<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





大阪市営地下鉄「扇町駅」を下車するとすぐにある建物がキッズプラザ。
関西テレビの入っている建物で、ここの3階に大阪市のインキュベーション施設メビック扇町がある。

メビック扇町は大阪で活躍するクリエイターを育て活用することを目的に運営されている組織で、その活動は活発そのもの。
毎週いくつものイベントやセミナーが開催されていて、所長の堂野さんはじめスタッフのエネルギーと、そこを足がかりに日本全国へ、世界へ羽ばたこうとするクリエイターの皆さんの熱気の熱い場所でもある。

あまり一般に知られていないのだが、人口比では大阪は東京以上のクリエイター激戦区。
ただでさえ仕事の少ない土地柄に加えて、創作物をとってもクールな目で評価する土地柄でも有り、並大抵の腕のクリエイターでは大成しないのが関西の厳しさだ。
それだけに大阪を中心にした関西のクリエイターのスキルは首都圏のそれと比べて一般に高いと言われている。
これホント。
だれもが知っている東京メジャーな雑誌の編集は実は大阪のクリエイターが携わっている、なんてことがあるのが今の姿。
コテコテではなく、洗練されたデザインが紙面を飾っていて、実は大阪のデザイナーの編集です、ということも少なくない。

そんなレベルの高いクリエイターの集まる大阪でスタートしたのが「マチオモイ帖」

今回は3回目ということで、なんと大阪だけでは収まりきれず北海道から沖縄まで十数箇所で開催されるイベントになった。
ちなみに東京はミッドタウンで開催されている。

このマチオモイ帖はクリエイターにとって思い入れのある街を、簡単な冊子か、2分間のビデオ作品でその想いを表現するというイベントで、題材としてある時は故郷であり、ある時は若い時に住んでいた街であり、またある時は今住んでいる街であったりする。
一人ひとりの感じ方や思い出がたっぷり詰まった作品がマチオモイ帖なのだ。

先週の金曜日にそのマチオモイ帖のオープニングイベントがメビック扇町で開催されたので私も参加してきたのだ。
付き合いのあるデザイナーさんが数名参加されていることと、私自身も非常に興味があり、製作に大きく関与した作品も展示されることになっていたからだ。

冊子は地域別に分けられて展示。
動画はランダムに正面スクリーンへ上映。
どちらも心惹かれる作品ばかりだった。



それぞれの題材も楽しいがクリエイターの数だけ表現手法も異なり、その違いの1つ1つがこれまた楽しい。
文章の面白いマチオモイ帖。
マンガのようなマチオモイ帖。
ドキュメンタリータッチなマチオモイ帖。
時には飛び出す絵本になっているマチオモイ帖。
などなど。

このイベントは各地でそれぞれの街を題材にしたマチオモイ帖が展示されており、どこへ行っても違ったマチオモイを楽しむことができるイベントなのだ。
大阪から全国へ。
自分の街を、自分の街に近い街を探すのも、これまた楽しい。

(下の写真)オープニングイベントで出た創作料理。かなり美味かったが、量の少ないのが欠点ではあった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






ロシアへ隕石が落ちきた。
こんな騒ぎが起こるのを予想して読んでいたわけではないのだが、あまりもタイムリーなのでビックリしていた一冊がフロリン・ディアク著「科学は大災害を予測できるか」(文春文庫)。
地震、雷、火事、親父、ではないが、人類社会の大きな脅威である大災害について、その発生を現代の科学は予測できるかどうか、といったことをわかりやすく、かつアカデミックに紹介しているのが本書である。

地震の発生は予測できるのか。
津波の前兆は。
株価暴落はなぜ発生する?
パンデミックに備えるには。

といった大規模災害について数学者の立場から解説しているのが面白い。

それにしても「隕石」の地球への衝突が本書を読んでいる時に発生するとは思わなかった。
しかも「小惑星」が地球の人工衛星の軌道内を通過するという天体イベントもあって小天体の地球への衝突による大災害についてはとりわけ大きな興味を持って読むことになった。

今回ロシアに落下した隕石は直径17メートルで重量は1万トン。
高度30kmで炸裂したその破壊エネルギーは広島原爆の何十倍にも達したという。
こういう天体は100年1度の割合でやってくるというのだが、今回がそうであったように、現在の科学技術をもってしても、この程度の大きさの隕石は事前にその存在をキャッチしておくことはできないのだという。
大きさが直径100mだとか、500メートルという映画に出てくるようなサイズでないと見つけることが難しいのだという。

3.11の地震で発生した津波は高い所で40メートルに達したというのだ、もし小惑星や大型の隕石が落下したらこんなもので済まない。
高さ200メートルの津波さえ発生する可能性があるのだという。
しかもそのインパクトは強烈で、隕石や小惑星の直径の20倍のクレーターができるんだそうだ。
地球上で見つかっている最大のクレーターはベネズエラにある直径300kmのクレータ。
大阪に落ちるとクレーターが名古屋から岡山まで出来てしまう。
破壊の衝撃は凄まじく、多分東アジアは全滅するだろう。

幸いにも今の技術を持ってすればこういう大きな小惑星や隕石は地球への軌道から外す方法もあるようなのだが、いかにせん未だ実施したことがないので不安ではある。
映画のように核兵器で破壊すると細かくなった破片が長時間にわって地球上の都市を襲い続ける可能性もあるので、現実的ではないという。

ともかく、隕石に津波に、地震、天候、台風などなど。
あらゆるものはカオスの要素を含んでいて「予測は不可能」と主張する学者のいる分野で、なかなか難しい学問ではあるのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






プライベートではMacユーザーの私も、会社ではウィンドウズのユーザー。
私の使用しているPCは一昨年に買い換えてもらったDellのノートPCでOSはWindows7。
これが使いにくい。

ウィンドウズは直感的に操作しにくいという特徴を持っているが、これにMSーOfficeなどを組み合わせて使うと完全アウトの様相を呈してくる。
どこに使いたい機能のボタンがあるのかわからないのだ。
ヘルプの機能もないので使いたい機能はインターネットで検索することになる。
検索するとだいたいは見つかるので結構なのだが、問題はバージョンが違うと使い方が全く違っていて、イメージすることもできないことがあり、正直辟易とすすることが少なくない。

ウィンドウズがパソコン業界の標準OSになったことは、世界のコンピュータユーザーの不幸なのかも分からない。

こんなウィンドウズOSだが、昨年最新の8が発売され、パソコン業界は久々の活況に湧いていた、はずなのであった。
ところが昨日の日経の記事によると、ウィンドウズ8は完全な期待はずれとなり、売上にほとんど献身していないばかりか、どこもかしこもメーカーは販売予想を大幅に下方修正。
ノートPCがタブレットに圧されて苦戦していることに加え、ウィンドウズ8はユーザーにとって斬新さやメリットを感じることの出来ない内容のようなのだ。

そもそもウィンドウズOSには今の時代、決定的な欠点がある。
それは価格ということができるかもしれない。
正直、長年ウィンドウズと闘い続けてきたMacOSは今や2000円以下になり、タブレット用のOSについては無料の状態だ。
このような市場の中で、1本2万円も3万円もするオペレーションシステムを誰が喜んで買うであろうか。
正直言ってウィンドウズを買うお金で機種にもよるがアマゾンのKindleを複数台購入することができるのだ。

マイクロソフト社は市場の動向を完全に見失って巨大なガラパゴス状態に陥っているのではなかろうか。

終了時に上の写真のような画面がでてきて何分間もスイッチが切れず、なかなか帰宅させてくれないウィンドウズ7。
新製品が失速するのも無理はなかろうと思うこと、これ畢竟なのであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




私の務めている会社は始末屋をモットーとしているため、大阪からは岡山、名古屋、鳥取、福井、などは出張扱いにならない。
困ったことである。
片道300km以内は出張扱いしないというルールが存在するので、出張手当が出ず、外食は完全自腹である。
もっとも、こういう大都市および中小都市はまだいい。
交通網が発達していて鳥取、福井でもバスや在来線の特急で2~3時間で行くことができる。
岡山、名古屋に至っては大阪からは1時間かからず最速45分。
もはや大阪から阪急電車に乗って京都へ行くより時間的には近いという驚くべき地理的特徴がある。

しかし、辺境になるところは大いに困惑することになる。
例えば和歌山県串本町はその代表で、和歌山県は大阪府の隣に位置するのだが、本州最南端の串本へ行こうと思えばJRの在来線特急で大阪駅から4~5時間もかかるのだ。
これはもう、中途半端ではない。
かといって飛行機があるかというと、そんなものはなく、大阪から串本へ行こうと思えば公共交通はJRのみ。
自分で車を運転して行っても、やはり同じぐらい時間がかかってしまうので、あまり日帰りでは行きたくないところではある。

そんなこんなで、出張手当も出ない名古屋へ先週は2往復した。
いつもは東京出張の通過点となり、最近は飛行機での移動が多いので、町並みしか縁がないところなのだが、たまたま名古屋のスタッフを応援する必要が生じたので名古屋へ出向いたのだ。

名古屋といえば、あまり美味しいものがないというのが関西人の一般的な感想だ。
ういろう、手羽先、ひつまぶし、味噌カツ、ランチのような喫茶店のモーニング、などなど。
特徴はどれもこれも「味が濃い」というところで、繊細な味を好む関西人からすると、名古屋の人には申し訳ないと思いながらも、
「ん~、田舎っぽい味やの~~」
となってしまうのだ。
ただ私も現代人なので、濃い味がダメかといえばそうでもなく、例えば前述の中でも手羽先はビールの肴として大好きだし、マクドナルドやポテトチップするのようなものも好んで食べる時がある。

きしめんも、私が名古屋へ出張ると好んで食べる数少ない名古屋名物のひとつだ。

なぜきしめんを好んで食べるのか。
その理由は自分自身でも定かではないが、麺類が好きなので、どこへ行ってもその土地の麺料理を好んで食べることがある種の習慣になっていることは確かである。
四国へ行けば当然うどん。
長崎に行けば当然チャンポンか皿うどん。
博多に行けばとんこつラーメン。
沖縄に行けば沖縄そば。
山陰地方へ行けば出雲そば。
東京へ行き行けば薮そば(燃えてしまいましたが)。
たぶん行ったことはないけど秋田に行けば稲庭うどん。
ベトナムのサイゴンへ行けばフォーガーで。
タイのバンコクではクイッティオ。
そしてミャンマーのヤンゴンではモヒンガーやシャン麺を楽しむ。
従って名古屋できしめんを食べるのは当然ではあるのだ。

で、このきしめん。
名古屋にしては味はあっさり目で麺は平べったいが、そこそこシコシコしていて悪くない。
悪いのは値段が高いことだ。

きしめんはいつも駅そばとして食べるのだが、これが一般的な駅そばと比べるとべら棒に高いという特徴がある。
つまり東京なら富士そばや箱根そば、大阪なら天王寺うどんや阪急そばと比べると格段に高い。
例えば写真の鰹節と小さな揚げの入った、いわゆる素きしめんで390円。
この価格は立ち食いなので、これが椅子のあるお店に行くと600円ほどになる。
東京で立ち食いのかけそばを食べると、一杯だいたい250円程度。高い所で300円。
大阪でかけうどんを食べると安い所で190円。高い所でやはり300円。
こうなるときしめんの390円はずば抜けて高額ということになる。

例えば大阪で600円ということになると、だいたい「きつねうどん」と「おにぎり2個」を食べてもお釣りある。
東京でも、私が時々食べる新橋の立ち食いなら蕎麦とカレーライスを食べることができる。
さぬき饂飩だと、600円もだせばかなり豪華な、例えば海老天、かき揚げ、に大盛り饂飩を堪能できる。鰹節と天かすは無料なので入れ放題。
こうなるとどうして「きしめん」がこうも高いのか。
名古屋へ行く度に疑問が高まってくるのだ。

出張扱いで手当が出ても、出てくる疑問かも分からない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






ロシアの隕石騒ぎは今のところ、
「もし原子力発電所に隕石が落ちたら」
という不毛な議論に発展していない。
ある意味不思議だ。
1000年に一度の津波のダメージを予測できず福島原発の不備が指摘されている現在、何万年に一回の隕石の落下衝突を想定していなければ、やはりそれはそれで大きく問題ではないかと、二本で活躍している単純原発反対論者なら鬼の首をとったように叫び回るに違いないのだが、今のところそこまで想像力が回っていないのかもしれない。

原子力発電所は空対地ミサイルの攻撃を受けてもびくともしない、と私は中学生の頃から習っていた。
つまり北朝鮮やテロリストがいきなり攻撃してきても、ちょっとやそっとでは壊れませんよ、ということだった。
ところがミサイル攻撃にも耐えられるはずの原子力発電所は津波には太刀打ちできず、設計上の弱点である電気系統をすべて破壊され、大事故に発展してしまった。
この場合、ミサイルで電気系統を攻撃されていても同じ事が発生したに違いないだけに、原子力安全神話教育の限界を痛感しているところなのだ。

ところで、一昨日のような隕石がもし日本に落ちてきたらどうなるのだろう。
今回の隕石は直径17メートルぐらい、重量1万トン。
ちょっとした船が空から降ってきたという感覚だ。
しかも大気圏突入速度が秒速30kmだというのだから、石の塊の隕石には大気との摩擦には到底耐えられるものでもなかった。
秒速30kmというと大阪から東京まで、わずか15秒ぐらい。
これは恐ろしい。
この速度による位置エネルギーは如何程のものであろうか。
テレビでは隕石の衝撃度は広島原爆の30倍ということだが、そのまま地上にぶつかっていたらきっと大きなくぼみが出来、ロシアのあの街は根こそぎ残骸と化していたことだろう。

その隕石が原発を直撃したらと思うと、空恐ろしくなる。
尤も、巨大隕石が原発を直撃した場合は周囲数十キロから数百キロの地域が瞬時に全滅することが予測され、地球自体が危険にさらされ原発なんか、どうでもいいレベルになるのかもしれない。

ところで、隕石は英語でメテオ。
「隕石って英語でなんていうんか知ってるか?」
との質問を娘にしたところ、
「ん~~~~、メトロ?」
とのこと答え。
古のテレビ番組ならニアピン賞をあげたいところだ。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





先日の旅セミナーでは関空でもLCCの活発な営業状況がレポートされ出席者の注目を集めていたが、もう一つ話題になったトピックが、
「最近の若者は~~~~旅行に行かん」
というものなのであった。

「なんで、旅行に行かんのでしょうか?」
という質問には簡潔な答えが戻ってきた。
「携帯電話ですよ。なんでもかんでも携帯使うから旅に回せる小遣いがない」

なんということであろうか。
電車の中や教室やオフィスやそこらかしこで携帯片手にネットサーフィン、Eメールに熱中している若者は旅には無関心なのだ。
可愛い子どもには旅させろ、と昔から言うが現実は親が与えた小遣いは大部分が携帯電話に消え去っているのだ。
そもそも大学生はもちろんだが、高校生でもスマホの料金を月々何千円も支払っていると、その他のものに回す予算は出てこないのが当然で、そういう子供が世間を何も知らずアホになっていくことも宜なるかなであろう。

そんな時代。
若者に旅をさせるにはどうすれば良いのだろうか。
きっとJTBや近ツーあたりが最も知りたい問題かもしれない。

そもそも、私が子供の頃から大学生にかけての時代、つまり1970年代80年代はテレビでも旅行を題材にした番組は少なくなかった。
海外旅行が珍しい時代には、
「さあ、10問正解してハワイへいきましょう」
というような番組が脚光を浴びていて、憧れのハワイへ行きたいもんだとだれもが思ったものであった。
紀行番組も優れものが多く、オーソドックスな「兼高かおる世界の旅」から、マニアックな「NHKシルクロード」まで様々、
クイズ番組も「なるほど・ザ・ワールド」「世界まるごとハウマッチ?」など、海外に憧れるような気持ちを抱かせるものが少なくなかった。

一方、現在。
テレビ番組なんか、そもそも見なくなってしまった。
紀行番組もNHKのBSで放送、なんていうかなりマニアックなチャンネルでしか見られなくなってきている。
国内旅行を呼び起こす「寅さんシリーズ」も無くなって久しい。
頼みの綱は大河ドラマや朝ドラだが、そんなものをいつまでも観光材料にしていると、その町が「古臭い所や」とせっかくの番組が敬遠される材料になってしかねないのだ。

頼みの綱は読書かもしれないが、読書の方はテレビよりも深刻で、そもそも今の若者は紙に印刷されている活字に触れる人は、かなり少ないのは言うまでもない。
それでも、書籍には優れた旅物が少なくなく、私としては以下の書籍に刺激されて旅を楽しんで貰いたいと思っている。

■当ブログ推薦の紀行もの書籍のメリットとデメリット

1:「深夜特急」全巻(沢木耕太郎著)
    メリット=いまさら言うまでもない海外バックパッカーの聖書的作品。乗合バスでデリーからロンドンまでの企画は今ではテロや紛争が頻発している地域を通るため実現不可能な旅になっている。しかしながら20代の若者がたっぷりの時間を使って世界を見て回るきっかけになるには十分すぎる作品だ。
    デメリット=この紀行をホントに真似て良好し、行方不明になってしまう危険性が潜んでいると同時に、本当に行方不明になった人もいるみたいだ。

2:「チベット潜入記」(河口慧海著)
    メリット=チベットへ初めて入った日本人としてのその勇気と僧侶としての視点は素晴らしいものがあり、しかも中国に侵略される前のチベットを紹介した数少ない書籍として貴重でもある。
    デメリット=真似をすると深夜特急同様、行方不明になったり、中国公安に捕まって共産党の教育施設に入れられる可能性がある。

3:「脱出記 シベリアからインドまで歩いた男たち」(スラヴォミール・ラウイッツ著)
    メリット:ロシアのラーゲリの怖さを知ることができる。
    デメリット:真似したらシベリアのツンドラ地帯で凍死するか、ゴビ砂漠で熱射病死するか、ヒマラヤで雪男に襲われる可能性がある。

4:「エディアランス号漂流」(アーネスト・シャクルトン著)
    メリット:危機に瀕した男たちの立ち向かう勇気を学べ、ひとつの生き方を見出すことができる。
    デメリット:金にもならない冒険家を夢見るようになり、大学卒業後親の反対を押し切って就職せずに土方のアルバイトをしながら秘境を目指すフリーターになる可能性がある。

5:「東南アジア四次元日記」(宮田珠己著)
    メリット:素直に旅は楽しいもの、と思えるようになる。
    デメリット:真面目なことで茶化して面白いものと思うようになり、素直な旅ができなくなること。

ということで、若者よ!旅に出よ!



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






沢木耕太郎の著書のあとがきだったかインタビュー集だったか、どの本でで読んだのか忘れてしまったのだが、そこにはアンドレカンドレ、もとい井上陽水の旅に関するエピソードが紹介されていた。
井上陽水は海外旅行をする時に、思い立った時に簡単な手荷物だけを持って成田空港へ行き、そこで行き先を決めて航空券を購入するのだという。
空港で購入する航空券はフル価格のチケット。
私のような一般人にはまねの出来ない芸当。
まるでJRでお買い物に出かけるような感じで海外へ出かける井上陽水の旅スタイルに多いに驚き羨ましく思ったのであった。

あれから幾年月。

ついに私たち一般人にも井上陽水のように空港へ行き、「乗ってみたいな、今すぐに」という感じでヒコーキに乗ってどこかに出かける時代が訪れていたのだ。
正直、そんなことにはちっとも気がつかなかったのだ。

先日、現在の旅行業に関するセミナーを受講した。
別に私が旅行業に従事しているわけではなく、私は研究設備関連産業に従事しているので旅行業は関係ないが、一般人を対象にしたそのセミナーが大いに気になっていて参加した講座なのであった。
正直、私は自分の生業より旅が好きなのだ。
そこで、講師の先生が驚くべきことを教えてくれたのであった。
一昨年からサービスを開始したピーチエアに代表されるLCCの効果で、関西空港の利用率が飛躍的に高まっているのだという。
関空での利用比率はANAが8%、JALが8%に対し、LCCはなんと12.5%を超えるのだと言う。
しかもこの比率はますます増加していて、関西空港利用者が開港以来最大になり、2015年には600万人を超える予測が出ているという。
この乗客増加効果は、単にLCCの便数が増えるだけにとどまらず、他のエアラインも多数引き込む効果を生んでおり、周辺の大阪空港とのコラボも相まって理想的な展開になっているのだという。
どこぞの門限あり国際空港と違って関空は24時間いつでもオープンなので、LCCにとってはベストな環境なのだ。

ここで注目すべきは利用者側のスタイルで、もはや関空~沖縄、関空~札幌が往復で20000円以下なので、空港に着いてから「あ、乗ってみたい」感覚で利用する人が増えているのだという。

「いや~、関空に遊びにきたら孫の顔が見たくなって、その場でチケット買って行ってきました」

という感じだ。

もはやLCCは鉄道よりも遥かに安く、遥かに早い。
それでいて快適で、まるで乗り合いバスを利用するような感覚でヒコーキを利用できる。

関空からのトレンドは飛行機の乗り方文化の劇的変化をもたらしているようだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






航海中に嵐で遭難。
奇跡的に生き残り、ある時は筏で、ある時は無人島に流れ着き、そしてある時は異国の船に救い上げられる。
漂流ドラマは映画、小説、どちらをとっても劇的でスリリングだ。
主人公は陸地にたどり着けるんだろうか、陸地にたどり着いても故郷に帰ることは出来るんだろうか。
いつもハッピーエンドを期待して物語に没頭する。
多くの場合は帰還することが叶うのだか、稀に帰還できずに死んでしまうケースがあるので結末を見るまでは結果はわからない。

「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」は主人公が奇跡的に生還できた物語だ。
観客は映画の冒頭から主人公が死なないドラマとして見ることができる。
というのも、物語は主人公が過去を振り返り語る形式で進められるわけで、もし途中で主人公が死んだりなんかしたら、
「今話している人は誰?」
ということになってしまう。
主人公は生きてこうして語り部としてインタビューを受けていますよ、という約束事とともに物語りは進むので、いわゆる犯人が分かったまま進行するテレビドラマ「刑事コロンボ」のようなものと言っていい。
それでは、何をして観客は楽しむのかというと、刑事コロンボが犯人がどんどんと追いつめられていくプロセスを楽しむのと同じように、主人公がいかにして「トラ」と一緒にサバイブするのか。
それをヒヤヒヤしながら楽しむ冒険ドラマなのだ。

それにしても、CGが多用されているからといって、ライブ撮影も美しく、物語そのものも非常に魅力的なドラマなのであった。
監督のアン・リーという人は台湾人で、アメリカで活躍。
何年か前にアカデミー賞を穫った「ブロークバック・マウンテン」のメガホンを握った監督として記憶している人も多いことだろう。
あの作品は「同性愛がテーマだ」なんて言われていただけに劇場に足を運ぶ気にまったくなれず、ついに今日まで見ていないのだが、今回の映画は「漂流もの」ということもあり、家族を伴って楽しく鑑賞することができた。
ロケーションも台湾で撮影されているところが多いとかで、出演する日本人役も、どうやら台湾の人が演じているらしく、外見は日本人だが、日本語がどこかおかしいというところは、ちょっとした愛嬌なのかもしれない。
また日本の貨物船が沈没して主人公は漂流の身の上になるのだが、そここに書かれている日本語も台湾で撮影された映画だけに間違いもなく自然なのであった。

不自然なのは、どうしてトラと一つ救命ボートで生き残ることができるのか、という一点であった。
人間とトラが同じ船に乗ったら食べられるではないか、と思ったのだ。
もちろん人がトラを食うのではなく、トラが人を食うわけだが、見始めると、そんな疑問はすぐ吹っ飛んでしまった。
この映画の不自然さがないのは、このトラと人間のサバイバルを見事に描ききっていることで、CGの技術以上に物語そのものが生々しく、リアルさを感じさせるものになっていたのだ。

ところで、漂流ものにつまらないものは無いと断言したけれども、それは本当だと私は思っている。

映画ならトム・ハンクスの「キャストアウェイ」、西田敏行の「おろしあ国酔夢譚」などがあり、小説にはノンフィクションの吉村昭「漂流」「アメリカ彦蔵」「大黒屋光大夫」、シャクルトンの「エディアランス号漂流」などがある。
さらに宇宙ものとしては「アポロ13」なんかが漂流のジャンルに入るのではないだろうか。

トラとの漂流物語は奇想天外で奇抜だが、やはり、面白いというのが、この映画の「漂流もの」たるところなのだ。
きっと。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





1985年、春。
就職先が決まらないまま大学を卒業した私はアルバイトをしながら就職先を探すことになったが、「芸大卒」ということがハンディキャップなのか、私自身に魅力がなかったのかなかなか生業が決まらないまま夏を迎えてしまった。
この夏は掛布、岡田、バースなどの活躍による阪神タイガースの21年ぶりの躍進や日本航空123便の御巣鷹山事故など、良いも悪いも様々なニュースが錯綜したが、私の就職には何らポジティブな影響を与えることはなかった。

日航機事故のニュースがまだ消えない秋に、父が胸を患って長期入院することになった。
これはエライことになった、と思った。
スネをかじりながらバイト生活に満足している場合ではない、と初めて危機意識が芽生えたのだった。
甘ちょろい若者なのであった。

そこで私はもっと堅実な仕事はないか考えて、求人雑誌で大阪市内の小さな建築設備の会社が募集する長期アルバイトを見つけた。
内容は竣工前のビルの空調設備の検査と資料作成アシスタント。
芸大卒の私がこんなテクニカルな仕事をやっていけるのだろうか、と思って面接にでかけたが即決で採用され、すぐに阿倍野区にある再開発ビルの現場に派遣された。
25年後にキューズモールと棟続きになる最初のビルなのであった。
日給は6000円。
交通費全額支給。

それまでも作業着を着て仕事をすることは無くは無かったのだが、ヘルメットや安全帯をつけて多くの監督や職人さんと入り交じって仕事をすることは初めてだった。
正直言って、
「ブルーカラーかホワイトカラーかわからん仕事。あ~あ、何のための芸大やったんか」
と思い悩むこともなくはなかった。
建築現場で「土方のまね事」みたいな作業者仕事で、「映像クリエーターを目指すぞ」という当初の夢と現実のギャップに悲しくなってしまうこともなかった。
ところが実際に建築現場で働きだしたら、建築の仕事がじつは壮大なる芸術作品の創造であることがわかった。
途方も無い数の人々の力によって生み出されるその作品は100年以上も街のランドマークになることに気づいた。
しかも「土方」「肉体労働者」とわずかながらも偏見のあった工事現場の作業者の人たちの多くは素晴らしい技術を持ち、公的なライセンスを持っている人も少なくなく、設計、監督から基礎、鉄骨、電気設備、配管設備など様々な業種がコラボする「映画製作」のような世界であることに大きな魅力を感じたのだった。

働き始めたのが秋だったので、まず冬の寒さが身にしみた。
初めて迎えたあくる夏は肉体の限界を意識せずにはいられないほどの酷暑に喘いだが、それでも建築仕事の魅力は若かった私の脳を刺激し続けたのであった。

ある日、昼の定時連絡の時に淡路町の事務所に来るようにと社長から呼び出された。
「うちの契約社員になりませんか?」
アルバイトから社員への昇格なのであった。
以後4年間、この会社で建築設備の仕事に従事した。
4年目を迎えるころ、自分の働きを認められたのか、東証一部上場の大手設備現場の所長から、
「うちに来ないか。そっちの社長には話してあげるし。君みたいなんに来て貰いたいねん」
と声を掛けられたのが大きな自信につながった。
ちょうど同じ頃、デザインのできる設計者を探している中小メーカーを見つけていた。
大手に入ると途中入社なので出世は難しいし、勤務先も日本国内はもちろん海外もある。でも給料は格段に変わる。
中小メーカーの仕事は給料はさして良くないが、もともと目指していたクリティブな仕事に関係する。

思い悩んだ結果、建築設備会社を退職し、正社員として中小メーカーの工業デザイナーとして再出発することになったのであった。

その会社も結局3年で退職することになったが、この2社で知り合った様々な人々との付き合いは今も途切れること無く続いているし、なんといってもこれら2社で学んだことが現在の仕事に活かされているのが驚く限りだ。
専門の技術を学んだわけではなく、実務でこつこつ蓄積した知識が会社でももちろん、大学の連携研究員というなんちゃって大学関係者とう立場でも、先生方と十分な話しができるだけの力を私につけさせてくれた。
ありがたいことだと、給料の額はともかく感謝しているのだ。

有川浩著「フリーター、家を買う」は、大学は卒業したけど入社した会社は数ヶ月で退社。
アルバイト生活から自分の道を見つけ出す今時の青年の物語だ。
この小説を読み始めて、一番最初に思い出したのが自分自身なのであった。
私も主人公のようにフリーターから就職し、建築現場を渡り歩き、やがて自分の立ち位置を見つけるというプロセスを踏んできただけに、面白いと思うと同時に、過去27年間の様々なことが脳裏を去来したのだった。

大卒でちゃんと就職して、それを転職として全うすることも立派だと思う。
しかし、そういう普通のプロセスではない道を歩ることもまた、人や社会にとって重要なことなのかもしれない。
作家の沢木耕太郎は大卒後大手企業に就職が決まったが、初出社の日に何か出社することに疑問を感じて、そのまま家に帰ってしまったという。
社会人スタートとしては失格かもしれないが、結果としてフリーターというプロセスがなければ素晴らしいノンフィクション作品は生み出されなかったわけだし、私事で恐縮だが、普通に就職していたら今の結構変わった立場の仕事にもつけなかったかもわからない。

フリーターが買うのは家だけではないのである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




その昔、アイドルは神聖なものであった、というような気がする。

百恵ちゃんはトイレには行かない。
とか、
淳子ちゃんは屁をこがない。

といった基本的な要素はともかくとして、男性女性に限らず、アイドルはある意味、仮想の恋愛対象であったのではなかろうか。
従って、

聖子ちゃんは清純だ。
とか、
今日子ちゃんはいつもキラキラしている。

といった恋人相手に考える幻想まで加味されてアイドルは神聖化されていたように記憶するのだ。

芸能プロダクションもアイドルの教育に対してはプロフェッショナルだった、と思う。
これらファンが持ち続けている幻想を打ち消すようなスキャンダルが絶対に起こらないようにマネージメントに努めていたことが伺える。
伝える方も、スターはスターとして扱い、それなりの敬意を払って「幻想」が打ち消されないように努力した。
それはまるで、色街のルールと似通った、厳しい仕来りのようなものがあったのではないかと思われてならない。
ある意味、それはアイドルは芸人としてプロの中のプロの時代だったのだろう。

例えば、山口百恵と三浦友和のカップルは当時、大いに注目され、羨望の的であったが、二人がプライベートにデートをしているところも、ましてやホテルから出てくるなんてところは一切報道されることはなかった。
二人が理想的なカップルである、というイメージはグリコのCM、映画、明星・平凡といった雑誌などで伝えられ、プロモートされていった。

だから逆にスキャンダルについては一切厳禁だった。
もし、事実が外に漏れるとそのアイドルは抹殺されもした。
城みちると伊藤咲子、高部知子、その他、色々。
事例を挙げれば切りはない。

アイドルは生身の人間だが、芸能の世界に生きる限り、幻想を貫き通すのがプロというもので、それは演じる方も、演じさせる方も、見る方も、すべてお約束として成立していた。

あれから数十年。

今、アイドルは神聖なものではなくなってしまった。
お友達感覚のアイドルはお粗末な歌と踊りを優れたビデオ編集技術でごまかしている。
芸が幼稚だから飽きられやすい一方、ギャラが安いうちが人気の絶頂期に当たるため、ギャラが上がってから起用する必要がないのでカネがかからにというメリットがある。
しかし、このようなご都合がいい芸人は、畢竟奥行きがない。
だから独立して単品タレントになった元グループアイドルは、関西生まれの一般人のインパクトもないのだ。

現代アイドルの代表選手AKB48のメンバーの一人が文春の記者に恋人の男とお泊りした所をスクープされ、反省の印として坊主頭になった。
女が坊主頭。
空恐ろしいというか、やり過ぎの不気味というか、「阪神タイガースが優勝を逃したら坊主にします」、はよく聞くセリフだが、「男が出来たので坊主にします」というのは私の知る限り初めてだ。

「あんたと一緒のところを見られたのよ!私坊主になるわ」

なんて言われたら相手の男はきっと「なんでやねん!」と自信をなくすことだろう。
それを考えただけでも、アイドル=虚像の資格は無いように思う。

AKBはもしかするとアッカンベーの略なのかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )