<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



先週の日曜日、やっとのことでまともな休暇が取れたのでカミさんを伴って兵庫県立美術館で開催中の「建築家ガウディ×漫画家井上雄彦」展へ出掛けてきた。
最近の漫画を全く読まない私は、というか漫画は未だに手塚治虫といしいひさいち、高橋留美子、浦沢直樹しか読まない私は井上雄彦という人がどういう人なのかちっとも知らないのだが、ガウディは一度は見てみたいサクラダファミリアの設計者として大いに興味を持っていた建築家なのであった。

私の住む大阪南部から神戸の兵庫県立美術館までは電車で行くと2時間近くかかってしまうが、阪神高速湾岸線を自動車で走るとわずか45分。
神戸はホントに近いといつもながらに感動して美術館に到着。
開催されている展覧会がどれもこれも地味だからかどうかしらないが、美術館の駐車場はガラガラであった。
めでたしめでたし。

駐車場はガラガラであったのだけれども、展覧会そのものは結構混み合っていてガウディおよび漫画家井上雄彦の人気を裏付けていたのであった。

私はまだヨーロッパに足を運んだことがない。従ってガウディの作品の実物を見たことが全くない。
カミさんはフランスの大学を卒業していることもあってイタリアやイギリスにも足を運んだことがあるのだが、さすがにスペインは行ったことがないらしく興味深く各種展示に見入っているのであった。
ちなみに私はヨーロッパには行ったことがないもののミャンマーには何度も足を運んだことがあり、かなり詳しい。
それがどうしたと言われればそれまでだが。

ガウディといっても彼についてそんなに調べたことも伝記を読んだこともなかった。
いい加減なガウディファンなのであるが今回その人生を井上雄彦の描いた漫画とともに色々と知ることができた。

ガウディは子供の頃にリューマチにかかり、決して健康はつらつとした子供ではなかった。
しかし学生時代にしっかり勉強する友人たちに恵まれ、彼もまた自分の人生にしっかりと目標を持ち建築家として世に出た時すでに稀代な才能は輝いていたのであった。
最初にデザインしたのは建築物ではなく陳列棚。
しかし、その陳列棚の設計を認めたパトロンにより、後に世界遺産となる数々の建築物の設計への道を歩み始める。

まったくもって友は選ばねばならないというのはこういうことであろう。
ロクデモナイ友達を選ぶと川崎や千葉の事件のようになってしまう。
恐ろしいことなのである。

展示会ではガウディ自筆の設計図やプラン図、建物のレプリカや模型が展示されており大感動なのであった。
とりわけカサミラの模型は圧巻で、私は初めてこの建物の部屋の間仕切りまでが、曲線を持った有機的形状であることを知った。
「地震は大丈夫なんやろか」
と思ったのは私だけではなかった。
カミさんもそう思っていたのであった。
カミさんは阪神大震災の時はフランスに住んでいたので大地震の経験はないのだが、カミさんの両親は当時芦屋市に住んでいて、震災をもろに食らって大変な目に遭っていた。
私も当時は堺市内に住んでいたのだが、棚が壊れる、近所の店舗の窓が割れる、ガスは止まる、電車も止まるで大変なのであった。
もちろん壊滅状態の神戸市も支援のために何度か足を運んだのだが、耐震設計されているはずの建物がものの見事に土台ごと傾いていたり、自動車のショールームがぺしゃんこになっているのを見て地震の恐ろしさを知ったものであった。

ガウディの複雑怪奇な建築を見るにつけ日本人の性でどうして耐震性を心配してしまうのだが、その心配を遥かに超越する「凄み」がカサミラにはあったのであった。

建築が進むサクラダファミリアもあと2030年代には完成するこということだが、ここでは今最新鋭の設計システムや3Dプリンタが駆使されていることも知り、ガウディイコール手作りというイメージがあったものの、やはりそこは建築物。
時代に見合ったハイテクを駆使しているのであった。

今回、そのガウディの最期も知ることになった。
生涯独身であったガウディは最後はサクラダファミリアの建築現場で生活するようになった。
服装もみすぼらしく、著名な建築家であるとはとても見えなかったようだ。
ある日、大通りを横切ろうとした時に足を路面電車のレールに取られ、電車に轢かれてなくなったのだと言う。
服装を見た病院が浮浪者と思ったのか、治療が後手後手になり悲しい最期になってしまったという。

素晴らしい作品を生み出すことに生涯を捧げたが、家族もおらず世捨て人のような生活を強いられてしまった運命は実に残酷だと思った展示会であった。

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先週14日は大阪から日帰りで仙台出張。
朝7:25発仙台行きで出発して、夜10:40関空着のLCCピーチエアで帰って来た。
早朝から深夜までくたくたの出張なのであった。

天気は最悪に近い悪ぐらい。
仙台空港を離陸してから関空へ到着するまでの間、ほとんど揺れ続けで久々に「おお!」となる飛行なのであった。
なかでも着陸の30分前ぐらいが最も大きな揺れでちょっとしたジェットコースター状態になった。
ピーチエアのパイロットはLCCにも関わらず日本人が多く、この日も○○さんという日本人機長なのであった。
ピーチエアの設立と日本航空の倒産が重なったためなのか、噂によるとかなりのパイロットがJAL出身なのだという。
JAL出身のパイロットがANA系列のピーチに再就職。
これも空の神様がとりもつ縁なのであろう。
もともとANAファンの私もJALのパイロットは操縦に優れた人が多いんではないかというのが私の今の印象だ。
あの悪名高い123便事故でも、結局はアンコントロールに陥りながら一時間近く飛行を続け御巣鷹山への不時着を試みて4名だけとはいえ彼女たちの命を救ったのだった。

で、関空へ到着し、飛行機を降りて肌寒いエプロンを歩いてターミナルビルに入りスマホを見ると、広島空港でアシアナ航空が着陸に失敗したニュースが速報されていた。
「またかいな」
強い風で揺れたフライトが一瞬頭をよぎったが、二年前にあのB777でサンフランシスコに着陸を失敗した同エアランの事故を思い出したのであった。

事故を起こしたのはアシアナ航空のA320。
A320といえばB777と並ぶ「事故を起こさない飛行機トップ2」の飛行機だ。
B777はアシアナの起こしたサンフランシスコの事故まで20数年、死亡者がでる人身事故はゼロの旅客機。
あの事故を知った瞬間ボーイング社のスタッフは「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!信じられない!」と叫んだのだという。
無事故旅客機を設計したスタッフからしては自分たちの誇りをぶち壊されたような気がしたのであろう。
韓国人を信じたアメリカ人が悪い。
その後、B777はマレーシア航空の2機が意味不明の方向転換の後に行方不明、撃墜の悲劇に見舞われたが、その他の事故は未だに無く安心感いっぱいだ。
A320は先月ジャーマンエアの副操縦士による巻き込み自殺や2、3例を除くと全く安全な飛行機で、今回の下手くそな着陸による事故でも死者は出さないという優秀な設計なのだ。

なぜこうにもアシアナ航空は事故ばかり繰り返すのか。

その昔。
私が子供の頃、つまり40年以上も前。
「日本のエアラインは操縦士が軍人出身じゃないから下手くそなんだって。その点、海外のエアラインはあの大韓航空でも軍人出身だから日本より上手なんだそうだ」
というような噂がまことしやかにささやかれていた。
これも一種の反日教育だったのだろう。
大人になってわかったのだが、40年前といえば未だゼロ戦や隼のパイロットの生き残りが日本のエアラインの機長を務めている時代で、圧倒的に日本のエアラインの安全性は高かったのだ。
今もそれは変わらない。
ANAやJALのパイロットには航空自衛隊出身の人も少なくなく、その世界をリードする技量で私たちを東西南北運んでくれているのだ。

アシアナがこうもひっきりなしに事故を起こすのは飛行機に問題があるのではなく、韓国人そのものの性格にも原因があるのではないかと思ってしまう今日この頃なのであった。


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成田空港にLCC専用ターミナルが誕生した。
第3ターミナル。
二十数年ぶりの成田に新しいターミナルの誕生だ。

とは言え、私にはほとんど関係のない空港の話なので全くの他人ごとなのだが、新聞報道などによると新しいターミナルは鉄道駅から歩いて700メートルの場所にあるのだという。
バスは無いんかい、ここは。
という感じだ。
私が読んだ新聞報道によると老人やハンディキャップを抱えた人用にバスを走らせているのだが、文章から見ると一般の人は重い荷物を引き釣りながら700メートルも歩くのだという。
ホンマかいなとばかりに実地にチェックに行かなければならないだろう。

正直私は生涯で成田空港は3度しか利用したことがない。
最初は開港翌年にアメリカに行く初めての海外旅行で利用した。
朝、伊丹から空路で到着し、乗るはずのパンナムの飛行機が、
「9時間遅れです」
ということで、成田空港内に12時間もぼーっと待っていた。
なんとも恐ろしく退屈な体験なのであった。
二回目は数年前にシカゴに行った時。
私は関空からサンフランシスコ経由かシカゴへの直行便(当時は飛んでいた)で行きたかったのに、アホな会社のために成田経由になったのであった。
で三回目は千葉の協力工場へ朝早く行くのに、羽田経由や東京駅経由では移動距離が大変なので、ということで、国内線を伊丹から成田に飛んだ、それだけなのである。
成田空港に到着してJRに乗ろうと思うと本数の少なさに圧倒された。

「うううう、関空のほうがマシやないかい」

となったのであった。
当時の関空は閑古鳥が離発着するような空港であったものの、電車の本数は普通にあり、次の電車まで30分以上待たせることはまず無いのであった。

そのあまり親しみのない成田空港にLCCターミナル。
しかも意味なく24時間オープンしているそうだが、成田は深夜から朝までは離発着できない中途半端な空港のまま。
24時間開いているのは早朝便に乗るためや夜遅い便で帰ってきた人に滞在場所を提供するだけのことで、これもまた中途半端。
成田空港の存在意義を改めて考えさせる機会になったのであった。

で、LCCといえばうちの近所の関西空港も今第3ターミナルを建設中である。
今ある第2ターミナルのすぐ横に建設中なのだが、ここは完成後に国際線LCC専用ターミナルになるそうで、もちろん関空駅からは無料のバスに乗ることができる。
24時間オープンしているけれども、空港もちゃんと24時間飛行機は離発着をしていて、しかも電車はないが空港バスは関空から京都、大阪市内へと運行をしている。

3つめのターミナルを作るよりも、都心に近いところへ3つ目の空港を作るほうが首都圏はもとよりすべての人に便利になるんじゃないかと、そんなことを考えてしまったのであった。

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我が家では居間にテレビを置いていないこともあってラジオを聴きながら食事をすることになる。
合わせるダイヤルはNHK第一。
民放に合わせないのは、ともかくニュースを聴きたいからで、別にNHKに信頼を寄せているからではない。
NHKとて人間の組織であるわけだから、今話題になっているヤラセや人間関係による内容への配慮があっても不思議ではないと思っている。

ニュースと言えばNHKになってしまうのは、それだけ民放ラジオのニュース番組が少なく、頼りないということがあるだろう。
情報量が民放ラジオのニュース番組では少なすぎるのだ。
その証拠に通勤時間にはMBSラジオの「ありがとう浜村淳」を聴いているのだ。
この番組は40年も続いているお化けラジオ番組でパーソナリティの浜村淳もお化けかもしれないが、ともかくこの番組では政治経済芸能三面記事まで、様々な情報が「あの浜村節」で語られる、情報番組なのだから。

ともかくNHKに合わせ食事をとるにがだいたい午前6時20分頃。
ある時はトーストで、ある時はみそ汁をすすりながらラジオを聴いていると、6時30分から「ありがとう浜村淳」も比較にならないNHKラジオ体操が始まる。
朝ご飯を食べながらのラジオ体操はいささか強烈だが、食べ終わっていたりするとラジオ体操第一ぐらいはしないではない。
但し、

「とばんといてな、そこで(床が抜けるから、は省略される)」

とカミさん言われのが、いささかしゃくではある。

ラジオ体操の歌を聴きながらの朝ご飯はなかなか壮快だ。
最初は途中なにを言っているのかわかない歌詞ではあったが、藤山一朗作曲、藤浦洸作詞ということであれば歴史を感じさせるとともに、「日本の朝」という感じがなかなかよい。

で、このラジオ体操で最も気になるのが、時々登場する女性指導員の声なのであった。

「おはようございます!ラジオ体操の時間です。まずは肩の力を抜いて上下に揺らします。」

などという声が、まさしく黒柳徹子の若い頃の声なのであった。

「黒柳徹子ってラジオ体操やってたん?これって録音やろ」

と言ったのはカミさんであった。
昭和38年生まれの私に対して昭和46年生まれのカミさんは、黒柳徹子のそこそこ若い頃は知らないわけで、もしかするとラジオ体操してたん、と思っても仕方が無い。
しかしラジオ体操はNHKでは数少ない生放送番組のひとつであるはず。
だから黒柳徹子の録音ではないのだ。

それにしても黒柳徹子そのまんまのかけ声のラジオ体操は新鮮なのであった。
NHKのWEBページで調べると、この指導員の先生は岡本美香という人で、写真を見る限り黒柳徹子とは似ても似つかない女性なのであった。
しかも年齢は恐らく黒柳徹子の半分にも満たない人なのだ。

もうNHKのラジオ体操に登場して10年以上経過するようだが、採用の決めてはこの黒柳徹子そっくり声にあったのではないかと私は確信している。
なんといっても黒柳さんは元NHKの専属劇団生。
NHK好みだったのかもわからない。


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とっても失礼な言い方かも知れないが、
「どうでもいい人ほど長生きする」
というのは、もしかすると事実かもしれない。
とりわけ脳みそのおめでたい人は日頃ストレスもなんにもなく、好き勝手に暮らしているため病気にもならないし、血圧が上昇して「プチッ」と血管が切れることがない。

これに対して、知的で感性豊かで、それでいて精力的に動く人は長生きできない。
ここ数年、歌舞伎界でバタバタと病に倒れたベテラン人気役者の皆さんがそれに該当する。
また、ビジネス界でもスティーブ・ジョブスのような人もきっとそういう分類になるのだろう。

そういう意味で村山富市という人はおめでたい。
どういう神経をしていて、どういう脳みそをしているのかわかないが、この人が今91歳であることを考えると、きっとそういう人なんだろうと思ってしまうのは正常な日本人だろう。

例えば内閣総理大臣を務めていた時、神戸で大地震が発生した。
揺れは十数秒で収まったが、その破壊力は凄まじかった。
ビルは倒れ、崩れ、民家は倒壊。
電車は脱線し、高架部分はほとんど壊れた。
木造家屋からは火災が発生。
屋根の下敷きになった人は助けを求めたものの、生きながら焼け死んだ。
「助けて~、熱い~」
と叫び続けた老婆の話。
「俺のことを覚えてくれ。お前は逃げろ」
と言って土になった大学生。
そんな話は20年経った今も神戸や神戸に関係した人々からは耳にする。

その時、時の首相村山富市は総理官邸で居眠りをしていて、地震を知ったのはNHKの朝のニュースで。
日本中が神戸の震災で「えらいこっちゃ!」となっていたけど、総理官邸だけは平和だった。
伊丹に陸上自衛隊。
隊員の官舎も当然甚大な被害を受けたが、そこは後に東北はもちろん世界中で人命救助に活躍し頼りにされてる自衛隊。
自分の家は家族にまかせ、隊列をそろえて出動命令を待っていた。
それを止めたのが村山富市。

「憲法9条がある。自衛隊の出動は認めない」

この一言で6000人以上が亡くなった。

「病院船を神戸港に派遣する」と言ってきたのは、後にTOMODACHI作戦で活躍した米海軍。
これも、

「憲法9条があるのでお断りする」

と言ったのが村山富市。

その村山富市はきっと日本が大嫌いだから大勢を皆殺しにしたのだ。
嘘もつくし、国民に恥もかかせる。
「日本は侵略国家でした」
と談話を発表。
以後20年。
日本国は犯罪国家の濡れ衣晴らしに苦労をした。
今もしている。

その村山富市が中国の抗日記念式典に出かけるのだと言う。
もしかすると村山富市のケースは「病身者の長命」というあれかもしれない。
病はもちろんオツムの病。
ちなみに大手タイヤメーカー一族のあの人もきっと長生きするに違いない。





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