<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



今朝のニュースで、
「国がJR三社に橋梁補修工事の1/3を補助することになったと発表した」
と伝えていた。
なんでもここ数年頻発する豪雨災害などの対策を急ぐためということなんだそうだが、たぶんコロナの影響で経営にダメージを受けている大手鉄道会社を支えることも目的にしているのだろう。

2年前の台風で南海電車の橋梁が傾いて数日間電車が止まったことがあった。
鉄道の橋が傾いて、そこを無事に電車が通過したのは不幸中の幸いだったが、何に驚いたかというとその橋梁は建築されてから100年以上経過したお年を召した建築物だったからだ。
南海電鉄は国内で最も古い私鉄で創業約120年。
多くの鉄道施設が100年超えをしているようで、その耐久性が大いに心配されているところでもある。

考えてみれば建築物の耐久年数というか寿命はどのくらいなのだろう。
真剣に考えたことがあまりなかったので、ここは改めて思いを馳せてみる必要がありそうだ。

例えば木造建築。
世界的な建築物に奈良の法隆寺や唐招提寺があり、これらは築1000年を超え、今も現役だ。
火災で焼けさえしなければヒノキなどの良質な建築材料を用いると年輪と同じだけの年数を建物は耐えるとかで、以前耳にした話では法隆寺の金堂はあと1000年は大丈夫なのだという。

コンクリートや石積みの建築物としてすぐに思い浮かぶのはフランス・パリの街の情景。
パリ中心部の洒落た風景は開発が厳しく制限されていて19世紀の景観が今もしっかりと機能している。
地震が殆どないことも有利に働いているのかもしれないが、100年以上しっかりとその姿を保っているのだ。
ニューヨークの摩天楼も齢100年ものが少なくない。
あれだけの巨大建造物も100年単位でしっかりと大地に根づいているというのは素晴らしいテクノロジーと言えるだろう。

一方、身近なところで大きな問題となっているのが集合住宅。
これが古くなると耐震性、大雨性、その他諸々が課題となっていてじわじわと社会問題化しそうな様相だ。
例えば1970年前後に建築されたマンションは耐震基準が古いままで阪神大震災や東日本大震災の巨大地震に耐えることが難しい。
またその頃と現在とは電気や通信の使用レベルと品質が違うため設備の問題がある。
古い設備に新たな設備を追加することが難しく、大規模な工事をするくらいなら建て替えたほうがマシという物件も少なくないという。
建て替えるとなると住人の経済的負担がにわかに大きくなり紛争が発生する原因にもなる。

一戸建ての家にしても100年ものはあまり見たことがない。
私の生まれた大阪堺や京都、奈良には江戸時代に作られた町家が今も現役のところが少なくない。
今の建物と根本的に作りが違うのか、それとも単に運が良かったのかわからない。

それでも長生きしている建物に共通しているのは手入れが良くて使い続けられているということ。

橋梁しかり、役所の庁舎しかり、美術館博物館、企業の建物しかり。

手入れを怠れば多大な損害を生み出してしまう。
政府の修理補助は公共の財産として鉄道施設を解釈していることなのだろう。

なお、リニアなんか作っているJR東海に補助する必要はないと思うのだが、いかがか。


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中国が中国に進出している台湾企業に罰金を課した。

その額およそ1500億円。

罰金の理由は「台湾独立を支持するような発言をしたから」だとか。

 

ここんところ習近平皇帝による中国国内および諸外国に対する居丈高な態度が目にあまるようになってきた。世界が認める独裁体制の状態だ。

中国国内では反共的な発言はもとよりビジネスで成功を収めて知名度を上げただけで「追徴課税」の名目で財産没収がなさるだけならまだましで、留置場にしょっぴかれる、監禁されて行方不明になる、など他の国ではほぼありえないことが実際に発生している。

ビジネスマンが有名になり社会的地位を持つことを皇帝陛下は快く思っていないということなのだ。

その犠牲者がついに一人や二人ではなくなってきている。

そこが恐ろしいところだ。

最近では、

「文化革命時の雰囲気が漂っている」

とさえ言われるくらい帝国政府(=共産党)による締め付けが強まっている。

 

先週、台湾人の何人かが日本の裁判所に日本国籍の復活を申請した。

曰く「私たちは私達の意思で中華民国国民になったのではない。もともとも日本人だったので今も日本人だ」という理由なのだという。

これも台湾が中国に吸収されるかもしれないという危機感が背景にある主張なのだろう。

台湾の人々の危機意識が伺われる日本人は注目しなければならないニュースなのだ。

そもそも台湾は地政学的にも文化的にも最も重要な隣国である。

我が国と中国の間に位置することはもちろんのこと、過去50年間にわたり日本として存在した歴史を持っていて価値観や文化をどこの国よりも強く持っている外国でもある。

いわば日本にとって唯一の兄弟国が台湾というわけだ。

この中国の高圧的な一連の権力行使で台湾企業に罰金を課したニュースを見て愕然とした。

これは外国企業にとってもそういうことになりうることを意味しているのではないかと私は強く意識したのだ。

多分、他の大勢の人も同様のことを考えたに違いない。

これから日本は旧西側の自由陣営として、中国の隣国として、アジアのリーダーとしてその横暴なる態度に対峙しなければならなくなる。

とりわけ台湾に関する問題は重要だ。

尖閣諸島や南西諸島、小笠原だけの問題ではない。

いざとなっては中国のファッショな体制に大きく軛を打たなければならないときが必ずくる。

その軛に対する防御として習皇帝はこういうであろう、

「日本企業から罰金をむしとれ」

「日本企業を没収しろ」

日本企業を中心とする中国にある諸々の財産を質にとり、脅してくるに違いない。

その時、日本が台湾を守ることができるのか。

あの派閥の忖度ばかり考えている岸田首相で対峙する指揮が取れるのか。大いに疑わしいところなので期待はあまりできないかもしれない。

 

ということは、できることは一つ。

みんな、目先の利益に惑わされるな!

今のうちに中国から逃げろ!

中国のという津波が襲いかかってくるのは時間の問題だ。



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ほぼ21ヶ月ぶりにヒコーキに乗った。
こんなにも長い期間ヒコーキに乗らなかったのはこの10年間ではじめての経験であった。
 
最後に乗ったのは確か昨年の2月。
埠頭に接舷されて物々しい雰囲気になっているダイヤモンド・プリンセス号を首都高を走る空港リムジンバスから目撃した時であった。
 
今回乗ったのは、ダイヤモンド・プリンセスを目撃したときに利用したのと同じ関空〜羽田のスターフライヤーの初発便と最終便。
私はちょくちょくこの便を利用する。
なぜならこれに乗ると朝一番に東京に入り、最終で大阪に戻ることができる。
出張の一日を有意義に利用することができる。
しかもスターフライヤーは黒い機体が印象的な美しいデザインと優れた機内サービスが魅力だ。
それにLCCとは正反対の余裕の座席。
リラックス性もピカイチで最もお気に入りでもある。
で、このスターフライヤー。
21ヶ月前まではその関空〜羽田便はANAとのコードシェアで羽田空港では第2ターミナルでの発着となっていた。
それがコロナ禍の間に第1ターミナルに引っ越しをしていたのだ。
もともと関空便以外は第1ターミナルに発着口のあるケッタイなANAグループの会社だったが、なぜだか関空便だけは第2ターミナルにあって、主にANAを多用している私には非常に便利な存在でもあった。
 
今回は第1ターミナルに到着。
少々驚いたがもっとびっくりしたことがあった。
それは第1ターミナルがゴーストタウンみたいになっていたことだった。
 
羽田への到着時間が朝7時半ということもあり売店その他はまだ開店前だったのかも知れない。
でもシャッター商店街みたいな風景は首都東京の空港にそぐわない一種異様な感覚を持たざるを得なかった。
まるで夢を見ているような感じだった。
薄暗い照明。
古臭い建物。
人気のない巨大な建造物。
ただし朝だったので救いはあった。
モノレールの改札前を通って京急の改札方面へ向かうとさすがに電車を降りてきたばかりの大勢の乗客がターミナルビルの方へ向っていた。
これから日本各地に向かうヒコーキ利用者なのだろう。
 
問題は夜なのであった。
真っ暗な羽田空港。
まるっきり廃墟のようになっている空港ターミナルは私を愕然とさしたのであった。
 
その日、新橋の烏森で古い知人と夕食をとった後、浅草線新橋駅から羽田空港行き急行に乗った。
久しぶりのいつもの東京の帰宅時間のラッシュアワー。
しかし少しばかり人が少ないように思ったのはコロナの影響なのだろう。
多くの乗客が京急蒲田で下車し、続いて糀谷、穴守稲荷と進むにつれて客数は減っていき、第三ターミナルに着いたときは回送車かと思えるほど車内は空いていた。
余談だがコロナでここへ来ないうちに国際線ターミナル駅は第三ターミナル駅に名称変更していたのだった。
第三ターミナルという成田空港の第三ターミナルを連想する不吉なネーミングだ。
 
電車が羽田空港に到着したのは午後8時。
私の乗る便は午後9:30発だったので1時間少しの待ち時間があった。
この間に私は家で待っているカミさんへ久しぶりの東京出張の土産を買おうと思っていたのだ。
だから新橋での知人との夕食も少し早めに切り上げた。
ところが、そんな流暢な状態ではないのが今の羽田空港だった。
京急を降りて第1ターミナルへ向かうと飲食店、菓子店、グッズ店などなど、店という店がシャッターを下ろして閉店状態。
ガラスのシャッターの向こう側で閉店後の作業をしている店員らしき姿もちらほらと確認することができたのだが、殆どが無人。
ただ電灯が灯っている。
そういう真夜中のブランド街というような状態だった。
 
薄暗く、人の姿もまばらなターミナル内でエスカレータだけが静かに動いていた。
なんとなく不気味だ。
 
スターフライヤーの搭乗口はどこかいな、と出発便の電光掲示板を見ると、
「大阪/関西 欠航」
とある。
背筋を冷たいものが走るのを感じた。
まさか。
今日の帰りの便がキャンセル?
関空行きだけではない。
他の数件の地方行きの便もすべて「欠航」サインが灯っている。
慌ててiPhoneのチケットを確認する。
チケットにはどこにも「欠航」などと書いていない。
よくよく掲示板を見ると「大阪/関西 欠航」と表示されているところに「JAL」とあった。
なんじゃい。
JALの関西行きか。
安心して掲示板を見直す。
欠航になっているのはすべてJALで私のスターフライヤー/ANA共同運航便は表示されていない。
ほっとした。
ほっとしたけどすぐに気づいた。
表示されていない。
ないじゃいこれ。
私の搭乗予定のスターフライヤー関西行きは表示されていなかったのだ。
 
まさか、第2ターミナルへ行かなあかんの?
 
少々焦り気味に再度iPhoneのチケットを確認する。
するとチケットにはどのターミナルビルかということは全く書かれておらず「搭乗口1」とだけ書かれていた。
不安感が旧に増してきた。
 
第一ターミナルの売店その他がすべて閉店しているのは午後8時をして出発便がすべて終了していることを意味していて空港ごと、
「今日はおしまい」
ということになっているのではないか。
スターフライヤーも出発は第2ターミナルであれば、これから第2ターミナルへ向かって移動しなければならない。
しかし、第1ターミナルに着いて第2ターミナルから出発なんてあるだろうか。
 
時間に余裕が少しあるのでこの目でスターフライヤーの搭乗口のあると思われる南の端の保安検査場方向へ向かうことにした。
なぜ南方向に向かったかというと、中央付近の保安検査場はすでに閉鎖されていたからなのであった。
 
人気がない薄暗いロビーを急ぎ足で歩く。
羽田空港は広い。
歩くうちに不安も増している。
 
歩くことようやく南の端のA保安検査場に到着すると、やった!
スターフライヤーのチェックインカウンターと保安検査場は開いていた。
係の女性が暇そうに1人ポツンと立っていた。
大阪関西行きが保安検査中ということも書かれている。
 
ホッとしたのもつかの間、土産物をどうするのか、ということを思い出した。
ふと上へ登るエスカレータの横にセブンイレブンの看板があり上方向の矢印が出ている。
もしかするとコンビニに土産物をいているかも知れない。
東京ばな奈ぐらいはあるかもしれないと思い、それでもあれば無いよりはマシなので買おうと思って店へ行った。
そしてまた驚いた。
土産物は何も置いていなかったのである。
第2ターミナルならローソンにちゃんと土産物をおいているのに〜。
 
しおしおとエスカレータを降り、早すぎることもないが保安検査場を抜け搭乗口へ向かった。
この間、他の客には1人も会わず。
ただししらシ〜〜ンとした空気が漂っていたのだ。
 
さすがに帰りの便が出発する30分程前には乗客が集まってきて搭乗口1番の前は少しはにぎやかになった。
飛行機の中は半分ほど座席が埋まっていて1グループには親子連れもいて少しはにぎやかになった。
 
それにしても羽田空港。
あ〜あ、で衝撃的な寂しさなのであった。


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再びアスファルトの道に戻って奈良方面に向かって歩き始めた。
右手には新興住宅街が。
左手には柿畑が広がる。

「ん〜、よーけなってるな(実っているなの関西弁)。1つ食べたいな〜」

とはリーダーの弁。
何を食べたいかというと収穫時を迎えている柿である。
柿畑の柿の木にはたわわに実る富有柿が。
もちろんこの言葉はリーダーだけではなく、私も他の人も食べたいと思ってたので、柿畑の横で立ち止まることになった。

「1つぐらいとってもかめへんやろ(構わないだろうの関西弁)。」

という意見も出た。
しかしここで柿を無断でむしり取りガブッと食べてその場を発見されると、遺構巡りから警察署巡りになってしまう可能性がある。
しかも我々の中には業界ではそれなりの地位の人もおり「柿泥棒」として新聞沙汰にならないまでも、業界での話のネタになってしまうような危険性もある。
社会的地位を脅かしてまで食べごろの柿を食べるのを我慢できないというわけではない。

「あ、あそこに」

と1人が収穫作業をしている高齢の農夫を見つけた。

「あの、すいません。柿....売ってくれますか?」
「いいよ」

あんがいあっさりと決着。
値段も1個50円というリーズナブルな金額で商談が成りたった。
もぎたての柿を食べるのは、子供の頃に従兄弟に連れられて入った岡山の柿山で食べて以来。
こういうもぎたてという意味では私はぐじょぐじょに熟した柿が大好きなのだが、今回はちゃんとした柿で少し残念だったが、実に美味。
夏の暑さが若干残っている暑い遺構めぐりにはピッタリの潤いなのであった。

しばらく山の中のアスファルトの道が続くと大きな新興住宅街が広がってきた。
もうどこにでもある新築一戸建てが数多く並び、片側二車線の道路の両側には大手外食レストランが並ぶといった光景である。
その住宅街に入る直前の四差路の角に時代に取り残されたような平屋の木造建物がある。
もしかして、大仏鉄道の駅舎?

そんなわけはないだろうと思いながら近寄ってみると、駅舎ではないものの結構古い建物で正直言って地震が発生したら一目散に逃げ出す必要がありそうな建物だ。
しかし趣がある。
最初は廃屋かなと思っていたがよくよく見てみると地域の公民館として使われていて今も文化教室などが営まれている現役の建物であることがわかった。
後で調べてみるとちゃんと観光ガイドなどにも載っていてそれなりに知る人ぞ知るという建物のようなのであった。

実は大仏鉄道の遺構はここからがどうしょうもないくらい詰まらないものになった。
もう光景は新興住宅街。
私の卒業した府立高校は泉北ニュータウンの中にあって毎日駅から学校までこういう光景の中を歩いて通学した。
しかしそのときは詰まらない景色なんてちっとも思わなかった。
新しい家が立ち並び綺麗な街だと思ったのだ。
ところが今「鉄道遺構巡り」として歩いてみると、こんな詰まらない場所はない。
著しく発見に欠け、ただただ日差しのきつい初秋の京都府南部を歩いているという感じでしかない。
京都府南部ではなくて感覚は奈良県なのであったが、それはそれ。
途中、木津川市の水道施設のケッタイな建物以外は見るべきものがない。
そんなエリアだった。
水道施設のケッタイな建物は中世ヨーロッパの塔のような形をした貯水施設で入り口に機関車の絵を描いた「大仏鉄道」の看板がある以外は、かつてこの近辺にあった奈良ドリームランドを一施設を彷彿させるびっくりデザインなのであった。

この新興住宅街に1つだけ大仏鉄道がここを走っていたことを示す印があった。
住宅地のど真ん中にある公園に「関西鉄道」の社標がデザインされた記念碑が建っていたことだ。

関西鉄道は国鉄に吸収されて今は存在しない私鉄だ。
大仏鉄道はもちろんのこと現在の関西本線、学研都市線、大阪環状線の東半分などを作った会社で、その最大の目標は国鉄東海道線に打ち勝つこと。
大阪〜名古屋を最短で結ぶというのが目標だったようだが、今は昔。
すでに歴史の彼方に消え去った会社なのであった。

新興住宅街を抜け南に向かう幹線道路の歩く。
丘を上り、その峠付近に「奈良県」という標識。
ここまでが京都府でここからやっと奈良県というわけで、大仏鉄道の大半は京都府下を走っていたというわけなのであった。

このまま進めば日本で最も美しいというスターバックスの一つがある鴻ノ池運動公園や奈良ドリームランドの跡地があるエリアがあるのだが、新興住宅街の無味乾燥な風景に飽き飽きしていた私たちは方向を変え、大仏鉄道の遺構ルートから離れることにした。
あと見るべきものは奈良県立大の北側になる駅舎があった跡という記念公園ぐらい。

進路を鴻ノ池運動公園直前で奈良街道方面に向かい般若寺を目指した。

大仏鉄道遺構巡りは今旬のハイキングコースになっているようだ。
この日も私達以外にも何人かのハイカーを見かけた。
自治体もパンフレットを整備してWEBサイトで公開。
奈良駅にも置かれていて都心からも近いこともありお手軽だが、なんせ路線があったのは100年も前の話。
しかも9年間しか営業しなかった遺構は多くが消え去り開発でその痕跡さえ大部分はない。

しかし、いい天気のもと加茂から奈良に入ることは古人が京から大和へ至る道に重なる。
それはそれ。
これはこれで結構楽しい15kmの旅なのであった。




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T字路を右手にとるとなんの変哲もないアスファルトの道に出た。
両側は宅地造成前の荒れ地、または工事中、或いは草茫々の山肌が出ている景色のあまりよろしく無いところだ。
ずっと西方向では大きなクレーンが2基ほど立ち並び何やら大きな建物を建設しているのであった。
とぼとぼと少し行くと道が二手に分かれているところに出てきた。
一方は左手の一車線道路で右手は2車線ほどの幅があり、その先には新興住宅地が広がっていた。
まるで私の近所の泉北ニュータウンの一角のようで非常につまらない光景なのであった。
で左手はというと道の左側が窪んでいて下に畑があり、その向こう側がゴルフ場。
前方でこの道は再び交差していてその付近にゴルフ場の玄関口があり、その向かい側に公園がある。
その公園は「大仏鉄道記念公園」という名前なんだそうだが、それらしき遺構は公園にはなさそうだ。

「こっちへ行きましょう」

とリーダーに連れられて左手の土手を下る。
左手の道の下に出てきたのだが道路の下に石積みの橋脚があり、これが「赤橋」という遺構なんだという。

「随分古いですね」
「古いです」
「橋脚は石積みですけど、橋が......あれは木でしょうか」
「木ですね」
「あの上を列車が走っていたんですかね」
「違うでしょ。100年も前の木の橋なんて残るわけがない。多分、それらしく演出しているのか........なんちゃって」



とつまらないことをぐちゃぐちゃ言いながら写真を撮った。
その橋から畑に沿って農耕用の小道を歩くとすぐにレンガ積みのアーチ型の穴が現れた。

「トンネル遺構です」


これが大仏鉄道の梶ヶ谷隧道という名前のトンネルなのだという。

「これ、随分狭いですね。100年経つ間に縮んだんでしょうか。」

と言いたくなるくらい狭いトンネルだ。
軽自動車がやっと通れるほどの狭さなので果たして鉄道のトンネルなのだろうか。
もしかすると大仏鉄道はナローゲージかインディ・ジョーンズに出てくるようなトロッコだったのか。
そんな話は聞いたことがないし、だいたい大和路線にそのまま取って代わられるのだから国鉄の線路幅で車体も国鉄サイズであったことは間違いない。

「このトンネルは線路の下を通っていて水路などがあったそうです」

と立て看板の解説。
なんじゃい。
鉄道のトンネルとばかり思っていたのは実は線路の下の水路のトンネルかい。

少しがっかりした瞬間なのであった。

私は廃線跡のトンネルというので、例えば近鉄電車の旧生駒トンネルやJR宝塚線の武田尾の旧トンネルをイメージしていた。
ところが鉄道のトンネルではなくて鉄道関連施設のトンネルなのであった。

ところが、ここでふとあることに気がついた。
先程の赤橋にしろここ梶ヶ谷隧道にしろ同じ一車線道路の下にある。
ということは........。
そう、上を通っている一車線道路が大仏鉄道の線路跡なのであった。

ここで初めて大仏鉄道がどこをどう走っていたのか。
その線路跡に出ていたことになる。

この遺構巡りのハイキングで初めて感動した瞬間であった。
そして驚くべきことに、これが最初で最後の感動でもあったのだ。

つづく


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