<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



かれこれ15年近く通って来た梅田の英会話スクールが昨日閉校した。

これは英会話スクールが倒産したのではなく、生徒の減少に歯止めがかからなかったために社会人向けに開校していた夜のクラスが閉校したのだ。
このスクールは昼間は高齢者向けにスクールを開いており、そちらのほうはなかなか盛況なのだという。

私が英会話を始めたきっかけはインテックス大阪で開催されていたある展示会で、
「アンケートに答えていただいたら、海外旅行が当たりますよ」
というコンパニオンの甘い誘いなのであった。

まだまだ未熟者だった私は迂闊にもアンケートに回答してしまったのだった。
当然のことながら、そのアンケートを元に、ある日、とある会社から電話が掛かってきたのだ。

「英会話始めませんか?」
と。

迂闊にも、このときの電話の担当者も美人を連想させる声の奇麗な女性であったため、私は先方の英会話スクールの体験レッスンを受ける約束をして大阪駅前第三ビルに向ってしまったのだった。
で、スクールに着いてみると、なかなかセレブで良さそうに思えるところなのであった。
英語を習うという、日常とは若干異なる雰囲気が私に契約書へサインさせることになったのであった。

ところで、大阪駅前ビルというと、バラエティに富んだ会社が入っていることで知られている。
その代表格は会長職のオッサンがテレビカメラの前で二人の男に刺殺されるという前代未聞の事件に発展した豊田産業だった。
そのほか、英会話のビデオを数十万円で通販するとある会社や、聞いたこともないようなカタカナの名前の会社が沢山入居していたのだった。

その駅前ビルにあった英会話スクール「アメリカンプラザ」に私が入学したのは、そんな経緯からであった。

2年で200回の90分のグループレッスン。
24回の30分間のプライベートレッスンを含んだ授業料は〆て約80万円。
授業期間が2年でローンが3年であった。
つまりボッタクリスクールなのであった。

このアメリカンプラザ。
ボッタクリではあったものの、私に英会話を習うという楽しさを教えてくれたスクールでもあった。
ちなみに変な生徒の多いスクールでもあった。

ここの契約が終了する時に、私は「授業料、安いよ」との噂が漂っていたNOVAの体験レッスンを受け、執拗に継続を求めるアメリカンプラザの営業のオッサンを振り切り、NOVAに入学したのであった。

NOVAには都合2年半通うことになった。
なぜ2年半かというと、2年の筈が途中で授業時間を短縮する変更が2回ほどあり、その埋め合わせに授業数が増えたことと、それを受けるための期間が延長されたからであった。
考えてみると、この頃すでにNOVAの自転車操業は始まっていたのかも知れない。

NOVAを終える頃、さすがの私も賢くなっていた。

「英会話は月謝制がいい。そして授業はグループでも長めの方がいい。」

ということで、リクルートの雑誌「ケイコとマナブ」で見つけたのが、昨日夜間クラスが閉校した英会話スクールAPEXなのであった。

当時スクールは大阪本町にあった。
ビジネス街の英会話スクールということもあり、生徒に変な人がおらず、先生もなかなか優秀だったのですぐに気に入った。
以後、欠席することはたびたびあったものの根気よく通い、400点代だったTOEICのポイントも700点を超えることができた。

そして通うこと約15年。

思えば、楽しいひとときなのであった。
カナダ人のG先生はワイルドだったが教え方は丁寧であったし、長らく教えてくれたニュージーランド人のN先生は暖かみのある温厚な、それでいて丁寧な人であった。
一時的にアメリカ人のKという教え方のトンでも下手な先生が担当したこともあったが、おおむね臨時代理先生でさせ、なかなか立派な、たとえばワーホリで来日しているような先生は1人もいない、プロの学校なのだった。

同じようなスクールに巡りあえるかどうかは分からない。

ともかく、ありがとう。
仕事でも使える英語力をつけてくれた我が母校APEXに感謝感謝。



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今から30数年前、私が小学生だった頃、切手集めが流行ったことがある。
何故流行り出したのか。
そしてその流行は全国的なものだったのか。
今となればどれもこれも覚えていないのだが、確かにご近所の「ホビーショップ」にはプラモデルや憧れのラジコンに混じって、切手や古銭、外国コインのコレクションが並べられていたことは、今も記憶に残っている。

かくいう私も切手集めに奔走し、切手アルバムなんかも所持していて、
「それ、消印押してるからアカンやんけ」
などと友達のコレクションをくさしたりしていたのだ。
何も知らないくせに。

ヘレン・モーガン著「世界最高額の切手“ブルーモーリシャス”を探せ」はそんな切手収集の歴史をたどり、「ブルーモーリシャス」という世界でたった26枚しか現存していない希少切手をめぐるコレクター達の人間模様を描いている。

少しく退屈さの漂う一冊であった。

この「退屈さ」。
もしかすると切手収集という趣味は退屈さの中に存在するのかも知れないと読んでいるうちに思うようになってきた。
考えてみれば切手のような有価証券を使わずに「コレクション」しておける人はお金持ちのように生活にゆとりがある人か、子供のように生活に困らず、ただお勉強か遊んでいれば済む存在でないとできないのかもわかない。
そう思えてきたのだ。

高くて、貴重すぎて、展示することも使うこともできないものを所持しているという、陰気な趣味。
コレクションを眺めては”にんまり”しているというのは、あまりにも趣味が悪いような気がするのだが、切手収集はそういう“にんまり“的な欲望を満たす格好の題材なのだろう。

本書で紹介されているひとつのエピソードがなんとなく、そんな雰囲気を伝えていて面白い。
以下そのエピソードの概略。

19世紀の終わりごろ、ブルーモーリシャスが高額で落札されたというニュースを新聞で読んだ英国王室の侍従はジョージ5世(エリザベス女王の祖父)に話しかけた。
「王子、世の中かわったもんですね。一枚の切手に何千ポンドも出す”バカ”がいるとは。」
するとジョージ5世は言った。
「......そのバカは私だ.....。」

~「世界最高額の切手”ブルーモーリシャス”を探せ!」ヘレン・モーガン著 藤井留美訳 光文社刊~

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先週末、生まれて初めて客としてUSJを訪問してきたことは、すでに報告済み。
ジェットコースターに乗ったり、スパイダーマン、バックドラフトなどの各種アトラクションを思う存分楽しんできたのだ。
しかし寄る年波。
楽しんだのは楽しんだが、体力が続かず夕方にはフラフラになってしまっていたのだ。

フラフラになったからといって高い入場料を払って入場したからには閉園まで楽しまなければ、と最後の力を振り絞って訪れたのは、いくつかの土産物屋なのであった。

一般的な土産物屋はもちろんのこと、映画に関するプレミヤグッズを販売する洒落た店も訪れたのであった。

その店は、俳優や有名な映画監督のサインが入ったポスターを売る店だった。
ブルースブラザーズやリーサルウェポン。
スティング、明日に向って撃て。
それこそ、1シーン1シーンが思い起こされては感動してしまう名画と、憧れの俳優のサイン入りポスターが並んでいたのだ。

その一画に、変わったポスターが展示されていた。
それは「スタートレックのカーク船長とミスタースポックのカラーポスター」。
サイズは全紙大。
しかもオリジナルテレビシリーズ。
もちろんこれらのキャラクターを演じたウィリアム・シャトナーとレナード・ニモイの直筆サイン入り。
価格は18万円近くしていた。

「おかしいな」

と私は思った。
というのも、スタートレックはパラマウント映画。
ユニバーサルスタジオに何故、置いているのだろうか。
USJともなると、映画会社の垣根は越えてしまうのだろうか。

そういえば昔、ハリウッドのユニバーサルスタジオを訪れた時も「スタートレック」の宇宙船エンタープライズ号のプラモデルが売られていて、嬉々として買ってきたことを思い出した。

なるほど。
ファンを見込んでの18万円かと思った。

ポスターを見ていて思い出したのが、わが家のお宝。
ま、お宝かどうかは不明だが、昔読んでいた雑誌を収納した箱の中にスタートレック関連の古い書籍が入っていたことを思い出した。

「スタートレック・ポストカード・ブック」

スタートレック・オリジナルシリーズの名場面を絵はがきにして冊子にした一冊だ。

帰宅して引っ張り出して見てみたものの、経年変化で色も変わり、もちろん俳優のサインなんて入っていないから、18万円もしないことは間違いない。
でも、なんとなく珍しくて、かつ懐かしいでしょ。



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意外にも、預けていた荷物は早く受けとることができた。
ほっと一息ついた私は空港の出口でガイドのTさんと迎えの車が来るのを待っていた。

空港前のロータリーは超混雑状態であった。
私のような到着便の乗客とそれを迎えにきた人々と、ポーター、警備の兵士、なにやらさっぱり正体のわからないやじ馬のような人々が、わんさか溢れていたのであった。
道路は道路でワゴン車やタクシーなどでメチャクチャ混雑していた。

正直言って、ひとりでここに来ていたらタクシーを探し出せていたかどうか果たして疑問だ。
まず、どれがタクシーなのか皆目検討がつかない。
メータータクシーなんぞ姿はないし、リムジンカウンターさえ、ぼや~とした私の目には見つけることができない。
つまりタクシーと一般車の区別がつかないのだ。

よくぞ、今回ばかりはガイドさんとタクシーをチャーターしたものだ、と普段は完全なバックパッカーである自分自身を褒めてやった。

「ちょっと待ってください。ここでは駐車できないので.....いま車がきますから。」

それにしてもTさんの日本語は完ぺきだった。
普通の日本人と話しているような感覚があり、どうしてもTさんがミャンマー人だなんて思えないくらいだ。

その日本語スキルは正直言って、ネイティブな日本人より上手いくらいなのであった。

そもそもミャンマー人は容姿が日本人と極めて似ているため、まるで日本人と話しをしているような錯覚をする。
Tさんがもしロンジーというスカートに似たミャンマーの民族衣装を身につけていなければ、日本人と言っても、多くの人は信じてしまうに違いない。

「日本語がお上手ですね。」
と私は言った。
「ありがとうございます。」
こういうところが日本人ではないところなのかもわからない。
日本人だと、
「いえいえ、そんなこと」
などと、しょーもない謙遜なんぞをしたりなんかするのだ。

で、Tさんは続けた。
「学校で勉強しました。」
「日本の学校でですか?」
と、私。
「いいえ。ヤンゴンでです。日本には行ったことがありません。」

学校で勉強するだけで、これだけ流ちょうに外国語を話せるようになるとは、素晴らしい。
彼女にはもともと日本語をマスターするだけの素養があったのか、それともミャンマー人一般がそうなのかはわからない。
しかし、かなりのレベルだ。

よくよく聞いてみると彼女は日本語検定二級に合格していて漢字もそこそこ読むことができるそうだ。

日本では多大の学習費を支払い、豪、英、米など英語圏の国へ「短期語学留学」と称して遊びに行き、
「私、英語得意やねん。」
と宣ってくれるパープーお姉さん、お兄さん方をよく見かける。
しかし、こういうお上りさんたちは、いざ話しだすと英語はおろか、母国語である日本語でさえまともに話すことができない輩が多い。
嘆かわしいことではないか。

それに比べるとここミャンマーはどうだ。
凄いではないか。

かくいう私なども英会話スクールに通うようになって十数年が経過するが、未だにフランス語が話せるようにはならない。

当たり前か。

で、そうこうするうちに、迎えの車がやって来た。

迎えの車はメタリックグレーの中古のトヨタマークトゥー。
一応タクシーのはずなのであったが、普通の日本の中古車だ。
運転手は目つきの鋭い、しかし気の良さそうな痩身の男であった。
そして彼ももた、ミャンマーの民族衣装ロンジーを身に付けていたのだった。

つづく

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昨日からアカデミー賞のニュースで持ち切りだ。
日本映画が2作品も同時に何らかの賞を受賞したのは史上初めて。
関係者がエキサイトするのも分かろうというも。
正直、映画大好きの私としては「良かったね」というよりも「ヒジョーに羨ましく思う」吉報なのであった。

政治で恥じかいて、芸術で面目躍如した感じだ。

思えば、私の師(と言っても学生時代の師ではあるが)だった宮川一夫先生はアカデミー賞受賞作品を撮影した名カメラマンなのであった。
受賞した作品の題名は「羅生門」。
監督は世界の黒沢。

そのような立派な先生に映画の撮影術、いや、社会で人間として生きる道を授けられた一教えられ子として、一介のサラリーマンに甘んじている現在は、いかんともし得ない情けなさがつきまとうのである。

ところで、このアカデミー賞。
今回が81回目なのだという。

ひと言に81回目というが、その1世紀に近い歴史には侮りがたいものがある。
日本で81回といえば夏の高校野球ぐらいしかない。
(と思っていたら「キネマ旬報賞」は82回を数えていたのだった。.....凄い!)

恥ずかしいタイトル「日本アカデミー賞」はわずか32回でしかない。
何故恥ずかしいのかというと、なんでも「日本」をつければええっちゅもんではないわけで、例えば「日本ノーベル賞」なんてあったらイグノーベル賞(これはそれなりに権威があるが)よりも遥かに恥ずかしい。
それくらいアカデミー賞は歴史が有るのだ。

一方、日本でもアカデミー賞には遥かに劣るが、かなり権威のあった賞があった。
それが「日本レコード大賞」だ。

かつて昭和40年代から50年代。
日本レコード大賞はある意味「日本グラミー賞」と断言してもいいくらい権威に満ちたアーティストのための金看板なのであった。

私が小学生のガキだった頃は歌謡曲もレベルが高く、題名を聞いただけでカラオケで安易に歌うことができないくらいに、テクニックを要する歌ばかりなのであった。
例えば、尾崎紀世彦の「また遭う日まで」。
ちあきなおみの「喝采」。
森進一の「襟裳岬」。
沢田研二の「勝手にしやがれ」。
などなど。
どれもこれも素人が歌うようにはできていない歌ばかりで、かといってショーモナイのかというと全然違う。
感動に満ちた歌ばかりなのであった。

そのレコード大賞も60回近くなると荒んでくるようで、最近は市井の関心を引くこともできなくなり、ニュースにさえならないのだ。

アカデミー賞は81回で今なお権威キラキラ。
一方、日本レコード大賞は没落の一途。
この相違は一体なんなのだろう?

アカデミー賞は金がモノを言うコンペティションで審査委員を買収するのも違反にならないそうで、スピルバーグかオスカー欲しさにユダヤびいきの映画「シンドラーのリスト」を製作・監督したのは、なんとなく有名である。
だからといって、賂だけが全てなのかというと、そうではない。

今回の「おくりびと」が受賞したように、単なる映画に金を積んでも容易に賞をもらうことはできない、競争の激しい、ガチンコ勝負のコンペなのだ。
本当に良い映画であれば、袖の下がなくても受賞するのである。

だから、
「Now OSCAR goes to .........○○!」
とプレゼンターが叫んで、
「なんじゃコリャ?」
と視聴者が卒倒するような俳優や映画が選ばれることはないのだ。

一方「日本レコード大賞」は松田聖子の嘘泣き事件以来(ん?これは別の賞であったかな)、すでに出来レースの感がみなぎっており、プロダクションのコネやテレビ局の都合で受賞者が決められていることがありありで、ちっとも面白くなくなってしまっているのだ。

この現象は現在の政治家先生とちょこっと共通しているといえなくもない。

それにしても、長く続けるというのは難しい。
あらゆるコネを排除しつつも、お互いのパワーバランスをぶつけ合いながらというのが、良き歴史を築く秘訣なんだろうと、この2つの賞を比較してつくづく思うのであった。

プロダクションのコネ。
映画会社のコネ。
親のコネ。

これらがまったく効かない外国での快挙。

日本の映画文化は政治とは対照的に地味に力強く生きていたのであった。

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テレビのニュースを見ながら、
「中川昭一とは何者だ!。日本人として恥ずかしいぞ。」
とお嘆きのあなたに。
あなたはそんなに嘆く必要はない。

かつてロシア人は常に毅然としていたことを思い出していただきたい。
世紀の酔っ払い大統領ボリス・エリツィンが活躍していた頃のことを。

常に酩酊状態であった大統領は、その酔っ払いぶりをものともせず、堂々と公式の席に出席。
公務をこなしていたのであった。
それに対してロシア国内で文句がついたなどということはついぞ聞かれたことはなかった。
むしろこの国の国民酒とも呼ぶべきウォッカを浴びるように飲んではテレビの前に現れた大統領に我々他国者からしても、ある種の力強さを感じたものなのであった。

このボリス・エリツィン元大統領を遥かに凌駕するのが元米国大統領で現国務長官の夫ビル・クリントンだ。
この人、酒はやらなかったが国家の心臓部ホワイトハウスでモニカ某とやら研修生の女を相手にチョメチョメを行っていたのだ。
アル中ではなかった代わりにセックス中毒なのであった。
ヒラリーが正妻なら、息抜きの相手が必要なのはわからないでもないが、アメリカ合衆国大統領の威信に傷を付けたのは間違いない。

ロブ・ライナー監督の映画「アメリカンプレジデント」は現実には村西とおるが監督する、ある特殊な映画(というよりビデオ)の世界と同じだったというわけだ。

思えば、この頃すでにアメリカ合衆国大統領というのは、とち狂った存在だったのかも分からない。
「変態ビルなら、まだこの人の方がまともだと思うの」
という気持ちから選ばれたのがジョージ・W・ブッシュだったことを考えると納得がいく。

この米国と同盟を組んでいる我がニッポンが、
「空気を読めないボンボン福田なら、まだこの人の方がマシだと思うの」
というこで、麻生太郎を首相に選任したのは偶然ではあるまい。

ジョージと太郎。

その互いの国語に対する読解力は同じレベルで、お互いにお金持ちの一族を背景にしているところまで良く似ている。

ということで、ずらっと見渡すと中川昭一の酔っ払い事件なんて小さい小さい。
ニュース番組のコメントなんて重箱の隅を突っつくようで、ちっとも面白くない。

そもそも世界の政治なんて、アル中、変態、オバカで溢れた新喜劇なんだから。

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生まれて初めて、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに客として行ってきた。

なぜ「客として」とわざわざ断って書いたかというと、これまで仕事では何度も訪れたことがあった。
しかし、客としては初めての入場なのであった。

なぜ、私がUSJを訪れなかったかというと、一緒に訪れる相手がいなかったことが第一の原因であったのだが、何にもまして、
「撮影所ちゃうやん」
というのが第一の原因を上回る理由なのであった。

これまでハリウッドのユニバーサルスタジオには2度ほど訪れたことがある。
初めて訪れた時の興奮は今も忘れることができない。
ホンモノの映画セット。
ジョーズ。
そしてなんといっても「刑事コロンボの自動車」のホンモノを見たことが最大の興奮なのであった。

アトラクションでは「バイオミックジェミー」が公演されていて(初めての訪問は1978年だった)、テレビシリーズと同じ効果音が使われて自動車などが持ち上げられているところが感動を呼び込んだ。

USJはその点、映画をテーマにしたただの遊園地という印象がこれまでぬぐえずにいた。
自分のお客さんでありながら、甘く見ていたのだった。

で、実際に訪れてみるとなかなか面白いではないか。
中でも、最高の面白さは、
「スパイダーマン!」
なのであった。

立体映像で繰り広げられるアドベンチャーはたとえ一時間の待ち時間を我慢してでも体験するに値する、ものすごい価値があったのであった。
正直、映画よりも面白いのだ。
そして何度も連続で見たくなるのだ。
飛び出す映像、侮り難し!

言葉では説明できないので詳しく知りたい人は是非実際にUSJに行ってみよう!

そしてスパイダーマンは土産ももちろん面白い。

私はスパイダーマンの興奮を噛みしめて、まさにハリウッドではないかと満員のスーベニアショップでペンやTシャツ、マグカップなのどの土産物を持って最高級のエンタテーメントを実感していた。
そんなところにでカップラーメンの詰め合わせ「スパイダー麺」発見!

Spiders Man
スパイダー麺
(同じ発音)

USJはやはりハリウッドではなく、大阪なのであった。

ということでスパイダー麺で見られるように、USJは立派な大阪のテーマパークなのであった。
客層もコテコテに陽気!
私がよく利用するJR京葉線「舞浜駅」を乗り降りする独特のムードを持った「アブナイ雰囲気の客層」はいない。

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昨日、千葉沖を飛行中のノースウエストのジャンボ機が乱気流に遭遇。
数名の負傷者を出したそうだ。

読売新聞記事

昨日のブログにも書いたように、私は一昨日、飛行機で大阪から東京へ移動した。
したがって、昨日乱気流が発生した辺りを私の乗ったANA(正確にはエアニッポン)のB737-500も飛行したと思われる。
確かに一昨日の早朝もこの付近を飛行中、
ガタガタガタガタガタ
と大きく揺れ、一部の乗客はビビっていたようだった。

「当機は現在、気流の悪い場所飛行中です。云々」

というアナウンスも流れた。

この季節、飛行機はよく揺れて不安になることは少なくない。
できれば平穏に飛行していただきたいというのが、一般乗客の希望でもある。
私はまったくゆれない飛行はむしろ物足りなく、できれば自衛隊ブルーインパルスのような曲芸飛行も体験したいと思うような、ヒコーキ好きではある。

でも、このようなヒコーキ好きの私も一度だけビビったことがある。

それは数年前、関西空港から羽田へ向っていたスカイマークに乗っていた時だった。
折しも台風接近で欠航になるのでは、と思ってたが無事に出発することになった便であった。
離陸前から翼はパタパタと強風で煽られ揺れている。
離陸はまっすぐ走らず、
「飛べるんかい」
と突っ込みそうになった。

飛行中のサービスは一切なし。

静岡県上空で乱気流に巻き込まれるれ、超派手派手のジェットコースター見たいに乗客から悲鳴が聞こえた。

こんなことではビビらない私も、最後のドスンにはビビった。
というのも、羽田の滑走路が下に見えた時にエアポケットに突っ込んで、ドスンといきなり高度が落ちたからだ。
間もなくランディングの時のドスンほど怖いものはない。

ヒヤッと汗をかいてパイロットの操縦に助けられてほっとした一瞬だった。

で、昨日のジャンボではけが人が。
機内では「ドクターはいないか」とまるで往年のエアポートシリーズの映画みたいになっていたようだ。

私だったら「ドクターはいないか」などと言われると、思わずハゲずらを被って、
「EMH作動。緊急事態の概要を述べたまえ」
と突っ込んでしまいそうだ。

あるテレビ番組に影響された弊害かも知れない。

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「黒ゴマたまご、頼んでいいすか?」

とW君が言っていたので、私は東京からの帰りに東京名物「黒ゴマたまご」を買うことにしていたのだ。

「あの、箱入りじゃなくて、カゴに入ったのでいいっすから」

とさえW君は言っていた。
箱入りはかさばるので、5入りだったかのカゴ入りタイプで良いのだという。

今回の東京出張は荷物が非常に多い旅なのであった。
日程はわずか1泊2日にも関わらず、ビデオ撮影を伴った出張であったため撮影機材を抱えており、鞄が3つもあったのである。

行きは新幹線では荷物がそんなに安心して運べないことから飛行機を選んだ。
関西空港発のANA。
スキップ搭乗になってから初めて荷物を預けたのだった。
もちろんスムーズに手続きは完了し、鞄ひとつで楽々搭乗。
機内では今月のジュース「高知柚子ジュース」がとっても美味かった。
羽田に着くと、あいにくターミナルまでバスで移動することになってしまっていたが、到着のバッゲージクレームに着くとすでに荷物はコンベアをまわっていたのだった。

かようにラクチンに大阪から東京へ移動したのだったが、帰りはすでに体力を消耗しきっていて、都営浅草線沿線にある私の会社から2回も3回も乗り継いで東京駅に行く気になれず、浅草線一本で品川駅にでたのだった。

正直、帰りも飛行機にすれば良かったと思った。

品川駅には土産物屋がほとんどないのだ。

私は愕然とした。
JR東海新幹線品川駅はJR東日本の厭がらせに度々さらされながら建設されたという噂があるそうで、だからかどうかは知らないが両者の仲が非常に悪く、
「東京駅に置いてる土産物なんか新幹線で売れるかい!」
と言ったかどうだか、土産物屋が非常に小さいのだった。

正直言って、JR紀勢線「紀伊田辺駅」の土産物屋とかわらないのだ。

このためW君から頼まれていた「カゴ入り黒ゴマたまご」は見つからず、箱入りを買い求めることになったのだった。
さらに、家族に頼まれていた「ごまひとひら」は店頭に並んでもおらず、結局「キットカット 東京限定 濃きなこ」なるジャンクジャンクしたチョコレートを買うことになってしまったのであった。

東京の玄関口は今や東京と品川。
その片方、品川駅に土産物屋が少なすぎ!

次回は、必ず東京駅から新幹線を利用しようと決意した私なのであった。

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日本経済新聞出版社よりリリースされている、
「IKEA 超巨大小売業 正光の秘訣」
を読んでみると、IKEAを「池谷」とか「池屋」という名前の日本企業だと、かつて思っていた私の知識の貧弱さが恥ずかしさを通り越し、感動するに至ったのだった。

それだけ、このIKEAのサクセスストーリーは独特で、ユニークだ。

何が独特でユニークだというのであれば、それはIKEAという会社の企業精神にほかならない。

決して借金はしない。
なぜなら銀行の圧力を受けつけないため。

税金はできるだけ少なく。
なぜなら出て行く金はどんなものであっても抑えなければならないから。

はじめに価格を決める。
なぜなら設計して価格を決めるのは誰にでもできるから。

上場なんてしない。
会社の売上げ高を気にする必要もないし、他人に、いや親族にさえ会社を取られることはなくなるから。

あの巨大に売り場に展開されるIKEA独特の商品の見せ方。
カタログの構成。
広告。
レストラン運営。
などの裏側、が本書を読むことにより鮮やかにイメージされてくるのだ。
それは決して不愉快なモノではなく、ある種の憧れにもにた、
そう例えばMacユーザがアップル社に抱くある種の愛情のようなものがイメージされてくる。

不思議な会社IKEA。

このノンフィクションを読むと、その不思議さが何倍にも膨れ上がり、新たなイメージが現れてくる。
そしてそのイメージと共に、またIKEAのストアを見てみたくなるのだ。
たとえ何も買わなくとも。

~「IKEA 超巨大小売業 成功の秘訣」リュディガー・ユングブルート著 瀬野文教訳 日本経済新聞出版社刊~



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