<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



結果的に任天堂ファミリーコンピュータがもたらしたのは玩具市場の破壊だった。
従来のおもちゃが売れず、主流はビデオゲームになった。
このため私がバイトしていたような個人経営のお店は数年以内にほぼ絶滅。
私がバイトしていたお店も平成を迎える前に閉店した。

ビデオゲームが電気製品であったことから、玩具店と家電販売店との垣根も崩れた。
気がついたらビデオゲーム以外のリカちゃん、プラレール、レゴといった普通の玩具も家電量販店で売られるようになった。
そして百貨店からは玩具売り場が姿を消した。
あのファミコン1000台を20分で完売したという阪急梅田本店には、今、玩具売り場は存在しない。

ファミコンはビデオゲーム市場を生み出し任天堂は今もそのチャンピオン。
既存の販売店は消滅。
いわゆるスクラップandビルドを達成したわけだが、ちょいとやり過ぎだったように思われる。

玩具店も無くなったので当然、中小の玩具メーカーも倒産。
大手も吸収合致など、市場のパワーバランスがずたずたになった。

「おもちゃ」と一言に言っても、それを設計するのも、製造するのもかなり高度な技術が必要だ。
子供が遊ぶものだから、と舐めてかかると、その複雑さと洗練さに声を出すこともできなくなる。
マクロスのVF-1バルキリーはちゃんと人形と飛行機型を組み替えることができたが、そういう風に設計できるのは並大抵の知識では不可能だ、と今も思い出すことがある。

ファミコンの登場で玩具以外にも、パソコンの統一規格MSXも普及しなかった。
パソコンという「わけのわからないもの」に投資するより、ファミコンを買ったほうが楽しいし役にたったからだ。

そしてファミコンの流れは今も続く。



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ファミコンブームが吹き荒れる中迎えた1983年から1984年に変わる年末年始。
相変わらずお客さんのニーズのトップはファミコンで、新しいゲームソフトが登場するたびに大騒ぎになっていた。
後の「Windows 95」のリリースや「iPhone」のリリースで長蛇の列ができたのなんか話にならない。
それほどの盛り上がり感があった。

このため昨年はかなりの量がはけた「ゲームウォッチ」も見向きがされず、ボードゲームに至っては「タカラの人生ゲーム」以外は売れない、という信じられないような光景に直面することになった。
もちろん売れるのは売れるが、散々悩んだ結果としてファミコン以外を買うという有様なので、
「え〜!ファミコン無いの?」
「え〜!ロードランナー無いの、ファミコンのゲームの?」
といった具合にこっちが悪いような言い回しになってしまっていたのだ。

ただシーズン的に言ってもリカちゃんやバービー人形のような「ファン」のいる商品はなんとか数がはけたのだが、中途半端で知名度の無い製品は、たとえ内容が良質であったとしても返品の憂き目に合うことになった。
そんな商品の多かったこと。

カセットビジョンでビデオゲームをリードしてきたエポック社は「カセットビジョンJr」という廉価版を投入。
流石に内容は悪くないので「ファミコン」を一時的に諦めたお客さんが買っていた。
苦情がなかったところを見ると、ある程度楽しめたのだろう。

つづく


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ファミコンが発売されたその瞬間から。
普通の玩具はとっても売れにくくなってしまった。
これは大げさな言い回しではない。

「すいません、ファミコンありますか?」

という質問が毎日何十回とお客さんから繰り出されることになった。
ファミコン以外で売れそうなものはガンプラかキン消しか乳児用玩具ぐらい。
単価数百円のガンプラやキン消しが頑張ったところで、ソフトをプラスすると2万円前後もするファミコンの足元にも及ばないものがあった。

発売されてすぐにフィーバーしたのはいいが、入荷がない。
入荷されても10台、20台単位で、入荷したら即売り切れなので焼け石に水状態。
消費者はファミコンという少々金額のはる「おもちゃ」を買おうとしているので、畢竟他の高額玩具を買うことを控える。
この結果、売上は悪くなる。

ファミコンがなかなか入荷されないところへ一つの情報が飛び込んできた。
「昨日の日曜日に、梅田の阪急百貨店がファミコン1000台を20分で売りきったそうだ」
というものだった。
事の真相は定かではないし、今でも謎なのだが、あの阪急百貨店のことだから真実だったのだろう。
梅田阪急のおもちゃ売り場というと子供の頃から憧れのフロアなのであった。
そこで大量のファミコンが一瞬にして売り切れる情景が目に浮かび、
「ああ、この先どうなるんやろ」
と大学生バイトの身分である私でさえ、ある種の不安を感じたのは言うまでもなかった。

つづく


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その時は唐突に訪れた。
平穏ノホホ〜ンとしていた玩具業界は、たった一つの製品で大きな岐路を迎えることになってしまったのだ。

1983年7月。
任天堂のファミリーコンピュータが発売されたのだ。

ファミコンが登場するまで、テレビゲーム機といえばエポック社のカセットビジョンが人気だった。
人気だったといってもファミコンとは比べるとマイナーな存在だった。
「テレビゲーム、そんなものより黒ひげ危機一発の方が面白い」
なんて時代だった。
カセットビジョンは良くできたテレビゲームで内容そのものはある程度洗練されていた。
けれども画質が荒くてドットが大きく、100円で1ゲーム楽しめる「アーケードケーム」と比べると全く品質で劣っていたのだ。
エポック社以外にもゲームと言えば米国のアタリ社のものがあったが、この時点で私の働いていた店は扱いがなかった。
ファミコンブームが頂点に達した1年後ぐらいにアタリのゲーム機も扱いを始めたが、内容的にはファミコンに到底及ばない粗雑なものなのであった。
ファミコンの品薄がなければ扱わなかっただろうというような製品なのであった。

そこへ「アーケードゲーム」と画面品質が変わらないファミコンが登場。
テニス、ゴルフ、ドンキーコング、マリオブラザーズなど本体価格14800円。ゲームカセット3800円は劇的な価格設定だった。

正直「安い」と思った。
この内容、この価格で話題にならないわけはなかった。

ファミコンは瞬く間に世間を飲み込んでいくことになる。

つづく


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「ゲームウォッチ」

と言っても21世紀の今日。
わからない人も多かろう。
ゲームウォッチとはゲームができる時計ではない。
時計も付いてる携帯型液晶ゲーム機なのであった。
携帯型液晶といっても現在のスマホの画面のような「なんでも表示できる」という万能マシンではない。
決まったパターンですでに構成されたどんな高級機も動きがそのパターンから抜け出すことは不可能というような商品だったが、実際にプレイしてみるとそこそこ面白く、携帯だけに子供がポケットに入れて持ち運びできる便利なハイテク製品だった。
価格は2480円から6400円程度。
当時は消費税は無いので、価格は表示通り。
人気の商品は任天堂が発売していた二つ折りタイプのディズニーキャラを使った商品や、ドンキーコングといったアーケードゲームのキャラクターを使った製品だった。
バイト店員として働いていた私としては、おすすめはエポック社のゲームウォッチだった。
任天堂が子供向けなのに対してエポック社の製品は中学生以上をターゲットとしていて内容もそれなりにオリジナルなのであった。
当時バイト価格で買い求めたその一つに「モンスターパニック」という製品がある。
モンスターが襲ってくるなか、自分のキャラクターを出口までボタンを使って動かしていく、というゲームで、なかなか操作が難しくてエキサイトしたものだ。
このゲーム機は今も私は所持している。
娘が高校生のときに修学旅行で「お父さん、ヒコーキの中で友達とゲームしたいので貸して」というものだから貸し与えたところ、かなり好評であったらしい。

そういうハイテクといえばゲームウォッチが好評で、価格もめちゃくちゃ高価ではないので順調に売りきったのであった。
また大人はゲームウォッチでは物足りないので、普通にパズルやボードゲーム、プラモデルなどを買い求め、小中学生の女の子はリカちゃんやバービー、あるいは編み物機、男のは超合金やラジコンといったものが、多少の人気のバランスはあるものの満遍なく売れていたのであった。

そして、この「いろんな玩具が満遍なく売れている」という年末年始は、1982年から1983年にかけての年末年始が最期になった。
だれも新しい年の夏前に突如として玩具業界に異変というか革命が発生するなどとは誰も考えなかったのであった。

つづく


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秋祭り本たけなわ。
長い新型コロナのトンネルを抜けた各町は祭りだワッショイ!と盛り上がっている様相だ。

先日、だんじり祭りで有名な岸和田の祭りを見物してきた。
人出と屋台の数はコロナ前の8割といったところだろうが、大いに賑わっていた。
そりゃそうである。
祭りにすべてを捧げている地域だけにあって新型コロナは街の繁栄にも大きくマイナスに作用していたのだ。

ところで、祭り。

私のカミさんが以前、こんなことを言っていた。
「祭りは参加しないと意味がない」

どこかで聞いたことのあるようなセリフだが、見ているだけではつまらない。
実際に自分も参加して体をつかわなければ「オモロない!」。
ということなのだ。
だんじり祭り、天神祭、祇園祭など関西にも大きな伝統的な祭りが散見する。
メディアでもその都度大きく取り上げられて全国的にも有名で、観光客が数十万人単位でやってくる。

したがって見物するだけでも価値がある、と言いたいところだが、やはり祭りは参加して初めてエキサイティングなものへと進化するのだ。

私の生まれた堺市の団地は昭和30年代に今のURによって開発された地域なのであ〜る。
したがって当時の昭和一桁生まれの若い世代を中心に新しいものを好む人たちのニュータウンになったのだが、反面新しいだけに祭りの文化も地蔵盆の文化も青年団も氏子衆もなかった。
あるのは自治会と子供会ぐらいでイベントと言えば盆踊りぐらいなのであった。

このため祭りといえば周辺の旧村落で開催される祭りが中心で畢竟見る側オンリーということになる。
参加することはままない。

それが参加することになったのは結婚して今の地域に引っ越してきてからだった。
今住んでいる町がだんじりを持っていて祭りとなると花代を出し、子供が綱を引っ張るとなると後ろを走る、というようなことになった。
有名な岸和田のだんじり祭に限らず、この祭りはやたらと走り回るのが特徴だ。
若い子たちがだんじりを引っ張り家族友人がその後ろを走る。

一日に走る距離はハーフマラソンより長く、日頃運動しないでいきなり参加すると大変なことになる。
二日走るとフルマラソンの距離より長くなるので、初めて参加した時、私は祭りの翌日に整形外科で見てもらわざるとえなくなったことが忘れることのできない記憶となっている。
それほどにハードだ。

だからといってヘトヘトになって酒のんで、いいもの食って、コケたりなんだかんだしているのが非日常で非常に面白いのも事実だ。

この非日常体験は見ているだけではその2割も楽しめないだろう。
参加して初めてフルに楽しめる。
カミさんのつぶやきは、こういうことを指しているに違いない。

今年の秋祭り。
新型コロナ明けの秋祭り。
見るだけではなく、参加することが大切だ。


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もう30代以下の人はわからないとは思うけれども、その昔「赤い運命」というテレビドラマがあった。
「赤い疑惑」に続く人気ドラマで伊勢湾台風だったか、なんだかのゴタゴタで生まれたばかりの子供が入れ替わり、それぞれ真実を知らされずに大人になったが、さあ大変、という番組だった。
こんな韓国ドラマみたいな番組の何が人気だったかというと、主演が山口百恵と三浦友和のコンビだったからだ。

私はもちろん子供であり、アイドルとしての山口百恵のファンであったけれどもこの番組はあまり好きではなかった。
理解できないということもあったけれども、ドラマの中で山口百恵の父(実の父ではない)を演じる三國連太郎に言い知れぬ不快感があったからだ。
悪父ぶりといったら昨年の朝ドラ「おちょやん」でトータス松本演じるおちょやんの実父が話題になったが、三國連太郎のそれは常軌を逸した悪ぶりだった。
トータス松本の悪父はまだ明るさがあったが、三國連太郎のそれは明るささえなかったのだった。

「嫌われるということは役者冥利につきます」

と本人が言っていたのを後に聞いて、

「すごい人だ」

と感じたものだった。
ちなみに三國連太郎といっても30代以下の人は知らない可能性があるので念の為に、このひと佐藤浩市のお父さんです。

この三國連太郎演じる父の経歴にシベリア捕虜というのがあった。

第二次世界大戦が終わってから旧満州国にいた日本人の多くはひどい目にあった。
財産を失っただけならまだいいほうで、命を失った人たちも少なくない。
旧軍人は条約を破って参戦したソ連、つまりロシアに引っ立てられシベリアの収容所へ。
強制労働につかされ満足な栄養もとることができず、家族に再会した気持ちそのまま餓死、病死、虐待死した。

主役の父はそういう環境で性格がねじ曲がり残酷で陰険な人間に成り果てたというものであった。

ウクライナでロシアがやっていることを思うと80年前とちっとも変わっていないことに驚きを感じる。
これは民族の個性なのか、教育の為せる技なのか。
街を破壊し、人を虐待し、拷問し、死に至らせる。
文化をも破壊しようと試みる。
我々が歴史教科書でしか習わないような残虐な行為を躊躇いもなく繰り返す。

ゴルバチョフが出ても、自由主義経済が導入されても、ちょっとばかりの報道の自由が生まれても、全てご破産。
ロシアはちっとも変わらない国なのである。


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8月15日は終戦記念日。
あの日から76年。
そんな歴史をリアルに知っている父も90歳。
日本人のほとんどが戦後生まれになっている現在、「終戦記念日」と言ってもなんの終戦なのかという時代がもうすぐくるかもしれない。

なぜなら太平洋戦争=第二次世界大戦は今の若者やこれから生まれててくる未来の人々には他の歴史と同じ年表の一つになることは間違いないのだから。

よくよく考えてみると他の戦争の終戦はいつだったんだろうと、今年は考えてしまった。
第二次大戦は昭和天皇がポツダム宣言受け入れのメッセージを国民に発した日ということになっているが、例えば終戦の日とだけいえば日露戦争はどうだったんだ、日清戦争は、第一次世界大戦は、と考えると色々あるように思う。

たとえば日露戦争の終戦の日は9月5日(1905年)。
ロシアとの間でポーツマス条約を結んだ日が終戦の日だ。
日清戦争は11月30日(1895年)。
台湾平定を完了した日。
第一次世界大戦は11月11日ポッキーの日(1918年)。
ドイツと連合国が停戦を結んだ日。
となっている。
さらにさかのぼって西南戦争は終戦日の特定ができなく、あえて言うなら9月24日(1887年)。
西郷隆盛が亡くなった日。
さらに戊辰戦争なら6月27日(1869年)。
函館戦争が集結した日。

このように戦争の終結した日は色々あって、そのうち8月15日もそのうちの一つになる。
大切なのは、儀式をすることではなく、何があってこうなって、そういう結末を迎えたのかということをしっかり伝えて同様のことが起こった時、どうやって戦争にならないようにするのかの知恵を養うこと。

そう思うのだが、テレビの番組を見る限り、そうじゃないみたいだ。


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「命の救援電車」を読んでいて副産物として得たのが「御堂筋が完成する前の大阪のメインストリートはどこだったのか」ということだった。

このこと、あまり考えてこなかった。
大阪といえば地元大阪人の私達にとっても御堂筋であり、これは不動のポジションである。
ちなみその不動の御堂筋は府道ではなく国道である。

しかし御堂筋は私の父母が生まれた頃の昭和8年完成で、それ以前は存在していなかった。
いや、存在はしていたが幅の狭い路地のような筋(大阪では南北の通りを筋といい東西の通りを通りという。私はこれをAvenueとStreetの違いみたいなもんと外国人には説明するようにしている)はあったが、間違ってもメインストリートではなかった。
どちらかというとそのあたりは心斎橋筋がメインであったはずだ。

ではいったいどこがメインストリートだったのか。
その回答がこの本に記されていたのだ。
しかもごく自然に。

御堂筋の一本東の大通りと言えば堺筋。
この堺筋が元々の大阪のメインストリートなのであった。
ここは北方向一方通行の大通りでその下を地下鉄堺筋線が走っている。

私はこのことを知るに及び、多くの謎が氷解するのを感じたのであった。

それは何かというと、なぜ大阪の大企業の多くがその本社を堺筋とその近辺にもっているのか、あるいは持っていたのかということだ。
例えば重要文化財になっている野村證券やコニシボンドの本社建物、オフィス家具のイトーキなどの本社は堺筋にあったし、今もおいているところがある。
三井グループの総元である三越の大阪本店も堺筋にあったし、高島屋は今も堺筋に店を持っている。
それに大企業よりもなによりも大阪証券取引所は堺筋と土佐堀通りが交差する北浜の交差点にある。

そういうことでこういう重要拠点がなぜこの通り沿いには多いのかという謎が一気に氷解したのであった。

さらに追加すると大川(旧淀川)にかかる橋の名前が御堂筋は淀屋橋(中之島の南側)と大江橋(中之島の北側)なのに堺筋は「難波橋」。
名前だけから考えると難波橋のほうがランク上のような感じがしていた。
欄干にライオンの彫像があることからライオン橋などという別名があるのもこの橋だけだし、中之島で北側と南側の名前が分断されていないのもこの橋だけだ。

千日前通りより南側の堺筋は大阪の秋葉原ともいえる日本橋の電気街があっていささか品位に欠けるところがあるものの、なぜ千日前通りより北側が威厳に満ちていたのか。
しかも道頓堀も堺筋より東側に劇場が存在したのに、なぜ御堂筋から西側に劇場が存在しないのか、という理由もよくわかったのであった。

ということで堺筋の謎が少しばかり溶けたということで、街歩きの楽しさが少しく増すかもしれないとと思っている副産物なのであった。



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落語の「口入屋」の後半。
入社したばかりの女中さんの寝室に忍び入ろう従業員一同が繰り広げる夜這い騒動がクライマックス。
番頭、手代から丁稚まであれやこれやと戦略を練りながらお店の中で悪戦苦闘。
結局女中部屋に潜入することに成功したものは誰もおらず、どうしようもない状態になっているところを御寮さんに見つかってしまう。
という私も好きな噺の一つだ。

時代は江戸の終わりか明治の始め。

この噺からわかるのはこの頃は会社の従業員は住み込みで働くことが多かった。
だから大阪船場に残る重要文化財級の商家には奉公人の部屋がちゃんとあって家族同然に扱われた。
今放送中のNHK朝ドラでも主人公のちよちゃんは道頓堀の芝居茶屋で住み込みで働いている。

これが大きく変わり始めるのが、やはり明治大正期から昭和初期。
多くの働き手が自分の家から通うようになった。
東京、大阪では電車やバスで通勤する姿が当たり前になり、住み込みという人はほとんどいなくなった。
近いもので寮に住むというものがあるが、住み込みとは大きく異なる。

これがさらに変わりつつあるのが今現在。
コロナ禍の影響と通信技術の飛躍的進化もあって自宅で業務をこなす人が数多く現れた。
かくいう私も自宅を事務所として働いている。
尤もフリーランスのコントラクターなので自宅で働くのは珍しくないのだが、お客さんや研究開発担当者と話すのはWEB会議が多く、リアルで会うのは顔を合わせないと話にならない時がほとんど。

このように江戸時代から対象にかけての住み込み形態の勤務状態を第一次働き方革命といえば、通勤は第二次革命。
そして在宅勤務は第三次革命だ。

働き方を変えよう、と言っても会社の都合というか経営者の頭が急激に変わることができないので、コロナが始まるまで掛け声だけだったのが現実になった。

働き方の第三次革命はコロナで形になりつつあるということも、たぶん10年後には謂われるようになるんだろうな。



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