<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





僧侶は普通、酒は飲まない。
お釈迦様の定めた五戒の中に「お酒を飲んではいけない」という項目が含まれているからだ。

生き物は殺してはいけない
盗みを働いてはいけない
性行為に溺れてはいけない
嘘をついてはいけない
で、酒をのんではなけない
だ。

でもお酒を飲まないというお坊さんに出会うことは非常に稀だ。
私の家の宗派真言宗ではわざわざ「般若湯」などと名前を偽ってまで酒を飲む。
それだけ日本の仏教は俗化していると言っていいのか。
はたまた上座部仏教とは違った形で生活に密着しているのか興味深いところだ。

この「飲酒をしてはならない」という戒律は仏教に限らずイスラム教や一部のキリスト教にも存在して私たちを大いに困惑させる。
「なんで飲まれへんの?」
飲み会で酒を進めて真面目くさった顔で拒絶されるとついつい訊いてしまう。
流石に日本で生活しているのでイスラム教徒の知人や友人はいないけれども経験なモルモン教徒などは身近にいていたりするので禁酒の習慣、文化には身近なものを感じている。

高野秀行著「イスラム飲酒紀行」という文庫はそういう宗教上の「禁酒」という戒律の元、人々はどのようにお酒を嗜んでいるのかという、すこしばかり好奇心を誘うノンフィクションだった。

そもそも最近はイスラムと聞くだけで何か危険なものを連想する人はすくなくない。
9.11の影響か、ISの影響かどうかはわからない。
日本人にとって最も馴染みの薄いメジャーな宗教であることも一因だろう。
現在でもイスラム教の国に旅行する時は「酒が飲めない」ということを予め覚悟して出かける必要があるのではないかと思ってしまう。
とりわけ中東や北アフリカを訪問するときは多分飲めないのだろうな、という印象がある。
私は今だイスラム教を国教にしている国はマレーシアしか訪れたことがない。
訪れた、というのも言い過ぎでシンガポールから日帰りで入国しただけに過ぎない。
従ってマレーシアでは軽食ランチを食べたぐらいで宿泊もしていないので畢竟、酒も飲んでいない。
イスラム教徒の少なくない地域としてシンガポールやミャンマーの東部地域を訪問したこともあるが、シンガポールは華僑の国で値段を気にしなければ普通に飲めるし、ミャンマーも仏教国なので羽目を外さないかぎりは飲酒はできる。
だからイスラムの国で酒を飲んだらというよりも、酒なしの生活というのはどういうものであるのか。
大いに関心があった。

本書ではそのイスラム教を国是としている国々で著者がどのように酒を手に入れ楽しんだのかがレポートされている。
そこから見られる禁酒国での飲酒は生命を賭してするゲームというようなものではなく、路地裏の隠れ家でコソコソと嗜む盗み酒的なユーモアさえ潜んでいるように思われた。

考えてみれば以前勤めていた会社にはバングラディシュからの研修生が2名いたが、彼らは夜陰自室で酒盛りをするのを日課にしていた。
「バングラディシュって東パキスタン。確かイスラム教の国やね」
「そうよ」
「お酒飲んでいいの?」
「いいよ、ここ日本だもん」

ま、そんなもんなのかもしれない。


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仕事柄出張が多くて毎月何回か東京と大阪の間を往復する。
以前は新幹線で移動していたのだが、住んでいるところが堺市内から大阪の南部に引っ越してからは飛行機で移動することがほとんどになった。
飛行機に乗ると楽しみはやはり高度数千メートルから眺める地上の景色だ。
大阪~東京間ばかり飛んでいても季節や天気で見える景色が全然異なる。

日の出の陽光で金色に染まる雲海。
関西空港を離陸して旋回しながら眺めることのできる紀伊半島の全景。
伊豆諸島の火山地形。
房総半島に打ち寄せる大洋の波。

しかしなんといっても一番の眺めは上空から見る富士山だ。

冬が終わって春を迎えると夕方に羽田を離陸して大阪へ向かう飛行機は夕日の中を飛行するようになる。
すると、羽田を離陸した直後から遥か西方に富士の輪郭が夕暮れを背景にクッキリと浮かび上がってくる。
その姿はまるで錦絵の世界。
江戸の絵師たちが富士山をこよなく愛し、そして今日もなお多くの画家達がその題材に選ぶ富士山が現れてくるのだ。

先週の日帰り出張では最終便で帰るはずが予定が早く終わり「夕暮れ便」に乗ることができた。
しかも右窓際。
大阪へ向かうときは富士山を眺める絶好のポジションだ。
羽田上空はどんよりとした雲で覆われていて景色を眺めることができるのかどうか心配されたのだが、離陸して雲を抜けるとそこには夕日に照らされた雲海が広がっていた。
そしてその彼方には雲の合間から頭を出した富士山が。

少々厳しい仕事内容でクタクタに疲れていてもこの景色を見ると力が湧いてくる。

高度8000メートルから眺める夕日の富士山。
次はどんな姿を見せてくれるのだろうか。

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その朝、トイレに行こうと目覚めたところ外からドドドドドドドという大きな音が聞こえてきた。

「誰や、こんな朝早く大型トラックで団地ん中に入ってくる奴は。迷惑やな。」

ガラッと障子を開けて外を見るとトラックらしき姿はない。

「どこにおるんかな。こっちは未だ眠たいのに。騒々しい。」

と障子を閉めて自分の部屋に入ろうとしたその時、俄に家が揺れ始めた。
揺れは急速に大きくなりビデオテープを入れていた奥行きの薄い棚が倒れた。
続いて大切にしていた高校生の時にアメリカで買ってきたプラモデルのコレクションが棚から落ちた。
周囲ではガラスの割れる音、家具か軋む音、それこそ建物がメシメシという大音響が鳴り響いた。

「起きろ!地震や!」

言われなくてもわかるような大地震だったが、私は家具を抑えながら家族に大声で呼びかけたのだった。

1995年1月17日の朝。
大阪堺市内の自宅での出来事だった。

当時住んでいた昭和33年に建設された古い我が家は日本公団住宅の建設のRC構造ということもあってか震度6でもびくともせず、しっかりと建っていた。だが、度々襲ってくる強い余震には「関西には地震は無い」などという常識を破られたばかりの私には恐ろしい物以外のなにものでもなかった。

最初の地震が収まってテレビのスイッチを入れるとNHKでは臨時のニュースが始まっており、今ではYoutubeにも上がっている宮田アナウンサーの、

「只今近畿地方で大きな地震がありました」

の第一報が放送されていた。

「大きな地震じゃったな」

と起きてきた父が言った。
父は大学入学から大阪に住んでいるのだが半世紀経過した今も随所に岡山弁が出る。
テレビでは各地の震度が表示され始めた。
不思議な事に神戸の震度だけがぽっかりと穴が空いたように表示されていなかった。

「地震計、壊れてんのかな」

と思った、
やがて鉄道が止まっていることが伝えられた。
電車が動かないとなると動くまで出勤するのは待つことになりそうだ。
やがて、

「死者の連絡です。神戸市内で倒れてきた壁に挟まれ新聞配達中の男性が一人死亡したとの連絡が入ってきました」

壁が倒れて人が死んだ。
ブロック塀は地震に弱いことを知っていてたので随分運の悪い人がいるもんだなと思った。
その時点では地震で死ぬ人がこの関西で出るなんて考えもしなかったからだ。
ところがこの一人の死者の報道は後に続く六千名を越える死者の一人に過ぎなかった。
時間とともに次々に「火事」や「脱線」のニュースが伝わり始めた。
最初の中継は神戸だったか芦屋だったかの国道43号線沿いの歩道橋からだったと記憶する。
この周辺ではそう変わったことはなかったのだが、

「大きの揺れがありました」

とのアナウンサーの言葉が妙に緊張していた。

やがてヘリコプターからの映像がライブで流れ始めた。
脱線している阪神電車。
倒壊している阪神高速道路。
この時点ではまだ火災の煙はそんなに上がっていなかったが電車が転覆しているのを見て、

「これはえらいことになった」

と思ったのだった。
結局電車がいつ動き出すのかわからなかったので古い50ccのバイクを自転車置き場から引き出して、エンジンをかけて堺の自宅から15km先の難波にある事務所に向かった。

テレビや新聞は次々に神戸市内の凄惨な現場を報道した。
倒れかけたビル。
1階がクラッシュしてしまったマンション。
中央付近の階が押しつぶされた神戸市役所。
大きくひび割れしたそごう百貨店。
内側へ倒壊している三菱銀行神戸ビル。
などなど。
やがて自分自身が支援のために神戸へ入ると正常に建っている建物が見当たらないような気がした。
怪獣映画に出てくるような瓦礫が広がるだけの町並み。
関西電力の10階建てぐらいの建物が形そのままに大きく傾いているのが今も脳裏に焼き付いている。
あまりに傾いたりつぶられたりしている建物が多いため自分の平衡感覚さえなくなってくるように感じたのだ。
疲れ果てて無表情になった販売店の社長の顔も忘れられない。
同じ無表情な顔は2011年5月に福島県庁を訪れた時も数多く目撃することになる。

テレビや新聞、週刊誌は神戸の惨状を伝えた。
長田の大火災。
山陽新幹線の高架橋崩落。
阪神高速道路神戸線の横倒し映像。
高架に引っかかったバスの画像。
プロ野球オリックスは「がんばろう神戸」というアプリケをユニフォームに縫い付けた。
大阪発のJRは芦屋駅まで。
阪神電車は青木駅まで。
代行バスでは電車の乗客を捌ききれず、おまけに渋滞で動かず多くの人びとが青木から三宮まで歩いた。

そういう報道が連日続いたが3月20日を境にピタリと止んだ。
少なくとも関西ローカルを除いて。
地下鉄サリン事件の発生である。

首都圏を中心に日本のほとんどでは地下鉄サリン事件が話題の中心になった。
メディアは連日カルト集団の起こした世界的な犯罪を取り上げ追跡を続けた。
しかしこの間、神戸を中心とする震災はなおも継続しており人々の生活は元に戻っていなかった。
今も戻っていない、という人もいる。

熊本で発生した大震災ではマスコミは自衛隊や消防のヘリの活動を妨害。
関西テレビの中継車はガソリンスタンドの列に割り込みをした。
避難所を取材に訪れた報道陣はインタビュー取りに夢中になり支援物資の整理配布を妨害。
ネットを見るとその傍若無人ぶりが目に余るものがある。
それでいて政府や自治体の揚げ足取りには余念は無く、自分たちの行為については気にもとめない。
やれ支援物資の配布が遅いの、原子力発電所が危険だとか不安を煽ることに余念がない。

阪神大震災でも東日本大震災でも同じだったのかもしれないが、ネットはより発達し、スマホも普及。
当時は無かったり数が少なかった「一般市民による情報提供」がマスコミを凌駕している。
だからマスコミの恣意的報道、傍若無人ぶりも顕になる。

今、騒いでる熊本の大震災も一週間が経過しようとしている今、新聞の第一面ではその面積も減り始めた。
取り上げられていない時もある。
テレビはバラエティーショウのほうが優先らしい。

地震が起こる度にマスコミの存在意義と立ち位置に疑問が生じるのは私だけだろうか。

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私の好きなドリンク類というと日本酒とビール。
たまに焼酎やウィスキー、ワインなどを飲むこともあるが「家飲み」なら断然日本酒かビールだ。
ビールはもともと細かな銘柄を選ぶことがなかなか難しく、お気に入りは?と問われると
「夏はオリオン、冬はエビス。年間通して平均値は黒ラベルかな」
と答えることにしている。

一方、日本酒は種種様々な銘柄や品種がある。
子供の頃は父が飲んでる酒を見て酒も銘柄は大関だとか黄桜だとか、日本盛しかないものと思っていた。
ところが実際は数えるのもたいへんなくらいの銘柄があって、それぞれ味と香りと歴史文化を楽しむことができるようになっていることに気づいたのは当然のことながら成人してからのことであった。

酒の旨さに衝撃を受けたのは大学生の時。
父が高校生活を送った岡山県高梁市をお訪れた時だった。
この町は小さな頃から父が車で時々連れて行ってくれたところだった。
自分で一人旅ででかけたのはこの大学生になってからが初めてだった。
高梁駅を下りて備中松山城まで歩いて行こうと思った。
お城は父が卒業した高校の裏手の山の上にあり位置はわかっていたので地図も持たずに歩くことにした。
備中松山城は小さな山城だがちゃんと天守閣があるお城で、しかも江戸期に建てられて現存する数少ない「本物」の天守閣である。
あまり全国的に名を知られた派手なところではないが、あの赤穂浪士の大石内蔵助が訪れたことのある城と著名ではある。
その備中松山城へ行こうと、てくてくと街中を歩いていると1軒の造り酒屋さんらしきお店を見つけた。
もともと、
「岡山のお酒は不味くてかなわん」
と勝手に思っていたところもあり今ひとつ興味を誘わなかったのだが、せっかく父の町に来たのだから一本買い求めようと720ml瓶を買って大阪へ戻ってきた。
実際岡山の酒が美味しくないと法事や親戚の集いで岡山の祖父母宅を訪れる度に実際に飲んで思っていたので全く期待していなかった。
ところが高梁で買ってきた酒を冷蔵庫で冷やしてクイッと飲んだら、これが劇的に美味かったのだ。
さらにロックにしたらもっと美味いかも知れないと思ってグラスに氷を入れて酒を注ぎグイッと飲んだらさらに美味しさが増したのだった。
岡山の酒の印象が一挙に変わった瞬間であった。
岡山の海側の酒はあまり美味しくないが山側の酒は違う。
岡山の魅力を再発見するとともに、日本酒文化そのものの魅力を大いに感じたのであった。
今となってはその酒蔵の名前は失念してしまい、何度も高梁に行ったのに見つけることができていない。
もしかすると無くなってしまったのではないかと思っている。

ちなみに高梁市は映画「男はつらいよ」のサクラの夫・浩の出身地という設定になっている町でもある。

そんなこんなで地方を旅すると酒を探し求める癖がついている。
先日仕事で京都宇治にあるお客さんのところへ行った帰りに仕事中なのに思わずその癖が出てしまった。
酒の引力に惹かれてしまったのだ。
その時私はJR奈良線の電車に乗って京都駅に向かって移動していた。
JR奈良線は京都駅と木津駅を結ぶ関西のローカル線なのだが、これが混雑路線にも関わらず未だに単線。
ところどころの駅で対向列車待ちがある。
とろとろと移動しながら桃山駅で停車中しているとなんとなく「もうここで下車して京阪電車で大阪へ帰ろう」という想いが浮かび上がってきた。
京都駅まで行ってそこから満員の新快速電車で大阪へ戻るのが面倒になってきたのだ。
それにJR桃山駅から京阪伏見桃山駅はさして離れておらず、あるいても10分そこらだし歩くのも気分転換になるとも思った。

駅を出て伏見桃山駅に近づいてくると次第に賑やかになり、伏見桃山駅と平行してある近鉄桃山御陵前駅付近から商店街の人通りが「街」になってくる。
伏見桃山駅の改札口に降りる階段まで来た時、路肩にある観光地図が目に止まった。
伏見桃山というと伏見の古い町並みが残るところ。
京阪の大阪に向かって次の駅「中書島駅」までも歩いて15分ぐらい。
ちょうどカメラも持っているし龍馬で有名な「寺田屋」も見たことが無いので寄ってみよう。
と少々寄り道をしてみることを決断したのだった。

で、京阪の踏切を越えてすぐの小道を南に曲がって少し歩くと、なんとそこには酒蔵があるではないか。
当たり前なのだが、伏見は酒の街としても兵庫灘と並ぶメジャーどころなのを忘れていた。
ここは古から京への酒供給基地であったことをすっかり忘れていたので酒蔵を見た時は、
「おおおお~これはこれは」
と感激してしまったのだ。
しかも、
「酒蔵があるということは、どこかで試飲ができるかもしれない」
と仕事そっちのけで頭のなかが伏見の酒でいっぱいになった。
伏見といえば黄桜、松竹梅などが思い浮かぶが、歩いて行く先にはなんと月桂冠のもともとの酒蔵「大倉記念館」が建っていたのであった。
「おー、酒の博物館ということが酒が飲めるかも!」
真っ昼間から酒というのもなんだが、試飲ぐらいいいじゃないか。
社会見学だし。
などと分けのわからない理屈をつけたりなんかした。
入り口はすでに多くの観光客で混雑していた。
一人のおっさんは酒を飲んでいる。
話しているのは日本語ではない。
中国語なのであった。
インバウンドの襲来は京都伏見にも当然のことながら押し寄せていたのであった。

受付で入場料の300円を払った。
すると、
「お車でお越しではありませんか」
と訊かれた。
「いいえ、電車です。」
と答えると小さなペットボトル入りの月桂冠純米酒をプレゼントしてくれたのであった。
「おぉ、300円の入場料でお酒付き!」
感動したのは言うまでもない。

月桂冠は創業400年の歴史ある企業ということはここを訪れるまで全く知らなかった。
月桂冠というブランド名は明治になってから使い出したようだが、それにしてもこれだけ多くの酒蔵を伏見の一等地に有しているとは不勉強で知らなかった。
お酒のペットボトルをいただいたからおべんちゃらを言うわけではないが、酒屋の財力とその奥深さに自然に感心していたのだった。

記念館の出口でペットボトルとは別に試飲があった。
咳止め薬を飲むような小さなプラスチックの小さなカップで3種類のお酒をいただいた。
100年前の製法で作ったここでしか飲めない月桂冠。
そして今の月桂冠純米酒。
そして梅を発酵させて作った梅の酒。梅酒ではなく、梅の酒の3種類。
これが美味い。
どれもこれも美味かったのだが、梅の酒はここでしか買えない月桂冠の特別仕様。
「梅酒は焼酎ですが、これは違いますよ」
と説明に力が入っていた。
試飲の後は出口へ、なのだがそこにはちゃんと売店があり伏見の土産やここでしか買えない月桂冠グッツが販売されていた。
私は無論勤務時間中だし、昼休みの見学感覚で来ているので何も買わずに記念館を出た。
それによくよく考えてみると京都には仕事でしょっちゅう来ており、何か買いたいときは面倒くさいが中書島か伏見桃山で途中下車してここへくればよく、何もこれから大阪の事務所に帰るときに買わなくてもいいのだ。

結局、三杯の試飲がポカポカ陽気の京都の春と相まって帰りの京阪電車で心地よい眠りを誘ってくれた。
量も微量だったので淀屋橋に到着した時はすっかり酔いも冷め仕事モードにリセット。

伏見の酒は心地よいリフレッシュになったのであった。

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兵庫県立美術館で開催されている「鉄斎」展を鑑賞してきた。
電車の吊り広告で目撃してから行こう行こうと思いながらなかなか見に行くことができなかった展示会だ。
ここのところ仕事が忙しくて毎週出張ばかり出かけていて美術展どころではない状態が続いていた。
もしかすると見ないうちに終了してしまうのではないかと危惧していたところ、偶然に空き時間ができたので車を飛ばして行って来たのだ。

実のところ、これまで富岡鉄斎の画をじっくりと見たことがなかった。
名前だけは知っていて、どのような絵かきだったのかは十分な知識がないまま過ごしてきたのだ。
鉄斎の伝記小説も一度購入したものの正直言ってかなり退屈な内容だった。そのくらい退屈だったのかというと、ほとんど覚えていないというぐらい退屈な小説なのであった。
よくよく考えてみると富岡鉄斎その人にどうして興味があるのか自分自身でもさっぱりわからない状態なのであった。

会場の兵庫県立美術館へは土曜日の午後に到着した。
人気のある展覧会。
例えば印象派に属する有名画家の展覧会なんかがあると超混雑して駐車場待ちの列が入り口から長々と続いていることがある。
ところが今回は富岡鉄斎という日本画のビッグネームであるにも関わらず駐車場はガラガラ。
エントランスに一番近いところへらくらく駐車することができたのであった。
もしかする富岡鉄斎という画家その人がテーマとしてはかなり硬派だと感じさせるのが人での少なさかもわからないと思った。

鉄斎の日本画は中国の影響を強く受けたテーマや構成が特徴だ。
私は日本画が西洋画よりも好みなのだが、中国形式の山水画みたいなものは少々苦手て多少の抵抗感がある。
従って日本の山河を中国風の構図で描き出した鉄斎の作風は微妙な抵抗感を私に与えつつ、それでもそのダイナミックな筆使いは鉄斎の世界に魅了されるに十分なパワーで迫ってきたのであった。
鉄斎のように江戸期から明治期にかけてを生き抜いた芸術家の特徴はやかり大量に流入してくる海外の文化、とりわけ西洋の影響とどのように向き合うのかという数々の試みをしているところだろう。
絵画。
文学。
音楽。
あらゆる分野でそれこそ無数の人たちが新鮮な空気として西洋文明に触れていたわけだが、鉄斎にしても同様であった。

展覧会で1枚だけ展示されていた日本画ではない鉄斎の作品があった。
木炭画。
フランスから輸入された紙に木炭で描かれた絵画は、それまでの鉄斎の日本画としてのエッセンスを踏襲しながらも新しい素材として、また新しい技法として晩年の鉄斎が自身にとっての試みをしていることがよく分かる作品だった。
もしかすると晩年に京都市立の高等学校でティーンエイジャーを相手に教鞭をとっていたことも、そのエネルギーの重要な要素だったのではと想像された。
生涯で1万点以上の作品を残したと言われる鉄斎だが、87年の長寿を全うしたわけだが、最後まで若々しさを失うことのなかったそのダイナミックなエネルギーを感じ取ることができる。
そんな展覧会なのであった。


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3年ぶりぐらいになるかもしれない久々の九州。
出張で福岡へ行ってきた。
行きは関西空港から福岡空港へジェットスターで。
帰りは福岡空港から関西空港へピーチエビエーションで。
LCC三昧。
もちろん、どちらも新幹線よりも安かった。
時間も短く、往路が約1時間10分。
復路が約1時間、しかし飛んでいるのは賞味40分。
メチャクチャ早かったのだ。
おかげで日帰りで行って来たこともあり、福岡まで行ってきた感覚がまるでなく久しぶりに新幹線で行かなかったことを後悔したのであった。

そんな日常的な出張の中、珍しいものを目撃した。

豪華客船「Quantum of Sea」。

福岡空港へ着陸体制に入っていたジェットスターA320型機の窓から見えた豪華客船は福岡空港からお客さんのところへ走る高速道路の上からもよく見えたのであった。
この船。
全長は348m。
全幅41m。
総トン数168666トン。
乗客定員4180人。
乗組員1800人。
最高時速は22ノット。約40km/h。
上海を母港とするアメリカ船籍の豪華客船だ。

気になる性能は喫水が8.5mであること。
甲板から上が10階建はあるかと思えるような巨大な建物を乗っけているにも関わらず海面からはわずか8.5mしか海に浸かっていない。
重心が随分と上の方にありそうな船なのであった。
こういう船には転覆しやすいという特徴がある。
先年、違法改造の上、積み荷を適当に乗っけてしまったためにひっくり返って多くの犠牲者を出した亡国の船のような設計なのである。

この船はいわば豪華客船の1つでお客さんは主に中国人といったところか。
インバウンドで日本へやってきて爆買いをしているか中洲をはじめ博多の食べ物を食い荒らしているかそういう人たち日本に連れてきた船なのだろう。
はじめ、この船を目にした時は「豪華」というよりも「異様」という感想を持ってしまった。
なぜかというと、船というよりもビルディングが船の上に乗っかっている「軍艦島」みたいな風体で、潮風を受けて大洋を優雅に航海しているというイメージがちっとも湧いてこなかったからだ。

豪華客船のクルーズというと日本人ならすぐに思い出すのが「クイーンエリザベス号」。
英国の女王のお名前を頂いたその船は時々日本にもやってきていつもニュースになる。
船体は流線型で風を切りながら優雅に航海する姿は旅人にとって一度は乗ってみたい風格を備えている。
日本郵船の「飛鳥2」もまた優雅で美しい船だ。
私はこの飛鳥2の実物を大阪港で目撃したことがあり、その真っ白な船体がゆっくりと海遊館の横を出港していく姿に思わず見とれてしまったのは言うまでもなかった。
いつか乗ってみたいと思いつつ、私がよく利用するのは神戸と高松を結ぶジャンボフェリーであることころが庶民的である。

彼女たちと比べると「Quantum of sea」は全長で100mほど大きな船でデッキも10階建以上の様相だが、正直言って醜女である。
可哀想だけど、私はジャンボフェリーの方が優雅だと思う。

この感想は私の僻み根性から出たものかと疑う向きもいるかもしれない。
しかし、
「マンションの乗っておる船みたいやな」
という写真を見た娘の一言が私の感覚が間違っていないことを図らずも物語っていたのであった。

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