<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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丹那トンネルを抜けて最初にある駅「函南駅」は丹那トンネル工事の時に地元からの要望で誕生した駅だと吉村昭の小説に書かれていた。
昔も今も新線ができると地元自治体は新しい駅を希望する。
新幹線、リニア新幹線もかくありなん。
尤も、丹那トンネルの工事はこの函南駅ぐらいではとても精算できないほどの大規模な被害をもたらしたわけで、現在の価値観でいくと「即工事中止」となっても不思議ではない。
工事を続行させ、完成させたのは当時の政府の強さと、庶民の官に対する尊敬、信頼そして畏怖が今とは全く違った形だったからに違いない。
丹那トンネル工事による大規模な地下水減衰が地域の農業を壊滅一歩手前にしたのだから。

列車はそんなこと想像もしていない現代の乗客を乗せて函南駅を出発。
新幹線との乗換駅である三島駅を経て沼津に到着した。
沼津駅は御殿場線と合流する大きな駅なのであった。

駅には南口と北口があった。
私の仕事で用件のあるコンベンションセンターがあるのは北口。
私は重い荷物をゴロゴロ転がしながら階段を上り、跨線橋を渡り、そして北口の改札口から下車した。
駅前の広場はここ何年かの間に整備されたのか、ロータリーが綺麗で映画館の入っている商業ビルも建っていた。
しかし、人通りがとても少なく寂しい雰囲気が漂っている。
時刻が午後4時前だからだろうか。
制服姿の高校生がチラホラするくらいでビジネスマンや買い物客がゾロゾロいる光景ではなかった。

「もしかするとメインの玄関口は南側かな?」

と思った。
沼津駅は東の国府津駅同様に御殿場線の登り口の駅だっただけに構内は大きく、かつては大変栄えていたのだろう。
しかし今はどこの地方都市もが抱えるシャッター街問題があるのかもしれないと思った。

目的のコンベンションセンターは駅の北東にあった。
そこはまるで東京や大阪にあるような近代的で洗練された施設だったが、これだけ周囲の閑散とした雰囲気を目にするとこれを運営する市なのか県なのかの手腕が問われていることであろう。
仕事の挨拶を済ませて打ち合わせまで時間があったので屋上に上がった。
屋上には庭園があり、そこからは富士山を眺めることができるようだったが、生憎の曇り空でもやがかかっている。
残念ながら富士山は見えなかったが、東京から在来線でわずか2時間少し移動するだけで富士山の間近にやって来ることができる。

新幹線では味わえない距離感をも堪能することができるJR東海道線、快速電車の旅なのであった。

おわり

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小田原を出発したJR東海道線は海岸線に沿って走る。
海岸ギリギリではなくて少し高い所を走る。
従って眺めが良い事に加えて、海岸線を走っているときにいつも不安がつきまとう万が一の災害にも強いところを線路は走っているという印象がいい。
なんといっても東海道線の沿線はいつ発生してもおかしくない東南海地震の被害発生想定地域であり、かつ日本の大動脈。
なにか異変があって何ヶ月も東西が分断されてしまうのは重大問題だ。
阪神大震災後の4ヶ月は山陽本線が不通になってしまっていたので生活だけではなく日本中の物流に苦労したのは、関西人の私にはまだまだ記憶にあたらしいところだ。

いくつかのトンネルを抜け山の斜面に色々な建物が立っているエリアに近づいてきた。
ところどこ湯けむりも上がっている。
熱海に到着だ。

東京駅から乗ってきて快速電車の終点は熱海駅。
ここで私はその先に向かう普通列車に乗り換えなければならない。
乗り換え時間はわずか5分ほど。
ところがここで困ったことがあった。
私は馬喰町駅から交通ICカードのICOCA(JR西日本のカード)で乗車して、そのまま熱海まで来た。
ネットで検索すると熱海もSuicaのサービスエリアなので当然ICOCAが使用できる。
ところがこのICOCAを持ったまま次の電車に乗り換えることができないことに、途中気づいたのだった。
熱海駅はJR東日本とJR東海を隔てる境目の駅であり、ここから西はJR東海の運営エリアになるため交通ICカードを連続して使用することができない。
一旦改札を出て「切符」を買って乗車しなおさなければならないのだ。
ああ、めんどくさ。

これはJRのシステムがそうなっているからだそうで、例えばJR西日本とJR九州が接続している下関駅でも同じらしい。
ICOCAやSuicaのシステムは中途半端なシステムなのだ。
このため5分間の乗り換え時間では下りの静岡方面の電車に乗り継ぐのは不可能。
1本見送ることにしたのであった。
次の電車は約20分後に発車。
中国地方にある私の父の故郷のように次の列車は2時間後でなくてよかった。

熱海は言わずと知れた温泉町。
温泉町の玄関口の駅には各旅館の旗を持った出迎えの人が大勢屯しているのではないかと想像していたのだが、やはり時代は21世紀。
そういう昭和な風景は一切なく、熱海の駅前も普通のどこにでもある地方の駅の風景なのであった。
ちょっぴ残念であった。

沼津までの切符を自販機で買い求めた。
自販機にもちゃんと手作りのサインで「静岡方面へはSuicaでご乗車できません」の表示がされている。
この付近に住む人にとってはホント不便なんだろうなと想像してしまった。
ICカードが使えないのは熱海駅と次の函南駅の1区間だけ。
函南駅から西側はJR東海のToicaカードのサービスエリアになり、再びICOCAもSuicaも使用することが可能になる。

ところで熱海は新幹線の駅もある大きな駅だが、次の新幹線の駅は三島駅。
この間在来線の東海道線も間に函南駅があるだけで新幹線にしては随分と短い区間に2つも駅があると思ってしまう。
駅だけで言うと東京駅の次に新橋駅に新幹線の駅がある感覚だ。
しかし、距離でいうと熱海と三島の間はかなりあり、それこそ東京駅と品川駅くらい、いやそれ以上に離れているかも分からない。
これは熱海駅と函南駅の間に丹那トンネルという長大トンネルがあるからで、この区間は丹那トンネルの前にある数百メートルの短い
と7km以上もある丹那トンネルで構成されており、ほとんど地下鉄状態なのだ。
この丹那トンネルが完成することで御殿場線周りで山登りをしていた東海道線が繋がり今に至っている。
そしてこの丹那トンネルこそ日本の土木史上空前の難工事で、その名を歴史にとどめているのだ。

私は今回の移動で最も楽しみにしていたのがこの丹那トンネルの通過であった。
御殿場線を利用しなかったもう一つの理由が寄り道になること以外にここにある。
もうかれこれ20年以上になるが吉村昭著「闇を裂く道」というノンフィクション小説を読んで戦慄を覚えたことがあった。
もう凄すぎて感動を通り越してしまったのだ。
「闇を裂く道」はこの丹那トンネルの工事を扱った小説で、調査終了の頃から着工、開通に至るまでのその苦難な道のりを克明に描いた物語だった。

この丹那トンネルは鉄道省主導のもと鹿島建設と今は無くなってしまった建築会社の2社で着工。全長7.8kmで当時としては日本最長。工期は7年の予定だった。
ところが困難、困難、また困難の連続で超難工事になってしまったのだった。
どれほどの難工事かというと、途中でマスコミが騒ぎ出し「工事断念」の話まで浮上。
恐ろしいことに60名を越える殉職者を出し、関東大震災、北伊豆地震ともに被災。
なんと最終工期16年を費やして完成したのだった。
昭和9年に東京発大阪行の列車を最初として開通したという。
工事開始時はこの長いトンネルの中を走る蒸気機関車の煙をどうするのか、というような議論があったというのだが、完成時にはすでに電気機関車の時代になっていたという。
それだけ時間軸が動くまで完成を見なかったトンネルなのであった。

吉村昭にはこの小説以外に関西電力の黒部鉄道のトンネル工事を描いた「高熱隧道」もあるが、その工事にあたる人々の凄まじさには21世紀の今にはない人としての途方も無い力強さを感じて畏敬の念を抱くとともに、今のノホホン日本に対し、自分に対し、しっかりせんかい!と思う物語なのだ。

熱海駅からは3両編成のステンレス製の電車に乗った。
電車は静かに発車してゆるやかに右カーブを描きながら1本めの短いトンネルを通過。
それから1分ほどのしないうちに丹那トンネルに入った。
熱海からの入り口はゆるい右カーブになっていてトンネルの中は非常に暗かった。
丹那トンネルは火山性の地層を貫くトンネルであり、かつ途中には活断層があり、工事中発生した北伊豆地震の震源であり、なんとトンネルの穴が2メートル以上もズレるという経験をした、というようなことを思い出しながら暗闇の中、電車に揺られていたのであった。
また膨大の量の湧水が出たことも思い出した。
今も湧き出しているそうだが、この湧水のために丹那トンネル上の丹那盆地の農業が壊滅状態になったことは、今なら社会問題になって世界中が大騒ぎしたであろうことも想像していた。
ちなみに山陽新幹線の六甲トンネルからも膨大な湧水が湧きだしているそうだが、これは「六甲のおいしい水」の原料なのだそうだ。
本題とは関係ないが。

やがてカーブが終わると遥か前方に白い点が見えた。
なんだろう?
よくよく見るとトンネルのカタチをしているようなのでトンネルの出口のようだ。
トンネルに入ってまだ時間が経っていないので、もしかするとこのトンネルはほとんど直線なのだろうか、と思った。
で、その想像は正解なのであった。
沼津に着いてからiPhoneでマップを確認すると丹那トンネルはほとんど直線で熱海の入り口箇所だけが僅かにカーブしていたのだ。
それが証拠に白い点が見えてからそこを電車が通り抜けるまで何分もかかった。
でもほとんど入り口から出口までカーブの箇所を除くと出口の見える途方も無く長いトンネルなのであった。
アメリカの州間高速道を夜間、レンタカーで運転したときに遥か彼方に対向車のランプが見えてからすれ違うまで10分以上かかってビックリしたことがあったのだが、丹那トンネルの出口が見えてから通り抜けるまでの長時間は、それに似た感覚があった。

このただただ直線のトンネルを掘るのに16年という歳月は、恐ろしく長く感じられるとともに、そのわずか50メートル北側を貫いている新幹線の新丹那トンネルはわずか4年で完工したことを考えると土木技術の進歩というものに驚くことしきりなのであった。
最も、大正時代から昭和時代にかけての土木技術が未熟であったというわけではなく、例えばこのトンネルは熱海と函南から掘り進んだのだが、中央で出会った時の誤差はわずか8cmであったという。

改めて先人の凄さに感謝と驚きなのであった。

つづく

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大阪駅からJRに乗って西向きに走り、神戸を過ぎ、鷹取あたりを過ぎると明石海峡の下をくぐった辺りから電車は海辺を走る。
景色がかなりいいのだ。
松林があり、砂浜があり。
海の向こうには淡路島が見える。

私はJR東海道線の藤沢以西はどこか海辺を走るイメージを持っていたのだが、それは誤りであることがわかった。
線路は海岸線のはるか内陸部を走っており、車窓は「海辺の雰囲気」すらない。
湘南モノレールの「湘南」という地名を聞いても、関西人である私には「須磨」とか「舞子」といった地名と同じように海辺を感じることはできない。
さらによくよく考えてみると、箱根駅伝の中継でも国道1号線と東海道線が平行に走っているところは皆無で、海辺を走っているのは江ノ電ということになる。

昔、テレビの青春ドラマで度々目にした江ノ電を一目見てみたいと思ったが、今回は観光ではなく仕事での移動なので断念した。
ちなみに鎌倉も行ってみたいところだが、これも断念。
江ノ島は東京から大阪へ戻る飛行機からたまに目にするので見る必要はない。
期待したほど面白い景色が見られないのは、かなりガッカリなのであった。

やがて国府津駅に停車した。
「御殿場線乗り換え」のアナウンスを聞くと、かつて東海道線はここから御殿場の山登り線が本線であったことを私の鉄道マニア部分の心が思い出した。
昭和9年までは、東海道線はここで機関車を増結して御殿場の急勾配を登って行ったのだという話を聞く度に、一度は乗ってみたい御殿場線と思っていた。
ここで乗り換えれば目的地の沼津に行くこともできるのだが、あまりに遠回りで面倒くさいのはじめから乗り換える予定はまったくなく、そのまま現行の東海道線を進むことにした。
ここで窓側の4人がけの席が空いたので座り直した。
これでやっと景色を楽しめるのであった。

電車が小田原に近づいた。
小田原というと歴史好きな私はいつも小田原城を思い出すのだが、新幹線で移動するときは小田原付近を走っているときは大抵寝ているか、仕事でノートパソコンをペコペコやっているか、ビールを飲んで悦に浸っているかのいずれであり、気が付くとだいたい通過してしまっている。
従って小田原のお城があるのかどうかも知らないし、見たこともなかったのだ。
もちろん私は秀吉の一夜城が現存するとは思っておらず、なにか我町大阪の大阪城のようなレプリカのお城が建っているのではないかと思っていた。
そしてその予測は正解なのであった。

電車が小田原駅を出発するとすぐに左手にこんもりとした山が迫ってきて、その頂に工事中の天守閣がそびえていたのであった。
工事中。
なんてことだ、お城が工事中でまわりが足場に囲まれている。
昭和の御代に再建されたという天守閣は足場設備に囲まれ何も見えなかった。
なぜなのだ?
どういうわけか私がお城を見に行くと「工事中」であることは少なくない。
実のところ多くもないがこれで三度目である。

最初は20年少し前に熊本を訪れた時。
私は前職の会社を退職し、今務めている会社に入社するまでの一ヶ月間、北九州周遊券なるものを購入して福岡、長崎、佐世保、平戸、伊万里、有田などを回る旅に出ていた。
熊本へは出発5日目に到着し、JTBの時刻表の巻末のホテル広告のページを見て前々日に佐世保の公衆電話から電話で予約したビジネスホテルに宿泊した。
そして熊本到着後の翌日。
朝食を食べて市電に乗り、意気揚々と古くは加藤清正の、そして江戸時代は細川家の、そして近代は西南の役で政府軍が立てこもった熊本城をひと目見ようと訪れてみると、なんと、工事中なのであった。

熊本城の天守閣は足場に囲まれ屋根瓦さえ見ることがてきなかった。
正直、熊本へ再び来る日が来るのかどうかわからなかったので、残念さは今感じる何倍もあった。
オリジナルの熊本城は先述の西南の役で西郷隆盛率いる薩摩の軍隊に全焼させられてしまっていたが、後に再建された熊本城が今あり、私はそれでもその実物を見てみたかったのだ。

ふたつ目はつい近年ではあるが、新幹線で広島へ向かう途中。
姫路駅を通過中の「のぞみ号」はここで時速300kmに達するのだが、その時、はるか駅舎の向こうに国宝「姫路城」が見えるはずであった。
「はず」というのは、一瞬しか見えないからで、その一瞬の目撃でさえ、
「なんて美しいお城なんだろう」
と思わせるリアルな風格があり、私は楽しみにしていたのであった。
ところがこの時は工事中。
なにやらトタン板に囲まれた四角い建築物が見えるだけで驚くほどガッカリしたことは、まだ記憶にあたらしいのであった。

ということで電車は小田原城跡の小山の横にあるトンネルに入った。
そのトンネルを抜けると左手に太平洋の美しい姿が広がってきた。

つづく

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その昔、高校生だった頃。
新幹線を使わずに大阪から東京までどのくらいの時間がかかるのか日本交通公社の時刻表で調べてことがあった。
その調査によると朝8:00頃の大阪駅発の新快速に乗ると夕方5時頃に東京駅に到着することがわかった。
意外に早かったのだ。
当然、大阪から乗り換え無しで東京まで行く快速電車は無いので途中何度か乗り換えることになる。
まず、米原で乗り換える。
次に大垣で乗り換えて、豊橋、浜松、静岡あたりで乗り換えると、確か当時は静岡から東京行きの快速電車があったように記憶する。
JRになる以前、国鉄の時代だ。
今はJRとなって各エリアで運営会社が異なるので、例えば今回の東京からの快速は熱海までしか行かないのであった。
熱海から西はJR東海で東京側がJR東日本。
この2つの会社は東京駅や品川駅の確執があったりしてあまり良くないのか連続して乗れないのであった。

普段、東京から西へ向かうときは私の場合京浜急行線に乗ることが多い。
横浜より遠方に行くことが少ないこともあり、事務所が馬喰町とはいえ地下鉄の方が本数が多いのでついつい浅草線に乗ってそのまま京急で移動することになるのだ。
東京から電車で西に向かうと、いつも思い出すのが箱根駅伝。
私はお正月のスポーツ中継といえば箱根駅伝がお気に入りなのだが、いかにせん関西人。
住んでいるのも大阪。
だから箱根駅伝のコースになる街々は生活環境からほど遠く、これまで在来線で横浜から西へ行ったことがあるのは1回だけ。
数年前に大阪に本社のある大手製薬会社さんが研究所を作ったので、その工事途中を見に行った時ぐらいしか電車で行ったことはなかったのだ。
実に縁遠い場所なのである。

京急線で横浜まで行くと結構時間がかかる。でもJRの快速は早かった。
東京を出ると新橋、品川、川崎しか止まらない。
つまり東京と横浜はかなり近い。
この土地感覚は関東の人が関西に来て、
「奈良って大阪から近いんですね」
と感動されるのになんとなく似ている。
奈良は大阪から何時間もかかるという印象が地方の人にはあるようだが、大阪の都心から最短30分から40分しかかからないというようなことを体験するとビックリするようなのだ。
東京から横浜までは明治6年に鉄道が開通した時、すでに新橋から横浜までを最短35分で結んでいたというから、その距離と時間感覚はあまり縮まってもいない。

予想どおり、電車は横浜を過ぎても藤沢を過ぎても座席はいっぱいで立っている乗客も多く、東京駅でこの座席を確保できていなかったら今も立ったまま乗車していたかもしれない。
恐るべし首都圏の在来線なのであった。

つづく

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先日、仕事で静岡県の沼津を訪れた。
最初、
「沼津って静岡から在来線で10分ぐらいのところですよね」
と同僚に言ったところ。
「焼津と間違えているよ」
と指摘された。
静岡県は滅多におとずれることがない、どちらかというと不案内なところだった。
この辺りの地理に詳しくないことを改めて自覚したのは言うまでもない。
いつもは新幹線でビュワーンと走り過ぎるか、上空を飛行機でビューンと飛び越えるエリアなのだ。
それでも初めて訪れる町というのは楽しみがある。
どんな駅だろうか。
駅前にはどんなお店があって、どんな人たちが行き来しているのだろう。
なにか名物はあるのかな。
と色々と想像するのが楽しい。
この楽しさを胸にして現地で降りると駅前に自宅の近くにもある大手チェーン店なんかがあると思いっきり興ざめになることは言うまでもないが、本題とは少々趣旨が違うのでその話はまたの機会に。

今回は前日に東京で仕事がある関係で大阪からではなく東京からの移動だった。
そこで経路を調べてみると東京駅から新幹線に乗って三島で降り、在来線で一駅移動するというのが一般的な経路のようだった。
三島というと当然のぞみ号は停車しないのでこだま号かひかり号ということになる。
どちらも本数が少ないという特長があるが、数ある列車旅行の中では最も趣きに欠けるという負の特徴がある新幹線だけに、何か他の経路はないものかと考えた。

関西人の私は関東の鉄道で長距離を移動する機会が少ない。
従っていっそのこと新宿から小田急に乗って小田原へ出て、そこからJRに乗り代えるのも良いと思った。
以前、町田駅で新宿へ行こうと電車を待っていたら小田急自慢の特急ロマンスカーが入ってきて、窓から見える車内の風景がなかなか良かったことが今も印象に残っていたのだ。
普段は南海電車に乗っている私が小田急のロマンスカーに乗る機会はまずない。
が、残念ながらこの案は却下。
いくらなんでも仕事での移動なので、あまりに趣き重視で移動は時間の無駄だし、遊びじゃないし、そもそもうちの東京事務所は馬喰町にあるため新宿まで出るのが面倒くさい。
そのままJRに乗ればすぐに東京駅だ。
わざわざ新宿線で30分もつぶすのはもったいない。

ということで選んだのがオーソドックスなJR東海道線の快速による移動なのであった。

まずは馬喰町から総武快速線に乗って東京駅に出た。
東京駅の地下駅から地上駅まで長いエスカレータに乗るのが面倒だったので品川で乗り換えるという選択肢を選びたかった。
でも乗った電車が東京止まりだったことに加えて、乗り継ぎのタイミングで東京駅での乗り換えになった。
乗り換え時間はわずか10分。
東京駅は広いく思いっきり立体的なため、総武快速線のホームから東海道線のホームまで人ごみをかけ分けながら10分で到着するのはなかなか体力がいる。
MacBookやHD、書類がわんさと入ったバッグも重い。
しかも東海道線のホームに到着すると伊豆方面に向かう特急列車を待つ乗客と東海道線の快速に乗るのを待っている乗客がそこここに溢れていて、昼時なのにまるでラッシュアワーの情景なのであった。

正直、新幹線にすべきなのか一瞬迷った。
これでは座れないかも知れない。

新幹線なら指定席券を買っても会社経費で落とすことができるのだ。
快速に乗って「グリーン車」なんて選択肢もあるかも知れないが在来線の快速の指定席券に会社がお目こぼしをしてくれるかどうか、ケチなのを知っているだけに、はなはだ疑問なのであった。

どこへ乗ろうかとうろちょろしている間に、電車が入線してきた。
最近東海道線は常磐線や東北本線と繋がってしまい、快速電車が東京始発ではなくなってしまっていたことも、この瞬間に気づいたのであった。
「う~上野ぐらいから乗ったら座れたかも知れない」
とつまらん後悔をしていると扉が開いて乗り降りが始まった。
私も乗って座席を確保しなければ、この混雑だと横浜、あるいは藤沢あたりまで、いやいや最悪小田原まですわれないかも知れない。

そんな心配をしていたらドアの横の二人掛けの椅子に空きができた。
乗っていた乗客の一人が降りる準備をもたもたしていたのだが、それが幸いして私の乗車とタイミングがぴったりとあった。

私は窓の見える向い合わせの席ではないが、ともかく座ることができて安堵をついた。
その瞬間、列車はドアを閉めて走り始めたのであった。

つづく


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安倍総理が中国、韓国の首相、大統領とそれぞれ首脳会談したのは2日前。
「共通の歴史認識を持つように」
と中国、韓国ともに安倍首相に要求したそうだが、かなりナンセンスな要求だ。

というのも、中国と韓国の歴史認識は彼らの都合で構成されていおり、事実ではなくてフィクションの世界。
自分たちの過去が、
「こうであったらいいのにな~」
という夢物語を事実として脚色し、真実を語るものを抹殺してきたからなのだ。
なぜそんなことが出来るかというと、この2つの国には言論の自由がないから。
政府政権が発表する歴史に嘘はなく、それを否定するのは死に値する悪行なのだ。

例えば源義経は生き残って大陸へ渡り、ジンギスカンとなって戦った、という有名な夢物語が「真実である」と信じることに近い。
「いや~、義経はやっぱり死んだんですよ」
と言おうものなら、刑務所に放り込まれて最悪の場合銃殺刑になってしまう。
ま、そういう国との歴史談義は時間の無駄以外のなにものでもない。

今、オーストラリアに留学しようとしていた人権派弁護士の父を持つ16才の中国人少年が空港を出発する時に公安に拘束され行方不明になっているのが話題になっている。
共産党政府は人権蹂躙の政権だ、ということはたとえ真実であっても共産党にとっては真実ではなく嘘であり、そういう嘘をつく人々は一切許すことができないというのが、お国柄なのだ。
自国の新聞の記事から大統領の情事まがいの話題を引用した産経新聞の特派員はケシカラン奴でそれを報道した元の自国報道機関はお咎め無しの韓国もまったく同じ。

言論の自由のない国の歴史認識。
同じというわけに行かないのが言論の自由溢れる日本の言いたいところなのだ。

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