<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



先日、娘の通っている塾の継続表彰式があって初めて参加してきた。
3年以上継続して学んでいる子供たちを会場の舞台に上げてトロフィーを授与するという催しものだ。
この中で、6年以上継続している子供たちは演壇のマイクの前に立ち「私の夢は○○になることです」と将来になりたいものを宣言するというおまけが付いている。
初めて演壇に立って話すという経験をする子供もいるだけにかなり緊張し、とちりそうになるのが可愛くもあり面白くもあった。

この「大人になったら」で私はいきなり驚くことになった。
なぜなら筆頭に立った継続10年にも及ぶ小学校六年生の男の子が次のように語ったからだった。

「僕の夢は.....なりたいものがありません。」

フリーター予備軍はすでに小学生の頃に成立していることがわかった。

夢も希望も持たずにどうして塾に通って勉強できるのだろう。
目的がなくてもとりあえず勉強だけでもしておけば何とかなるかもわからない、という成り行き主義なのか。
これでは親も力が抜けるというもの。
あるいみ運動もできそうにない容貌だったので勉強が趣味なのかもわからないが、こういうのに限って将来進学校へ進んで東大や京大に入って、「何もやる気がない」という天賦の才能を活かし中央官庁の官僚になったりする恐れがあるので注意が必要だ。

数人のそういう子供を除いた他の子供たちはちゃんと将来の夢を方ってくれた。
「先生になりたい」
「医者になりたい」
「薬剤師になりたい」
などなど。さすが現代の子供たちだけにかなりの現実家たちなのであった。
間違っても、
「落語家になりたい」とか「銀座のクラブのママになりたい」といったものはなかった。
ちなみに私の娘は「科学者」になるそうである。

私の子供の頃の夢は最初は電車の運転手であった。
しかしこの夢は国鉄の事故のニュース映像を見て断念。
その次の夢はパイロットになることだったが、これも英国航空機の富士山への墜落事故をニュースを見て断念した。
このように簡単に意思の変わる軽い考えの幼児であった私だが、一大転機が訪れる。
それは幼稚園の時に野口英夫の伝記を知った時だった。
野口英夫の苦学と人々に尽くす医学の偉大さに幼い私は感動したのだ。
野口英夫の実情が強欲のはったどうしようもない中途半端研究者であったことなど、もちろん知るはずもなかった。
主人公が黄熱病で殉職しても、私を医者になる夢から断念させる材料にはならなかった。
ともかく「医者になる」と宣言したのであった。
宣言だけなら誰でもできる年齢なのであった。

やがてジェミニ宇宙船やアポロ宇宙船が飛び回るようになり、私は宇宙飛行士にも憧れるようになってきた。
でもそこはへそ曲がりな私である。
単なる宇宙飛行士ではなく、医者兼宇宙飛行士になろうと思ったのであった。
小学校の卒業文集には恥も外聞もなく「宇宙船に乗った医者になりたい」と記されている。

つまり私はドクター・マッコイかEMHになりたかったのだ。

そんなこんなで医者兼宇宙飛行士を心の中では目指したのであったが、本来の勉強嫌いが原因してか結果的に普通のサラリーマン生活を送っている。

大人になったら「サラリーマンになりたい」なんて決して思わなかったのに。
人生は残酷だ。


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ホーチミン市。
漢字で書くと胡志明。
ベトナム民主共和国建国の父であるホーチミンの名前をそのまま街に付けてしまった、いわばベトナム版レニングラード。
ホーチミンその人はベトナム戦争終結を待たずに他界。まさか自分の名前が南ベトナムの首都に付けられるとは想像だにしなかっただろう。
尤も、赤い本家のレニングラードはソ連崩壊後まもなくサンクトペテルブルグという、かつてロシア皇帝ニコライが君臨した古都の名前に戻されてしまった。
今や世界の人々には「サンクトペテルブルグ」が通り名。20代以下の若い人たちに「レニングラード」といっても「新しいケーキ屋さん?」って程度でどこのことやら分からないかも知れない。

一方、レニングラードが無くなってもホーチミン市は健在だ。
ただしこっちの困ったことは市民の方が「ホーチミン市」なんて名前を認めていないらしく、今も地元では「サイゴン」と呼んでいる。

当たり前だが関西空港の出発ロビーの表示板の行き先表示は「サイゴン」ではなくて「ホーチミン、胡志明」。
ベトナム航空機は関西空港の北ウィングからの出発だ。
シャトルを降りてベトナム航空の出発ゲートに足を向けるとエメラルドグリーン色したA330の機体がボーディングブリッジに接続されていた。

「わー、きれいなヒコーキや。」

と娘のホニョ。
初のベトナム旅行に胸をときめかせニコニコ顔ではしゃぎまくり。

「A330はこの前、海の上で行方不明になったフランスの飛行機と同じ機種だよ」

と言えないのが辛いところだ。

最近のベトナムブームを反映してか、出発ロビーは人で溢れていた。
とりわけ乗客には若い人が多く、雰囲気はまるでプーケットやバリ、ハワイへ向う便を待つロビーのよう。
ベトナムはすでにリゾート地なのかもしれない。
チェックインカウンターでも満席の案内をしていたから、きっと関空ホーチミン線は黒字路線に違いない。
便数も増えるわけだ。
だた乗る人が多いからといってA330に乗るという不安感は払拭されない。
JALとのコードシェア便なんだからJALの機材を使っていただきたいものだ。

搭乗が開始されて機内に入ると、エアコンの吹きだし口から水蒸気が濛々と吹き出されていた。
外と中の湿度と温度違いで空気の中の水分が結露して吹き出されているんだろう、なんてことはわからないでもないけれども、乗っているのがA330。

「あの煙、なに~。」

と訊ねるホニョに、

「あ、あれは水蒸気やから心配ないで。」

と言っている私にもなんとなく煙に見えていたのは黙っていた。

つづく

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南海電車の急行につり革を持って乗車していてふと見上げると、電車の屋根の下にその電車の製造年を示す小さなプレートが貼られていた。

「昭和39年製造」

おおお!45年前に製造された電車やんけ。

最近引っ越して通勤に南海本線を利用することが多くなった。
南海電車といえばJR以外の現存する私鉄では日本最古の鉄道会社。
創業百数十年。
だからといってはなんだが半世紀近くも前に製造された車両が今も現役で走っているのは大手私鉄としてはいかがなものか。

そういえば南海電車の乗り心地は平行して走っているJR阪和線と比べるとかなりグレードダウンだ。

かつてJRが国鉄だった頃。
私は両親と共に国鉄阪和線沿線に住んでいて、ちょっとお買い物というと阪和線の快速電車で天王寺へ出かけることが少なくなかった。
当時、国鉄阪和線を走る電車はそれはそれはバラエティに富んでいて、
「どこから探してきたんだ、そんな車両」
というような、恐ろしく古いピンク色した木造ボディの電車が『わ~~~ん、わ~~~~ん』モーターの音をたてて走っていた。
他の男の子と同様、鉄道少年だった私は車両の連結部に貼られていた製造年月日をチェックしたところ、

「日本国有鉄道(旧漢字で書かれていた)昭和7年製造」

と書かれていた。
おおおお!お母ちゃんと同い年やん。
太平洋戦争をくぐり抜けてきていた車両なのであった。

この時、昭和二十年代、と思ったあなたは甘い。
この時、昭和五十年代なのであった。
もちろん乗り心地が良い筈はなく、
「ああ、クッションの効いた南海電車のほうがええわ」
と子供心に南海電車の奇麗な車両が羨ましかった。

あれから幾年月。
事態は一変。
民営化されたJRは溢れる資金で新型車両を次々に導入。
とりわけ阪和線は関西空港開港と同時に最新型の車両が快速として導入され、南海電車との立場が逆転した。

そもそも電車の寿命というのはどれくらいなのか。
自動車なら45年も同じ車に乗り続ける人はほとんどいない。

ともかくペンキを塗ってごまかさずに乗り心地の良い新しい車両を買ってくれませんかね、南海さん。

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前回5年前のベトナムへの旅ではタイ国際航空を利用した。
バンコク経由でホーチミンシティことサイゴンへ飛んだのだ。
当時、関西空港からサイゴンまではすでに直行便が飛んでおり、なにもわざわざタイ国際航空を選ぶ必要はなかった。
しかし私は帰りにバンコクに寄り道ができるタイ国際航空を選んだのだった。
もちろんバンコクに寄り道をするからといっていかがわしいフーゾク店巡りをするためではない。
チャトチャックのウィークエンドマーケットで買い物をしたり、タイ東急百貨店と棟続きになっているマーブンクロンショッピングセンターでお気に入りのタイポップスのCDを買ったりしようかと考えてのことだった。
そしてなによりもスターアライアンスメンバーであるタイ国際航空を利用することにより全日空のマイレージポイントを貯めようという思惑が最も大きかったのは言うまでもない。
なんていっても国際線のマイレージポイントは魅力的だ。

バンコクのドンムアン国際空港を経由したフライトは少しばかり時間のかかることを除いたら、いたって快適なものだった。
でもそれは一人旅だったから可能な旅だったのかも分からない。
今回は家族連れ。
さすがに嫁さんや娘を連れて観光客で賑わう巨大ショッピングモールのようなスワンナプーム国際空港の中をウロウロするのはかなり疲れる。
それに、
「タイを経由したらなんにもならへんやん。空港閉鎖されたら同じやん」
という嫁さんの指摘も考慮しなければならなかった。
確かにバンコクの空港が市民の政治的デモンストレーションで閉鎖されたらかなわないという理由でタイ旅行を回避しベトナムを選んだのにバンコク経由だったらなんにもならない。
だから今回の旅は関空からサイゴンへの直行便、つまりベトナム航空を利用することになったのであった。

初めてのエアラインを利用する時はいつも緊張が伴う。
「大丈夫なのか、その会社」
という緊張感だ。
とりわけアジアのチープなエアラインを利用することの多い私は搭乗数日前からいい知れぬ不安感とと緊張感が増してくることが少なくない。
機種は古いし、万一事故に遭遇するようなことがあっても家族に残る保証金は驚くほど少ない。
ベトナム航空にしても同じだった。
5年前、IMFから最貧国というお世辞にも名誉とは言えないレッテルが剥がされたばかりの発展途上国だったベトナムのエアラインはまさにそういう類いの不安感を私に与えていた。
だから東南アジアの先進国であるタイのフラッグキャリアを利用したという側面もあった。
またベトナムはアメリカと国交が回復して日が浅く、ベトナム航空の飛行機は私が不安視するエアバス社かベトナム戦争時代からの支援国家ソ連改めロシアのイリューシン社が設計製造している機種が主流だった。
エアバスは「あの」フランス人が設計している飛行機だし、イリューシンに至っては「あの」ロシア人が設計している飛行機である。
とりわけ後者は飛んでいること自体不思議な存在だ。
「落っこちたり、着陸に失敗したらどうするんだ。」
という不安にさいなまれていたことは言うまでもない。

ということで、あれから5年。

関空からの直行便を利用することになった私はとりあえずベトナム航空がどんな機種を使って飛ばしているのか。
インターネットで調べてみた。
すると成田便と関空便では随分と扱いが異なり差がつけられていることを発見したのである。
つまり、成田とホーチミンを結ぶ便はB777であり、関空とホーチミンを結ぶ便はA330なのであった。

ご存知の人も多いだろうがボーイングB777は航空史上最も安全な旅客機で就航以来十余年、深刻な人身事故を発生させたことがほとんどない。
一方エアバスA330はといえば私たちがベトナムへ飛び立つ僅か一月前、ブラジルを飛び立ってフランスのパリに向う途中、大西洋上で謎の消息を絶ったエールフランス機と同じ機種なのであった。
ともかく南シナ海の藻くずとなって消え去ることのないように祈るばかりであった。
もちろん心配性の嫁さんにはA330という飛行機がどのような飛行機であるのかは内緒にしておくことにした。

つづく

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「お米を一粒でも無駄にしてはいけません」
子供の頃、ご飯を食べていると父や母によく注意された。
「ご飯のお米はお百姓さんが汗水垂らして作った大切な食べ物。だから自分のお茶わんに盛られたご飯は一粒残さず食べなければ(神様や仏様の)罰が当たる。」
というのが、注意の背景にある理論だった。

つまり日本は食べ物を大切にする国だった。

先日、大阪や北海道などのコンビニエンスストアを営む経営者たち7人が、フランチャイズ元のセブンイレブンを訴える事件があった。
なんでも、消費期限切れ直前の食品(特に弁当)の廉価販売を妨害され、多額の損害を被ったという訴状だった。
コンビニエンスストアの売り上げで最も重要な商品が弁当やおにぎりだそうだが、これら一連の食品には消費期限が設定されていて、期限が過ぎると腐っていなくても廃棄される。
その量約1100万トン(平成18年)。
消費期限は役所の決めた法律で、「自分の食べ物が食べられるか食べられないかの判断ができないほど国民はアホですよ。」という官僚やボンボン政治家の理論で作られている。

これが「米粒を残してはいけませんよ」と教えていた国の現状である。

曾野綾子著「貧困の光景」はアフリカやアジアを訪れた筆者の体験がつづられ、その中から人間社会の本当の貧困とはいったいどのようなものであるのかを読者に知らしめている。
日本で叫ばれている格差社会がいかに問題にならないのか。
ここに取り上げられている世界の「貧困」とを比べると、貧困を考える世界そのものが異なっているのではないかとさえ思えてくる。
本書にあるように私たち日本人が現代社会に於て「明日、食べるものがない。」という立場に陥ったこともないし、「貧乏で学校へ行っていません」なんてこともない。
「行き倒れ」という言葉も時代劇を除いてほとんど耳にすることはなくなった。もし実際に行き倒れになった人が現われたら、それこそニュースの材料として格好の標的になる。

考えてみれば「格差が広がっています」と、テレビのニュースでアナウンスするアナウンサーの給料は一般サラリーマンのそれとは比べ物にならないくらい高い。
格差社会を問題視する多くの政治家や社会活動家などは家が資産家だとか、誰かの子息だということも少なくない。
まるで「格差社会」は商売を営むための売り文句になっているような気さえするのだ。

自分の子供の万引きを店のせいにしたり、給食費を払わなかったり、所得操作をして不正に生活保護を受け取ったり、仕事を選好みしすぎた結果仕事を得られず無職だと騒いでみたり、公園の一画を占拠して住む権利を主張したり、格差社会を声高に叫んだりする姿には、「貧困」ではなく「だらしなさ」を感じざるを得ないのだ。

本書を読むと本当の貧困とはどのようなものなのかということを知ることになり、日本という我儘を赦す社会にありがたさを感じるのだ。

~「貧困の光景」曾野綾子著 新潮文庫~

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