年後に優勝。
その数年後。
橋下徹市長指揮のもと改修工事をされていた道頓堀川の川底から汚れたカーネルサンダースが発見された時は関西の新聞では大きく取り上げられたものであった。

1985年というのはそういう年であり、かつ、テレビドラマ「ファミリータイズ」を見たことのなかった私にとってはマイケル・J・フォックスを初めて見る機会になった年なのであった。

つづく


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