<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



子供の頃から耳にしていた声優さんがひとり、またひとり、と亡くなって逝く。

野沢那智が亡くなった。享年72歳。
これでアラン・ドロンもアル・パチーノもブルース・ウィリスも悟空の大冒険の三蔵法師もスターウォーズのC3POもチキチキマシン猛レースのナレーションも、もし、新作が出ても日本語バージョンの声は他の人。
野沢那智の軽快で芸達者な声を聞くことはできない。

ま、悟空の大冒険なんか、新作はでないでしょうけど。
原作の手塚治虫も亡くなっていることだし。
ともかく、声優さんの亡くなったショックでは一昨年だったかの広川太一郎以来のショックだ。
あの時は、もしジーン・ワイルダーの新作が製作されたら誰が吹替をするのか、と残念で仕方がなかった。
また、ロバート・レッドフォードの吹き替えもどうするんだ、とも思った。
ただその時は、レッドフォードならまだ野沢那智が存命している、と自分で自分を慰めた。
野沢那智は「裸足で散歩」や「華麗なるヒコーキ野郎」でロバート・レッドフォードの吹き替えをしていたのだ。
広川太一郎も「遠すぎた橋」や「華麗なるギャッツビー」でレッドフォードの吹き替えをしていたのだ。

ところで、この広川太一郎と野沢那智が映画の吹き替えで共演したことがあり、声を聞いているだけではどっちの俳優の役なのか、わからなくなった作品があった。

その映画は「大統領の陰謀」。

ワシントン・ポストの二人の記者がニクソン大統領を退陣にまで追い詰めた取材活動をドラマ化した作品で、実際の記者はこの取材と記事においてピューリッツア賞を受賞している。
このドラマで二人の記者を演じたのがロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマン。
この映画が月曜ロードショーで放送されたと知ったとき、誰が吹き替えをするのか大いに気になった。
なぜなら、ロバート・レッドフォードもダスティン・ホフマンも広川太一郎であったり、野沢那智であったりしたわけで、
「まさか野沢那智の一人芝居じゃあるまい」
とは思わなかったが、非常に気なったのであった。
結局放送されたのを見てみると、ロバート・レッドフォードは広川太一郎でダスティン・ホフマンは野沢那智なのであった。

当時、1978年頃の我が家にはビデオデッキはまだ無かったのでテープレコーダーをテレビのイヤホンジャックに接続して声だけを録音した。
そのテープは今も大切に我が家のカセットテープ収納引出しに保管されている。

荻昌弘の解説が録音されているのも貴重なテープだ。

解説が終わるとドラマが始まる。
画面の無い音声だけの「大統領の陰謀」は、ロバート・レッドフォードが話しているのかダスティン・ホフマンが話しているのか、慣れるまで全くわからないものなのであった。
どうしても、広川太一郎と野沢那智の声なので、聞いているだけではどっちがホフマンでどっちがレッドフォードなのかわからない。
やがて、つっけんどな話し方で演じる野沢那智の声の方が高卒で叩き上げの記者になったカール・バーンスタイン記者を演じているダスティン・ホフマンであることに慣れ、各々の俳優の顔を想像しながらドラマを混乱せずに楽しめるようになったのであった。

ということで、また一人、お気に入りの声優さんがいなくなった。
まるで知人の声を聞けなくなったようで、とっても寂しい。

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米国テレビ番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」に名作「サウンドオブミュージック」のキャストが45年ぶりに集合し「エーデルワイス」などを歌ったのだという。

このニュース。
何がビックリかというと「サウンドオブミュージック」が45年も前の映画になっていたということにびっくりした。
この映画は今もDVDなどで時々見ることがあり、その新鮮さは何度見ても変わらない。
歌、映像、ストーリー。
どれを取ってみても、このレベルの新作映画には最近とんとお目にかかったことはないのだ。

私が映画ファンとなって自分で劇場に足を運ぶ用になった頃、つまり70年代後半に、「45年前の映画」といえばジーン・ケリーやフレッド・アステアどころか、チャップリンやキートンの無声映画のことなのであった。
もちろんカラー映画ではなくモノクロ映画。
テレビで時々放送されるピントの甘い古い映画を見ては、
「おおー、時代劇やのー」
と思っていた。

チャップリンの映画はともかくとして、他のモノクロ映画をじっくり見る根気はなく、どうしても「当時の新作」を中心に観る傾向が強かった。
今の中高生は45年前の映画と聞いてどういう印象を持つのだろうか。

ところで、考えて見れば1960年代の映画は今も新鮮さを失わない凄い映画が多い。

「アパートの鍵貸します」「マイ・フェア・レディ」「猿の惑星」「卒業」「2001年宇宙の旅」「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て!」「ブリッド」
などなど。
何度見ても楽しめる映画はこの時代に多いのではないか、と思ってしまうぐらいクオリティが高くバリエーションに富んでいる。
それにほとんどがアメリカ映画。
あの頃のアメリカ映画は奇をてらわない、正統でまっすぐな映画が多かったような気がする。

最近60年代の映画が最新の映像技術を駆使してリメイクされたケースが幾つか見られたが、どれもこれもオリジナルには到底及ばない作品ばかり。
美味しいかつお昆布出汁の味は化学調味料では再現できないというのによく似た現象だ。

ともかく1960年代の映画は凄かった。


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中部国際空港発旭川行のANA機が管制官の誘導ミスで墜落寸前の危機に陥っていたことが発覚。
昨日大きなニュースになっていた。

日本での航空機事故というと御巣鷹山が今も記憶に生々しいが、最近とんと耳にしなくなっていた。
いわゆる旅客機の事故は皆無。
飛行機ほど安全な交通手段はなく、
「飛行機で出張や」
「うううう、心配」
などというのは、杞憂でしないのが現実。
しかしながら、やっぱり不安がつきまとうのは、飛行機は自分の意思で勝手に飛び降りて逃げることもできないし、万一事故が発生したら、その凄惨さは尋常でないことから、「飛行機」イコール「不安」がつきまとうのだろう。

それでも、日本国内の航空機事故は多く無いと私は思う。
自衛隊の事故や小型機が墜落したケースなどを除いて大きなもので記憶に残るのは、例えば昨年なら成田空港でフェデックスの貨物機が着陸に失敗した1件だけ。
3年ほど前では那覇空港で着陸直後の中華航空機が火を吹いた1件だけ。
国内エアラインの重大事故は乱気流巻き込まれを除いて御巣鷹山以来皆無。
今回の全日空に至っては青森で自衛隊機に衝突されて以来、皆無だったように記臆する。

鳥のように自由に飛べるのでは、と思いがちの飛行機も実のところ自由はなく、パイロットは管制官の指示に従って飛行しなければならない
これが問題だ。
管制官の指示を無視して飛行すると新聞ざたになるほどの法律違反。
赤信号でも平気で横断するパイロットも管制官の指示は守る。

民主党の間違った政策も、国会で決議されたら守らなければならないのと同様に管制官の間違った指示も守らなければならないのが、飛行機の恐ろしいところだ。
民主党の間違いはすぐには人命に関わることは少ないが、飛行機のそれは即人命に関わる重大事だ。

今回の管制ミスは管制官が低い高度を飛べ、と命づれば遵守しなければならず、ダイハード2でテロリストに管制された旅客機が墜落させられたような運命もあり得ることを考えさせた事件なのであった。

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東京国際映画祭で中国人の映画監督が、
「台湾の表記は中国台湾か中華台湾と表記しなれば出席しない」
とクレームを付け、中国、台湾双方が映画祭への出席を取りやめたのだという。

映画祭にも勝手な主張を持ち込む中国人。
ダダをこねるとなんども通ると思っているのが、そら恐ろしい。
早々にお引き取りいただきたいところだ。

ところで、台湾は中国ではない。
歴史的にも法的にも中国ではない。

日本のマスコミは中国に弱みを握られているのか、きちんとした台湾報道をしないのだが、私は台湾は法的には「台湾は外圧により放棄した元日本領土」というのが法的な位置として正しいと思っている。
従って「宙ぶらりん」の状態。
だからこそ台湾の人たちが「台湾は中華民国ではなく台湾国だ」という主張は正当性が強く、日本はその主張を支持すべき責任がある。
ただ、マスコミも薄々は台湾は中国ではないと思っているフシがあり、例えば、あの真っ赤なNHKでさえ、台湾の首都台北は「たいぺい」と呼ばずに「たいほく」と呼んでいる。

第二次大戦で敗北した日本は一日も早く国際社会に復帰するため、米英中ソなどの圧力により、台湾を放棄させられた。
それまでは間違いなく台湾は日本以外のどこの領土でもなく、色々な議論はあろうが、台湾人は日本人なのであった。

そもそも、中国は清国の時代に「台湾はうちの領土とちゃいまっせ」と宣言しており、今更「中華台湾と名乗れ」と言われても無理な話。
紆余曲折、悲喜劇ありながら日本が50年間統治した結果、今の台湾の基礎がある。

戦後、国民党中国が土足で踏み込んできて好き勝手にしたという悲しい半世紀近くの間に、「日本の方中国よりまし」と思ったかどうか知らないが台湾の人々は「日本精神」を守り、今日の経済的地位を築き上げた。
その間、本家日本は「日本精神」を失っていっているわけだから、ある意味台湾は文化の缶詰。
国民党中国人による圧力という蓋の中に、古き日本人のアイデンティティを保管してくれていた国ということができる。

で、こういう国際映画祭では普通は政治を持ち込まないのがマナーなのだが、そこは「マナーって何?」という国民性の中国。
今回のような事態を招いてしまったというのが、結論だろう。

そこで映画祭実行委員会の取るべき道は「台湾は、台湾です。」と当たり前のことを中国に教えること。
菅直人政府みたいにペコペコする必要は、ない。

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iPadを手に入れて2ヶ月が経過した。
最初は持っているだけで目立っていたので、それはそれで結構満足していた。

「あら、iPadですか?かっこいい~」
「写真がきれい~」
「私にも触らせて~」

なんて言う具合に私自身ではなく「iPadが」モテモテだ。

最近になって珍しさだけでモテモテだった時代はようやく過ぎ去って、いざ実用に活かさなければならないと思い、仕事に持ち出すようになった。
とりわけ少人数で実施する仕事のプレゼンにはiPadは重宝する。
普通なら鞄に入れて運ぶことさえ困難な量のカタログや実績写真などを収録させ持ち運び。
見せたいところもiPadならではのオペレーションですいすいと呼び出し、
「ほら、これです」
とお客さんに見せることができる。

静止画はもちろん、動画も持ち運びできるから、従来の紙のツールよりも優れている。

プレゼンや書庫としての使い道はぴったりだ。
だけどノートパソコンの代わりにはならないものか、と、ここ2回ほど出張で持参してあちらこちらで使用できるのか試している。

まず、空港。

私がよく利用する関西空港の出発ロビーはwifi接続が無料なので、iPadは便利なツールだ。
ネットに接続してメールのチェックからブログの書き込み、ニュース検索などなどなど。
ノートパソコンで行っていた作業は一通り完結できる。
本体も薄いので鞄から取り出しやすいし、搭乗案内のアナウンスを聞いてから素早くスイッチオフして鞄に収納できるのが、これまたいい。

困るのがホテルでのネット接続。

今やホテルの客室でのネット接続は当たり前。
ホテルで仕事をしたり、新聞を読んだり、いろいろなところで楽しめる。
Youtubeにアクセスしたらテレビさえ不要になる。
ところがiPadはホテルの部屋では使えない。
なぜなら、ホテルの部屋のネット環境は有線なので、無線しか対応できないiPadはそのままでは使えないのだ。

で、ネットにつなげないとなるとデータのやり取りも困難になる。
ノートパソコンならネットにつなげなくてもUSBメモリやSDカードを介してデータのやり取りができるが、そのままではUSB端子の装備されていないiPadは使い物にならない。

さらに問題は新幹線の中。

東海道新幹線のN700系車両では、インターネットの無線LANサービスを利用できるが、これが、使いにくい。

私の使い方も悪いのかもしれないが、まず、設定ができない。
つながるときと、つながらないときがある。
せっかくネットを楽しみながら東京~大阪間を移動しようと思っていても、つながらないでは役に立たない。

ネットがつながらないので映画でも、ということでiPadに収録した映画を鑑賞しようと立ち上げると、これが見辛い。
まず、iPadの表示面ガラスに新幹線の明るい照明が移り込みをし、見えにくい。
車内が均一に明るいため、方向を変えてもあまり改善されない。
それに、iPadの画面の向きを保持しにくい。
じっくりゆったり見ようと思っても、iPadを適当な角度で「立てる場所」がない。
全面のトレイに乗っけてみることも考えたが、それでは画面を上から覗き込むようにしないと見ることが出来ず、姿勢は不自然だし、思いっきり疲れる。
また、トレイに立てて使おうとしたいところだが、トレイの後ろと前の座席後部の間には隙間があり、iPadを立てることは不可能。
となれば、ずーとiPadを自分の手で保持しなければならないのだが、そうなると軽いはずのiPadが結構重いことに気づいて、
「もう、これ、使いにくい!」
ということになってしまうのだ。

ということで、今年の話題をすべてさらってマイクロソフトをビビらせたアップル社のiPad。
新幹線の中では、意外に使えないやつであることがよくわかった。

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むかし読んだ井上ひさしのエッセイに面白いことが書かれていた。
それは銀座のホステスと祇園の芸者の相違について述べられたものだった。
それを読んだ時私はまだ高校生だったのでよく分からなかったが、最近そのことがなんとなく分かるようになってきた。

そのこととは、
「銀座のホステスと話をする時はお客の方がホステスに話題を合わせてあげなければならないが、祇園の芸者や舞子と話をする時は、向こうが巧みにお客の話題に合わせてくる。つまり銀座では客が店
に気を使い、祇園では店がお客に気を使う、という大きな違いがある。」
平たく言えば、銀座はつまらなくて、祇園は多いに楽しめる、という内容だった。

私は銀座で遊んだことはないけれども、西の銀座とも言える北新地にはたまに仕事で出かけることがある。
確かに、クラブやバーでは客がホステスに気を使うことが多く、とりわけママさん以外のホステスと話す時はショーモない気を使うことが多い。
例えば「この娘、どんな話ができるのやら」と考えながら会話をしなければならないことが多いのだ。
阪神タイガースやテレビ番組のバラエティ番組の話しかできない女の子がいたりするので、正直、ショットバーでバーテンダー相手に浮世話しながら飲むほうが楽しい。
それに安いし。

祇園で遊ぶ、というチャンスは未だに巡ってこないが人を介して耳にするところによると、やはり井上ひさしがエッセイで語っていたように、今もなお、こういうお座敷のプロ達は巷のよもやま話から国内外の政治、経済、芸術に通じていて、どのようなお客さんに対しても決して退屈させることはなく、気を遣わせず、貴重な遊興の時間を有意義に過させるのだという。

この日本文化のシンボルとも言える芸者さんや舞子さん。
その基礎を創り出したのが江戸文化の中心地とも言える「吉原」であることは私もなんとなくは知っていた。
だが、そんな重要な地域である吉原。
花魁の街、というその特殊な文化的位置にあるため、中学校や高校の歴史の授業で学ぶことがない。
もし吉原独特の習慣やシステムを知りたければ、ひたすらテレビや映画、小説の世界から学ばなくてはならない。

ちくま文庫「吉原はこんなところでございました」福田利子著は、吉原にあった引合茶屋松葉屋の女将が昭和61年に戦前戦後の吉原を語ったもので、今は見ることもできない古きよき吉原の雰囲気を生き生きと私たち読者に教えてくれる。

吉原遊女たちの店との契約。
遊女の教育。
芸事の鍛錬。
しきたり。
お客を楽しませるプロとしての心得。
さらに吉原が単なる歓楽街だけでは説明のできない芸者、幇間、料亭、お座敷といった洗練された芸と接客の妙。

女将の語りのひとつひとつが、今の色町と大きく異なり、つぎつぎと驚くことばかり。
読み進んでいいくうちに、この女将の証言も、大正、昭和の話でしか無いと気づき、300年有余年にわたる吉原の文化と風俗を知りたいと思うほどの魅力があるのだ。

今の吉原には女将が語る昔の吉原の片鱗も残っておらず、今や伝説の街でしかないのがかなり残念だ。


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私の通う英会話教室には大学時代に日本文化を勉強していた先生がいる。
彼女はどうやら日本語がペラペラで文章についても現代語はもちろん古文も難なく読めるらしい。
日本研究で有名なヨーロッパの大学を卒業したあと、日本の有名大学に二年間留学した経験を持つ。
そんな彼女に、先日、私は、

「英語で話す時、何が難しいかというと日本の文化を紹介することほど難しいことはない」

と、話してしまったのだ。
迂闊にも。

「以前通っていた英会話学校のニュージーランド人の先生は『葬式』『初詣』『宮参り』などなど、日本の習慣の話になると根掘り葉掘り訊いてきて、ともかく苦労した」

と、無謀にも続けて話してしまったりもしたのだ。

すると彼女は青い目をキラキラ輝かせて、

「そうでしょ。面白いんです。ミスター○○。『義理』って英語でなんて言うか知ってますか?」
「義理.......ですか?」
「そうです」

こういうことが好きだから母国で何年も日本ことを勉強し、日本に住みついてさえいる人だから、私の提供したネタは彼女の専門。超大好きな分野なのであった。

確かに「義理」って英語でなんて言うのか、考えたこともなかった。
ついでながら「わび」「さび」「はんなり」「あらあらかしこ」なども一語や二語での英翻訳はほぼ不可能。
中には日本語でさえ説明が困難なものもあり、英語で訊かれて初めてその言葉の本質を自分が知らないことに気付いたりするのだ。

「お通夜ってなんですか」
と以前の教室で、ニュージーランド人の先生に訊ねられてメチャクチャ説明に窮したことがある。
今回もそういう状態に陥ったわけだ。

確かに私も英語はあまり上手な方ではないが、一応TOEICテストを受けると「海外駐在レベル」という判定を頂戴する程度の実力はある。
しかし、TOIECテストに「お遍路さん」「とんど焼き」「写経」「即身仏」なんて出てこないのだ。

「それでは『bodhisattva』ってどんな意味でしょう?」
と彼女。
「bodhisattva......なんじゃいそれ......わかりません」
「『菩薩』です。サンスクリット語の」

自分の英語の実力を思い知った一瞬なのであった。

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1988年、ロサンゼルスに住む日系アメリカ人の親戚の家へ遊びに行った時のこと。
「日本からの長旅、疲れたでしょう」
とおばさんが用意してくれていたのは、日本食。
ほこほこと炊きあがったばかりのご飯が湯気をあげて、ご飯粒がキラキラと光っていた。

「気を遣わせてすいません」
と一応遠慮。
でも、まずい機内食からいきなり美味そうな日本のご飯を目にして、アメリカに来ていることをすっかり忘れそうになった。
「いただきまーす」
お茶碗を持ってお箸を口に運んで驚いた。
ご飯が美味い!
「これ、日本のコメですか?」
「日本の米だと思うでしょ。それ、カリフォルニア米。普通にスーパーで売ってるわよ」
さすがアメリカ。米の国。
とは思わなかったものの、初めて体験する噂のカリフォルニア米のおいしさに唖然のなったのを今も鮮明に記憶している。

それから数年後の1993年。
記録的な冷夏でコメが不作。市場に米不足が生じたのだった。
「戦後最大の食糧危機」
とばかりにマスコミや政府が米不足を煽った。不足分のコメは輸入に頼るということで、海外から大量のコメが輸入されスーパーの店頭にも並んだが、結局、私は一袋も買い求めることはなかった。
なぜなら、その輸入米はタイ米だったからだ。

タイは世界有数のコメの輸出国。
私もタイ滞在の時はよく食するお米だ。
だが、ここのコメはインディカ米なので日本人の食スタイルには合わない。
カレーやチャーハンにするにはマッチすることも多いが、日本では泡盛の原料にする他は、食品に使用するのは難しい。
つまり和食の料理には使えない米なのだ。

結局政府主導で輸入されたタイ米は大量に売れ残った。
日泰友好にヒビが入るような米不足騒動だったが、その時私が感じた素朴なギモンが、
「どうしてカリフォルニア米を輸入しないのか。」
ということだった。

カリフォルニア米はジャポニカ米で、しかもしかもルーツは「コシヒカリ」なのだという。
日本人には美味しいカリフォルニア米は輸入したらそのまま食卓にも登ったし、寿司にも使えるクオリティだったはず。

浅川芳裕著「日本は世界第五位の農業大国」(講談社α新書)を読むと、1993年の輸入米騒動の真相が克明に記されていて、パシッと膝を打った。
なんとあの時の米騒動では農水省が自分たちの権益を守るために故意に日本人の食生活にマッチしないタイ米を輸入していたのだ。
実は農水省は米騒動だけではなく、常日頃から誤った情報を故意に流して自分自身の保身と利権の確保に躍起になっているのだというのだ。

その代表的な例が食料自給率の創作だ。
日本は食料の持久率が40%程度。いざというときに国家の安全に関わってくる、といういわゆる食料安保論の元になる農水省発表のデータが創作なのだ。
だいたい、いざという時とは何なのか。
これも以前から気になっていたのだが、それは世界戦争なのか、地球中の作物がとれなくなるSFチックな食料危機なのか。
現実味に乏しい想定ではある。

だいたい食料自給率40%がとってもヘンだった。

食料自給率4割にしてはスーパーに行っても販売されている生鮮食料品はほとんどが国産。
たまに「もやし」(中国産やミャンマー産)、レンコン(中国産)、まったけ(カナダ産)などが目にとまることがあるが、中国産は怖くて食べられないし、カナダ産でもまったけは高価なので安易に買えない。
一方、国産野菜は北海道や九州といった遠方のものも少なくないが、玉ねぎ(大阪産、兵庫県産)、茄子(大阪産)、ほうれん草(和歌山産)といったように住んでいる周辺のものがかなり多い。
というよりほとんどが地元地域のものなのだ。

これでほんとに食料自給率4割?
と思っていたら、その新書によるとカラクリがあった。
農水省が実施している特殊なカロリー統計は日本だけのやりかたで、他のどこの国も行っていないのだという。
どこの国でも実施しているのは生産額の統計で、このパターンに落とし込むと、なんと日本は世界5位の農業大国で、自給率は7割近くに上るのだという。
しかも日本の農業技術は世界トップ。
美味しい農産品を効率よく生産する技術が世界一。だからどこの国も日本農家というか農業実業家の進出を期待しているのだという。
第二次大戦中に農村出身者の多かった日本の兵隊さんがインドネシアやマレーシアで戦争の合間に農業指導を行って現地の農業を飛躍駅に向上させ、現在にも至る現地の人々の親日要因のひとつになっているという話を思い出した。

この本。
必読だ。

なお、この本では民主党がこの世界第5位の農業大国である日本の農産業を破壊しようと画策していることにも触れられており、いくつかのメディアで主張されている「民主党は日本つぶしを企んでいる」というのを裏付けるような、そら恐ろしい政府の陰謀を感づくことができる。

仕分けされるべきは、民主党政権であるのかも知れない。

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お墓参りで父の故郷である岡山県山手村を訪れてきた。
数年前、この村は市町村合併され、今は岡山県総社市の一部になっている。
父はこの市町村合併が気にくわない。
たまに口を開くと「不当な措置だ」と憤る。

父の話によると山手村は隣接する清音村と同じく江戸時代は天領だったそうで、統括する役所は倉敷に。
したがって、統合するなら「倉敷市山手」となるのが当然だったと主張する。
それだけではない。
総社市山手と呼ばれるよりも、倉敷市山手と呼ばれた方が印象も良い。
しかし、現実は厳しい。
倉敷市と村との間には山がある。
この地理的要因が邪魔をして、山手が総社市に合併されてしまった原因のひとつになったとも思われる。

倉敷市は日本でも有数の石油コンビナートを有していたり、大原美術館で有名なクラボウに代表される繊維化学産業が盛んで財政面でもしっかり。
それと比べて、総社市は....となりそうだが、こっちは故橋本龍太郎の地元で金回りは悪くないようだから、どっちに合併されてもよさそうなものだが、やはり倉敷。
ブランドイメージが大違い。

どれだけ違いがあるのかというと、関東で例えると「神奈川県で合併されるなら横浜市がいい?それとも川崎市?」、また関西で例えると「芦屋市がいい?それとも尼崎市?」と言うぐらいにブランドイメージが異なる。

ともかくそんなこんなを考えながら、山手に着いた。

その昔、と言っても私が子供の頃の30年から40年くらい前。この辺りはまったくの「田舎」なのであった。
山手を通る中鉄バスは1時間に一本あるかどうか、と記憶している。
村にお店は二、三軒。
ありきたりの日用品は手に入るのだが、ちょっとした買い物はバスに乗って小一時間かけ、総社か倉敷の駅前まで行かなければならなかった。

道路も狭かった。
旧山陽道が村の真ん中を東西に貫いているのだが、それがメインロードなのであった。
なんといっても江戸時代に作られた街道。
道幅数メートル。
バスが双方向からかち合うと、道路幅が狭いのでバックしたり前進したりですれ違うのが一苦労。
大阪生まれの大阪育ちの都会っ子の私には、とてつもない田舎に感ぜられたのであった。

祖父の家。つまり父の実家は農家だった。
江戸末期に建てられた茅葺き屋根の家は独特の香りがした。
この典型的農家の便所は屋敷の裏の田圃に面したところにあった。
冬はトイレに行くのが寒し、夜は怖いし、子供のわたしには大変だった。
でも、そこから見える備中国分寺の五重の塔が見える景色が、焼けた稲藁や養鶏檻、田圃や畑の肥やしのニオイ等と共に今も鮮明に記憶に残っている。

それが今や観光地。
「吉備の国」の中心地。

道路も整備され、すいすい走れる。
コンビニやレストランはもちろんのこと、お洒落なカフェまでできている。
10年ちょっと前に山陽自動車道も全通し、倉敷ICからも総社ICからも僅か10分ほど。
大阪から渋滞がなければゆっくり走っても2時間かからないところになった。
規模の大きな農産品の直売所が数ヶ所あり、賑わい溢れる場所であることが見て取れる。

高速道路を下りてそんな便利になった県道を乗って走っていると備中国分寺の五重の塔が目に入ってきた。



秋の空の下、「吉備路」を代表する景色が広がる。

ちょうど国分寺前の畑では地元の農家が大切に植えているという秋桜が満開になっていた。
天気も良い。
大勢の観光客がデジカメ片手に散策しながら写真を写していた。
半分地元である私も最近はめったに来れない「田舎」なので、いっちょ写真をパチリとしようと観光駐車場に自動車を止めて他の観光客に交じってコスモス畑で写真撮影。

薄いピンク、濃いピンク、白の秋桜。
たわわに実った稲穂。
緑深い森。
青空に、さっと刷毛で掃いたような白い雲が浮かび、五重の塔のシルエットが粋な味わいを演出している。

来て良かった。

写してきた写真を見ると、確かにそんなにあちこちで見られるような景色じゃない。
まるで奈良、大和の国、まほろば、という言葉を当てはめてもおかしくないような超和風で素敵な景色が記録されていたのだ。

なるほど。
父が地名ブランドにこだわった理由がなんとなくわかった。
「吉備路」にマッチするブランドはかなり重要だ。

ということで、土日なら高速料金が中国池田ICから往復たったの3000円弱。
吉備路に行くなら秋桜が咲き誇る今が旬かもわからない。




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自国に不都合なニュースはシャットアウト。
そのかわり、他国を冒涜するニュースや情報は野放し。
そのうえ、他国非難を助長しては普段国民が自国政府に抱いている不満のベクトルを、他人に向けさせ、鬱憤晴らしをさせてごまかす。
市民のデモ行進と暴力は一種の祭り。
目指すは完全なる情報管理。

政府機関は存在するが、方針を決定している者は誰なのか、知る者はいない。
分かっているのは国の中枢は一握りの人々で占められており、しかもその人々は同じ政党のトップでもある。
というより、国には政治政党はひとつしかなく、他はことごとく違法である。
党の出したものが間違った決定や方針であっても、正しいと認めなければ思想犯として刑務所や病院などの監禁施設にぶち込まれ、再教育を施される。
共産主義なのにひどい格差社会。

どこに官憲のスパイが交じっているのか分からない市民生活。
ちょっとした発言が原因で、いつ警官が踏み込んでくるのか分からない。
もちろん、市場は計画経済。
食事は劣悪。
物資は不足し、生活状況は極めて厳しい。

というのは、中国の話ではなく、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」(早川eps文庫)の世界。

新訳、と帯に書かれていたので以前から読んで見たいと思っていた「1984年」を買い求めた。
小説が出されたのは1950年代というから、1984年というと近未来。
その近未来がある種の共産主義に支配されている世界が描かれているのだが、その世界そのものが一種の狂気なのだ。
ところがこの狂気は妙にリアリティーがあり、現実の世界と見まがうほどの説得力がある。

1950年といえば、中国の大躍進や文化大革命、カンボジアの紅いクメール以前の物語りながら、地著者ジョージ・オーウェルの洞察力は、共産主義という一見正義に見える社会システムが、人類にとって何をもたらすのかという事実を明確に予想している。
恐怖で支配する言論統治や、言葉の管理、カメラや隠しマイクによる監視社会。
そのいずれもが1970代から80年代、いや、今も続けられている紅い世界の現実を投影している。

しかもこのセオリーは最近の日本社会にも当てはまる。
タブーが多く、個人情報保護法に雲隠れする犯罪情報やモラル崩壊。
言いたいことを言えない社会。
平気でウソをつく政治家、マスメディア。

「1984年」にはSFでありながら、SFでない恐ろしさが潜んでいる。
オススメの一冊だ。

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