<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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竹林を抜けて暫く歩くと最初の遺構が現れてきた。
「観音寺橋台」という橋脚の遺構だ。
この付近の大仏鉄道の路線は現在のJR大和路線と並行していたようで遺構の橋脚と大和路線の橋脚が横並び。
積み方も同じで、

「大和路線の橋脚は大仏鉄道とほぼ同じ時期に作られた」

という説明を聞いて、なるほどと感心した。
すでに大仏鉄道開通時に大和路線構想も進んでいて、最初から大仏鉄道は短寿命を想定していたんじゃないかと思えないこともなかった。
大仏鉄道は奈良市の北側にある丘陵地帯を山越えするため路線の傾斜は最大25パーミルもあった。
25パーミールとは1000m走って25m上がるという傾斜だが、大したことはないと思いつつも当時の蒸気機関車牽引の列車ではパワー不足で色々と問題があったのだろう。
大和路線の橋脚も明治の作ということがわかったので、それもまた知識の収穫であったし、次の木津駅まで大和路線は単線だから将来的には大仏鉄道の橋脚を使って複線化することもないことはないだろう。
電車は蒸気機関車と比べると軽いし、それに今はここを走る貨物列車もない。
一見田舎だけれども大阪近郊ということもあり人口は増えつつある。

橋脚あとを抜けると道はますます山道っぽくなってきた。
路面も前々日に降った雨で少々ぬかるんでいた。
線路がどこを走っていたのかを想像して、この道が線路跡だったら大変だな、などと思いながら歩いているとT字路の行き止まりになった。
正面にはゴルフ場が見える。
左手へ行くと加茂駅方面に戻るようなので、当然のことながら右手曲がり歩いていくとアスファルトの普通の道に出た。
周囲には何もないようだが、この先に次の遺構があるという。

つづく



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加茂駅から当尾への道はなんとなく整備されており少しレトロな町並みだ。
一方、大仏鉄道の遺構へ向かう道は大きめの用水路に蓋をした線路の横のでこぼこ道なのであった。
ハイキング限定のコースなのか。
駅周辺には大仏鉄道の遺構は残っていないためこういう路地のような道を通っていくことで、少しでも遺構っぽいムードを演出する作戦なのか。
よくわからない。
しかし天気は良くて早秋の暖かさと紺碧の空がほのぼのとした気分にさせてくれてなんともいえないリラックスした気分になるのだった。

右手に大和路線の線路。
左手に小学校の校庭を臨むこと暫しすると大和路線の踏切があった。
渡ろうとしたら警報が鳴った。
しばらくすると大阪行の大和路快速がゆっくりと西方向に向けて走り去った。
単線なのに結構な交通量だ。

踏切から向こうは田んぼの中を一直線の道が延びていた。
田舎だ。
久しぶりの田舎がここにある。
私の街も和泉山脈側の山手に行くと田舎っぽくなってくるのだが、しかし山が迫っている関係でほのぼの感はこことは異なる。
子供の頃、農繁期に過ごした岡山の片田舎の関係で平地に田んぼがあってその真中を道路が通っている光景のほうが私には懐かしさと親しみがあるのだ。
しばらく歩いていくと小さな川があり、今度はその土手を南西の方角に歩いていった。
道路幅も狭く、時折農作業の軽トラックが通過する。
空はあくまでも青く、雲もほとんどない。
周囲の田んぼは稲がたわわに実っている。
遠くになった線路を電車が走っている。

この大仏鉄道ハイキングコースでは我々だけではなく他のグループの人達の姿もちらほらと見られる。

やがて道は森の中へと進み始め上り坂になる。
道の両側には竹やぶがあり、葉の隙間から秋の陽光がキラキラと輝き、幅2メートルもないだろう路面にモノトーンのシルエットを映し出している。

「嵐山みたいですね」
「確かに」
「嵐山みたいに観光客がいない分、こっちのほうが静かでいいかも」

嵐山の竹林は京都観光の有名所の一つで私もカミさんと行ったことがある。
実際の姿は観光写真にあるような「静かな京都」ではなく、観光客がぞろぞろと歩き、スマホで写メをとっているような騒々しいところだ。
インバウンド華やかしきコロナ前なんぞ、ひどい場合は中国語が飛び交い京都というよりもパンダが笹食う四川省の山の中、というような感じだった。

それと比べると確かにここは静かで、かつ美しい。

つづく



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現在のJR加茂駅は他の大阪近郊の駅と同じように自動改札があり、複数本のプラットホームがあり、駅前にはそこそこ立派なロータリーがあった。
上り下りとも単線ということを除くと普通の駅なのだが、問題はかなりのローカルな位置にあるためコンビニや売店がない。

「ペットボトルを買おうと思っていたんですけど」

とハイキングの出発地点で飲み物を確保しようとしていたあるメンバーさんは困惑の様子。
コロナのこともあるので、できれば自販機では買いたくないので、

「歩いているうちにコンビニかお店ぐらいあるだろう」

ということでそのまま出発することになったのだった。

加茂駅は大仏鉄道遺構巡りの出発点として最近は利用されているが、そもそもハイキングでなら当尾の里の玄関口でもあり昔から利用者は少なくない。
土門拳の写真で有名な浄瑠璃寺もここ当尾にある。
11世紀の創建であと25年ほどで1000年を迎える。
紅葉が有名で学生時代に私も原チャリで大阪の堺から3時間かけて写真撮影に来たことがある。
学生身分なので思ったような写真は撮れず、今そのフィルムを見ても、
「なんじゃい、これは。これでも芸大生か?」
と自分自身の力量のなさにに残念な気分になったりする出来具合でもある。
ちなみに三重塔は国宝。
その他国宝、重文が数多あるお寺さんで、1人でボーと参拝するのは観光シーズンに訪れてはいけないお寺でもある。

なお、大仏鉄道同様に奈良の浄瑠璃寺と思ってしまいがちだが、住所は京都府である。

加茂駅の駅前には大仏鉄道の遺構はまったくなく、あるのはハイキングコースを案内する道標だけ。
そこには「大仏鉄道 〇〇遺構跡→」とか書かれていて迷子になることはなさそうである。
大仏鉄道はどの方向からこの加茂駅に接続していたのだろう。
興味あるとこだが、駅前の街道や線路沿いにはそれらしい痕跡はない。

ともかく道標に沿ってあるき始めることにした。

つづく



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今回の遺構巡りの集合場所はJR加茂駅。
ここは大阪方面からの大和路快速の終着点であり、三重県亀山方面への出発点でもある。

この加茂駅はこれまで利用したことがなく初めての下車となった。
しかし下車したことはないが、通過したことは1度だけある。
かれこれ半世紀ほどまえ私が小学生のとき乗った「サヨナラD51 伊賀号」
というイベント列車で停車はしたが下車せず通過したのだ。

当時、関西本線は現在大和路線と呼ばれる難波〜奈良区間も含めて、大阪近郊路線でここだけが電化されていなかった。
したがって気動車が主力だった。
私の父の故郷である岡山県を走る吉備線も当時は気動車で、
「同じレベル」
の田舎の列車なのであった。
しかも当時は気動車だけではなく時々SLも走っている路線だったようで、私はしばしば天王寺駅の待機線で煙を吐きながら止まっているSLを度々目撃することがあった。
大阪環状線の103形型オレンジ色の電車が走っている横にSLがいる、という独特の風景があった。

この頃、次々に引退の始まったSLに客車を牽引させて伊賀方面まで出かける特別イベントの列車が企画された。
これが「デゴイチ伊賀号」で、私は両親にせがんできっぷを買ってもらい乗車することにあいなったわけだ。
どうしてもSLに乗ってみたいという欲求が鉄道大好きの小学生には魅力的だったのだろう。
でもよくよく考えてみるとSLに乗るわけではなくてSLが引っ張る客車に乗るわけで、蒸気機関独特のシュッポシュッポというサウンドを聞くことは乗車中ほとんどなかった。
SLに乗っていると実感したのはトンネルに入る前に汽笛が聞こえ、父と母が窓を締めようとしたことが普段乗っている電車と大きく異なりビックリしたものだった。
SLにとってトンネルは迷惑以外のなにものでもなく、煙が客車内にも充満し、あたりが煤けるという初めての経験をしたのであった。

で、この時はまだ地上にあった湊町駅、つまり今のJR難波駅で伊賀号に乗り込み、天王寺、奈良と経由して関西線で伊賀上野まで行く小学生の私にとってはワクワクする旅であった。
とは言いながら、実のところあまりディテールを覚えていない旅でもある。
列車は全席指定で私は当然のように窓側へ腰をかけて外の景色を眺めていた。
奈良をすぎると線路脇にワイヤーが張られているのが目に止まった。
ワイヤーは1本だけではなく2本あるところや、もっと複数本あるところも目撃した。
電線でもないあれは一体なんだろう?
と首を傾げていると横に座っていた父が、
「あれは信号やポイントの操作をするためのワイヤーじゃ」
と岡山弁で言った。
当時この路線にはATC装置なんか無いばかりか電気式の信号も存在せず、信号機はランプの横にバーみたいなのがあって、それが上下にカシャンと動いて切り替わる手動式信号機があり、ポイントも現在では模型でしか見ることのできない手動式のレバーを人が操作するポイントがあるだけで、実に素朴かつアナログな設備しかなかったのだ。
ワイヤーは信号所、あるいはポイント操作所から延々とつながっていた動力伝達用のワイヤーなのであった。
この仕組の列車運行システムは後にも先にもこのときしか見たことがなかった。
ついでながら「タブレット」なるものを目撃したのもこのときが初めてで、木津駅から東は単線だったため、列車はタブレットという大きな輪を交換しあい単線区間で列車が重複しないように、つまり衝突しないように運行していたのであった。
このタブレット方式はそれから30年後にミャンマーで目撃するまで出会うことはなかった。

ということで話は延々と遠回りしてしまったが集合場所の加茂駅はそういった信号やポイントの操作用レバーが設置されていた駅であり、タブレットを引っ掛けるポールなどもあった、そんな駅なのであった。

もちろん、今はそんなものは無い。

つづく


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古都奈良というと日本史のスタート地点ということで様々な歴史ポイントが点在する。
東大寺。
興福寺。
元興寺。
法隆寺。
薬師寺。
唐招提寺。
飛鳥寺。
などなど。
とお寺だけでも全部足すと多分創建1万年は軽く超える1000年単位のお寺が点在。
それだけではなくて、
平城宮。
藤原宮。
飛鳥板蓋宮。
と都の跡も数多い。
古墳や城跡、建築物に彫像などの芸術オブジェ、古民家集落など数多あり、京都へ行っても、
「なんや鎌倉時代? 最近やな」
と奈良にハマると奇妙な錯覚を起こすことになる人も少なくない。
これを「奈良病」というらしいが、我が家も私を含めてこの病の気配があることは否定できない。

で、古いものはたくさんあっても近代遺産となると少ないかな、と思っていたらこれが違う。
近いうちにホテルになるという奈良刑務所に奈良駅舎、日本初のケーブルカーなど結構多い。
アインシュタインが弾いたピアノがあるという奈良ホテル本館は予算さえ合えば気軽に訪れることのできる近代遺産だ。

これが鉄道遺産で廃線跡となると実は奈良には4路線もある。
奈良といえば近鉄電車だが、それだけではなかった。
そう、古都奈良は最近注目されている廃線周りにはうってつけのところでもあったのだ。

4路線のうち一部区間が現在も現役の路線が大和鉄道の王寺〜桜井、天理軽便鉄道の法隆寺〜天理の2路線。
前者は今は近鉄田原本町線として王寺〜田原本町を走っていて、田原本町〜桜井が戦争中に運行を停止し廃線。
今は県道になっている。
後者は大正中期に近鉄線に買収されて法隆寺〜平端が廃止。平端〜天理は近鉄天理線で現在も運行している路線だ。
こちらは路線跡はほとんど残っておらず、一部石垣などにその面影を留めるだけになっている。

4路線のうち1路線はつとに有名なJR五新線。
奈良の五条駅から和歌山の新宮駅までの吉野を山々を貫く無謀な路線で昭和54年まで工事が続けられ五条〜西吉野の大塔村(現五條市大塔町)間の土木工事がほぼ完成していたが、ついに線路が敷かれることはなく久しくバス専用道として利用されていた。
廃線が決まった時に南海電鉄と近鉄が買収を申し出たがJRが拒否してお蔵入り。
つい最近までバス道は利用されていたが経年劣化のメンテナンス費の問題で今は廃墟になりつつある勿体ない存在でもある。

そして最後の1路線が大仏鉄道。
大仏鉄道といっても東大寺の中を突っ切っていた鉄道ではない。
そんなのあるわけがない。
大仏鉄道は明治31年に現在のJR奈良駅とJR加茂駅の間で開通した関西鉄道の路線だった。
関西鉄道は当時、国鉄の母体である省線の東海道線に対抗すべき大阪〜奈良に鈴鹿山脈の南側を通る路線を敷設。
大阪市の片町から奈良、亀山を通過して名古屋に至る路線を開通させ張り合っていたのだ。
今のJR関西本線とJR学園都市線がそれにあたる。
この路線ができたとき、奈良を経由するための路線が必要だった。
奈良にはすでに大阪鉄道という会社が敷設した現在のJR大和路線があり、それと接続することによって大阪の湊町駅(現在のJRなんば駅)と名古屋を結ぶという壮大な計画のために敷設されたのが大仏鉄道なのであった。

この大仏鉄道は現在のJR大和路線の奈良〜木津〜加茂間が開通することでたった9年間でその役目を終え廃線となった。
明治にできて明治に廃線になった路線だから、これまでほとんど一般に知られることのない鉄路なのだった。
これが俄に注目を集め始めたのは廃線ブームもあることながら、奈良という観光地の至極便利なところにある手軽なハイキングコースとしての価値が見いだされたからだろう。

で、今回私はこの大仏鉄道の遺構をめぐるハイキングに参加することになったのであった。

つづく





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米国籍の真鍋淑郎プリンストン大学上席研究員がノーベル物理学賞を授賞したことは新聞の第一面、テレビのトップニュースで伝えられた。
「ああ、また日本人がノーベル賞を穫ったのね」
と感動している人も多いことだろう。
このアメリカ人になってしまってアメリカの研究機関で研究し、ノーベル賞を受賞した元日本人はトップで扱う。

でも、あなたご存知ですか?

日本で研究している北海道大学の特任教授がノーベル化学賞を授賞していることを、ですけど。

少々仕事が忙しくてバタバタしているうちにニュースを見逃した、というのとはちょっと違う。
大きな記事としては扱われず、私はこのビッグニュースをFBでFB友達の一人が大きく採り上げていたことで初めて知ったのであった。

ノーベル化学賞を授賞したのは北海道大学特任教授のベンジャミン・リスト先生。
ドイツ人ではあるものの、長らく日本で研究活動を行っている科学者だ。
これは大いに名誉なことであって真鍋博士と同様に大きく扱って然るべきビックニュース。
もしかすると札幌では大きく報道されているのかもしれないが、私の住む大阪ではテレビで採り上げられているのを未だ見たことがない。

北海道大学のウェブサイトを見てみると当然のようにトップに「ベンジャミン・リスト先生 ノーベル化学賞授賞 お祝い申し上げます」と出てくる。

なぜ、我が国のマスメディアにそれができないのか。
日頃「日本はもっと国際化しないといけないね」と叫んでいるのはマスメディアなのに、国際化されていないことがはっきりした。
非常に民族主義的マスメディアなのだ。

もしかするとお隣のアジアの盲腸の国の人がノーベル賞をとるようなことがあれば騒ぐのだろうか。
民族主義なのでそういうことは大いに有り得るかもしれない、と思った。



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なんだか個性の無い総理大臣が誕生したな、と思っていた。
菅総理では来る総選挙に勝てないというのが、今回の一連の流れだった。
が、岸田総理だと勝てるようにと目論んでいる自民党はかなり問題だ。

その証拠に昨日の大阪貝塚市の府議会議員補欠選挙で自民党がいきなり敗戦。

前途多難といえよう。

そもそも今回の大阪府貝塚市の大阪府議会議員補欠選挙は大阪維新の会の府会議員のスキャンダルによる辞任に端を発した選挙だった。
元議員の今井豊なる御仁は女性スキャンダルを起こし、それが市長を巻き込んでの闇献金問題に展開。
議員辞職はもとより大阪維新の会を破門されるという前代未聞の事件になってしまったのだ。

そのような状況なので普通であれば自民党の候補が楽勝といったところだっただろう。
しかしそうはいかないのが今の大阪。
大阪維新の会の候補と自民党の候補との一騎打ちだったが、結果大阪維新の会の候補がダブルスコアで自民党に圧勝。
組織票の脆弱な政党が組織票に万全なはずの政党を破って岸田効果は一切なし。

正直、大阪府民の多くは首相には吉村知事が橋下徹元知事が相応しいと思っているぐらいなので自民党の岸田首相で勝てるわけがない。

次回、総選挙。
「ああ〜、あの人が首相の方がよかった」
とならないように。


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