<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



先日のブログで、

「いっそのことロシアもNATOに加盟を希望したら」

と冗談で書いたのだが、ニッポン放送の「辛坊治郎 zoomそこまでいうか!」の2月
21日の放送をpodcastで聴いていたら、なんと!

「2000年と2002年にプーチンがクリントン大統領に『ロシアもNATOに入りたい』と言ったことがある」

と筑波大の中村教授が話していたのだ。

「えええ!そんなことがあったんですか? じゃあ、NATOの仮想敵国の意味が無いじゃないですか」

と辛坊治郎が訊ねたところ、

「そんなことないですよ。中国があります。」

というのだった。

ん〜〜、もはや遅いがそういうこともあったのかと大いに驚いた放送なのであった。


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興行映画というのはどんな人でも自分で好きな作品は作れないんだ。
たとえ出来上がった作品が素晴らしいものになるとしても簡単には許されない世界に違いない。
と、今回スピルバーグが監督した「ウェスト・サイド・ストーリー」を観てつくづく感じたものなのであった。

スティーブン・スピルバーグは小学生の時にテレビで見た「激突!」以来、ほとんどの作品を見てきた。
当然のことながらテレビシリーズ「コロンボ 構想の死角」ももちろん小池朝雄の吹替版を見ているのだ。

「ジョーズ」から「インディ・ジョーンズ」シリーズの頃はスピルバーグは大ヒットメーカーで製作側や投資側からは絶大な信頼のある監督だったはず。
ところが「ミュージカルを作りたい」という欲求を叶えてくれる機会がまったく訪れない。
自分で金を出して作ればいいじゃないか、と思うこともないが、映画とてそれはビジネス。
個人の欲求で作って失敗できない世界でもあるので簡単にはいかなかったのだろう。

「きみは出来損ないのミュージカル監督だ」
とスピルバーグに言ったのはジョージ・ルーカスだそうで(パンフレットより)、「1941」「インディ・ジョーンズ魔宮の伝説」で一部分だけミュージカルみたいなシーンを撮っては「ミュージカル作りたい」というスピルバーグはからかわれていたのだ。

ということで映画監督になって50年。
若き天才も老境に入ってやっとのことでメガホンを取れたミュージカルが「ウエストサイド物語」のリメーク版だった。

リメークと言ってもそこはスピルバーグ。
ロバート・ワイズ版とは一味違った魅力が炸裂した素晴らしいミュージカル映画に仕上がっていた。
若きダンサー(俳優)陣はもちろん、歌、踊り、カメラワーク、映像美。
どれをとっても従来のスピルバーグ作品に遜色ない魅力満載で予告編を含めた3時間近い上映時間はあっという間に過ぎ去ってしまったのであった。

結末を知っている映画なので、正直のところ最初は観に行くかどうか少々迷ったのも事実。
私は基本的に悲劇で終わるストーリーは好きではないので躊躇したのだが、それでも劇場に足を運んだのはミュージカルが好きなこともあるけれども、それを老境に入った若き天才スピルバーグがどう調理したのか大いに気になったからだった。

この映画、ビデオで観るよりもまずは劇場で。
あの大画面、素晴らしい音響のある環境下でバーンスタインの名曲の数々をスピルバーグの演出で見ることが最も重要だと思う。
そんな映画なのであった。



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日常的に自転車を遠乗りすることで健康づくりを始めて比較的順調に行っていると、ふと学生時代に半年だけ自転車で学校に通ったことを思い出した。

私が通っていた大阪芸大は堺市の自宅から片道15kmほどの距離にある。
南河内郡河南町というところで、どちらかというと大阪の田舎。
交通の便はお世辞にもいい場所ということはできない。
通常、JR天王寺か南海河内長野経由で近鉄長野線に乗り変え喜志駅から地元の金剛バスが運行してた学生専用バスに乗車して学校へ向かう。
午前中は駅から学校方面行きのみ。
午後は学校から駅方向のみの運行で、朝1時限目だけの授業の日の時は、帰りが大変だった。
学生専用バスが駅に向かって運行を始める昼過ぎまで待つか、一時間に1本ほどしかない路線バスに乗るか、歩くかのどちらかなのであった。
駅までは4kmほどあり歩くと1時間ほどかかるが、歩くこともあった。
今でこそ周辺にはカフェやショッピングゾーン等色々とあるけれども当時は何もなく学食か図書館で時間をつぶす必要があった。
まさに陸の孤島。
この大阪の中心部から隔絶された陸の孤島に学生を幽閉することで独特のアート精神を植え付けるのが学校側の目的であった、というような冗談か本気かわからないことを卒業生が謳っている。
実際に体験したことのある者には、あながちウソと思えない真実性がある。

なお、これらは向井康介著「破壊者は西からやってくる大阪芸大」(東京書籍)に詳しい。

そんなこんなで通い始めた私は電車通学に無駄な時間が多いので自転車で通うことに一旦決定したのであった。
一旦、と言ったのは開始半年で挫折してしまったからなのであった。

通学のルートは次の通りなのであった。

当時、大阪府堺市の三国ヶ丘に自宅のあった私は南海JRの三国ヶ丘駅付近から府道堺富田林線を美原町(現堺市美原区)の平尾というところまで進んで、ここから山道を越えPL学園横を通過して近鉄電車喜志駅へ進む。
外環状線と呼ばれる国道170号線をすぎ喜志駅前の踏切を越えるとすぐに当時のスクールバス乗り場があって、そこからはバス道である府道を大和高田方面に走る。
そして3kmほど行った太子四つ辻という交差点を富田林方面に曲がると500mほどで大学前のロータリーに到着。
という道筋なのであった。

まだ阪和道も南阪奈道路も無かった。
だから当然、それと並行して走るコンデションのいい一般道もなかったから片側1車線で歩道もほとんどない狭い府道を走るしかなかったのだ。
三国ヶ丘から平尾までの府道は今もほとんど変わらないが平尾から喜志駅までの様相は今とまったく異なるものなのであった。

平尾から富田林方面の府道から離れ、古い集落の間の狭い道を走る。
両側に農家と思われる家々が建ち並んでいるが道路そのものは普通自動車が1台やっと通れるほどの幅しか無い。
アップダウンがあって下っているかと思うと急勾配の上り坂がある。
自転車にはかなり酷な道路だった。
とりわけ集落を抜けて山の中に入ると勾配はさらにきつく、長くなる。
至るところにカーブもあって対向から自動車が来ると怖いし、後ろからの自動車に煽られることも少なくなかった。
なんといっても普通自動車が1台やっと通れるような山道である。
自転車は邪魔なのであった。

今、この山道は存在しない。
急勾配の道もなくなった。
地域全体というか山そのものが開発され「さつき野」という新興住宅街になってしまったのだ。

極めつけがこの狭い道を「さつき野」を開発するダンプカーが行き交う。
普通車がやっと通れる狭い道としか思えない道をダンプカーが走ってくるので自転車も避けようがない。
特に後ろからダンプがやってくるとスピルバーグの「激突!」を想像してしまう怖さがある。

しかし怖いところばかりではない。
外環状線に至るすこしまえ。
最後の坂を下っていると右手にPL学園がある。
ここで高校生の学生君たちにすれ違うと「こんんちわ」と挨拶をしてくるのだ。
最初のうちはビックリした。
「うちの学校は挨拶なんかせんかったぞ!」
と、その礼儀正しさにビックリしたのだ。
慣れてくるとこっちも「こんちわ」と言わざる得なくなったが、なんて良い教育をしている学校なのだろうと思ったものだ。
流石、甲子園の強豪校だと思ったのは言うまでもない。

通い始めて2ヶ月もすると夏が近くなり暑くなってくる。
汗は流れ、車が巻き起こす砂埃で汚れる、ダンプは怖い。
朝に授業があって夕方まで次の授業が無い時はいったん自宅に戻ったりして一日2往復走ることもないこともなかったが、もう大変で夏休みを境に電車で通うことに切り替えたのだった。

自転車通学は半年も持たず、やがて乗っていた自転車も手放してしまったのだった。
乗っていた自転車は今で言うクロモリタイプで前2段、後6段の12段変速。
決して悪い自転車ではなかったが、良い自転車でもなかった。
あの上り坂を上がるのに18歳の私がヘロヘロになったような自転車だったので、あながち運動不足だけが原因ではないと思う。

とはいえ、あの頃にすでに自転車を楽しむという素養はあったようで、今ならきっと挫折せずに走り続けることができたかもしれない。



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2014年に勤続20年表彰で会社からもらった報奨金の一部を利用してカミさんが買ってくれたクロスバイク。
昨日、この自転車のタイヤを自分で初めて交換した。
タイヤ交換は2回めだったが前回はショップで交換してもらっていたのだった。

愛車は入門用クロスバイクでルイガノTR-1というカナダのメーカーのもの。
価格は約5万円。
当時は自宅近くのスポーツバイク専門店でも扱っていた製品で、見初めたときは「なんて軽くていい自転車なんだ」と思ったものだ。
もちろん5万円もする自転車など買ったことがなかったので、非常に高価なものをカミさんにご褒美として買ってもらったと当初はとても満足していた。
ところが自転車のことを知るに従って5万円の自転車は入門用。
走りを追求するなら、もっと上を選ぶべきだったとの後悔が募るようになってしまった。
つまりだんだんと物足りなくなってしまったのだ。
でも、自転車をそんなに簡単に買うわけにはいかない。
すでに会社は辞めていたし、かといってしょっちゅうサイクリングに勤しんでいるという状態でもなかったので、我慢してずっとTR-1に乗り続けていた。
だから3年前に少しは機動力をあげようと思って折りたたみ自転車を購入したときは思い切ってダホンK3を買い求めた。
一度買うと新しいものを買う許可がなかなか出ないこともわかっていたからで、少しは自転車に関する知識も上がっていたこともあり業界最軽量のK3を思い切って買ったのであった。

TR-1は暫く買ってもらっただけで満足していた。
あまり乗らなかった。
あまり乗らなかっただけではなく、少しの間だが手入れも怠っていた。
台風で倒れても他の自転車と一緒に倒れたままにしていたことも正直あった。
今になって思うと可愛そうなことをしていたものだと思うことがある。

で、せっかくのクロスバイク。
これに頻繁に乗るようになったのは大阪北部地震がきっかけだった。
阪神大震災で動いた地層の続きの部分が少し動いた大阪北部地震では高槻や豊中では大きな被害が出たが私の住んでいる泉州地区は大したことがなかった。
なかったが電車が軒並み運休になった。
地震当日。
私は母の介護施設入所の件でかかりつけの病院と打ち合わせが入っていたのでどうしても堺市にあるその病院まで行く必要があった。
自宅から片道20km。
歩いてはとても無理なので自動車で、ということになるが阪神大震災のときの経験から地震でインフラが止まっているときに自動車で移動するのは無茶ということがわかっていた。
大震災の時は50ccのバイクで難波の事務所と連絡が取れない同僚の西宮の家に向かったのでたどり着くことができたが、今はバイクは持っていない。

そこでクロスバイクの登場。
自転車で行くことにしたのだった。

最初の片道20km往復でクタクタになったものの、これが自転車乗りのきっかけになった。
最近では月に200km以上走ることもあり体重も血圧も下がってきたので、いい趣味ができたと満足しているところなのだ。

ところが長い距離を走るようになるとTR-1は果たしてこういう走りに向いているバイクなのか。
そういう疑問が大きくなってきた。
初心者向けのクロスバイクとは良いなが、ネットで調べると評価はそんなに悪くなく、スピードと言う点からいうとかなり苦戦しそうだが日常使い「街乗り」には快適という評価もある。
たまの私のように、そこそこの距離を走るときが問題だ。
街乗り向けの自転車で1回で50km以上走ることもあるし、山道を走ることもあるので、
「果たしてこれで良いのか」
と思うようになった。
巡航速度は20km/h前後。
スピードを出すこともできるが長時間の維持は無理。
山登りでの体力もついてきたものの、なんとなく重い。
すでにTR-1には「相棒」的な愛着も生まれてきているので何らかの対策を考え始めていた。

TR-1は街乗りを想定していることがあるからか幅35mmのタイヤが標準でついていた。
これはシティサイクルと同等のタイヤ幅。
つまり「軽くはないが、衝撃に強い」という性能のものなのだ。
だから歩道への段差やマンホールなどの障害物もらくらくスムースに通過できる。
ところが私はロードバイクのように距離を走りたいので、もっと軽くいきたいというのが希望なのだ。
そこでタイヤ幅32mmか、できれば28mmぐらいのものに変えたいと思った。
調べてみるとTR-1のホイールには24mmはつけられないが28mmのタイヤは嵌めることができるということみたいなので、前回交換してから4年近くが経過するヒビだらけのタイヤも交換時期に来ていたこともあり、買ったスポーツバイク店へ出かけて新しいタイヤを購入した。
アマゾンのほうが安いのはわかっていたが、文句を言いにくいし交換に失敗したとき、
「すんません、やっぱ無理でした」
という恥晒しもできないこともないと思いリアル店で購入したのだ。

えいやっ!でやったタイヤ交換は半年前にパンク修理したときの経験が活きて1時間少しで前後を交換。
キレイに収まったのだった。
タイヤを交換しただけなのに35mm幅から28mm幅に変わるというのは大きな意味があったようで、遠目に見るとTR-1が少し若返ったように感じられた。

翌日。
タイヤ交換効果を確かめようとちょっくら走ってみるとにした。
海が見たかったので箱作の「ピチピチビーチ」(ほんとにこんな名前です)を目的地に和歌山方面に向かって国道26号線を走ることにした。

国道26号線は片側2〜3車線の国道で自転車で走るには路面はいいが大型車が多いので少々注意が必要だ。
26号線は起伏はあるものの高低差は大阪和歌山府県境を除くとあまりない。
走り始めてすぐに気づいたがタイヤの抵抗がググッと減ってすごく軽くなったことを感じた。
走り出しはあまり変わりはないものの巡航するときの軽さは以前なかったものであった。

国道26号線が和泉山脈越えの自動車専用道になるところで海方向に進路を変え、南海電車と平行に走る旧26号線を走るとすぐに海が見えてきた。
青い空。
青い海。
大阪湾は想像以上に美しい。
海の向こうには淡路島の稜線がくっきりと見え、その手前には関西空港島。
関空の向こう側には六甲山が見えて、淡路島との間の明石海峡大橋が美しくそびえている。
箱作駅のちょっと手前では南海の線路が海辺を走り、沖合に白い三角の帆を見せるヨットが数艇。
さらにその沖合には紀淡海峡を出入りする超大型のコンテナ船などが見えて清々しい姿なのであった。
帰りは海辺を走り、りんくうアウトレットモールを通過してから紀州街道を一路家路に向かった。
この間、約50kmちょっと。
これまでにない、快適な初春の走りで大満足。

街乗りクロスバイクでもタイヤを交換するだけで、すっかり乗り心地が変わってしまう。
素晴らしい効果なのであった。

ちなみにこの素晴らしい効果を大々的に家の中で喧伝すると、ロードバイクの購入がさらに遠のく可能性があるので注意が必要だ。



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北京オリンピックの男子フィギュアが終わった。
そして何があっても諦めない。
最後まで全力でやりきる姿を見せえくれた羽生結弦に勇気をもらった日本人はきっと多いことだろう。

それにしてもこんな時代が来るとは誰も思わなかったに違いない。
男子フギュアといえば、つい20年前までは日本選手にはメダルは夢の世界なのであった。
それが終わってみれば金こそ逃したものの銀以下4位まで日本人選手が独占。
金メダルをもぎ取った米国人のネイサン・チェンも中国カラーの衣装の別としてすごく素敵な若者だけに悔しさはあるものの不快感は皆無だ。

前半の演技で羽生結弦が最初のジャンプが飛べなかったその瞬間、一緒にテレビを見ていたカミさんは、一瞬の沈黙を置いて、
「....なんで〜〜〜〜〜、うそや〜〜〜」
と小さく叫んでいた。
私もびっくりした。
しかしその後の演技は完ぺきで、目はそのままリンクに釘付けになった。
まさかの8位での後半戦になったわけだが、最後まで諦めず完ぺきの上を目指したであろう彼の演技はもはや点数ではない、なにかを感じさせるものがあった。

平昌では少々生意気な感じのあった宇野昌磨もトップアスリートにふさわしい柔らかさが生まれ、新鋭鍵山優真には時代の代わりを感じさせる寂しいけれども強い希望を感じさせるものがあった。
そしてなによりも最後のその瞬間まで果敢にチャレンジし続ける羽生結弦のその姿が、心に強烈に焼き付いた北京冬季五輪男子フィギュアスケートなのだった。


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ロシアがウクライナのNATO加盟を必死のパッチで阻止しようとしている。
その理由がやっとわかった。
それは米国との対立でもなく、旧西側との軍事的対立でもない。
たぶんそれはロシアがヨーロッパで村八分になることに危機感を感じていることが最大の原因であることにほぼ間違いないであろう。

しばらく勉強していなかったこともありNATO加盟国が劇的に増えていることを私はまったく知らなかった。
実は私の知識は高校生頃に習ったソ連のワルシャワ条約加盟国に対する西側諸国によるNATO構成というところで止まっていたのだ。
従って冷戦終結もソ連崩壊も東西ドイツ統合も何もかも考慮にはいっていなかったのだ。
不勉強で無関心にもほどがあるっちゅうねん。

で、最近ニュースでロシアがウクライナに侵攻するかもということが盛んに言われていたので、
「もともとウクライナってソ連ちゃうの」
とロシアの圧力を不思議に感じていたのだ。
で、念のためにNATO加盟国を調べたところ愕然としたのだ。
なんと1990年代後半以降、旧東ヨーロッパ、旧ソ連邦の国々が次々にNATOに加盟。
今やNATOに入っていないのはウクライナ、ジョージア、グルジア、ベラルーシぐらいで、このうちウクライナとジョージアはNATO入り熱望しているという。
ウクライナは今もめているので尤もだが、ジョージアはあのソ連の優秀な外相だったがシュワルナゼが初代大統領を務めた国。
そこまでが西側のNATOへの加盟を希望しているとは。

残るはグルジアとベラルーシぐらい。
さすがたったの3国同盟ということになるとロシアとしても面目丸つぶれというようりも「オレってそんなに嫌われ者なのか!」という衝撃のほうが大きいのだろう。
畢竟、ジャイアンじゃないがプライドが高いだけに暴力に訴えている、というのが実情のようだ。

村八分が嫌なら、いっそのこと「オレもNATOへ入れてくれ!」とロシアもアメリカにお願いしたらどうだろうか。

ん?
その場合の仮想敵国?

習さんの国があるじゃないですか。
習さんの国は世界の仮想敵国。

あんがい、世界平和のためには良いのかもしれない。



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クリント・イーストウッドの「クライマッチョ」を見てきた。
御年91歳の監督主演。
おそらくハリウッド最高齢の現役映画監督+主演俳優だろう。
お年は召したとはいえ、やはりクリント・イーストウッドがスクリーンに登場するとなんとなく安心感がある。
さすが「ハリウッドのスター」だ。

米国映画が米国映画たる雰囲気を醸し出さなくなって久しい。
アメリカを感じさせる映画が減ったという意味だが、アメリカそのものの魅力が20世紀に比べるとかなり衰えていることもある。

映画の制作方法も大きく変わった。
CGで作られたアクションや差別回避で白人、黒人、アジア人とまぜこぜの無理やりキャスティング。
暴力。
あからさまな性描写。
正直言ってそういう映画を見るために料金を払いたくないし、時間を無駄にしたくない。

気楽で陽気でハッピーエンドなドラマがアメリカ流の映画だと思っていたのだが、最近は暗い題材も少なくなく、
「ああ、アメリカ映画は変わっちゃたのね」
という感覚を抱くことも多い。

そんななかで「クライマッチョ」。
実にアメリカ映画的なロードムービーなのであった。
ロードムービーと潜水艦映画にはつまらないものはない、という共通点があるがまさにそれ。
途中でなんとなく結末が見えてしまう感じもないではないかったが、それだけに安心して見ることのできるアメリカの映画なのであった。

クリント・イーストウッド。
あと何作品の映画を作ってくれるのだろうか。


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