<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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兵庫県立美術館を訪れると凄い人の行列が出来ていた。
美術館を一周するかと思われるほどの長い行列だった。
まるでジャニーズのコンサートで大阪城ホールを取り囲むように長蛇の列を作っている女の子たちのようだ。
ただこの行列はそれとは大きく異るものがあった。
行列を形成するのは女の子ではなかった。
若くもなかった。
どちらかというとシニア層中心の爺さん婆さんと言っても不思議ではない人々が中心のようであった。

この日。
私は大学生の娘と一緒にこの美術館で開催されている「怖い絵展」と「幸せの国ブータン展」のハシゴをしようと訪れていたのだった。
「この行列すごいな。もしかすると何時間も並ばんと観られへんかもしれへんで」
と娘に覚悟を促すと同時に、もし2時間も3時間も待つことになるのであれば、何処か別のところへ行こうと密かに考えたのであった。
私は行列が苦手。
よって時間待ちがある場合、さっと何処か別のところへ行ってさっさと帰宅してやろうと目論んだのだった。

チケット売り場もちょっとした行列ができていた。
しかし先程目撃した長蛇の列ではなかった。
もしかすると先程の列と展覧会は関係がないのかもしれない。

「怖い絵展」はそのコンセプトが人を呼び込んだのか、結構混雑なのであった。
「背が低いから額縁の上しか見えへんわ」
と話しているオバちゃんグループには思わず笑いがこみ上げてきたがテーマの「怖い」というものがこれほど人々の興味を惹きつけるとは思わなかった。
私も期待もなにもせずに見に行っただけに、その混雑さには些か驚いていたのだった。

「今日は中野京子さんの講演があるんて」
と娘。

私はちっとも知らなかったのだが、怖い絵そのものは中野京子というドイツ文学者がそういうことをテーマに数々の絵画を解説している書籍のタイトルだそうで、我が娘は図書館で借りてきて読んだことがあるという。
内容は面白かったということだ。
帰宅してアマゾンで検索するとシリーズとしての「怖い絵」がかなり出版されていて中野京子さんの人気のほどが伺いしれたのであった。
あの行列は中野京子さんの講演会に入ろうとしている人々なのであった。
本人を見に来ている人々と展覧会そのものを見に来ている人が重複して大混雑になっていた、というのが真相のようだ。

そんなこんなで混雑を極める「怖い絵展」では、そのメインになっている「レディ・ジェーン・グレイの処刑」を中心にそれはそれで堪能することができた。
でも、この日の私のメインは午後から見た「幸せの国 ブータン展」であった。

つづく

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大阪中之島にある国立新国際美術館で開催中の「バベルの塔展」を鑑賞してきた。
この春先にここを訪れた時にポスターを見て、是非訪れてみたいと思っていた展覧会なのであった。

バベルの塔展といっても、バベルの塔関連の作品ばかりが集められているわけではなく、バベルの塔はたった一枚だけ。
今回の展覧会の最大の見ものであるブリューゲルのバベルの塔が展示されているだけで「バベルの塔」展という名称が付けられた商売上手な展覧会なのであった。
最近の文化施設はアミューズメントパークと同様、商売のセンスを求められているようだ。
一方、バベルの塔以外の大部分の作品は宗教画の数々で埋め尽くされていた。
宗教画は正直なところ苦手だ。
宗教画があると気が滅入ることが少なくなく、いくら技巧が優れていても、そこはファンタジーの世界と同じなので感動はほとんどない。
但し、その中に精神的なものを見ると俄然楽しくなるのだが、そういう宗教画は少ない。

さて、バベルの塔。
実際にあったのかどうかは分からないが、天にも届くような高い建築物を作ろうとしたため人類は神様の怒りをかって「言葉はバラバラにされる(=外国語の誕生)」「衝突は起こる」「結局完成しない」といった大変な災厄が降り掛かったという。
この物語のモデルになったという建物の遺構は現在も残っており、実際に失敗した建築プロジェクトに妙な「お話」が付け足されたというのがバベルの塔なのだろうと思った。

先日読んだ高層建築の本でも高さが数十メートルに及ぶ建物は紀元前からも作られていたことが書かれていて、例えばアリストテレスが生きていたギリシャ時代のギリシャの街は3階建ての木造のビルディングが建ち並んでいたそうだ。
我が日本でも1000年前に建てられた出雲大社の本殿は高さ50m以上であったことが分かっており、一説には100m弱であったとも言われている。
現存する日本の古代高層建築物は奈良東大寺の大仏殿で高さ49.1m。
天平時代に建てられた初代大仏殿は90m弱あったというのだから、科学技術の発達したイラクではバベルの塔のようなものも可能であったのかもわかない。

展覧会ではこのフリューゲルのバベルの塔展ではその絵から想定された高さが記されていた。
高さ510m。

東京スカイツリーやアラブ首長国連邦のブルジュ・ハリファと比べると低いものだが、それでもその高さはなかなかである。

人々の想像を掻き立てるバベルの塔。
殆どが宗教画の展示であってもそのイメージの基本形となっているフリューゲル作「バベルの塔」の現物が見られるだけでもかなりの価値のある展覧会であることが間違いない。

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今時の子供に、
「悪いことをしたら死んでから地獄に行くことになるで」
と言っても、
「ふーん」
でおしまい。

普段、地獄よりも恐ろしそうな映画やテレビ、ビデオゲームに親しんでいるための結果と思われる。が、それ以上に何かを恐れるという精神的要素が欠如しているのだろう。

考えてみれば今の子供は怖いものなしだ。
とりわけ中学生に恐ろしいものはない。
授業中に悪態をついて授業を妨害したり、学校から逃亡しても先生たち何もしない。
もし体罰を加えたりしたら後の保護者との揉め事が待っていることを知っている。
問題のある子供ほど親も問題があるのだ。
従って根本的な悪ガキも留年させたり退学させることもできないので、ひたすら卒業するまでダンマリを決め込む。
万引きや喧嘩、不純異性行為は未成年者だから補導はされてもお咎めなしなので警察さえ恐れない。

流石に殺人を犯したり人に瀕死の重傷を負わせるような悪事を働いたら少年院にぶち込まれることになるが、それでも死刑にはならないことを知っているし、逮捕された後は人権活動家という被害者には悪魔のような味方も控えているので悪事をはたらくことに躊躇もしないし、反省することも無い。

源信の世界を観ていてふと脳裏をよぎったのは昔の人は、この掛軸や巻物の世界で十分に世を恐れ、死後の世界を不安を持って想像していたのだろうということだった。
家族は大家族で子供も居れば年寄りもいる。
病魔に対する戦い方には限界があり、多くの子供が成人を待たずになくなり、高齢者も80歳、90歳まで生きるのは稀で風邪や転倒など今では何でもないことでも死ぬ可能性がたかった。
そういう社会では生きることへの感謝が強くなる。
科学も発達していないため、何故病気になるのか、何故死ぬのか、何故助かるのか、などのプロセスは謎なので、神や仏の世界との密接な関係を考えようとしたのだろう。

人は死を通じて生きることをナマで感じ、それを感謝したのだ。

今、人は死を恐れない。
それはきっと身近に死というものが存在しにくいからかもしれない。
恐れないどころか反対にテレビゲームや映画やテレビの番組で死というものが極めて安易に伝えられているという現実がある。
突出した例がテレビゲームで、ここでは多くの殺し合いが展開されている。
あるものはマンガチックで許される範囲のものがあるのかもしれないが、またあるものはリアルな映像で市街戦を展開させたり、異生物との格闘を体験させたりと現実と見分けがつかないようなゲームもある。

世の中、戦争を反対する人は多いけれどもこういうバーチャルだがリアルな戦争の世界を反対する人は少ない。

こうした現代のバーチャルな戦争は源信の描いた地獄そのものなのだが、痛みを感じることのできるリアルな生活がそばにないことが現代の様々な信じられない事件を引き起こしているのだろう。

奈良国立博物館の源信展。
そういう思いに至りながら実に面白く興味溢れる展覧会なのであった。

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