<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



大阪市立天王寺動物園のアジアゾウ「博子」が亡くなったという小さな記事を新聞に見つけて愕然とした。
なんと博子は天王寺動物園最後の象だったそうで、これで大阪では象を見ることはできなくなったという。
博子は1970年の大阪万博の時にタイ王国から寄贈された象だそうで、御年48歳。
高齢の上、怪我をしてしまいそれが化膿して歩けなくなっての結末だったようだ。

この記事で驚いたのは博子の死だけではない。
「象」は動物園では定番の動物と思っていたら絶滅危惧種に指定されていて簡単に輸入できないばかりか、輸入ができたとしても象の生活を考えて保護し飼育する場所は広大な場所を必要とするのだという。
動物愛護の考え方が浸透した結果だが、今後我々の子や孫は「象さん」を見るためにはパンダ宜しく国内の限られた動物園か海外へ出かけなければならなくなる、というわけだ。

象と言う動物。
とりわけアジアゾウはタイやミャンマーへ行くと家畜として活躍していることもあり、一般的な動物だと思っていた。
私もバンコク都内の幹線道路で象が歩いているのを見てビックリしたことがある。
動物園の定番で、大好きな動物でもあった。
私にとってはキリン、ペンギン、アシカに並ぶ堂々たる人気者なのだ。
子供の頃、この天王寺動物園に連れて行ってもらいお菓子をあげた記憶が鮮明に残っている。
もしかするとその象は今回亡くなった博子だったかも分からず、そう考えるとショックは小さくない。

本物の象を見たのはミャンマーのヤンゴン動物園を訪れた時であった。
近場の天王寺動物園を久しく訪れたことはなかったのだが、象のいない動物園なんて。

知らない間に動物園事情が大きく変わっていることに大きなショックを受けている。

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猛烈に忙しかった年末のある日。
デスクワークがあまりにきつく肩こり、膝痛、腰痛、眼底疲労などが耐えられないくらい疲れてきたので、設計していたCAD作業の手を止めてYoutubeで気晴らしをすることにした。
「忙しいんちゃうの?」
と言われそうだが、いくらタフな私だからといってず〜〜っと集中できる時間には限界がある。
たまには仕事と何ら関係のない雰囲気を味わう必要があるのだ。

で、youtubeでなにげに検索していたら古い探偵ナイトスクープのエピソードが出てきた。
検索キーワードは何だったか忘れてしまったが、もしかすると「上岡龍太郎」だったかもしれない。

探偵ナイトスクープは関西の人なら知らない者はいないというくらいの人気長寿番組で私が大学を卒業した直後ぐらいから放送されているのでかれこれ30年になる。
この番組は視聴者からの依頼に基づいてタレントが調査に赴くという半視聴者参加番組なのだが、出て来るネタは超一級。
以前は完全な関西ローカルの番組であったため、この番組が元ネタの東京局制作のパクリ番組が氾濫していたこともあるくらいだ。
作家の百田尚樹がこの番組の放送作家出身であることも知られている。

発見したエピソードは25年ほどまえのもので、
「時代劇によくでてきて『先生、先生』と悪いやつらに呼ばれてはすぐに斬られて死んでしまう役どころの俳優さんがいますが、その俳優さんをぜひとも徹子の部屋に出してあげて欲しい」という内容なのであった。
夫婦共々その無名俳優のファンであるという依頼に基づき桂小枝探偵が太秦の東映撮影所に赴きその俳優・福本清三を見つけ出した。
その後、東京まで連れ出してホンモノの徹子の部屋のセットで女装をして桂小枝が黒柳徹子に扮してインタビューを始めるのだが、そこへ黒柳本人が現れ「なにをやってらっしゃるの?」と怒り心頭。
しかしその理由を知るに及び、興味をいだき、後日本当に「徹子の部屋」に出演してしまうという話なのだ。

私はこの話を噂では聞いていたが、見たのは始めてで大いに感動したのであった。
探偵ナイトスクープはただのお気楽娯楽番組ではないところがこういうところで、福本清三はこの番組をきっかけに大部屋の斬られ役俳優の中でも知る人ぞ知る存在になる。

「いや〜〜、面白かった」
と思い、試しにウィキペディアで福本清三の事を調べてみると、ナイトスクープ以上にビックリする内容が書かれていた。
なんと、2015年にこの福本清三を主演に一本の映画が撮られていたのだ。

「太秦ライムライト」

時代劇が無くなりつつある京都の伝統ある撮影所に所属をしている一人のベテラン大部屋俳優。
斬られ役専門のその俳優にスポットを当て若きスターとなる女優と撮影所の人々の姿を描いている秀逸のバックステージ物なのであった。
しかも私は全く知らなかったのだが、この映画はカナダの国際映画祭でグランプリを受賞。
主演の福本清三が主演男優賞を受賞していたのだ。

どんな映画なのか見たくて仕方がなくなった私は仕事を力づくで終わらせて年始に車で15分ほど離れたTSUTAYAでDVDをレンタル。
近所のTSUTAYAでは在庫してなかったのだ。
早速鑑賞したところ、映像は美しく、感動させ、泣かせる映画なのであった。
私自身、映画少年であった頃の感覚を思い出し、なんとも表現のしょうのない気持ちになったのであった。
ずっと大部屋俳優だった役者さんが主演だと、まわりの俳優はどういう態度をとるのだろうか。

鑑賞前、少し私は心配していた。
しかし、映画を見るとそういう心配はちっともないことがわかったのだ。
むしろそういうスターの後ろを支え続けた斬られ役俳優が主演することに、どれだけ太秦の人たちが力を合わせたのか。
映画を見終わった私は映画屋さんたちの心意気に大きく感動を覚えたのだった。

主演の福本清三。
それを松方弘樹や萬田久子、小林稔侍が、そして「木枯し紋次郎」や「極道の妻たち」の中島貞夫監督が本人役で支える。
よく練られた贅肉のない物語。
映画だけが表現できるであろう悲しいぐらい美しい映像。
人生模様。

斬られ役の物語。
今回斬られたのは私の心かもしれない。



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週刊文春は週刊新潮とならぶ私の愛読週刊誌なのであった。
エッチ記事も1〜2ページあるにはあるが、それぞれ週刊誌としては硬派で保守派で一本筋の通ったところが他誌とは違う魅力だった。

ところがその文春が知らない間にかなり堕落していたのだ。

私は小室哲哉のファンでもないし、彼の音楽がお気に入りでもない。
だいたいどれが彼の楽曲なのか、正直のところ聴いてもわからない。
彼が活躍した1990年代は、私の最も忙しかった年代でもありテレビやラジオを聞くことも見ることも少なく、いわゆるヒット曲の類はちっとも記憶にない。
1970年代の生まれのカミさんと音楽ことで知識が共有できないのは、ちょうどこの頃の作品が中心だ。

だからといって、今回の「小室哲哉引退」の報道を聞いてもそんなにショックとは思わなかった。
でも、その詳細を新聞で読むと、そのショックは小さくなく、私は愛読誌だった週刊文春の堕落というか品質の凋落を改めて確認することになってしまったのだ。

どうやら文春は他の三流週刊誌のようにゴシップをスッパ抜き部数が伸びて売上につながるという麻薬に蝕まれてしまっていたのようのだ。

これはきっとベッキー、ゲスの極み乙女の不倫事件に端を発する麻薬なのだろう。
こういう世界は市井の興味を誘い部数が伸びる。
だからといって政治家のスキャンダルのように人々の生活につながってくるかというと、芸能人のそれである。
全く関係のないどうでもいい話なのだ。

こういうどうでもいい話は文春や新潮の出番ではなく女性セブンや週刊現代の世界ではないだろうか。
少なくとも私はそう思っていたのだ。

今回の小室哲哉の記事は明らかにベッキー&ゲス事件とは異なる性質のものだ。
彼は病気のために知的障害を負ってしまったカミさんの世話を健気にも続けていていた。
しかし心的ストレスは相当なもののはず。
相談相手も欲しい。
かといって仕事は忙しい。
でも出来るだけのことはしてやりたい。
そんなストレスを抱えての女性との関係である。

そんなこと放っておいてやったらどうなんだ、というのが市井の意見に違いない。

障害を負った家族の世話は容易ではない。
年老いた親の世話。
障害を負った伴侶の世話。
事故で動けない子供の世話。
そういうケースは誰にでも当てはまるものであり、立派な社会問題だ。
そういうハンデを抱えた人の数が少なくないだけに深刻である。

働きながらハンデを負った家族の面倒を見ている人は今回の彼の記事をどういう気持で読んでいるのか。
文藝春秋社の連中はわかっているのだろうか。
文春は小室哲哉を取り上げてプライベートなことで避難する前に、彼の苦労を通じて介護生活の問題にスポットライトを当てるほうがよほど大切なんじゃなかったのか。
それこそ一般の感情とは正反対の心の持ち主にしか思えない憤りを感じるのだ。

月刊文藝春秋で綿密な記事を描き、月刊諸君!で論を戦わせる。
週刊文春はその先遣隊ではなかったのか。

堕落の文春。
文春もついにマスゴミの仲間入りをしてしまったのが悲しい。

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「『西郷どん』の鹿児島弁て一般の人にわかるように言ってって、ホントの鹿児島弁やとわからへんねんて」

とはカミさんの弁。
正直そんなことは合点承知の助なのであった。

今から30年前。
新人社会人だったころ。
私は建築設備の計測と調整の仕事で沖縄のリゾート地・恩納村を訪れた。

恩納村は著名なムーンビーチホテルを始め数々の豪華ホテルが建ち並ぶ。
沖縄本島東岸の夕日の美しい観光地だ。
私はここで建設中のとある豪華ホテルの建築現場に仕事で1ヶ月間ほど滞在した。
九電工という会社からの依頼の仕事なのであった。

豪華リゾート地であるにもかかわらず宿泊したのは民宿のような安宿でテレビは無料だが、エアコンが1時間100円。400円までしか投入することのできない蒸し暑い、食事が飛び切り不味い安宿であった。
唯一、宿の人が超親切であったことが救いではあった。

沖縄での仕事は内容は関西でやっているいつもの内容と変わらなかった。
現場の監督さんも職人さんもみんな技術も高く親切であった。
でも、大いに困ることがひとつあった。
それは言葉が通じにくいということなのであった。
それも驚くことに地元沖縄の職人さんたちは何を話しているのかよく分かるのだが、問題は監督さんたちなのであった。

監督さんたちは九電工の鹿児島営業所の人たちで、監督さんたちは鹿児島弁で仕事をしていたのだった。
当然といえば当然。
大阪の監督さんが大阪弁で話すとの同じ。
でも、大阪からやってきた私達には監督さんの鹿児島弁はまったく聞き取ることができず。

「え?」
と聞き返すことが多いのであった。

沖縄訪問前、私は沖縄の職人さんの言葉の方が理解できないかも知れないと思っていた。
ところが島人職人さんは大和人にもわかりやすく話してくれることに超慣れているらしく、私たちの前では島人言葉では話さないのであった。
「こっちの言葉で話したらわからないだろうから」
と島人親方はニコニコしながら言ってくれた。

で、困ったのが大和人薩摩人の監督の方々であった。
この監督さんたちは鹿児島、少なくとも九電工の本社のある福岡を出たことが無いらしく、指示も何もかも全て鹿児島弁であった。
鹿児島弁。
ほとんど外国語。

NHK大河ドラマ「西郷どん」。
本格的鹿児島弁でドラマをやったら、ある意味視聴率は一時的に上がるかもしれない。
但し字幕スーパーが必要だ。

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この日曜日始まったばかりのNHK大河ドラマ「西郷どん」は大河ドラマ史上3番目に良くない視聴率だという。
なんとなく、わかる気がするのはその第一回を見てしまったからかもわかならい。

その昔。
私が子供だった頃の昭和40年代から50年代前半。
NHK大河ドラマはそれはそれはすごいインパクトがあったと記憶している。
視聴率を度外視したビッグネームの配役。
映画のような重厚な作り。
出演者の超硬い演技。

その代表格は平幹二朗が主演した「樅ノ木は残った」だと私は確信している。
というのも、視聴率なんか全く考えていない地味な主人公原田甲斐。
わかりにくい伊達騒動という今や殆どの人が知らないかもしれない一大事件。
しかし、ドラマの背景に流れていた主人公の生き方には多くの人が深い感慨を抱いたに違いない。
小学生の私でさえ感じたのであるから、大人であれば間違いない。

翻って「新撰組!」あたりからの大河ドラマは正直言って別物。
歴史事実も生活習慣もなにもかも握りつぶして、要は楽しそうに見えればそれでよし。
主人公は必ず子供時代から語られて、子役が人気を呼んで視聴率を稼ぐ。
「梵天丸もかくありたい」
あたりがこの始まりかも知れないが、ともかく大衆迎合。

昔の大河ドラマがかなり史実に沿って作られていたという実績があるだけに、
「NHKの大河ドラマがこう描いているのだから事実に違いない」
という、朝日新聞の偏向報道も真っ青なほどの偏ったドラマが展開されているのだ。

「西郷どん」もそういうドラマの1つであった。
頻繁に泣いている西郷さん。(九州男児は容易に泣かない)
お城に簡単に忍び込んでしまう子供たち。
変人殿様。
エトセトラエトセトラ。

林真理子が原作だから仕方がないという意見がネットに数多く上がっているのだが、大河をファミリードラマにするそのやり口。
冗談は顔だけにしておいて欲しい。
そう思える新作大河ドラマなのであった。


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カミさんと合流したのが午後11時過ぎ。
関西空港は24時間空港で数年前と違って深夜でも旅客便がびゅんびゅん飛んでいて旅行客の姿も少なくない。
尤も多いのは中国や韓国の人たちのようだが、それでも深夜にチェックインして出発、或いは深夜に到着して日本各地へ出発していく人が多いのでレストランやカフェは営業すべきところだ。
ところが午後10時を過ぎると営業しているお店が一挙に減る。
コンビニ各店。
マクドナルド。
牛丼のすき屋。
バーガーキング。
プロント。
だけだ。

私たちはできれば年越しそばでも食べたいところだったのだが、そうもいかないのでハンバーガーを食べながらのカウントダウンになってしまった。
ま、それはそれで良かったのかもしれない。
あるところでは小さなカウントダウンパーティをやっている外国人の若者のグループがいたりして雰囲気は悪くなかった。

さて、腹ごしらえができて早速出発。
ゆく年くる年をラジオで聴きながら阪神高速道路を奈良に向かってぶっ飛ばした。
ラジオでは奈良薬師寺の年越しが生中継されていて奈良の観光スポットの賑わいが伝わってくる。
これから訪れる春日大社はどんな混雑なのか、大いに気になるところだ。

大晦日から元旦にかけての阪神高速道路湾岸線はガラガラ。
ほとんど貸切状態での走行になった。
対向車線は結構な通行量だが、この時間に大阪市内に向かって走る車は無いのかもしれない。
南港大橋を渡って天保山から進路を東にとる。
眼下の暗がりの中にちょうどUSJの満艦飾のイルミネーションが浮かび上がり美しい。
USJはカウントダウンイベントが毎年開催されていてきっとすごい人数の人たちがイベントを楽しんでいるのだろうと思った。

さすがに大阪市内になると通行量も多く東へ向かう車も結構ある。
阪神高速道路東大阪線から第2阪奈道路に入る。
生駒山の長いトンネルを通過中に奈良県に入った。
関空を出発してから40分くらい。
普段は渋滞でこんなに早く来ることはできない。
宝来インターを出ると奈良のメインストリート大宮通り。
最初の高架を右に曲がるとラジオで放送中の薬師寺や唐招提寺がある。
左手は平城宮跡だ。
私の行く春日大社はまっすぐ。もう終着点はすぐそこなのだ。
私たちの周囲を走る車を見ると大阪や和泉、神戸、宮崎、品川、尾張小牧など県外のものが目立ち、地元奈良ナンバーはちらほら。
やはり年末年始で旅行や帰省で来ている人たちなのだろう。
カミさんと娘はぐっすりと眠っている。

JR線の高架をくぐると奈良市の中心部。
ここから大宮通りは上り坂になっていてすぐに右手に近鉄奈良駅が見えてくる。
現在の奈良市中心部は平城京の東の端っこに位置する。なんでこんな地形のところにあるのだろう、と気づいたのはつい最近のこと。
御所のあったところが寂れて、都の端っこが今も栄えるのは、もしかするとここに東大寺があるからかもしれないと思ったりしている。

いっぽう気になるのは人通りだった。
近鉄電車もJR線も終夜運転していて人は少なくないはずだ。
そう思いながら目を凝らしてみると、その人の数は想像以上の混雑なのであった。
近鉄奈良駅から大宮通りの歩道と奈良公園の遊歩道に沿ってゾロソロと蠢く人の流れ。
その数は観光のトップシーズンとほとんどかわらない。
真っ暗がりを大勢の行列が東大寺、春日大社方向へ歩いて行く、或いは帰っていく風景は迫力を感じるのだった。

東大寺の駐車場へ入る車で若干混雑していたが道路は歩道ほどの混雑ではなかった。
私は春日大社の南側にある高畑町の民間駐車場へ車を入れた。
ここは最近娘の大学のイベントや奈良の行事を見物に来た時に駐車する場所の1つで、今日は空いていればここにしようと思っていたところだった。
高畑町は奈良公園まで徒歩5分の立地で、閑静な住宅街。
新薬師寺や奈良町も近く、おしゃれなカフェも少なくない。
志賀直哉の旧宅もあり観光地に隣接しながら普段は静かなところでもある。
私の住みたい街ナンバーワンでもある。

私の駐車した隣には県営の駐車場がある。
どちらも満車近くで、大勢の人が奈良公園側とを行き来している。

春日大社の表参道は予想通りの大混雑であった。
「表参道は大変混雑しております」
というアナウンスが流れる。
この表参道という単語にどうも違和感があり、
ここは東京か、と一瞬錯覚してしまう。
そういえば表参道は一般的な名詞でどこの神社の正面参道は表参道。別に渋谷、原宿、表参道の表参道ではないわけで東京ブランドの恐ろしさを感じたのであった。

今回の参拝で最も気になていたのは「果たして夜中の鹿は何をしているのか」ということであった。
私はこれまで奈良の鹿というと昼間の姿しか見たことがなかった。
奈良は世界中でも稀な野生の鹿が人に懐いている都市で、広島の宮島のような例外もあるものの、大きな街の中を鹿が闊歩しているのは世界中でここだけだという。
奈良が身近な関西人にはちっとも特別なことと思わなかったのだが、インバウンドで訪れる外国人、とりわけ欧米人の驚きで初めてそれが特別なものであることを知ったのであった。
まるで浮世絵の価値を外国人に教えられたみたいだ。

で、夜の鹿はというと、昼間と同じで暗がりから人々の流れを眺めており、中には鹿せんべいをねだってくる鹿もいるのであった。

本殿まえで入場制限がかかっていて暫く待たされたものの無事に参拝を済まして帰路についた。
残念だったのは自動車で来てしまっていたことで、まさか「振る舞い酒」があるとは思わず、次回はかならず電車で初詣したいと思った、初の元旦早朝のメジャー初詣なのであった。


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子供の頃。
お正月といえば父の故郷岡山県へ出かけるのが恒例であった。
「出かける」と私は言っているが父はもちろん「帰る」といい、大阪生まれ大阪育ちの母も何故か父に合わせて「岡山に帰る」と言っていた。
いわゆる帰省には違いないものの、大阪生まれの大阪育ちで大阪府堺市立の小学校に通っている私からすればなんとなく納得できない言い方なのであった。

岡山の父の実家にいると年末年始、大勢の親戚やご近所さんが集まってきて核家族に慣れている私は辟易とした。
祖父母の家は農家だった。
建物は明治期に建てられた茅葺屋根。
道路から入ると両側に大きな農機具小屋のある門をくぐり、母屋が正面。
その東側に離れの家があり、その間の薄暗い通路を抜けると鶏小屋などがあったりした。

すごく田舎田舎した家なのであった。

かなりしっかりした作りだったので、そのまま現在もあれば重要文化財に指定されていたかも知れないようなボロっちいが大きな建物だった。

玄関の鍵はかかっていない。
というよりも鍵が付いていなかったように記憶する。
このため春から夏は開けっ放しで、ツバメがそこから飛び込んできて玄関土間の天井梁に巣を作った。
それはそれは賑やかなのであった。

ツバメが入って来るくらいだからご近所さんや親戚はノックもせずに入ってくる。
叔父叔母従兄弟は言うにおよばず、隣村からやってきた「遠い親戚」という人たちも家族総出でやってきたりしたので、多い時は数十人が集まっていたように記憶する。
従って大晦日はワイワイガヤガヤで誰も見ることのないテレビで虚しく紅白歌合戦が放送されていた。
平成元年に祖母がなくなって、
「葬式でなんじゃが、記念写真でも撮っておこうかのお」
と叔父の一人が声をかけたのがきっかけで従兄弟、叔父叔母などが勢揃いした。
この時私はあらためて自分の従兄弟だけで20人近くいることにビックリした。
それほどの大家族だったのだ。

田舎で正月を過ごすと、意外と初詣に行くことがなかった。
親戚でワイワイとはやるものの、不信心なのか氏神様へお参りにいくとうこともなかった。
車で20分ほどのところに有名な吉備津彦神社があるのだが、ここへも行くことはなかったのだ。

初めて初詣に行ったのは高校生の時。
友達と一緒に京都へ出かけた。
どこへお参りしたのかさっぱり忘れてしまった。
たぶん平安神宮だったようにあ気がする。
はっきり覚えているのは営業している食堂やレストラン、喫茶店が無く、しかたがないので河原町のマクドナルドで昼を食べてきたのを覚えている。
昭和50年代。
今やインバウンドで世界中から観光客が押し寄せている京都では、当時はクリスマスのヨーロッパのように正月に営業している店などなかったのだ。

毎年初詣にでかけるようになったのは20代中頃になってからだ。
それでも出かけるのは元日の夜が明けてからで、間違っても二年参りなどしたことはなかった。

今年は違った。

昨年夏から関西空港でバイトをしているカミさんが大晦日も夜まで仕事だというので、どうするのかと思っていたら、
「仕事終わる頃、関空まで来てくれへん」
と言うのだ。
そしてそこから初日の出かなにかに連れて行けというわけだ。

関空から初日の出であれば、もちろんヒコーキに乗っての初日の出、という手段もあるが、これは結構金がかかるし抽選に当たらなければ席も確保できない。
かといって迎えに行って家の近所の天神さんで初詣というようなことを提案すると、きっと怒るに違いない。
そこで真剣に考えてみたところ、奈良の春日大社に初詣に行くことにしたのだった。
昨年春、我が娘が入学した大学のすぐ近くある神社が春日大社で言うなれば娘の大学の氏神様。
深夜の奈良の鹿の様子も見ることができるし、だいたい私はメジャーな神社へ元旦にお参りしたことがない。
理由は付けられるし、文句も言われないだろうし、おまけに奈良は関空から車を飛ばせば1時間ちょっとで到着することができる。

私は初詣は春日大社に決定したのであった。



つづく

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