<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



1970年。
月へ向かっていたアポロ13号のミッションは失敗の中での大成功と言われている。
それは地球に戻れないかもしれないという大事故の危機的状況にもかかわらず、乗組員、管制スタッフともが冷静沈着に考え行動したことで見事に無事帰還を果たしたからだ。
結末はわかっているのに何度観ても感動してしまうのがロン・ハワード監督、トム・ハンクス主演の映画「アポロ13」。
それほど失敗の中の大成功は感動的なのだ。

そういう意味において、今回のソユーズロケットの打ち上げ失敗は成功の中の大成功と言えるのかもしれない。
「ソユーズ宇宙船、打ち上げ失敗。国際宇宙ステーションの運営に影響か」
朝起きるとそういうニュースが流れているので、
「おお〜可哀想に」
という言葉がとっさに出た。
「何がかわいそうなん?」
と先に起きてテレビを観ていたカミさんは言った。
「かわいそうやん。宇宙飛行士。打ち上げ失敗やったら...」
「生きてるで」
「?」
「脱出して行きてんねん」
「!」

これまで友人宇宙船で「打ち上げ失敗」というと即、死に結びついて気の毒で残酷な光景が映し出されるというのが普通だった。
スペースシャトル「チャレンジャー」号の爆発は30年前とはいえ記憶は鮮明で今も忘れることはできないし、帰還途中とはいえスペースシャトル「コロンビア号」の空中分解も気に毒としか言いようがない。
ところが今回のソユーズは2人の飛行士はパラシュートで地上に帰還。
テレビを観ているとソファにくつろいで記者の質問に答える二人の姿も写っていたのだ。

ロシアのソユーズは1500回を超える打ち上げ回数だというだけに、ものすごい数のノウハウが溜まっているのだろう。
もちろん緊急時の脱出もその一つ。

ソユーズ1号が帰還に失敗したことは宇宙飛行の歴史でもつとに政治優先で技術無視で生じた悲劇と言われているが半世紀も経過すると当たり前のように安全システムが備わり、機能しているのかも。

久々にあっと驚く宇宙関連のニュースなのであった。

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「仕事が忙しいいので歌舞伎なんて見るのは無理」

と言ったのは私。
で、

「観てスッゴク良かった!」

というのは観たあとの私の感想なのであった。

数十年ぶりに観た大歌舞伎は豪華絢爛、ダイナミック、大仕掛けで超グレートなエンタテーメントであった。
鑑賞したのは道頓堀の大阪松竹座で上演中の「十月大歌舞伎 2代目市川斎 3代目市川右團次襲名披露」の超人気演目なのであった。

高価な歌舞伎のチケットをどのようにして入手したかというと自分で買ったのではなく、たまたま家族がもらった招待券で見ることができたのだ。
が、家族3人に対し招待券は2枚だったので結局1枚追加で当日券を買うことになった。
えらい出費なのであった。
ところがその当日券。
購入したのがその日の最後の1枚ということで、その人気ぶりが伺えたのであった。

場所が道頓堀ということもないだろうが、観客の中には欧州からと思しき外国人の姿も観られ、その人気が国際的であることも改めて感じたのであった。

観客の7割ぐらいは年配のおばさまがたで、これはクラシックのコンサートにも通じる伝統芸術に対する一般的な傾向だ。
伝統芸術でも落語になると若い人やおっさんが増えるのだが、その原因は落語はおしゃれではないためではないかと、こういうときに考えてしまう。

歌舞伎は独特の語り口で繰り広げられるので果たして理解できるだろうかと心配していた。
以前見たときは高校生だったこともありほとんどわからなかったのだ。
その後、テレビや映画、落語の中身として歌舞伎に接するに連れわかるようになってきたのだが、最近は同じ伝統舞台芸術である能や狂言をみることが増え、

「ん〜、退屈するかも」

と要らぬ予想をしていたのだ。
ところが、歌舞伎はいわば日本のミュージカル。
実際に生で見ると、心がそういうモードになっているのか7割から8割は聞き取ることができて大いに楽しめたのであった。
この7割から8割というのは先日DVDで見た字幕のないブロードウェイミュージカル「シュレック・ザ・ミュージカル」といいとこ勝負なのであった。

それにしても日本の舞台はどうしてこうも独自に大仕掛けに発展したのだろうか。
世界で注目を浴びる理由がよくわかる。
回り舞台にせり出し、ついには空中飛雄などなど。
演目は「双児隅田川」という江戸時代からある話だそうだが、100年以上前からこんな大掛かりだったんだろうかと、すごく気になったのは言うまでもない。

このような大掛かりな仕掛けがある一方、私は歌舞伎に限らず日本の舞台には「花道」があることがお気に入りだ。

私が花道を始めてみたのは同じ道頓堀にあった道頓堀中座。
出し物はもちろん松竹新喜劇の藤山寛美なのであった。

岡山から出てきたばあちゃんの希望で家族揃って中座で寛美の喜劇をみたのだ。
そのときに観客の後ろ側から演者が出てくるのを観て、花道を知ったのだった。

初めて観た舞台に花道があったので、演劇というものはすべて花道があるものと思ったのだが、日本独特のものであることを知りその芸術的アイデアの突出した凄さに感動したものであった。

ともかく十月大歌舞伎。
必見である。

なお、客席前方で見るときはビニールシートを忘れずに。
理由は観たら、わかる!



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今年の夏は例年になく暑い夏だった。
我が家も冷房に使用した電気代が半端ではなく、家計に与えた影響は小さくない。
24時間つけっぱなしだった日も少なくなく、よくよく考えてみるとまだエアフィルターの掃除をしていなかったので暖房が必要な季節までにはなんとかしなければならないと、この文章を書きながら思い出した。

で、こう暑くなってくるとエアコンだけは対応できない時が出てくるのも当然である。
以前訪れたミャンマーのヤンゴン動物園ではあまりの暑さのためか、クマが水風呂に入って寛いでいるという漫画のような光景を目撃したことがある。
私はミャンマーのクマとは違って水浴びはしないが、そのかわりにアイスクリームやアイスキャンディ、それとオリオンビールで涼をとるということを繰り返したのだ。

そこでメインに登場するのがガリガリ君。
昨年あたりから暑くなると経済的に注目されているのが赤城乳業のガリガリ君アイスキャンディだ。
私も家族もあまりに暑いとこのガリガリ君を買い求めてしまう。
価格も100円以下という今時珍しい氷菓子でもあるのでついつい買ってしまう。
気がついたらガリガリ君にかなりの投資をしているのではないかと愕然とすることもあるのだが、暑い時はガリガリ君か生ビールなのでどうしようもない。

このガリガリ君を脅かすアイス菓子が最近出回っている。
それは何かと言うと「葛アイスキャンディー」なのだ。

葛きりの材料である葛をフルーツなどのフィレーバーと一緒に凍らせた和菓子ジャンルのアイスキャンディー。
これがなかなかいけてるのだ。

私はこれを昨年大阪万博公園で開かれていたスイーツエキスポで初めて食べた。
食べた瞬間にすっかり気に入ってしまったのだが、その存在を暑さのために忘れていた。
そういうボーッとしていた真夏のある日、今年は西宮市立大谷美術館を訪れた帰り道で美術館の近くにあった和菓子屋さんで売られているのを見つけて思わず買い求めた。
大いに満足したことは言うまでもない。

この葛アイスキャンディのメリットを挙げると次の通りになる。

1.溶けにくい
  もともと葛で固まっているため普通のアイスキャンディと違って「早く食べないと溶けて落っこちる」ということがない。
2.食感がある
  葛でできているので単にサクッとした歯ざわりではなく、サクッとしたなかに弾力があってほのかに噛みごたえがある。

ということだ。
従来のアイスキャンディーにはない上品さがいい。

デメリットは値段が高いということか。
ガリガリ君は1つ100円以下だが、葛アイスキャンディは200円と少しする。
かなり高級なのである。

とは言うものの、アイスキャンディなら世界中どこへ行ってもあるのだが、葛アイスキャンディは我が日本にしかないであろうことから、今後のインバウンドのネタにも使われるのではないかと大いに期待されるところなのだ。
私には関係ないけど。



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台風21号で関西空港が大変なことになって、その大変なまま運行再開をした9月7日。
私は幕張メッセで開催されていた展示会へ日帰り出張。
行きは新幹線だったのだが帰りに成田空港からピーチエビエーションの関西空港行きに搭乗した。

私は大阪〜東京は自宅が関西空港のほうが新大阪駅よりも圧倒的に近い関係で飛行機で移動することが多い。
その日、大阪から東京へ向かう時はさすがに朝の飛行機便は復活しておらず新大阪から新幹線でゆっくり東京へ向かった。
あまりに久しぶりなのでエキスプレス予約の会員番号とパスワードを忘れてしまっているのではないかと思い、前夜にメモをひっくりかえして確認した。
そしてスマホでの予約の手順も忘れていているかもしれないので、念のためにパソコンで予約をいれておいた。
新幹線に乗るときはいつも駅に着いてからきっぷを買っていたのだが、スマホでの操作に自信がなかったのだ。

新幹線の予約を入れたのはピーチでの往路の欠航をピーチが飛ぶのかどうかを確認してからだった。
実は今回の展示会出張は1ヶ月以上も前から決まっていて場所が幕張ということもあり、成田からが近いのでピーチのチケットは買っておいた。
それも経費節約で最も安いシンプルピーチを選んでいた。
シンプルピーチならオプションの保険を入れても大阪〜成田往復1万6千円ほど。
さすが、空飛ぶ電車。
LCC。
新幹線の片道料金に若干プラスの高速バス並み料金なのであった。

ところがこのチケットは客の都合でキャンセルを入れるとキャンセル代を徴収されるチケットだった。
キャンセル代は決して安くなく、いわばチケット代を放棄するような感覚でのキャンセル代なのだった。

これまでピーチを何度も利用してきてキャンセルになったことはなかった。
だから今回も遅れることはあってもキャンセルになるようなことはないだろう、と勝手に思い込んでいたのだ。
ところが台風が関空に決定的ダメージを与えた今回。
飛行機が飛ぶのか飛ばないのかが大きな問題となった。
キャンセル料は払いたくないので飛ぶのであれば乗る必要があり、飛ばないのであれば代替ルートを確保する必要がある。
もちろんピーチから「フライトキャンセルの知らせ」を確認する必要がある。
にもかかわらず、ピーチはなかなか飛ぶのか飛ばないのかを発表しないので、こっちも伊丹から青い翼で飛ぶのか新大阪から新幹線に乗るのか決断することができない。
ようやく行きはキャンセル、帰りの便はフライトするというのがわかったのは前夜遅くなのであった。

成田空港へ着いたときいつもなら長い列ができているピーチのチェックイン機の前には数人がいるだけ。
これはやはり大勢がフライトキャンセルをしたのだと思った。
ところが実際に乗ってみると座席の8割は埋まっており、相変わらずの人気であることがわかった。
安さはフライトの便利不便利よりも魅力的あるようだ。
搭乗口に表示されていた「行き先 関西空港」という表示がなんとなく、阪神大震災の4ヶ月後に大阪駅で見た新快速「姫路」と書かれた表示を見たときの感動に似たものがあった。

関空までのフライトはいつもの通りで第2滑走路への着陸もいつもの通りだった。
いつもの通りではなかったのはフライトポイントをつける登録機が休止されていたことと、第2ターミナルから乗ったバスが第1ターミナルを経由するもそのまま南海電車の泉佐野駅まで行ったことだった。
第2ターミナルは銀座ライオンが閉まっていたがプロントもコンビニも営業していて、いつもとあまり変わらない風景だったが、第1ターミナルは薄暗く寂しげな雰囲気だった。
道路を走るバスから眺めると空港には数機のANAの飛行機がターミナルに接続されたままになっていた。

鉄道の無いのは本当に不便だ。
そこで思い出したのは初めて利用したときの大阪空港。
あれは1981年の春なのであった。
当時、大阪(伊丹)空港はアクセスがバスしかなかった。
大阪市内からはリムジンバスで向かうのだが、これが時間が正確ではないという欠点があった。
今も多少ある。
市内から空港へ向かう阪神高速道路空港線(現 池田線)は空港だけではなく中国自動車道へ抜けるアクセス道路でもありその混雑はかなりひどい。
とりわけ空港から大阪市内へ抜けるには通常30分ほどがひどいときは90分はかかるということも珍しくなかった。
私はこのバスでのアクセスが大嫌いで、当時は高校生でもあったことから「イライラするな、もう」という感覚なのであった。

このため「空港は不便。よって飛行機は値段も高くてもっと不便」という思い込みがあった。

あれから40年近く。
すっかり時代は変わったのであった。

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台風21号は予想以上の被害をもたらした。
私の自宅は木造2階建て2x4で地震には強いということで定評のある住宅メーカーの設計ではあるのだが、今日の暴風の中でどれほど揺れたか。
その揺れ方は全く想像していなかっただけに少々薄気味悪かった。
まるで乱気流に突っ込んだ飛行機みたいだったのだ。

「屋根、飛んで行けへんやろか」

と本気で心配になった。

暴風自体は2時間弱で収まったものの、その爪痕は凄まじかった。
風が収まって玄関から外へ出てみると、家庭菜園のトマトの木はすべて横倒し。
近所から飛んできた畳半分ほどのプラスチック製の波板が芋畑に突っ込んでいてバタバタと震えていた。
そのすぐ近くにはどこのものだかわからないプラスチック製のバケツの蓋。
家の建物とお隣の建物との間の1.5メートルほどの通路は猛烈な速度で風が吹き抜けたのか、うちのではない大量の瓦の破片が落ちていたのだ。

私の家と、ご近所はまだよかった。
隣町は停電になっていて、おまけに古い家屋が多くて瓦、スレート、看板などが吹き飛ばされて屋根の下地が露出して散々たる様相を示していたのだ。

国道に出てみるとさらに愕然。
看板の多くは風に煽られて傾いている、反り返っている、倒壊している、落下している、破壊されている、という状態だ。
その看板の破片があちらこちらに散乱していて通行の妨げとなっていた。
おまけに3つに1つ位の割合で信号が消えてしまっていて、片道3車線の国道は大渋滞になっていたのだ、

看板だけではない。
駐車場の屋根。
店舗のシャッター。
店舗の壁。
警察署のガラス窓。
レストランのダクト。
などが破壊され、道路に散乱。

これだけ微妙に広域に街が破壊されているのを見るのは映画を見ているような錯覚に陥り現実感が無くなってしまったのだ。

それで最も現実感が無くなってしまったのは関西空港の被災である。
関西空港はなんとこの日が開港記念日。
24年前のこの日に日本で最初の24時間空港、世界ではじめての海上空港として開港。
はじめの十数年間は閑古鳥しか飛んでいなかったのが、今や成田と似たりよったりの便数を誇る世界でも屈指の国際空港に成長していたのだ。
私もこの関空は毎月数度は利用する空港なので愛着がある。

ところが台風21号のために、

① 高潮で第1ターミナルとA滑走路、ならびにエプロンなどが浸水。
② タンカーが連絡橋に衝突。

という事態が発生したのだ。
高潮は関空島を海に戻してしまうほど広域に冠水。
A滑走路は全長3500mでターミナル1の眼の前にあることからメインの滑走路。
これが冠水なのでたまらない。
幸いなことに全長4000mのB滑走路は被害をまぬがれていると言うが、ターミナル1が使えないということはターミナル2を利用しているピーチエアと春秋航空とその近くの専用ターミナルを使っているフェデックスは良いかも知れないが他のほとんどのエアラインにとっては一大事というような非現実的な状況なのだ。

さらに連絡橋がタンカーの追突によって破壊されてしまったために陸路での関空島へ渡る方法をなくしてしまった。
あとは関空に行く方法は神戸から船に乗るのか、他の空港から関空に飛ぶしかないのである。

このような緊急事態に対処する方法は、ない。

もともと連絡橋がアクセスのほとんどを担っている状態だったので、地下(海底)トンネルが要るのではないかと思っていたが、やはり必要なのだ。

関空が大阪湾に浮かぶ孤島となてしまった現在、私の明後日の出張もままならず、このままでは新幹線でゆっくりと移動するしかなくなってしまう大変不便な状況が待っている。

どうなる関空。
建設当時のように泉佐野から貨物船のようなフェリーが運行されるのか。
真剣に要注意なのである。

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台風21号が接近中というニュースが流れる。
「またかいな」
とつぶやいてしまう。

JRが運休を予告。
「またまたかいな」
とつぶやいてしまう。

今年は驚くほど多くの台風がやってくる。
いつから大阪は台風銀座の沖縄になってしまったのか。
大阪市大正区に沖縄県人が多いことはつとに有名ではあるものの、人は増えるのは大歓迎だが台風が来るのは歓迎することができないのは誰でも同じ。

私の実家のマンションは10年ほど前に台風の突風で屋上屋のの裏側に張られたパネルが破損。
周辺の一戸建て住宅に飛んでいき複数の自動車の窓ガラスを割る、住宅の瓦屋根を跳ね飛ばす、など多大な被害を振りまいた。
被害総額は400万円ほど。
幸いなことにず〜〜〜〜〜と大昔に管理組合で加入していた、
「こんな保険いらんやろ」
などと言われていた保険が効果を発揮して全額保険金で修繕と賠償をすることができた。
まるで高さ15メートルの防潮堤を築いていて、
「そんなものは要らんだろう」
と言われていた東北地方の海辺の小さな町が、その現代の万里の長城と揶揄された防潮堤で津波を回避することができたのに、少しばかりに似ていた事件だった。

今回の台風21号は前回の20号もそうだが昭和36年の第二室戸台風とほぼ同じルートをたどっており、大阪に最も大きな被害を出すコースでもある。
当時私の父母は堺の団地に住んでいたのだが、
「こんな台風なんかたいしたことはない」
と居間でのんびりしていたところ、突然ガラス窓が木っ端微塵に割れて衣類、その他殆どが飛んでいってしまったのだという。
その恐怖たるや、まだ若かった二人には忘れられないものになってしまった。
このとき私はまだ生まれておらず、まったく知らないのは当然なのだが、父も母もその台風の恐ろしさを今も時々語ることがあるくらいだ。

室戸台風は史上最強の台風で気象台の風速計が振り切れて最大風速が未だ不明の恐ろしい台風でもある。

今回の21号は気圧も低く、最大風速45メートル。瞬間風速は60メートルというのだから、室戸台風といい勝負かもしれない。

やあやあやあ、台風がやってくる。
庭のガラクタをまた紐で縛らなければならない。

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夏の甲子園が終了すると「夏も終わりやな」と感じるようになったのはいつの頃なのであろうか。

1978年8月。
高校1年生だった私は中学3年生の時の仲間7人と一緒に3泊4日の海水浴にでかけた。
訪れたのは淡路島。
それも鳴門海峡に面した福良のユースホステルであった。
往路は大阪堺市から明石を経由してフェリーで対岸の岩屋へ渡り、そこから路線バスで数時間をかけて目的地に到着した。
旅の内容を述べるのは別の機会として、帰りは洲本から大阪の深日港行きの大阪湾フェリーを利用した。
今は明石のフェリーも大阪湾フェリーも無くなって乗ることはできない。
当時は橋がなかったので今になってみると幻の経路なのだ。

深日港で船を降りて南海電車に乗り換えて堺駅に到着。
すぐに解散せずに何故か書店へ入って本を物色していた。
いや、もしかすると書店は深日の駅前で入ったのかもしれない。
40年前の出来事なので記憶が定かではないのだが、覚えているのは書店に入ったことと、そこで立ち読みをしたことだ。
しかも立ち読みにまったく集中することができなかった。
もしかすると書店に入ること自体、立ち読みが目的ではなかったのかもしれない。
なぜなら、書店内では甲子園のラジオ中継が流されていたからだ。
しかも決勝戦。
スピーカーからはPL学園対高知商業の決死の戦いが伝えられてきていたのだった。
確かものすごい展開していて、その熱戦を制したのがこの大会で最終回、逆転で初優勝となったPL学園なのであった。

ここまでの大会では私のふるさとである大阪の甲子園代表といえば大鉄、浪商、近大附属そしてPL学園が常連校。
しかし大会で優勝した大阪の学校はなかった。
中でもPL学園は何度も惜しいところまで勝ち進んでいたのだが優勝には至らなかった。
そのPL学園がもしかすると初優勝するかもしれない。
その瞬間を我々同世代の高校生はかたずを飲んで見守っていた。
それも立ち読みをしているフリをしながら見守っていたのだ。

歴史的逆転劇はこうして私達の記憶に焼き付けられた。

昨日の第100回大会の決勝戦。
秋田県立金足農業高等学校を応援する人々、とりわけ秋田県民と秋田県に縁のある人々は1978年の我々のような気分で試合を見守っていたのに違いない。
いや、大阪人である私ですら大阪桐蔭に対する秋田県代表を大いに応援していただけに、きっとほとんどの日本人が金足農業高等学校を応援していたのに違いないのだ。

結果的には残念にも超強豪の大阪桐蔭に大差で破れてしまった。
1978年8月20日のPL学園のようにはいかなかった。
それでも公立高校の、それも東北の秋田の代表が決勝戦まで勝ち残って強豪チームと戦った姿は多くの人に強い感銘と勇気を与えたことだろう。

大阪人も心から応援した秋田県立金足農業高等学校。
決勝戦まで高校野球の面白さと醍醐味を感じさせてくれたのは準優勝の彼らなのだ。


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またスポーツ関連の事件だ。
今度はバスケットボール。

日本代表のうち4人が会場のあるインドネシアのジャカルタで「よからぬ夜遊びをした」ということで大騒ぎになっている。
帰国命令が出て帰ってきた4人には記者会見が待ち受けているという念の入れようだ。
でも、これってなんか行き過ぎな感じがするがどうなのか。
で、その記者会見を見て嗤った(今回の場合は笑ったともいう)人がいたら手を挙げるように。

「はーい!」

とうことで、ことそれ左様に20代の独身の若者が羽目を外して叱られることは何も珍しい子ではない。
そういうことを大きなニュースにして吊し上げをする方に病的なものを感じるのは私だけなのだろうか。
記者会見を見ているとツッコミどころ満載だ。

「売春行為をしたんですか?」

と会見上で質問している記者諸君。
私はあなた方に質問したい。

「で、あなたがたは無いんですか?」

と。

この四人が非難される部分は日本代表のユニフォームで出かけていたことだ。
それは相当に無知というかアホというかどうしようもないマヌケ加減なのだ。
しかも大会真っ最中で酒を飲むのは目をつむるとして、精力をこういうところで消費しては試合に勝てないのではないかと大いに心配するのであった。
それにビョーキになったらどうするのだ。
むしろソッチのほうを心配してしまう。

この「粗探し」のようなマスメディアの対応は相手によっても変わってくるので見ていて不愉快にもなってくる。

以前、水泳の金メダリスト北島康介がAV女優と一夜をともにした、なんてスキャンダルが報道されたが、そっちのほうは「自由恋愛」なのかお咎め無し。
私としては世界的に有名な水泳選手がそういう遊びをしているほうが問題なんじゃないかとおもうこともある。
またユーチューブで昔のテレビを見ていると人気芸人さんが「川崎に遊びに行った」と「銀座よりも吉原」なんてことを平気で言っているのに、これもお咎め無し。
時代かもしれないが、なんでこうも違うのか。

今回4人を歓楽街で見っけたのは某新聞記者であったという。
もしかするあのA新聞なのか、これは大いにチェックすべきだ。
A新聞は過去に単なる売春婦を慰安婦と虚偽の記事を捏造して国家ごと恥を欠かせた前科がある。
それだけに最大限に注意を払う必要がある。

それにしても今の日本はどうなっているのか。
こんな事件、事件にもならない単なるお叱りごと。
ボクシングやアメフトの不祥事とは種類が違う。
綺麗事ばかり言ってどうするんだ。
このままでは2020年の東京オリンピックでは街は品行方正、清廉潔白、飲む打つ買うはありえない。
おそらく新宿区役所通りや歌舞伎町、吉原はもちろん錦糸町、五反田、池袋などは閑散とするのであろう。
と、ここまで書いて、

「するわけないやろ!」

とツッコみたくなる種類のニュースなのであった。


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スターバックスのストロー廃止宣言以来、各外食大手がプラスチック製のストローの使用を取りやめることを告知。
この背景にはやがて海洋を漂うプラスチックごみの量が魚の量を質量ベースで超えてしまうからということらしいが、これってストローをやめるだけで解決する問題ではない。
ストローはその象徴にすぎない。

夏。
海岸を歩いていると、最も目立つゴミがペットボトルなどのプラスチックごみ。
夏じゃなくてもゴミは存在するので、冬でも綺麗な浜辺でこういうゴミを見つけると一気に気分が害される。
さらにそこにハングル語や簡体文字が記載されていると、

「日本は島国です」

などという地理的優位性にも疑問符が灯る。

プラスチック資源が問題になり始めたのは今回が初めてではない。
スーパーのゴミ袋の必要論は最近の話題でもあるし、注射器やアンプル類の医療ゴミが問題になったのはもう随分と以前のことだ。

こう考えると昔の「便利ではない時代」のほうが環境に配慮していたことがよく分かる。
江戸時代の容器は容器自体に価値があったために竹筒にしろ弁当箱にしろ桶にしろ使い捨てのものはほとんどない。
握り飯を包む竹皮でさえリサイクルしたと思われる、もったいないが当たり前の時代だった。

会津若松市の野口英雄記念館を訪れたときに会津地方の人々がいに物を大切にしていたのかというものを見ることができた。
それは衣類のリサイクルで新調された着物はボロになるまで着続けられることはもちろんのこと、着物として使用できなくなってからも繊維玉になる布であったことがわからなくなるまで実用に供される。
その着物から繊維の玉になるまでの工程が展示されており、少なからず衝撃を受けたものであった。

江戸時代や明治時代だけではなく、私が生まれ育った1960年代でも使い捨ての文化はそれなりに限られた分野だったように記憶する。
ジュースやビール、牛乳、醤油、サラダ油、マヨネーズはガラス瓶が圧倒的に多かった。
マヨネーズはスプーンで掬って使っていたと思う。
買い物はスーパーマーケットは珍しかったので買い物かごを提げて市場へでかけた。
市場の梱包材は古新聞であり紙袋だった。
ビニール袋なんてものはなかなか使わられなかったように思う。

玉子も紙製のパック材。
パンも小袋に入れて売られているのではなく、陳列ケースに並んでいるものを店の人に取ってもらって、それを油紙でできた紙袋に入れてもらっていた。
本や雑誌を買っても紙袋。
アイスキャンディーも箱に入っているものがあったように記憶している。

プラスチック容器と違ってこれらの容器は再利用できるし、本当に捨ててしまうことがなかなかない。
紙はリサイクル。
ガラス瓶は洗浄して再利用、あるいは溶かして作り変え。
捨てないのだ。
ただし「回収」という業務がついてまわるので、これが「面倒くさい」。
プラスチック容器は捨ててしまえば良いので便利で受け入れられ易かったのだ。

コンビニで買い物をするとあらゆるものが定価で売られている。
350ミリリットルのノンアルビールが1缶137円。
これをスーパーマーケットで買えば98円。
49円の価格差は「便利代」。
便利にはコストとリスクが付いてくる代表例だ。

プラスチック容器やストローはそういう49円。
ちょっと手をかけて使うのを止めたら得をすることを実はスタバは知っていたのかもわからない。

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夏の高校野球が記念すべき100回を迎えて今大会は毎日試合開始時に「レジェンド」な元選手が登場して始球式を行っている。

初日の松井秀喜から始まり、昨日の定岡にはかなり驚きを得た。
髪の毛は真っ白。
まだ60歳ぐらいなのでお爺さんみたいな風貌にはいささかショックを受けたのであった。

これから登場する私が見たいレジェント選手は11日の水野、16日の板東英二といったところだ。
板東英二が真面目にボールを投げるのを見るのは久しぶりなので、投げる瞬間はみんなで「ビンゴ〜、シュ〜ト〜〜〜!」といって欲しいくらいだ。
もっともこのネタは関西地方の私以上の年代のものにしかわからないネタではある。

でも最も見たくて見られないのは20日の桑田で、正直に申し上げて「桑田が出るののら清原も」というのが私のわがままな願いなのだ。

PL学園の桑田清原で大いに盛り上がったその時。
私は大学生から社会人に変わる頃で、2人の活躍をテレビで見ながら「すごいな〜」と思っていたのは昨日のことのように思い出す。
同時に就職活動に苦しんだことや、社会デビューにいささか躓いたことや、阪神タイガースが優勝したり日航機が墜落したり、あるSF番組のコンベンションをやったりということが思い出され、今よりもさらに未熟者であったあの頃にぐい〜〜〜んと記憶が飛ぶのだ。

2人のプロデビューはかなりの問題はあったものの、それでも時代を代表する野球選手であったわけで、その特別度はもしかすると松井秀樹はおろかイチローなども足元に及ばないほどの時代のランドマークでもある。

覚せい剤というとんでもないものに手を出してしまった清原ではあるが、脱税というこれまたとんでもないものに手を染めていた板東英二が登場するのであれば、やはり清原の登場も認めて欲しいというのは、わがままだとは思いながら、レジェンドを語るのであれば彼が出ない甲子園レジェンドはありえないような気がしてならないのだ。

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