<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



フィリピンのドゥテルテ大統領が来日している。
この人も多分に漏れず政治家の潮流に乗った人だ。
この場合の潮流とは、

1.人気はあるけど品がない
2.他では通用しない独自の価値観を持っている
3.法令は俺様だ
4.他人の意見に耳を貸さないのは当たり前

と言ったところ。

最近の行動を見ていると、

政府に楯突くやつは皆が賛成するから法律無視して皆殺し。
自国に鑑賞してくるやつは米国とて敵である。
金をくれたら中国政府もお友達。
時間は俺様のためにある。

他人様の国のことながら海を挟んでお隣の国であるので、迷惑が及んでこないかいささか心配になってしまうお人柄だ。

このフィリピンの大統領を上回るのが米大統領候補のトランプ氏。
以上4項目以外に、

5.女大好き
6.税金は貰うもの
7.金儲けにモラルはない

の3項目が追加されるのではないかと私は思っている。

対立候補のクリントン氏はトランプ氏と違ってプロの政治家という顔があるだけかなりマシだが、

旦那は稀代の女好き
ちょっと重そうな病もち
TPPもなんのそのの風見鶏

といった傾向を持っており、投票日が迫る米国国民にしてみれば究極の選択が待ち受けているのを見ると、かなり気の毒に感じてしまう。

それにしてもどうしてこうも政治家の質が世界的に低下しているのだろうか。
これではまるで横山ノックさんを知事に選んでしまった昔の大阪府民に近いものがあると思えて仕方がない。
尤も、ノックさんより役人出身の太田房江の方がさらに酷かったことは記憶すべき現実ではある。

首長がこのような品質なので、一般政治の質は論を俟たない。

選挙をすればお坊ちゃまお嬢ちゃまが当選する。
お坊ちゃまお嬢ちゃまだから知識に乏しく気概もない。
従って、言っていいことと悪いことが分からない上、
市井の生活に無頓着。
結果、行政サービスは向上せず、ただただ従来の利権体質を維持したまま談合が繰り返され社会には巨額の赤字が生み出されていくのだ。

そもそも今の社会、知識が高く、志が有るものが政治の世界を目指すことが少なくなっているのではないだろうか。
政治家の道は実業家の道と比べるとかなり不安定だ。
人気商売とも受け取れない選挙制度が今のままである限り、その傾向は改善されることはない。
選挙で落選すると一挙に失業者。
失業しても政治活動を続けていける心構えと経済力が無ければ政治家などできるものではない。
安穏。
平和。
ご都合主事。
無気力。
が蔓延する世の中だからこそ、そういう傾向は強くなるのだ。

よくよく考えてみると政治家は頭の中身よりも、欲の皮の突っ張った奴しか成れないんじゃないかという顔ぶればかりではないだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




俳優・平幹二朗が亡くなった。

平幹二朗といえば一番に思い出すのがNHK大河ドラマ」「樅ノ木は残った」。
随分と古い作品で、なんといっても大阪万国博覧会の年に放送された大河ドラマだけに46年の歳月が流れている。
放送されていた当時私は小学校1年生だった。
まだまだ子供だったこともあり、リアルタイムでドラマを見た記憶の中に筋書きや描写は含まれていない。しかしながらタイトルに流れる能面のどことなく恐ろしげな風貌は今も鮮明に覚えている。
タイトルに恐れをなした大河ドラマだった。

長じて「懐かしの大河ドラマ」という番組で改めて「樅ノ木は残った」が紹介され、ゲストに主演した平幹二朗が登場し、ざまざまなエピソードが紹介された。
中でもドラマの終盤、謀反を起こしたことになっている原田甲斐が血を流して息も絶え絶えに伊達家を守る一言を述べるシーンが強烈だ。
原田甲斐、つまり平幹二朗の目は充血し、声は震え、邪鬼迫る形相で、
「事件は私が起こしたと述べられよ」
と凄惨な切合の現場に駆けつけた者に述べる。
本当に凄いシーンなのであった。
で、平幹二朗はインタビューで、
「実はあのシーンの前日は一睡もせずにしたまま、目を充血させて撮影に挑みました。」
と語り、その役者魂に私はしばし呆然と感動を覚えたものであった。

あの遠い日のテレビドラマを思いだした名優死去のニュースなのであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






その昔。
といってもそんな昔ではなく20年ほど前。
20年といえば充分に昔か....。
ともかくオフィスで一人ひとりにPCが配布され始めた頃。
「オフィスから紙がなくなる」
という説が広まった。
文書は電子データと化してコピー用紙や帳票用紙が不要になる。
オフィスから書架やキャビネットが消滅し、すべてPCの画面が書類の代用してスッキリするに違いないと。
で、現在。
オフィスから紙は駆逐されず、むしろより多くの用紙を使いまくっているところが少なくない。
これは一体何なのか?

話は変わる。
先月だったか先々月だったか、アメリカで実証実験が行われている自動車の自動運転で初めての死亡事故が発生した。
次世代の自動車販売の重要な技術要素である「自動運転」関連のニュースだっただけに記事のインパクトは小さくなかった。
読んだ私もその原因に興味を誘われたが、読んだ自動車メーカーはショックがもっと大きかったのか、その後関連記事は新聞でほとんど報道されることがなかった。
次世代の錬金技術にケチがつくのを恐れた関係者が報道を押さえ込んだんではないかと、なんとなく想像してしまうのは私だけだろうか。

そもそも車を完全自動運転することはかなりの無理があるのではないか、と私は考えている。
道路を走っていると想定外のことが起こることは想定済み。
それをコンピュータ頭脳だけで処理するにはあまりに貧弱だ。

この自動車自動運転の技術の骨格はAI技術。
人工知能と呼ばれている分野だ。

人工知能が発達すると自動車や電車の運転手は職を失う。
さらに経理や財務に従事する人も不要になる。
多くの分野でAIが職務をこなすようになるため、それに応じただけの人数が職を失うことになるという。
なんという暗い未来なのか。
これではまるでB級SF映画の世界じゃないか、と思っていたら、その説を根底から覆す書籍に出会ったのだ。

それが西垣通著「ビッグデータと人工知能 可能性と罠を見極める」(中公新書)だ。

それによるとAIは大きなデータを扱い分類したり検索するには向いているが、決して人の代わりなどにならないというのだ。
AIがチェスで名人を負かせても、それはチェスのアルゴリズムの中だけの話であり、チェスの強いAIに自動運転ができるかというと全くできない。
つまりチェスのような指し手を短時間で分析して次の一手に進むようなデータ処理による分析機能ではAIは非常に優秀だけども、自動運転のような予測不可能なことまで対応することなど到底できないという。

なぜならAIは「決断することができない」から。

考えてみればAIが果たして人間と同じ「意識」を持ち「考え」「創造あるいは想像して」、「歴史」や「文化」にも配慮して「倫理的な判断」を下すのは極めて困難と思われるからだ。
AIとて単なる高度なカラクリに違いないのだ。
従ってAIが裁判官になることもないし、警察官になることもない、複雑な地形をオフロードするドライバーにもなりえないし、政治家、デザイナー、教師にもなりえないのだ。

AIにおける「人間の失職」はOAによる「オフィスの紙の消滅」と非常に類似していることに気付かされた一冊なのであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )