<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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「終末医療についてはどう考えていますか?」

母が最後に入院した病院で症状の説明のときに主治医の先生がリストを提示して私に訊ねた。
人工呼吸器をつけるのか、蘇生術を施すのかなどなど。
いよいよその時が来たという状況に対して家族の判断を仰ぎどのように治療するのかを決めるのだという。
私は母が末期がんでしかも高齢であることから機械を使って無理やり生きながらえさせるのは人として疑問だと思っていた。なので回復の見込みがないくらいなら喉を切開して人工呼吸をさせたりするのはむしろ可愛そうだと考えていたのだ。
最も幸せなのは自然になくなることだと思っていた。
こういうことを当の本人に質すことは難しい。
認知症が始まる前に、こういう話をしておくのが本来良かったのかもしれない。でもすでに時遅し。
それを決めるのは一人息子で一人っ子の私の務めだと思っていた。

「ただ一つだけ。最後まで苦しくないようにその時を迎えるようにしてあげてください。それだけお願いします。」

私が主治医の先生にお願いしたのはそのひとつだけなのであった。

医療現場というのは人の命を預かっているだけにデリケートさは他の職種と比較しても半端ではない。
寝たきりになってしまった病人や老人の扱い。
治療の効果の見込めなくなった患者。
最期の迎え方。
患者本人や家族の思い。
それらに常に配慮しながら医師やスタッフは患者への対応を考えなければならない。

「医療現場の行動経済学」(東洋経済新報社刊)は行動経済学から見た医療現場での対応や考え方を分析し、どう対処していくのかということを具体的に事例を挙げながら考えることのできる科学書だ。
内容はしっかりと専門色を確保しながら私のような医療の専門家でもなんでもない一般人でも理解できるように書かれていて読み応えがある。
著者は大阪大学で行動経済学を研究する研究者。
大阪大学というえば付属の阪大病院は日本屈指の高度治療を実施している病院でもある。

掲載されている末期がんと主治医の治療に関する意志の確認事例や亡くなった後と亡くなる前の家族の思いなどの具体的例はもしかすると阪大病院の事例なのかなともう読み取れなくはないが、それを医学ではなく行動経済学からアプローチしているのがリアルさを増す。
治療と費用の関係。
命は大切だと思いながらも、保険の効かない治療をするしかない場合はどう決断されるのか。
そのような人の理想とする思いと実際の金銭や期待値、その他を交えた医療への「実際」の考えや対処は今後自分が同様のシーンに直面させられた時にきっと知識として役立つに違いないと思った。

それにしてもこの時期にこの本に出会えるとは思わなかった。



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二年前の夏の終わり、
「来期は名古屋勤務だから」
と決算日の前日に私は直属の上司だった事業部長に異動転勤を言い渡された。そしてその後すぐ家族と相談してその日のうちに会社を退職することを決断したのだった。
カミさんが「なんとでもなるわよ」と言った一言が効いたのはもちろんだが、家よりも会社を取れと暗に示唆した上司に対して元々煮えたぎりそうになっていた不信感が確固としたものに変わったのも大きかった。
しかし、それよりももっと大きな問題があった。

両親の介護の問題だ。

会社への不満があったことはもちろんだが当時私の父母は双方とも80代後半になり、生活に関して肉体的に若い時と同様の機動力を失いつつあった。
毎週実家に行っては自動車で買い物に連れて行く。
毎月の病院通いを同行する。
金銭の管理。
その他諸々。

とりわけ気になりだしていたのは母のボケ具合。
何か障害があるというわけではなかったのだが、料理のレシピを忘れるような記憶の問題が起こってきていることと、足が悪いので歩行が大変になってきていることだった。
肉体面はともかく記憶についてが特に心配だった。

仕事の関係で毎週のように大阪から東京、仙台を往復するような出張生活をしていたので、どこかで転勤を申し渡されるのではないかと思っていたが、ついにその時が来たのかと思った。
出張だと毎週確実に両親の様子をこの目で伺うことができるが、転勤すれば帰阪することはままならなくなる。
このとき、年明けには娘の大学受験も控えていた。
私が大阪を離れるとカミさんが多くを一人で見なければならなくなる。
カミさんのほうにも一人暮らしの義母がいる。
カミさんへの負担は最小限にとどめたいとも考えていたのだ。

退職を決意してから次の仕事先を探していみたが年齢が年齢だ。
50を過ぎた男が簡単に仕事を見つけることなどできるわけはない。
会社を騙し透かししながら引き伸ばしに伸ばした退職日には無職となることが決定していた。
同僚たち、かつての部下たちは心配してくれたが自分が選んだ生き方なので特に辛いという感覚はなかった。
ただ生活をどうするのかという問題があった。

退職金は残っていた実家のマンションのローンへの繰り上げ返済に投入。
借金を完納させた。
私は退職金は暫くの生活の糧に必要かと思っていた。だが「借金がないほうが気持ちの上で有利やで」というカミさんの後ろ押しがあって全額はたいて支払ったのだ。
依願退職なので失業保険が出るまで3ヶ月。
その間は私の貯金を切り崩すことにした。

「生活、大丈夫なんか?」
面倒を見ているはずの実家の両親が心配する。
その都度、
「大丈夫。転職は初めてやないやろ。信用しておいて。」
というしかなかった。

その間も就職活動を続けるが芳しくない。
転職サイトに登録もした。
でも、オファーが来るのはタクシー運転手、バス運転手、塾の経営、内装フランチャイズ、不動産営業のようなものばかり。
私の専門と関連したものは特殊なのでなかなか見つからない。

たまにバイトをしたり、交流会、異業種会に出ては方向性を探るが就職は難しそうだった。
やがて失業手当が給付されはじめた。
でも仕事は見つからない。
その結果、意を決して決断したのは、
「もう会社には就職しない。自分でやる」
という起業なのであった。

起業するとすると何をやるのかというと、最後の仕事だった企画・マーケッティングおよび設計という総合的なデザインに関する業務だった。
でも心配が頭をよぎる。
個人としてのデザイナーの実績のない私と付き合ってくれる会社があるのか。
相手にもされないのではないか。
果たしてできるかどうか未知ではあったが、やるしかない。
まずは私は会社員時代に付き合いのあった当時のお客さんを手当たり次第に回ることにした。
ほんとは退職した会社との取り決めで、そこが取引する会社には一定期間出入りしないという取り決めがあったのだが、そんなことは言ってられなかった。

親の面倒を見る必要がある。
家族の面倒を見る必要がある。
娘の大学生活を支援してやる必要がある。
生きなければならなかったからだ。

回り始めて初めてわかったのだが、かつての取引先は私をしっかりと見てくれていたことだった。
辞めた会社で私が何をして、どんな実績を作っていたのか、どんなアイデアでもって実行している人間なのか、といったことを。
「会社との取り決めがあって、ホントは」
というと、
「秘密を守ればいいんです。出入りしないとか仕事をしてはいけないというのは憲法違反ですよ。」
と笑いながら言ってくれる会社もあった。
正直、一言一言が嬉しくて勇気が湧いてきたのだった。

暫く東京、大阪を回っているとある日、JRの駅で電車を待っているときに、
「今どうしています?元気にされていますか。相談があるんです。手伝ってほしいことがあって。少し難しい案件があるんです。」
と携帯に電話がかかってきた。
仲の良かったある会社の営業マンからの電話だった。
これが起業後、私の初めての仕事になった。
安定して食べられるほどではなかったけれどもしっかりした会社の仕事だったし、専門分野でもあったので金額も決めずに承諾した。

退職してから最初の仕事を貰えるまで約5ヶ月。
この間に娘の受験があり、父が誤飲性肺炎で生死の間をさまようこともあり、しかも私自身が咳が止まらずCT診察してもらうと肺がんのステージ1の疑いがあるとの診断が出て検査入院をするなど大変な5ヶ月だった。
私にがんの疑いが出たときだけは流石にカミさんは泣いた。
「酒は飲むけどタバコ吸わんのに肺がんなんてありえへんで」
と言って慰めたが、検査結果が出るまで不安は拭えず、思えばこの時期が一番つらかったかもしれない。
検査入院中に母が実家から悪い足をひきずってタクシーで見舞いに来てくれたことがあった。
病院は呼吸器専門の大型病院で結核患者も多いことから高齢の母になにかあってはとならないと思い、追い返すように帰らせたことを今も時々思い出す。
検査の結果は軽度の肺炎なのであった。

最初の仕事をもらってから2年少しが経過した。

その間、悪い予感は当たるようで生死の縁をさまよった父は2ヶ月の入院の後に退院。
肥満した体はガリガリに痩せてしまった。
勢いはなくなってしまったが、記憶力が年相応になったことを除けば認知症の気配は微塵もない。
それとは対象的に父の入院をきっかけに母が衰弱した。
物忘れだけではなく、買い物の決断もままならなくなってきたので専門医に見てもらうと認知症との診断。
アルツハイマーかどうかはわからないが、水頭症があるとも言われ母を連れての病院めぐりが始まった。
かかりつけの病院から認知症診断の専門病院、脳神経外科、内科などなど。

もし異動転勤を受け入れていたら、こんな対応はできなかったに違いない。
自営業だからこそ、自分で時間を割り振りして家族の面倒もみることができる。
もちろん仕事も熟す必要があるので朝早くから深夜まで資料作りや打ち合わせでアクセクすることも少なくない。残業何時間なんて関係ない世界だ。

昨年は会社員時代に所属した研究会の理事の一人から連絡を受け、その研究会の仕事をさせてもらったことをきっかけに研究会に復帰。
「わたし、個人資格で再参加させていただいていでしょうか?」
と聞いたところ、メンバー幹事の大学や研究所の先生方、かつての取引先や競合先の皆さんから「大歓迎」の返答をもらい、しかも歓迎会まで開いていただいた。
まだまだ安定しきってはいないものの、家族と一緒にいられて親を看取れて、会社員でありつづけるよりも、この判断は良かったのだとつくづく感じているところだ。

介護を理由に会社を退職する人が多く、それが社会問題になっているという。
親の介護をするには私のように50を超えて、ということがほんとどなのだろう。
日本の社会では高齢化社会と言いながら中高年の転職は難しい環境が続いている。
終身雇用が当たり前の感覚も崩壊しつつある今、働き方改革を進める上で中高年の転職環境の整備は重要だとつくづく感じている。
フリーランス、副業の奨励など。
現在の政府が取り組んでいる様々な試みはこのような社会情勢を背景に見据えたものに違いない。


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6月22日朝7時40分。
母が旅立った。
令和に代わったばかりの5月3日。
87回目の誕生日を迎えたばかりの母は今月に入ってから容体が急変。病院のスタッフの皆さんの懸命な介護も虚しく夏を前にして旅立ってしまったのだった。
今悲しみはありながら、なんとなく妙な感覚にとらわれている。
入院していた病院へ行くとまだ会えるような感覚と、今も施設でゆっくりと夕食を食べているんじゃないかという感覚だ。
また実家へ行って帰る時に見送りに出た母が私の姿が見えなくなるまで玄関先で手を降っているような、そんな感覚がある。
でもその姿を今後永遠に見ることはない。
これが寂しさというものなのだろうかと考えることしきりだ。

先々週の木曜日だったか金曜日だったか。
病院のベッドに寝ている母の横で丸椅子に腰をかけていたら、母が私の顔を見て、
「...元気にしいな」
と病と認知症に侵された弱々しい声で言った。

認知症と診断されて1年と半年。
次第に母は意識や記憶が混沌としているのか何を言っているのかわからないことが多くなった。
「今朝、お寿司作ったから持って帰るか?」
と言ってみたり、
「漬物そこにつけてあるから持って帰り」
と他の人のベッドの方へ行こうとしたり、正直どう対応したらいいのかわからないことも少なくなかった。
ところが「..元気にしいや」という一言がやけに正常でそれが別れの定型句の1つであるだけに私は心配になってしまった。
「何言うてんねん。ほら元気やで」
と言い返して私はその不安感を払拭しようとしていた。
安物のテレビのドラマや小説で肉親がそれとなく別れの挨拶をしてそれが最期の言葉になってしまうというようなことを想像してしまったのだ。
この後、なんとなく帰宅しずらくなったものの、まさかと思って後ろ髪引かれる思いは抱えつつ母の入院する病院から家路についたのだった。

あくる日。
夕食を食べさせに病院へ行ってみると昨日と同じ状態の母がいた。
ご飯を八割がた食べさせてデザートのヨーグルトを食べるかと訊いたところ食べるというのでゆっくりと食べさせてその後の様子を見て帰宅した。
さらに一日をおいて夕食時に訪れた。
配膳がまだ始まっていなかったので母のベッドの横の丸椅子に腰をおろしてぼんやりとその寝顔を見ていた。
めちゃくちゃ痩せたな。
昨年のお正月にはちゃんとお雑煮も作ってくれたのに、などと考えていると母がふいに目を開けた。
そして私の顔を見て、
「.......なんでずーっと黙ってるんや......」
と言った。
認知症になってから私の雰囲気をつかんで話しかけることはほとんどなかった。
なのに今度は私が黙っていたことを不思議に思ったのだ。
黙っているからと言葉をどう絞り出そうかと思案している瞬間に、
「三人でな....〇△☓〇☓....なあ」
と母。
「おかあさん、何言うてんのかわからへんわ」
私は母の「三人で」のところ以外は聞き取ることができず、それが面白いように感じていると母が思うように笑いながら言ったものの「三人で仲良く元気にしいや」と言ったのではないかと思われてならなかった。
なぜなら私の家族は妻と娘と私の三人だからだ。
それとも父と母と私の三人のことを言っているのだろうか。
その後、母は私の手を取って震える手で自分の胸元に持っていった。

夕食が運ばれてきたのでベッドのリモコンボタンを操作して母の上半身を起した。
そして母の口にスプーンとフォークで細かく切ったおかずやご飯を運ぶ。
喉を詰めないように時々味噌汁を飲ませながら口に運ぶ。
今夜は九割は食べきり、デザートについていた桃の缶詰を口元へ運ぶと美味しそうに食べきった。
「はーい、ごちそうさまやな」
「食べた...」
食べながら母の体が傾いてくるのが気になったが食べた量が他の患者さんよりも多いような気がしたし看護師の方も「よく食べましたね」と笑顔で言ったのでまだ大丈夫かなと思った。
「帰るよ、お母さん」
食事が終わって落ち着いたところで私は母の手を握ってから病室を出た。出る時に振り返ると少しだけ微笑んで母が弱々しく手を降っていた。
「気いつけや」
と小さな声で実家の玄関先で降ってくれていたときと同じように。

結果的に母に食事を食べさせたのはこれが最期になった。
それに実質的に会話をしたのもこれが最期だった。
看護師さんによると翌日母はいつもどおり朝食と昼食を食べたのだが、午後の床ずれの治療の後に眠り込んだ。
この日も夕食を食べさせようと母の元へ行った私は鼾をあげて寝ている母を見て、
「気持ちよさそうに寝ているな」
と思ってそのまま帰宅したのだ。
その夜から母は昏睡状態に陥いり三日後に帰らぬ人となった。

「元気にしいや」

どう思ってそう呟いたのか。
人は自分の死期を悟り、大切な家族への言葉を残すこともあるのか。
子供だった戦争中、家庭の事情で十分に学校へも行くことができなかった母。
一人息子に残した言葉は凡庸だが母にとっては重要なメッセージだったのかもわからない。





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最近の野党の皆さんの主張や行動を見ていてひとこと言いたくなりました。

今からでも遅くない。
転職してください。

以上です。


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先週末。
京都のとある大学で異業種交流会があって、会場の大学の斜め向かいに大日本印刷の京都dddギャラリーがあるのに気がついた。
ここは以前から行ってみたいなと思っていたところなのだったが、何しろ京都市街の一番西の端っこにあるのでなかなか訪れる機会がやってこなかった。
今回はチャンスとばかりに見てきたのだ。
無料だったし。

今は展覧会は装丁家・矢萩多聞が携わった仕事を取り上げ「本の縁側」のタイトルで開催されていた。
会場内には木製の面積の大きいテーブルが配置され、そこに多くの書籍が並べられていた。
専門書から一般書。
カラフルなもの。
モノトーンなもの。
歴史書あり、小説あり。
ノンフィクション、科学本、雑誌、写真集などなど。
こんなにも多くの書籍が表紙を上に向けて並べられていることはなかなかない。
印象的なのはどの表紙も素敵で見て回っているうちにふと手にとってパラパラとページを捲ってしまうことであった。
表紙はやはり書籍の顔なのだな、とつくづく思った。
その一方、こういうリアルな書籍だからこそ、展示会場の「空間」と本という「立体物」で構成される図書本来の魅力は電子書籍では生まれない、あるいは感じられない重量感というか書籍の呼吸感と知の空気が私たち観ているものを包み込み、なんとも言えない気分にさせてくれたのであった。

壁には作家が観てきたインドの出版社の紹介や小学校で活動しているワークショップの内容などが掲示されていた。
これもまた新鮮で具体的で、なにやら心をクスクスとくすぐるような魅力に溢れ「ここへ寄ってよかった」と思わせる感動に包まれた。

本の縁側。
ゆっくりと田舎の家で縁側に座って読書をする。
そんな臭いのする展覧会なのであった。


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ポスターを見たときから気になっていたのが東京ミッドタウンの21_21DESIGN SIGHTで開催中の「ユーモアてんてんてん....」という展覧会。
やっとのことで見てきたのだが、やはり東京六本木という場所だけに洗練されてしまっているというか、東京らしい遠慮要素たっぷりのユーモアと言うか。
正直言って品が良すぎて期待していたほどのユーモア感は私としてはなかったような気がしているのだ。
これは私が関西人だからこういうユーモアがわからない、ということではない。
それは誤解だ。
何も「ユーモアがない」というわけではない。
確かにユーモアは溢れている。
しかしながら私の好みとはベクトルが少々違うユーモアであった。
そういうことに尽きるのではないかとも思っている。

しかも私はこの10連休中の数少ない休みを使って金沢へ日帰り旅行にでかけて「帰ってきた駄美術展」なるものを見てしまっていた。
もし仮にこれを見ていなければ、十分に楽しめた内容かもしれない。
しかし笑いの世界の現実は厳しい。
東京よりも金沢のほうが「クスッ」と笑えるセンスはウワテだったのだ。

落語でも漫才でもそうだが、面白い演者のあとはやりにくい。
しかも期待せずに観に行ってツボにハマってしまった出し物の後はなおさらだ。
今回はそういうシュチュエーションになってしまっていたのだった。

尤も、ミッドタウンの展覧会ではビッグネームが作者の中に含まれているし、著名な作品も少なくない。
アートと割り切って観に行ったら絶対に素晴らしい展示会に違いない。
タイトルに「ユーモア」とあるけれども、ある程度それは考えないようにしたほうがきっと楽しめるに違いない。
次回はそういう俗っぽい考え方は横へ避けて純粋にアートを堪能するつもりで出かけるようと思った展覧会なのであった。


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全国注目の大阪府堺市長選挙は大阪維新の会の候補が当選。
都構想実現に向けて一歩進んだというところか。
しかし有権者の目は厳しい。
丸山議員の不適切発言に端を発した維新の会議員の質的な疑問への有権者の判断は、その投票数の僅差にあらわれていると言えるだろう。
新聞いわく、
「当選した永藤候補に笑顔はなかった」。

それにしても問題は25%台の投票率。

人口100万人の堺市の市長選なので、小さな県の知事選挙よりははるかに影響は大きいはず。
ところが市民は冷めているのかアホなのか。
投票場に足を運ぶことをしない。
民主主義を放棄しているのか理解に苦しむことが少なくない。

「選挙なんで領事館にいかんと罰金を取られるんや」

と言っていたのはオーストラリア人の友達。
たとえ海外に住んでいても選挙を放棄したら日本円で一万円程度を罰金として取られるのだという。

そもそも有権者全員が投票を義務付けられたら組織票なんての無意味になる。
今回の堺市長選挙も投票差が僅差になった原因は維新への批判というよりも既存政党が組織票を動員したから。
自民党、各種民主党、共産党まで一緒になって対立候補を擁立したのだから組合やへんちょこりんな企業などの組織票がものを言う。
対立候補はこれを「チーム堺」と呼んでいた。
なかなかデザイン性の良いロゴと前方後円墳をイメージしたマークは良かったのだが、その暴走族のようなネーミングと、明らかに既得権益を守りたいという強欲感が漂っている候補者と支持組織の主張を堺市で生まれ育ち8年前まで住民票もおいていた私としてはまったくもって好きになれなかった。

今回の選挙から考えたのは都構想を実現する前にするべきは選挙法の改正。
少なくとも大阪やその周辺の自治体だけでも「選挙は義務。行かなかったら1万円の罰金」ぐらいにしないとホントの民主主義は実現できない。

そんなことをつらつらと思った堺市長選挙なのであった。


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JR東日本労組の組合員がたった一年間で激減。
労働組合のあり方が問われている、というような記事が最近の日経に掲載されていた。

労働組合のあるような会社に勤務した経験がない私には、もともとストライキもメイデイもないも関係はない。
賃金の安かろう、仕事の内容が厳しかろうといのも会社次第。
文句も言いにくければ言ったところでどうということのない会社で働いてきた。

大学を出て最初に勤めたは大手フィルタメーカーの子会社。
大手なので組合ぐらいあるかと思っていたが、子会社まで該当することはなく組合のないまま週休1日制の昭和な勤務体系で頑張っていたのだった。
その昭和から平成に変わった年に、従業員数100名ぐらいのメーカーに転職。
製品の企画・設計を担当していたのだが、社員数の少ない会社で企画職などするものではない。
他に代替えになる社員がいないために仕事は増えども減ることはない。
残業が翌日の朝まで続くということも珍しくはなかったのだが、製品が形になって市場に出ていくのはなんともい気持ちがよく、文句は盛んに言っていたがストライキに至ることはなかった。
で、あまりに忙しいので流石になんとかせねば、と思って転職した会社が一昨年退職した会社で不本意にも23年間も務めてしまったのであった。

ここは入社した時は社員数が200人ぐらいだったのだが、退職した時は800人近くに膨れ上がっていた。
しかし創業者が生きていて、その息子たちが引き継ぐような会社だったので労働組合はなく、文句があったらいつでも辞めてもらって結構だという風土もありストライキで労働環境改善要求などするどころの組織ではなかった。
ここで私は前半の10年間を営業職で過ごし、後半の13年間を企画職で過ごした。
その13年間のうちの6年間は某大学の連携研究員を兼任していたので、会社のクソったっれなムードからかなりの時間現実逃避することができ、組合がなくても大学の事由な環境で心の落ち着きどころがあったのかもしれない。

現在は個人事業を営んでいる関係で組合はない。
ないけれども協会や研究会には加盟していて一人ぼっちの寂しさを紛らわせているのだが、協会や研究会なるものは労働環境を改善したり整えたりすることはないので、畢竟すべてが自分次第というところが面白いのだ。

件の日本経済新聞の記事によると、私のような働き方改革で登場しているフリーランスや副業に励む人々が組合活動と相容れないことに加えて、戦後教育の到達点として『争いごとは避けるべきだ』という思想が浸透してストライキやデモにより力の活動を毛嫌いする人が増えたために組合へ加入する人が激減しているのだという。

労働組合の崩壊。
それは働き方改革がもたらした効果の1つなのかも知れない。


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「免許を返上した」

不服そうにそう私に言った時、父はまだ80歳前。
長年自営業を営んできていたが高齢を理由に廃業して数年しか経っておらず、本人にしては「まだまだできる」と考えていたところで免許の返上をしたわけだ。
私は勇気ある判断だと思った。
しかし、その理由を聞いて、「親父らしい」と思ったのであった。

「なんか講習を受けぇ言うんじゃ。タダか?と訊いたら金が要るという。それも何千円も。わしゃ即座に免許の返上することにした。」

単なるケチンボなのであった。

年金生活を始めたところで生活費は母の管理下にあって小遣いは制限中。
何千円もする高齢者講習を受けてまで運転免許を更新しようとは思わなかったところが、まさしく私の父なのであった。
それ以降、父は自転車で頻繁にでかけるようになって遠方は最寄りの駅から私鉄か地下鉄で移動している。
もはや車は必要ないらしい。
一度だけ「車があったら」と言ったのは郷里の岡山で兄が亡くなった時で、その時は新幹線で大阪から出かけるのがかなり億劫に感じたようだった。
岡山の実家の村には鉄道の駅はなく、最寄りのJR伯備線の駅からはタクシーかバスになる。
吉備王国としての観光地でもあるのでレンタサイクルも選択肢としてはあるはずなのだが、父にはそのことは頭になかったらしい。

大阪や東京は公共交通が発達していた高齢者でも歩くことができれば移動はさして難しくない。
しかし、父のふるさと岡山のような地方都市の場合はどの街にも鉄道が通っているわけではないし、路線バスも本数が限られる。
畢竟自動車なしの生活は考えるのが難しくなり、免許の返上が選択されることも難しくなるのだろう。

ただ1つ、高齢者の免許返上促進は高額な更新費を設定することである程度抑制できるのではないか。
私の父の例を思い出したら、そんな考えが浮かんだ。


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先月は京都の伏見で仕事の納品があって、週に何度か訪れた。
京都伏見といえば大阪方向からは京都の玄関口であり、造り酒屋が多く、古い町並みと淀川水系の河川の風景の美しいところだ。

伏見には大学時代の友人の一人が住んでいるのだが、伏見のエリアは非常に大きくいわゆる三十石船の船着き場があった伏見にはなかなか出向ことがなかった。
従って、坂本龍馬で有名な伏見の船宿「寺田屋」へ行くこともなかったのだ。

たまたま納品場所が京阪電車中書島駅から歩いて10分のところにあり、途中にこの有名な「寺田屋」がある。
予てからその寺田屋をひと目見てみたいと思っていた私は少しく道をそれ、伏見の古い町並みの一角に残る寺田屋の建物前に初めて立ち止まったのであった。

大学時代を京都で過ごした幼馴染の話によると「寺田屋には刀傷が当時のままで残っていて、なかなか歴史をリアルに感じせさせる面白い場所だ」なんてことを聞いていた。
だから私も寺田屋事件の舞台になったこの江戸時代の宿屋を一度訪れ、ぜひその「おいごと切れ!」などと凄い乱闘の合った場所の空気を感じてみたいと思っていたのだ。

実際に訪れてみると木造の古いその作りが当時を思い起こさせ、戸をあけるとお竜が出てきそうな雰囲気もないことはない。
小説で読んだり、地図で見るのと違って現場へ出向くと周辺との距離感も含めて感ぜられるのがこれまた面白い。
寺田屋からは伏見の船着き場は司馬遼太郎の小説の中に描かれていたようにすぐだし、歩いて100mもしないところに長州藩伏見屋敷跡(京都市伏見土木事務所)なんてものもある。
伏見の激戦場跡などという石碑もあったりして幕末維新の雰囲気が今も感ぜられるようであった。

ところが、帰宅してFBに写真をアップしたりしていると、その伏見の友人が、
「大きな声では言えませんが、江戸時代の伏見寺田屋維新後焼けて今あるのは明治に再建されたものなんでっせ」
とのこと。
刀傷なんかは詳細に復元されたディテールのひとつなんだという。

幕末維新から150年。
たった150年。
されど150年。

歴史の幻は幻のままであったほうが良かったのかも知れないと、すこしばかり考えてしまった令和最初の一ヶ月なのであった。



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